そんな訳でこんな姿になった天守閣 / 小倉城&中津城

【福岡県北九州市 2026.1.18、大分県中津市 2026.1.22】

いま日本にのこる城の天守閣は、大きく分けると以下の4つのタイプがあります。

現存天守 : 江戸時代以前のものが遺っている(ただし修復はしているため完全に原形ではない場合もある)
復元天守 : 過去の資料をもとに可能なかぎり忠実に再現している。
復興天守 : 天守が過去に存在していたが、正確な資料がないため他の城を参考に再築している。
模擬天守 : そもそも天守があったかなかったか不明だが、イメージ優先で建築した。
また現存天守以外は、木造と鉄筋コンクリート造があります。

このなかで復興天守は歴史保存というよりも観光の目玉にする目的がより強く、模擬天守にいたっては町おこし村おこしが主目的ではないでしょうか。
これらの城はほとんどが鉄筋コンクリートでつくられています。はやく簡単につくれること、丈夫であり維持管理が比較的楽なことなどが理由でしょう。
いままでに相当数の城を訪ねてまわり、見掛け倒しの天守閣(あるいは櫓)をさんざん見せられ辟易してきました。いまでは「この天守閣(あるいは櫓)さえなければ良い城跡なのに」と遺憾に思うことさえあります。

さてこのたび福岡県東部から大分県北部をまわる旅を計画し、その行程に福岡県の小倉城と大分県の中津城がふくまれています。
ところがこの2城、ともに続日本100名城に選定されてはいるものの、ともに訳ありで胡散臭うさんくさい天守閣がつくられていることがわかりました。
やれやれと失望する反面、「胡散臭い天守閣を造るにいたった胡散臭い理由」を探すのも一興かと思い直します。
ちょっと気取っていえば、旅の楽しみとは自分でつくりだすもの。これで胡散臭いと敬遠しかけた小倉城と中津城をたずねる楽しみができました。

小倉城

北の丸とその北面の水堀
城郭の大半が都市化されてしまい、
すぐに本丸、天守閣に到る

小倉城は戦国時代に毛利氏が築いたのがはじまり。
その後は、関ヶ原の戦いにおいて東軍(徳川方)に加勢して功績をあげた細川忠興が豊前に39万9千石で加増転封され、さきに中津を居城とし、数年後に小倉へ移転。そのさい大大名としてふさわしい堂々たる城として造ったのが小倉城です。

本丸の石垣、かつて堀には水があった
小倉藩の鎮守であった八坂神社の鳥居と天守閣

細川家はその後も栄達し肥後熊本に54万石で加増転封。あとに入ったのは徳川氏の譜代大名である小笠原忠真で、この小笠原氏が幕末まで居城として使うことになります。
しかし幕末の長州戦争のさいに、長州勢に攻めこまれた幕府軍が撤退する際みずから火を放ったため城の大半が焼失。維新後は日本帝国陸軍の司令部がおかれ、敗戦後はアメリカ軍の駐留地になり、高度成長期には周辺の都市化がすすみ城自体は見る影もなくなります。

そんな小倉城ですが、高度成長に合わせて鉄鋼、石炭、造船など重化学工業の隆盛で北九州市の財政にもゆとりがあったのでしょう、昭和34年(1959年)に市民の要望で天守閣が再建されることになります。

天守閣 / 東面
天守閣 / 東北面

天守閣は最上層がせり出した南蛮風層塔式、これは細川忠興がみずからの意向でそうしたものです。
ではどこが胡散臭いのか。
利休七哲(千利休の七人の高弟)にもかぞえられる好寄者・細川忠興の美意識の中ではゴチャゴチャした飾りは禁忌。それゆえ当時の天守閣には、東面にみえる大入母屋派風はふとその上の唐破風、北面の2連の千鳥破風とその下の唐破風さらにその下の格子戸、これらはまったく存在しませんでした。

それではどうして余分な飾りが付けられたのか。
そのとき資金の捻出に尽力した商工会から「なんにも飾りがないのはさびしい」「それでは観光客を呼べない」と古資料をもとに細川忠興の天守閣を再現しようとしていた建築デザイナーのもとへ強力なクレームがはいったのだそうです。

槻(けやき)門跡
天守閣入館料350円 / 最上階にはカフェバー併設とか
天守閣には入っていません
天守閣をふり返ると、この景色

この風景を見ながら思ったのですが、将来的に城の周辺をこれほど不似合いにデザイン化した建物でかためるのであれば、観光客を呼べるよう城に破風をつけろなどと小さなことを言わず、いっそ城そのものをディズニーランドのシンデレラ城にしてはいかがでしょうか。
特異なセンスをお持ちの某国観光客が大挙してくること間違いなし。

中津城

椎木門跡
中津神社から天守閣がみえる

異才辣腕の軍師として秀吉をささえた黒田孝高(官兵衛)は、秀吉が天下統一を成し遂げるとお役目御免で豊前に移封されます。
孝高はさっそく中津城を築城。
このころから豊臣政権は無謀な朝鮮出兵、千利休や関白秀次の切腹、さらに秀吉の死と、波乱と混乱の中で徐々に自壊をはじめます。そして関ヶ原の合戦。
機を見るに敏な黒田孝高・長政父子は徳川に加勢し、その功をみとめられて筑前に52万石の大加増で転封となります。

そのあとの中津城に入城したのが、さきの小倉城のくだりで登場した細川忠興。もっとも忠興はすでに書いたように直に小倉城へ本拠を移します。
その後は小倉城と同様に細川氏の肥後熊本への転封にともない譜代大名の小笠原長次(小倉城にはいった小笠原忠真の甥)が入封。しかし小笠原氏の治世が1世紀近くつづいた江戸時代中期に奥平昌成が入封し、その後は幕末まで奥平氏が藩主であり城主として在住します。

薬研堀越しに櫓と天守閣をみる
天守閣はなかなか見ごたえあり

天守閣は下見板張りが施され重厚な雰囲気を醸し出し、また一層部分が石垣からせり出し下に石を落とせるよう防御についても考え抜いていることがわかります。
ではどこが胡散臭いのか。
築上の名人といわれた黒田孝高も、好寄者・細川忠興も、譜代大名の小笠原氏も中津城に天守閣はつくっていません。最後の城主となった奥平氏も幕末まで天守閣なるものは造っていません。

福沢諭吉は中津の出身です。どこまでホントかわかりませんが、明治新政府が廃藩置県および廃城令を発令するのに先立ち、福沢諭吉のアドバイスで中津城の建物いっさいは取り壊されています。新政府に対して従順なところを見せようとしたのでしょうか。なにはともあれ、この時点で中津城は石垣と堀を残すだけの城跡になります。
ときは流れて昭和39年(1964年)、旧藩主であり城主であった奥平家のそのときの当主が自費でもって天守閣と二重櫓を築きます。(いくばくか寄付もあったとか)
天守閣の姿は古写真にのこる山口県の萩城天守閣を参考にしたそうです。
元城主の子孫が自分の土地に自費で建てるのですから苦情を言う筋合いはないし文句をいうつもりもありませんが、なぜ天守閣をもたなかった中津城址にいきなり萩城天守閣が建てられるのかという驚きはあります。
「白砂 青松 富士の山」の景勝地にいきなりメタセコイア並木が登場したらびっくりするでしょう、そんな驚きです。

北東面の石垣
右半分が黒田時代のもの、左半分は細川時代に増築された
北面は黒田時代の石垣がつづく

さてこの天守閣ですが、奥平家の所有する会社が当家につたわる武具や古文書を展示し資料館として公開、もちろん入場料をもらっての観光ビジネスとしてはじめたものの赤字続きで窮してしまい、なんと2010年に城そのものを売りに出します。
中津市がそっくり買い取ってくれたらよかったのでしょうが折り合いがつかず、最終的には他県の会社に天守閣の建物だけを5千万円(? 情報が不確か)で売却。土地と展示品は貸付のかたちで運営されているようです。
そんな事情だからか入館料は1000円と割高、黒田も細川も影も形もなく奥平といわれても馴染みがないし、入っていません。

【満足度】小倉城★★★☆☆(滞在時間15分)、中津城★★★☆☆(滞在時間12分)