太宰府天満宮にて菅原道真の怨霊について考える
【福岡県・太宰府市 2025.7.8】
菅原道真というと今でこそ学問の神様として敬慕されていますが、そもそも太宰府天満宮は道真の怨霊を鎮めるために建てられた神社です。
天満宮が創祀時から趣旨替えして道真を学問の神として祀るようになったのは、怨霊騒動もおさまったことだしいつまでも鎮魂でもあるまい(現実問題としてそれでは庶民にありがたがれることもなく参拝者が増えない)との判断にもとづいたものでしょう。
それでは発端の怨霊騒動とはなんだったのだろうかと考えたとき、人々の(この場合は道真追い落としにかかわった天皇や公卿の)怨霊を恐れる意識があまりにも過敏なのではないか、言いかえると誰かが作為して道真の怨霊を誇張し、その怨霊を鎮めるための神社をつくらせ道真を神として祀らせたのではないかと疑心が沸き上がってきました。
菅原道真は平安時代前期に公卿ではあるもののそれほど高位ではない学者の家に生まれます。
幼少期から漢詩を詠んでいたという逸話に象徴されるように並外れた文才にめぐまれ、かつ公卿のなかでは身分が高くなかったので周囲との権力争いにエネルギーを浪費することもなく勉学に精進したようで、文字どおりトントン拍子で出世してゆきます。
さらに宇多天皇から目をかけられたことでその出世のペースは加速します。
宇多天皇が即位したときに朝廷を取り仕切っていたのは藤原基経(のちに道真追い落としの首謀者となる藤原時平の父)、この人物が曲者だったわけではありませんが、この時点で5代にわたる天皇に仕えてきた実績から宇多天皇にとっては煙たい存在であったことは容易に想像されます。
その基経が亡くなり順当に時平が表舞台に登場しますが、そのとき時平は21歳の若輩、宇多天皇が21歳の弱輩とかるく見たかどうかはわかりませんが、自分の思い通りの政ができると解放感は感じたことでしょう。
ここから偏愛ともおもえるほどの道真の重用がはじまります。
たとえば寛平3年には、2月に蔵人頭、3月に式部少輔、4月に左中弁を兼務とめまぐるしく役職を得て、ついに寛平5年には参議に叙せられます。
参議とは「朝廷の政に参議する」という意味からきた役職で、大納言・中納言とあわせて「卿」に属し、それに対して公家の「公」は大臣を指しており、一口に公卿といっても公と卿ではまるで位階がちがいます。
先に書いたように道真は公卿でも身分が低かったために権力争いには無縁でした。ところが公卿の「卿」に仲間入りしたことで、仲間だけでなく多数の敵に取り囲まれることになります。
やがて道真は周囲からの誹謗中傷に悩まされ辞任を申し出たとの説もありますが、どちらにしても宇多天皇が手放すはずもありません。
太宰府天満宮へ

朱鳥居をイメージしている?

柄は大宰府で出土した蓮華唐花模様

梅のマンホールを見やりながら

奥の門は延寿王院の山門 / 安楽寺時代の宿坊
太鼓橋



神社の太鼓橋は池の上をあるくことで水で身を清める意味と、急角度で歩きづらくし参詣者に神域に近づいていることを意識させる意図があるそうです。
さらに太宰府天満宮では橋が弧状、平坦、弧状と3つに分かれ、過去→現在→未来へと歩むように企図されているようです。
過去の橋を渡っているときにはふり返ってはいけないとか、いろいろ決まり事もあるようですので気になる方は調べたうえで参詣してください。
道真は参議になってから8年後に右大臣にまで昇りつめます。
ところが時を同じくして前関白・基経の跡継ぎである藤原時平が、異例のスピード出世というより名門の血筋ゆえの当然の抜擢として左大臣の地位につきます。本来ならば左右大臣が両輪となって政をすすめてゆくことが望ましいのでしょうが、時平にとってははるかに身分の低い菅原道真が並び立つだけでも我慢ならなかったはずです。しかもその道真の方がどう見ても才能豊かで、どう見ないようにしても道真に心酔するものの方が圧倒的に多いとなると、不安が憎悪にかわってきます。
悪いことにこのときには宇多天皇はすでに退位し、第一皇子である敦仁親王が践祚して醍醐天皇となっていました。しかもこの醍醐天皇は宇多天皇と藤原家の女性・胤子(時平のはとこ)との間の皇子であり、さらに醍醐天皇には時平の妹・穏子が后となっています。
時平は醍醐天皇に讒言して道真を追い落としますが、それではどのようなデタラメを並べたのでしょうか。
宇多天皇には藤原氏の胤子とは別に、やはり名門・橘家の女性・義子との間に斎世親王が第三皇子(兄が亡くなっているので実質第二皇子)としています。この斎世親王の妃は菅原道真の年齢がはなれた妹です。
時平は、道真が醍醐天皇を廃して斎世親王を新たな天皇として擁立しようとしていると、ウソを並べます。
親族の娘を天皇家に嫁がせて権力をかためてゆくのは藤原氏のお家芸ですから、時平としては当然菅原道真もそのようの企んでいると、ウソを言ったのではなく心底そのように信じ怖れていたのかもしれません。
楼門



こうして道真は大宰府への転任が命じられます。
「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」 都を去る際に自宅の庭にのこる梅に思いを託して詠んだものです。
大宰府での役職は大宰権帥。
大宰帥がトップですからナンバー2ではあるものの、中央ではなく大宰府でのそれですから右大臣と比較すると急転落と言わざるえません。
しかもこの役職も表向きで、実際には仕事はなにもなく、それどころか宿舎にほぼ幽閉されたような状態、役職に見合った手当もなく日常生活にも困窮したといいます。
そして大宰府に左遷されて2年後、西暦903年に道真は失意の中で世を去ります。
この後に京の都では災難が相次ぎます。
西暦908年
藤原菅根(道真追い落としに暗躍)死去 、享年52歳
ただし当時としては若死にではない。
西暦909年
藤原時平死去、享年39歳
ただし若死のため道真の祟りと噂されるが、死因については記録がない。
西暦910年~
このころ都で洪水、渇水、大火が毎年のようにおこる。また疫病の流行もあった。
ただしこの期間にかぎらず、当時は大規模なインフラ工事は行われていなかったので毎年洪水か渇水か繰り返しのような状態で、また衛生管理も医学もその観念すらないレベルで洪水や渇水はそのまま疫病の流行につながっていた。
また木と紙でつくった家が燃えやすいのは当然のこと、防火・消火の設備も脆弱ゆえいったん火が出るとあっという間に大火になった。
西暦923年
醍醐天皇と時平の妹・穏子のあいだに生まれ皇太子となっていた保明親王が20歳で逝去
ただしそのあと 寛明親王と成明親王が生まれており、それぞれが朱雀天皇、村上天皇として2代つづけて同子息からの天皇が誕生したため、ここにおいて藤原氏は朝廷内での地位を盤石のものとする。
西暦925年
保明親王と時平の娘のあいだに生まれていた皇太子候補の慶頼王が夭折
ただしこれはいとこ同士の結婚であり現代でも近親者間の結婚出産としてのリスクが高い、まして乳幼児死亡率が50%以上であった平安時代においては健康な成人に育つ確率の方がはるかに低い。
西暦930年
内裏の清涼殿に落雷があり、藤原氏のものなど数名が死亡。また醍醐天皇は落雷の被害は受けなかったもののショックで寝込み、その数か月後に崩御。
ここではじめて道真の祟りではないかと考えられなくもない事故が起きるわけですが、さきに列記した数々の災難を特別なものと扱わなければ、道真の死から実に27年の歳月が流れており、いまごろ祟りもないだろうと間の抜けた印象は否めません。
また言葉は悪いですが、ここで醍醐天皇が崩御したことから藤原氏の血が濃厚にはいった朱雀天皇、村上天皇が誕生し摂関政治が全盛期へとすすんでゆくことなり、ならば道真の怨霊は藤原氏が権力を掌握するための後押しをしたのかと皮肉な見方もできます。
やはりここは、菅原道真の祟りだとつよく訴えて、訴えることで誰かが誰かから何らかの見返りを得たのであろうと、世の中を斜めに見ることが大好きな私としてはそう考える次第です。
本殿

すっかりテントにおおわれ手前に仮拝殿が造られている

手入れができず屋根に〇〇が茂っているのかと思った
道真は自分の遺骨を京へ戻すことはせず大宰府に埋葬してくれるよう遺言していました。
門弟の味酒安行がその遺骸を牛車にのせて東北(方向にある社寺?)へと運んでいたところ、ある地点で牛が突然動かなくなります。安行は道真公の霊魂がここに埋めてくれと告げているのだと判断し、そこに墓をつくります。
西暦905年、その墓所に廟が建てられます。
西暦919年、その廟のあるところに勅命によってたいそう立派な社が建てられます。これが(当時は神仏習合の時代ゆえ)安楽寺天満宮で、のちに寺と神社が分離して神社部分が太宰府天満宮と呼ばれるようになります。
さて勅命とは、天皇の命令です。
醍醐天皇を引きずりおろして自分の妹が嫁いだ先の皇子を天皇に押し上げようと企んだ、その罪で左遷した道真にたいしてなぜ醍醐天皇は立派な社を建て道真の霊を祀るよう勅命を下したのか。
西暦923年、醍醐天皇は道真を大宰権帥から右大臣に復帰させ(もちろん道真は死者ですから形式上)、さらに従二位から正二位へと一階を追贈します。
神仏習合の弊害のひとつに、神社が寺と合体することで寺同士の勢力争いに日本古来の神を祀る神社までも巻き込まれてしまうという災難があります。
平安時代の末期になりますが、あの仏教界の大御所であり大厄介者でもある比叡山延暦寺は博多における海外貿易の権益に目をつけ太宰府への進出を企てます。悪知恵で考え出した手法は天皇を動かして安楽寺天満宮を比叡山延暦寺の末寺に組み入れてしまうこと。
気立てのよい歴史愛好家の方にとっては信じがたい話でしょうが、比叡山延暦寺ならこの程度のことは公然とやってのけます。しかも天皇を動かして、というのも請願するのではなく延暦寺にとっての守護社である日吉大社の神輿をかつぎ出し宮中に突入して強訴(脅迫)するというものです。
このときは、安楽寺天満宮が強力に抵抗し、くわえて当時の天皇が延暦寺嫌いの後白河天皇であったためなんとか撃退します。
このように当時の寺社は力がなければ、じきに他の寺社に飲み込まれてしまう定めでした。
安楽寺天満宮がより力をつけるためには、なによりもそこに祀られる神(この場合は道真公)が力をもった神であり、手の届かない存在であることが肝要です。
安楽寺天満宮が菅原道真の霊魂をより位高いものにするために、京の都で頻発する災難は道真公の怨みですぞと噂を流し朝廷をちょこちょこ脅した、のかもしれません。
西暦947年
村上天皇の勅命により京の都に北野天満宮が建立される。
西暦993年
菅原道真は正一位、左大臣、さらに太政大臣を追贈され、ついに天皇をのぞけば日本人としての最高位をさずけられた神として祀られることになります。

こんなものを見せられても、本殿が見られなかった無念の思いを帳消しにはできません。
じつは写真も撮っていなかったのですが、あまりにも画像が不足するため家内が撮影した写真をもらってアップしました。
※大宰府/太宰府の漢字表記は、当時の政庁としては大宰府、近世からの地名としては太宰府と区別されるのが一般的なため、その通例にしたがいました。
【アクセス】レンタカーにて(西鉄太宰府駅からすぐ)
【拝観料】資料館などに入らなければ参拝自体は無料
【満足度】★★★☆☆