よくぞ遺してくれたと感謝感謝の新宮城

【和歌山県・新宮市 2025.6.18】
新宮城にはそもそもそれほど期待していたわけではなく、熊野三山を探索するさいの拠点として新宮へ赴くため、そのついでに訪ねてみようぐらいの感覚で捉えていました。
大阪から奈良の橿原まで電車で行き、そこで車をレンタル、方々回りながら夕刻新宮着。
夕食の店をさがして車を流したものの、地元の住民相手の割烹とかラーメン屋ぐらいしか見当たらず、遅くなる一方なので目についたモスバーガーへ。
さてホテルにチェックインして今日一日を振りかえったところ、(けっしてモスバーガーを誹謗する気はありません)ほかに店が見つからず夕食にハンバーガーを食べざるえなかった街で感銘をうけるような城に出合えるというイメージがどうしてもわきません。
そんな思いで就寝し翌朝一番に、ここでもこれから回る熊野三山の前座程度の感覚でたずねた新宮城だったのですが、これがじつに良かった!

新宮城

新宮市観光局のパンフレットより抜粋
🅿に車をとめました。/ ケーブルカーは1980年には廃止されています。
駐車場に車をとめ、
いったんは本丸へ向けて歩きかけたのですが、
駐車場から下へ降りて二ノ丸(南曲輪)石垣横の
正式な登城口から上がることにしました

新宮城は浅野忠吉による築城とされています。
豊臣秀吉の五奉行のひとりに浅野長政がいますが、この長政は同じ五奉行のひとり石田三成と大変仲がわるく、関ヶ原の戦いでは家康に惹かれてというよりも三成に反発して東軍に従います。
結果は周知のとおり東軍勝利。棚からぼた餅といっては失礼でしょうか、それにしても実際の軍功以上にたかく賞され紀伊37万石の領主として和歌山城に入ります。
その後浅野家は長政から幸長へと家督相続がおこなわれるなかで、長政の従兄(従弟?)であり浅野家の重臣でもある忠吉は紀伊国のなかでも東の端に位置する新宮の地を託されます。
本格的に築城をはじめたのは大坂の陣で豊臣家が滅び徳川家の時代になってからのようです。

松ノ丸(二ノ丸)から 鐘ノ丸(三ノ丸)

どこまで手を加えられているのか
整いすぎた石階段をのぼってゆくと、
ぐっと良い雰囲気の石段にかわります / 大手道
そして松ノ丸(三ノ丸)の入口 / 大手門跡
松ノ丸から鐘ノ丸への虎口 / 鐘ノ丸渡櫓門
この虎口の正面下部に鏡石がある
鏡石は城の勢威を誇示するための巨石であり、
もっとも重要な門の虎口に置かれます。
すなわち新宮城ではこの門が最重要ということ
虎口をぬけてふり返る
鐘ノ丸が城内で最大の曲輪でした
本丸へ向かいます / 右前方に本丸石垣

浅野忠吉は主家が安芸(広島)へと転封になったことから自身も三原へと移ります。
その後ですが、家康の10男である徳川頼宣が紀伊和歌山城に入り(これが紀州徳川家のはじまり)、あわせて家老の水野某が新宮城のあらたな城主として入り、明治維新まで水野家城主(藩主)の時代がつづきます。

本丸

本丸渡櫓門跡へ
手前の石垣は「打込み接ぎ」
打込み接ぎの方が見た目も粗いだけでなく
強度でも劣ります。

本丸の虎口
この石組は「切込み接ぎ」
切込み接ぎは強度は各段に増しますが、
時間と手間(費用)がかさみます。
本丸櫓台跡 
切込み接ぎの難は、石を精巧に切って組むため
隙間がなく排水性が悪くなります。
本丸曲輪から前方に出丸がみえる
石垣上部の窪みは、ここに土塀があったのでしょう
本丸曲輪
本丸東端にある搦手門
本丸・天守台周辺部分の石垣
角は美しい算木積みになっています
本丸から水ノ手曲輪見を見下ろす

水ノ手曲輪

水ノ手門をめざして、松ノ丸東門から下る
こんな石段がありました / 左上に本丸石垣
水ノ手曲輪全体
船着き場?へつながる
本丸を見上げる

明治維新後の廃城令で城の建物部分は払い下げ、または破却、城跡地は民間に売却されます。
登城口横の二ノ丸曲輪は宗教団体の所有となりいまも保育園として使われています。
驚くのは松ノ丸、鐘ノ丸などは昭和の時代に旅館業者に買い取られ、宿泊施設や庭園、遊技場として使われていたようです。ケーブルカーの設置はその時のものです。
ありがたいことにバブル時代の到来前に新宮市が(二ノ丸をのぞく)城郭部分全体を買いとり、丹鶴城公園として城の改修にもあたったということです。

新宮城は地下をJR紀伊本線の線路(トンネル)が貫通しており、さらに昭和の時代にはケーブルカーが設置されていたといいます。
ところで浅野忠吉が移封した三原城といえば、城が三原駅に隣接しているだけでなく駅舎からそのまま城郭へ下りられるように設計されています。もちろん趣きも風情もあったものではありません。
それを考えると、新宮城はよくぞ遺してくれたと手を合わせたくもなります。

【アクセス】新宮駅から徒歩圏内
【満足度】★★★★★