二俣城と鳥羽山城を歩いて、家康はどうしたか考える
【静岡県・浜松市 2025.12.6】
2023年放送の大河ドラマ「どうする家康」でもその騒動はあつかわれたようなので、ディープな歴史ファンでなくとも一般に知られているものとして話をすすめます。
信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち、そのドサクサに便乗して今川家の人質の身から脱出した家康。両者は臣従の関係ではなく同盟関係をむすびます。立場上信長が兄、家康が弟的な上下関係ではありますが、臣従ではなく同盟関係ですからあくまで対等な立場です。ここは大事なポイントですので念頭においてください。
同盟関係を強化するため家康の長男・信康のもとへ信長の長女・徳姫が嫁入りします。
このとき新郎・新婦ともに9歳、さらに信康の「信」は信長の一字を与えられたもの。政略結婚ミエミエですが、長男と長女の婚姻というところにこの政略結婚がいかに重要視されていたかが伺えます。
ところがその二人が成人し娘ふたりが生まれたころから不仲になり、徳姫が父・信長に不平不満だけでなく、夫の信康と姑(家康の妻)の築山殿(せな姫)が敵の武田氏と通じているとホントかウソかわからないことを書きならべた手紙をおくり、それに激怒した信長が家康に無理強いして信康と築山殿を殺害させしめる、といういかにも眉唾物の史実(?)があります。
家康の指示で信康が切腹したのが二俣城、また築山殿は見苦しく取り乱す懸念から二俣城に護送される途中で殺されたと伝わっています。
今日はその二俣城を訪ねます。
二俣城
二俣城および鳥羽山城は浜松市の北部、以前は天竜市とよばれた(いまは浜松市天竜区)地域にあります。
両城が隣り合わせており、縄張の具合から二俣城は軍事のため、鳥羽山城は居住だけでなく迎賓の意図もこめて造られたものと考えられます。
天竜川と旧二俣川が合流する3方向を川の流れに阻まれた要害の地にありました。いまは天竜川が180度湾曲し同じように3方向をその流れで阻んでいます。
残念なのは両城共にいまは木立が密生し、山城の最高部に立ってすら3方向をかこむ川面をはっきり見ることができず、いま自分がいかに要害の地に立っているのかを実感することができません。




西日がきつく加工すると不自然な写真になりました



二俣城の歴史を簡単に書いておきます。
もとは今川氏が駿河北部の統治のために造った城だったようです。
その後(桶狭間以後)今川氏の力が衰えてきたときに徳川氏と武田氏が(一時的に)同盟してその領地に攻め入り今川氏を滅ぼします。駿河は徳川が西側、武田が東側を山分けすることになり、そのため二俣城(と鳥羽山城)は徳川氏のものとなります。







話を信康、築山殿の死に戻します。
築山殿が家康と不仲であったことは間違いありません。
そもそも家康が今川氏の人質の身であった当時に二人は婚姻しますが、築山殿の父が今川家の主要な家臣であっただけでなく、どうやら築山殿の母が今川義元と身近な縁戚関係にあったようで(一説では妹、そうなると築山殿は義元の姪)、自分が名門・今川氏の人間であることを終生鼻にかけていたようです。
それゆえ家康が今川のもとをはなれ生誕地である岡崎城にもどると、築山殿は城内には入らず城下の別邸で暮らします。(その別邸のある地の名が築山で、それが築山殿の呼び名の由来)
家康は11男5女の子だくさんですが、築山殿とのあいだの子供(長男・信康と長女・亀姫)は家康が人質として駿府にいた時代に生まれたもので、おそらくは岡崎時代には子作りなどありえない完全に冷え切った夫婦関係だったはずです。
しかも築山殿はなにかというと駿河の華やかさを懐かしみ、三河の田舎臭さを見下し、鼻にかけすぎるあまり鼻もちならない嫁でもあったようです。
信康については武士としての力量は申し分ないものの、ずいぶん乱暴者であったことはいくつもの記録があります。
もっとも「鷹狩りに行く途中で僧侶に出合い、目障りだと切り殺した」には???がつきます。(狩りに向かうさいに僧侶に出合うことは、僧侶が不殺生の象徴であるゆえその狩りが不猟におわるという言伝えがあった)
これなどは秀吉が甥の秀次に関白の位をゆずった直後に秀頼がうまれ、秀次を亡き者にするため、これこれの理由で切腹を命じるとした理由の一つに素行不良があり、具体的な例のひとつにこれとほぼ同じことが書きならべられています。
信康については武辺者としては将来有望なものの、武将として徳川家を継がせるかとなると頭を悩ますといったレベルだったのではないでしょうか。
鳥羽山城






前面の川が天竜川





信康と徳姫が嫡子夫婦として城に入ったのにともない家康は浜松城に拠点を移します。
さて築山殿、嫡子の母として築山の別邸をでて岡崎城に入りますが、家康の妻として浜松へ移ることはありません。
そこから月日がたち、信康・徳姫夫婦はふたりの子供に恵まれます。しかし二人とも女子。
ふたりの女子に恵まれると言えるには今の時代のはなしで、中世の跡取りが熱望される武家にとって嫁が2人つづけて女子を産むということは、嫁が無能と評価されても仕方がないことだったかもしれません。すくなくとも築山殿ならば嫁を無能ときめつけたことでしょう。
思うに、夫(家康)とは他人以上に心のつながりのない築山殿は、逆に一人息子の信康を溺愛していたのではないでしょうか。息子の跡継ぎを産めない嫁など不要、と考えたに違いありません。
築山殿はさっそく信康に側室を入れることを勧めます。
このときの築山殿の心境ですが、可能ならば自分が息子の子供を産んでもよい、溺愛をとおり越しての痴愛。
あきらかにこの頃から徳姫は築山殿だけでなく信康とも疎遠になります。
信康廟


信康が父・家康に反発して徳川家を乗っ取ろうとしていたとする説があります。
大事にいたり信康を擁する岡崎組と、家康のひきいる浜松組が一触即発だったとの説もあります。
それが事実であれば、築山殿が信康をけしかけていたことは十分に想像できます。
徳姫が冷静に真実だけを述べたのか、感情にまかせて脚色しまくったのかそこはわかりませんが、父・信長に手紙をおくったのは事実です。(家来が岐阜まで届けたと記録されている)
もしその手紙の中に、信康の冷淡さや築山殿の冷酷さが山盛り書かれていたとしても信長は動じなかったでしょう。では武田に内通していると書かれていたら – – 信長は激怒したかもしれませんが、家康に息子と嫁を殺せとは命じないでしょう。信長は短気ですが、短慮ではありません。家康に息子と嫁を始末するよう無理強いすることで、家康との互助関係が破綻することを冷静に計算したはずです。
しかも信長にとって家康は同盟者であって家臣ではありません。何をもってしても息子と嫁を始末しろと命じられるはずがありません。
信康が家康をのぞいて徳川家を掌握しようと企んでいる、それが事実だったとします。
信康は長男(嫡子)ですが、粗暴であり徳川家の首領とするには足りません。
家康には信康のあとにも次男、三男、四男、五男 – – – と次々に跡取り候補が誕生しています。
さらに鬼嫁のごとき築山殿がそこに関わっているとしたら。
さて、どうする家康。
【アクセス】レンタカーで回る
【満足度】★★★★☆






