山形城といえば最上義光なんだけど
【山形市 2025.5.23】
南北朝時代、足利尊氏とおなじ清和源氏のながれをくむ斯波某が北朝方の奥州管領としてこの地に入ったのか、その斯波某が南朝方の某氏をしりぞけかわってこの地をおさめることになり結果として奥州管領となったのか。そこのところはよくわからないのですが、ともかく斯波某がここに山形城の原型となる城をきずいて統治の拠点とした、というのが山形城の歴史のはじまりのようです。
信長に代表される織田家が勃興し支配した尾張国を室町時代に統治していたのも斯波氏ですが、それぞれ尾張斯波氏、出羽斯波氏のように区別されています。
出羽斯波氏はやがて最上と名乗るようになります。ということは、南北朝時代から室町、戦国時代をへて江戸時代初期にいたるまで戦乱の下剋上の時代にいちども領主の家筋がかわることがなかった、稀有な例といえます。
戦国時代に、たとえば尾張斯波氏が織田氏に尾張国を乗っ取られたように、なぜ出羽国は成り上がり大名に取って代わられなかったかといえば、もっとも多難な時代に最上家に義光がうまれてきたからと言っても過言ではないでしょう。
そのすぐれた武力と政治感覚で、ときには伊達政宗の爪牙をかわし、ときには上杉家の直江兼続の猛襲をしりぞけ、家康とは昵懇の仲になり57万石を領して初代出羽藩主となり、藩の統治においては善政をしき明君として民からも慕われていたようです。
山形城



山形城は曲輪の周囲を曲輪がかこむ、いわゆる輪郭式の縄張りですが、現状は本丸とその周囲の二ノ丸を残すのみ。
三ノ丸がほぼ市街地になっているだけでなく、二ノ丸周囲の水堀に隣接してJRの線路が通っています。
東大手門



手前の二ノ門を入り、直角にまがって大きな一ノ門へ
こうすることで防御機能が格段にたかまる

(個人的にですが、)誰からも愛され誰からも敬われ、誰が見ても名君あるいは名将というような戦国の武将には興味がありません。
(これも個人的にですが、)直接に自分が関わるわけではないので、悪もあれば癖もあり、梟雄とか策士とかよばれる武人に惹かれます。
それゆえ最上義光についてはまったくの勉強不足ゆえ後につづけて書くことが見あたらないのですが、義光が偉大であり過ぎたがために義光亡きあとにはお家騒動(相続争い)がおこり、その死の8年後には最上家は改易され、わずか1万石で遠く近江へと転封されます。
本丸




最上氏のあとは、徳川2代将軍秀忠の子である保科正之が藩主となる時期もありますが、めまぐるしく藩主がかわりその影響からか藩の石高は漸次減少してゆき、幕末の頃にはかつての大封57万石がじつに5万石にまで減っていたとか。
石高は10分の1以下まで減らされたものの、山形城そのものは以前のままの巨城であったたため歴代藩主は城郭の維持にたいそう苦労したそうです。





以前なにかで読んだ知識ですが、戦国の武将の像を建立するさいに、
騎馬像なら勇猛な武将。
立像なら行動的な武将。
座像なら沈思型の武将。
をイメージしているとか。
では日本三大梟雄といわれる斎藤道三、宇喜多直家、松永久秀はどうかというと、
じつは3人とも像がつくられていません。
むかしから像がないんです。
てことは、わたしの好みはずいぶんイビツ、ということでしょうか??
長谷堂城
山形城の支城として造られた長谷堂城にも立ち寄りました。
特筆すべきこともなければ、目を楽しませるものもなかったので、画像を2枚だけアップします。


【アクセス】車にて
【満足度】★★★☆☆