中世と近世の築城術が融合する、紀伊の赤木城

【三重県・熊野市 2025.6.17】
熊野市は三重県のなかでずっと南に位置します。赤木城はその熊野市でもぐっと内陸寄り、奈良県との県境ちかくに在ります。
大阪市内に在住の私は奈良県の橿原(神宮)まで電車でゆき、そこで車をレンタル、一路赤木城へと向かいました。吉野から熊野へと移動するにしたがい、関西にこれほど山深い土地が存在したのかと正直なところ驚き呆れながらのドライブを2時間余、やっとのことで到着しました。

この赤木城、最寄りの鉄道駅は20kmはなれたJR阿田和駅、正午すぎと夕方発でちかくの赤木(集落)までゆく乗り合いバスらしきものがありますが、かえりのバス便は正午過ぎのバスが赤木についてすぐに折り返し、夕方発のバスは翌朝折り返しとなるため、往復使うには不便すぎます。
考えられる方法としては正午過ぎのバスで赤木へ向かい、城を見学ののち覚悟をきめて14時すぎから徒歩4時間?でJR阿田和駅へ。
それだけの覚悟が決まらないので、レンタカーに頼った次第で、いままでに訪ねた城のなかでもアクセスの大変さでは特筆ものです。

赤木城

駐車場から城郭のある平山をのぞむ
左上の鍛治屋敷跡の左横が駐車場
(城郭内にあった案内図より)

赤木城は、羽柴秀長(のちの豊臣秀長、秀吉の弟)が紀伊征伐につづいて近辺でおこる一揆をおさえるため藤堂高虎に命じてつくらせた平山城です。解説によれば中世の縄張りと近世の石垣や虎口づくりが併用された城とされています。
藤堂高虎といえば、関西では伊賀上野城、津城、伊予では今治城、宇和島城などをつくり築城の名人と言われていますが、それはのちの話。秀長も秀吉も亡くなり、徳川家康に臣従してからその才能をいかんなく発揮するようになります。
赤木城が中世と近世との過渡期をしめすようなと表記されるのは、ひとえに高虎自身が築城技術の過渡期にあったがゆえでしょう。

東郭から主郭へ

主郭へと上ります / 左は鍛治屋敷跡
鍛治屋敷跡をふり返り見る
東郭へと通じる門が前方に見える
東郭から主郭へ

主郭

主郭へつながる虎口
主郭はそれほど広くはない
虎口からいま通った東郭を見下ろす
視線をあげると – –

鍛治屋敷跡があったことからもわかるように、このあたり一帯には金、銀、銅、鉄などの鉱山があり、また紀伊の木材は豊富な雨と日差しに育まれた優良材ゆえ、豊臣政権としては是非ともこの地の地盤を固めておきたかったのでしょう。
逆にもともとの住人にとっては迷惑千万ということで一揆が多発、一揆勢をとらえて見せしめのために処刑した過酷な歴史が残っています。

北郭

主郭から北郭をみる
北郭におりて主郭をみる
主郭の石垣を見てまわる
野面積みとはいえ、初歩的ではなく進化が見られます

城側からみれば相手は他家の兵士(武士)ではなく、百姓を中心にした一揆勢。
飛び道具はおろか、まともな槍刀もなく、まして武器を使うことを日頃から鍛錬しているわけでもなく、これぐらいの防御であれば十分だったのでしょう。

西郭から南郭

西郭
振り仰ぐと主郭の石垣
東郭と西郭の間が谷間になっている
人の手で谷を掘ったのか?
下りてみると、その谷間の底に南郭がある

地元の民からすると、見上げる丘は幾重もの土壁で侵入を拒み石垣があたかも傲然と組み上げられている。もうそれだけで反抗する気力が失せたかもしれません。

赤木城はアクセスの大変さにくわえ、いざ到着してみると小振りの城郭に物足りなさを感じるかもしれませんが、訪ねる人が少ないぶんだけ必要以上に手が加えられておらず、山間にひっそり遺る城郭をひとり静かに散策していると、いやがうえにも想像力を刺激され往時の情景が目の前にひろがってくるようです。

【アクセス】車にて
【満足度】★★★★☆

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