浜松城をたずねて三方ヶ原の戦いをふり返る

【静岡県・浜松市 2025.12.6】
浜松城は徳川家康が武田氏に対抗する上で、それまでの居城である岡崎城では西に寄り過ぎているため、この地に本拠を移すに際し今川氏が残していた曳馬城を拡張して築いたとされています。
江戸時代を通してこの浜松城の城主になったものは徳川家の老中や京都所司代などに取り立てられ出世した例が多く、そのため出世城とも呼ばています。
それら出世話にも興味はあるのですが、やはり浜松城といえば、若き家康が老練な武田信玄の策にはまって惨敗した三方ヶ原の戦いが思いだされます。

三方ヶ原の戦いについて書いておきます。
京に旗をたてるために足利将軍(義昭)を利用する織田信長にたいして、ワシは木偶ではないわと義昭は全国の武将に信長討伐の命を発します。そのとき諸将が動きますが、なんといっても真打ちは武田信玄。
のちに西上作戦とよばれる3万とも4万ともつたわる信玄率いる大軍が京をめざして進軍を始めます。

ところでこの時期に徳川家康は信長と同盟関係にありました。
信長討伐にむかう信玄にとって、通過地点にある家康の数々の城は潰しておけば背後から攻められる不安もなくなり、しかも敵城を落とすことで自軍の士気も高まります。
武田軍は小さな支城は二日三日でつぎつぎに踏みつぶしてゆき、徳川氏にとっては遠江とおとうみの北の拠点である二俣城も1か月の攻城のすえに落とします。

いよいよ武田の大軍が浜松城に押し寄せるかと籠城の構えで待ち受ける徳川軍に対して、武田軍は「浜松城ごときに関わってるヒマはないんだよねえ」とばかりに城の北方を素通りしてゆきます。
じつはこれは信玄の策、しかも家康の重臣は武田軍の策であることを見抜いていたようなのですが、「敵に目の前を素通りされながら亀のように城に籠っていただけとあっては武辺者とは言えぬ、生涯の恥ぞ」といきり立つ家康は、家臣らの反対を押し切り武田軍を猛追することを決めます。

武田軍は浜名湖を迂回するためかいったん北へと向かいます。
そのあとを急追する徳川軍が2里ばかり駆けに駆けて三方ヶ原の平原の広がりに到ったとき、そこに見たのは大地を埋めるほどに展開する武田の大軍でした。もちろん後姿を見たのではなく、こちらに向かって今にも突撃してくる構えの軍勢3万。
一方の徳川軍はやっと全員が揃いつつあるという状態で、しかも総勢1万弱。

浜松城

浜松城・天守閣と天守門をのぞむ
現地の案内板より抜粋
城郭はほとんど残っておらず、大方は公園に
天守門からいきなり天守閣では、
あまりに見所がすくないので裏手に回ってみます
石垣は遺構、天守閣は昭和の時代の再建
天守曲輪裏側の埋門から

歩いたとおりに写真を並べると、「たったこれだけ?」と残念がられることになりそうなので、いったん Uターンしたことにして天守門に向かいます。

天守門から天守閣

天守門
現存する石垣は、もっとも初歩的な野面積み
家康の時代?に組まれその後改修増強されたと考えられます
天守門を入って天守閣を見上げる
(天守はコンクリート造りのため重厚感がない)

天守曲輪から天守閣と天守門をみる
(なんだか予算のとれない映画のセットみたい)
天守閣入口から天守門をふり返る
(個人的には石垣だけの方が趣きがあって良いような)

合戦の際にくむ陣形については、古代中国の兵法から「八陣」すなわち8種の陣形が基本とされています。
そのなかでもっとも一般的なのが、魚鱗ぎょりん鶴翼かくよく
ネットで調べてみると、魚鱗については「魚の鱗のように密集し、防御と一斉攻撃に優れる」、鶴翼については「鶴が翼を広げた形。中央を強くして敵を包囲する(鳥の翼型)」と記されています。
この文章からもわかるように、魚鱗は少数が多数の敵に衝撃を与えるのに適し、鶴翼は多数が少数の敵を殲滅するのに適しています。

ところが三方ヶ原の戦いでは、敵の3倍の兵力を有するだけでなく策として相手を待ち受ける立場の武田軍が魚鱗、敵の3分の1の兵力に過ぎないだけでなく追いかけて急襲する立場の徳川軍が鶴翼。
あまりに矛盾しています。
武田側は敵が鶴翼でかまえることを知って、両翼の中央に居る大将・家康を確実に討ち取るために敢えて魚鱗でかまえたと考えて考えられなくはありません。
しかし徳川側に関しては、どのように推測しても鶴翼でかまえる意図がわかりません。

結果は徳川軍の惨敗、2千人の死傷者をだし(武田軍の死傷者は2百人)家康本人も命からがら浜松城に逃げ帰ります。
この脱出行のさいに家康が恐怖のあまり馬上で脱糞したという逸話が残されていますが、この話は後世の創作のようです。

天守閣にて

天守閣最上階からの眺望
林になっている一帯が城郭だった
天守閣内にあった井戸

元城郭内をあるく

天守門から見下ろす本丸跡
中央は若き家康の像
左が土塁跡?
曲輪跡らしき空地は方々に残っている
石垣も規模の大小はあれど各所に残っている
いまは庭園の池も、水堀と考えると城郭の防御機能

天守だけ見たのでは当時の城の規模や防御能力が把握できないため、いまは公園となっている一帯を歩き回ってみました。
浜松城主の知行は5万石から7万石だったようですが、実際に見てまわった感覚としてはその知行高にふさわしいか、あるいは上回る規模だったのではないかと推測されます。

三方ヶ原では惨敗しますが、家康の将器はそれだけで終わるものではありません。
自身が城に逃げ込むと、城門を閉ざすのではなく逆に大きく開け放ち、篝火かがりびをたいて誰もが城内に入りやすいように演出します。これは「空城の計」とよばれる兵法のひとつで、猪突猛進で智謀の乏しい将ならばこれ幸いと突入するところですが、慎重で相手の出方を読みながらすすむ将だと罠ではないかと侵入することをためらいます。
このときの武田軍の指揮官は武田の四天王のひとり山県昌景。三方ヶ原から逃げ帰った敵兵の数は把握しているものの、城内に他の守備兵がどれだけいるのかわからない状況で敵城に突入する危険をさけて帰陣します。

もうひとつ逸話を書いておきます。
「徳川家康三方ヶ原戦役画像」なる家康の憔悴した姿を描いた自画像が残されています。
これは三方ヶ原の敗戦のさいに魂が抜けたかのような惨めな自分の姿を描かせ、それを生涯ながめながら慢心を戒めたとされています。
が、これもどうやら作り話のようで、ある時期うまくいかないことが続き困り果てたのか憔悴した姿を記録として残したというのが事実のようです。

三方ヶ原古戦場

三方ヶ原古戦場の碑
周辺の様子

三方ヶ原古戦場の地へ行ってみました。
アスファルトで固められ当時の雰囲気がまったくないのは致し方ないにしても、いままで本で読んだかぎりでは徳川軍が敵を追って坂を上りつめると台場がありそこに武田軍が待ちかまえていたとか、どこそこに急坂があるのでそこを武田軍が下って行くところを後方から駆け下りざまに急襲する手はずだった、とか書いていたのを記憶しているのですが、このあたりの土地にはまるで勾配がありません。

それもそのはず、ここが古戦場跡とする碑が立ってはいるものの、現在でもここが戦場だったのではないかとする推定地が4か所あり、確定できていないようです。
そもそも話が起点に戻りますが、家康が恥を忍びがたく家臣の反対を押し切って武田軍を猛追したというくだり。そうではなく武田軍が浜名湖方向にすすむ様子を見て、物資の補給を浜名湖の水運にたよる浜松城にとってはそこを抑えられると致命傷となるため慌てて城を出たとの説があります。
家康には耐えること忍ぶことには超人のごとき精神力の強さがあります。武辺者の恥だとカッとなって飛び出したというよりも、その方が合点がいきます。

考えてみると。
戦場跡すらその推定地が4つもありはっきりしないのに、武田軍が魚鱗の陣形で、徳川軍が鶴翼の陣形だったとなぜ確定できるのでしょうか。
もし正反対で、武田軍が鶴翼、徳川軍が魚鱗だったら、まことにスッキリするのですが。

【アクセス】車でまわる
【料金】浜松城天守閣入館料:200円
【満足度】★★★☆☆