宇喜多直家の足跡をたどって、砥石城、乙子城、金川城をあるく

【岡山市 2026.3.10~11】
宇喜多秀家は戦国時代後半の宇喜多家の当主にして備前・美作(いまの岡山県の中東部)の大名。頭がいい性格がいいそのうえ見た目もいい。良い少年であったときに秀吉の目にとまり、秀吉の天下取りに合わせるように良い青年として成長し、秀吉に忠義を尽くして最年少の五大老に就任。
ところがそんな秀家の血脈をみると、父親の宇喜多直家がとんでもない。冷酷非情に手段をえらばず権力をにぎった戦国の三大梟雄きょうゆうのひとりに堂々選ばれています。(他のふたりは斎藤道三、松永久秀)

単純に、そんな悪人の枠にすらおさまらない外道のような親父から、(頭がいい見た目がいいは別にしても)いたって性格のいい忠義心のあつい息子がひょっこり生まれるものなのかと疑問に思っていました。
そう思って調べてみると、直家のものとして伝わる史実がなんだか怪しい。
どうやら誤解や誤伝だけでなく、たとえば毛利氏が仕掛けた謀略を直家の非道にすり替えているようなところもあります。
※この疑問に対する解答(のようなもの)は別のブログ【読みあるく銘銘伝】で後日書くつもりです。

秀家ではなく宇喜多直家の足跡をたどるべく、主に備前の直家ゆかりの城をいくつか訪ねてまわりました。
列記しますと、
➀砥石城 – – – 直家が生まれた城。
(父・興家おきいえの嫡男とされているが、まずそこからあやしい。宇喜多家に興家なる人物がいたのは確か、しかし興家と直家の関係がはっきりしない。母については備前の豪商・阿部善定の娘で、その関係で善定からいろいろ援助を受けたとする説もあるが、母についても善定の娘であったとの確証はない。)
➁高取城 – – – 計略で直家の祖父・能家よしいえを殺害した島村盛貫もりつらの居城
(そもそも島村盛貫が能家を殺害したとする史実があやしい)
➂天神山城 – – – 宇喜多家、島村家の主君である浦上宗景の居城
(主君の宗景そのものが家臣に対してすら猜疑心のつよい姦物であった?)
➃乙子城 – – – 直家が武功をあげて最初に拝領した城
(祖父・能家あるいは父とされる興家の城(支城)だったとする説もある)
➄亀山城 – – – 直家の正室・〇〇女の実父・中山勝政の居城。
(直家は主君・浦上宗景の命でこの義父である勝政を謀殺し褒美に亀山城を拝領したとされるが、直家が手を下したというのが先ずあやしい、そもそも直家の正室が誰であったかも不明)
➅龍ノ口城 – – -直家と敵対する毛利方・ 穝所さいしょ元常の城。
(堅城ゆえ正攻法の城攻めでは落とせないため、直家は一計を案じ、城主の元常が寵童をいつも身近におく男色家であることに目をつけ、自分の家臣のなかから美青年をえらんで城に送り込む。さらに時をかけて寵愛されるのを待ち隙をみて暗殺させ、その混乱に乗じて城を攻め落とす。と伝えられているのですが、あまりにも劇作品っぽい挿話であやしい、あやし過ぎる)
⑦金川城 – – – ながく浦上氏と対立していた松田元輝、元賢父子の城。
(松田氏は浦上氏と和議をむすぶことになり元賢が宇喜多直家の娘を正室として娶ることで合意。ところが直家は松田家臣を内応させることで城を易々と占拠するとともに松田父子を殺害。この報をきいた直家の娘は自害。これらはすべて事実であやしいところはないのですが、なぜ直家が松田氏を討つ決断をしたかの理由がわかれば、一方的に直家を冷酷と非難はできないはずです)

前置きが長くなりました。
上記の城をすべてここで紹介するとあまりに長くなるし、また土地開発がすすみ見る影もなくなっている城もあり、タイトルにある3城をピックアップすることにします。

砥石城

随所に配された曲輪をぬうように道を登る
山上(本丸)からの眺め / 左の丘陵上に出丸がある
本丸全体
本丸の下に下りると一部に石垣が見られる
前方の鉄塔が立っている辺りが高取山城

直家の祖父・宇喜多能家よしいえと島村盛貫もりつらはともに浦上氏の重臣でした。
重臣たちのなかでも能家の智と勇はずば抜けており、そのため頼りにする者もいれば力量の差に嫉妬するもの、あるいは主君からの評価に危機感を抱くものもあったはずです。
ある夜、隣接する高取山に城をかまえる島村盛貫の兵が砥石城を急襲し能家を殺害します。
この事件の裏には盛貫が君主に讒言ざんげん(相手をおとしいれるためデタラメを吹き込む)し、能家討伐の了承を得ていました。

すでに家督をゆずられ当主となっていた直家の父である興家は凡庸なだけでなく臆病で、妻と子供(直家)を連れてさっさと城から逃げ出します。
そして能家のかたきをとる気概も城を取りもどす覇気もない父・興家とともに直家は流浪するかのごとき悲惨な少年時代をおくります。
これだけ聞けば、そうか、その悲惨な少年時代につちかわれた反骨精神と、島村盛貫だけでなくその讒言をやすやすと信じて祖父の殺害を命じた主君・浦上氏への怨念がもとになって、梟雄・宇喜多直家が誕生したのかと納得してしまうかもしれません。

ところが先にも書いたように、島村盛貫が祖父・能家を殺害した事実は(ほぼ)ない、さらに興家が直家の父であったと考えられる確証がないとなると、どうなのでしょう。宇喜多直家が外道となる人間形成の端緒がわかったと自負していたところ、いきなり梯子を外されたようなもの。あれっ?

乙子城

乙子城はこの丘陵上に曲輪を連ねている
高さはないが急斜面ゆえ側面から登るのは困難
本丸から北方向をみる / 吉井川が側をながれる
南方向をみると、吉井川は瀬戸内海へと注ぐ

直家は幼少時に流浪していたのかあるいは悲惨だったのかはわからないにしても、少年期から青年期に移りかわるころ浦上氏のもとへ戻ったことは確かなようです。
このころ浦上氏は北から勢力を拡大してくる尼子氏への対応で家が分裂していました。
尼子氏に与する兄・政宗が播磨を拠点としているのに対して、弟の宗景は備前の天神山城を拠点として尼子氏に抗する姿勢をしめしていました。

直家が臣下したのは弟の宗景のほうです。そして初陣?(少なくとも臣下して早いうちに)で武功をあげ城を拝領することになります。それが乙子城です。
乙子城を訪ねておもったことは、東側を吉井川がながれそれ自体が巨大な水堀の役をなすだけでなく、用水と水路の両面で水利の便に恵まれており、かつ瀬戸内海への出口を抑えることなり軍略的にも要衝の地といえます。
よくもまあ猜疑心が強かったとされる主君の浦上宗景が、これほど好立地の城を若造の直家に与えたものだと首を傾げていたのですが、直家の祖父・能家なり父ともされる興家なりが築いた宇喜多氏の支城であれば、宗景としては砥石城の支城ぐらいはくれてやろうと思ったのかもしれません。
また直家が入城した当時は乙子城周辺は開墾もされぬ荒れ地状態で、直家につき従ってきた家臣ともども日々の食にも事欠いたということですからそれほど魅力ある土地でも城でもなかったのかもしれません。

金川城

郷土歴史資料館まえに車を停めさせてもらい、城山へ
石積の一部が残る
途中樹林が切れたところで下界をのぞむ
本丸と北の丸の分岐あたりにある堀切
本丸曲輪跡
本丸周辺にのこる石 / 石積跡か礎石か?
本丸下にある井戸
本丸虎口 / ここを抜けると二ノ丸に通じる

金川城については、浦上氏と対立していた松田氏(松田元輝、元賢父子)が和睦をまとめるため浦上氏の重臣である宇喜多直家の娘を元賢が正妻とすることで合意したということはすでに書きました。
ところがもうひとつ和睦をむすぶ上での政略結婚がありました。
松田氏の重臣に伊賀久隆がいました。松田元賢と直家の娘の婚姻だけでなく、久隆が直家の妹を娶ることでいっそう健固な和睦がまとめられます。こうしてみると松田氏との和睦は浦上氏の手をはなれ直家主導、あるいは直家の思惑だけで進められたようにも思えます。

直家が松田氏を攻めることになった直接の原因は、直家が備中の三村氏と戦うさいに松田氏が援軍を出さなかったことから不興を買いさらには謀反を疑われたからと言われていますが、もうひとつ大きな理由があります。
婚姻関係をむすんだものの宇喜多氏としっくりした関係ではなかった松田氏に対して、伊賀久隆は宇喜多氏といたって友好な関係を築いてゆきます。
さて松田元輝・元賢父子は敬虔な日蓮宗の信者で、熱心に信仰するだけならよいものの他の宗派の寺だけでなく神社までも強制的に改宗させ、従わなければ(たとえば吉備津彦神社なども)容赦なく焼き払っていました。
さらに金川城にも日蓮宗の道場をたて、家臣たちに日蓮宗への改宗を強いていたそうです。
それに強く反発したのが伊賀久隆、直家と縁戚関係だけでなく気持ちの上でも強く結びついており、両者とも阿吽の呼吸で久隆の内応がきまったと思われます。

攻城戦の収束後に元賢に嫁いでいた娘が自害したことは直家にとって(予想外ではなく)計算外だったかもしれませんが、直家もこのころには娘の結婚も計算のうえで決めるほどに戦国時代の武将として肝をすえていたということでしょう。

つづきは【読みあるく銘々伝】にまとめます。

【アクセス】レンタカーでまわる
【各城の見学所要時間】砥石城:1.5時間、乙子城:0.5時間、金川城:1.5時間
【満足度】★★★★☆