街歩き・山歩き,城郭・史跡,兵庫

【兵庫県・伊丹市、尼崎市 2022.11.24】市立伊丹ミュージアムにて荒木村重に関する展示会が先週末から始まったので覗いてみることにしました。展示会のタイトルは『信長と戦った男、荒木村重展... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,兵庫

【兵庫県・赤穂市 2022.11.3】1701年、播州赤穂藩の藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城の松之廊下にて高家旗本・吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか)に突然切りかかります。吉良氏は命に別状はなかったものの、江戸城殿中でしかも吉良氏が職務として朝廷の使者の接待をしている最中の刃傷沙汰ということもあって、浅野氏はその日の内に切腹を申し渡されます。これが赤穂事件の前半部です。浅野長矩は即日切腹を命じられ播州赤穂の所領も没収となったにもかかわらず、吉良氏にはなんらお咎めもなく、それに反発した家臣たちが一旦は御家のために忍従しようとしたものの、ついに堪忍袋の緒が切れて筆頭家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を中心に赤穂浪士47名が吉良邸に討ち入り、吉良義央を討ち首をはね浅野長矩の墓前に供えて恨みをはらします。これが赤穂事件の後半部になります。この赤穂事件はなんども映画やテレビドラマになっていますが、設定は必ずと言っていいほど吉良義央が悪者、赤穂浪士47名は義憤にかられ自らの命をかけて仇討ちをしたヒーローとして扱われています。なぜ浅野長矩が突然吉良義央を切りつけたのか、その理由はまったくわかっていません。もしかするとそのとき突然神経障害(パニック障害、あるいは発狂)に陥ったのかもしれません。「喧嘩両成敗」でないことに我慢ならなかったとはいえ、そもそも喧嘩ではなく浅野氏からの一方的な攻撃であれば両成敗する方がおかしいということになります。「仇討ち」といえば聞こえはよいですが、単なる復讐に過ぎなかったのかもしれません。さて今日は、そんな浅野長矩と赤穂浪士の故郷である兵庫県・赤穂市を見て歩きます。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 赤穂の街をあるく JR播州赤穂駅の階段には 赤穂浪士の姿絵が飾られています。 駅から赤穂城へとつづく道 おそらくは市の条例で、高層ビルが建てられないだけでなく、駅から城への道路「お城通り」沿いでは洋風建築すら認められず景観を保っているのでしょう。その心意気はよいのですが、祝日だというのになんという人通りの少ないこと。 通称「息継ぎの井戸」 君主・浅野内匠頭長矩による刃傷沙汰を急報するため、江戸より4昼夜早かごに揺られつづけて赤穂にたどり着いた藩士2名が城下に入り、この井戸の水をのんで一息ついたと伝えられています。 ここにも観光客はいません。 花岳寺 花岳寺(かがくじ)は、赤穂歴代藩主である浅野家、永井家、森家の菩提寺であり、大石内蔵助ほか赤穂浪士の香華院(菩提所)でもあります。 浅野家霊廟 赤穂浪士の墓所 赤穂浪士面々の墓標には、自刃(切腹)のため戒名にはすべて「刃」の文字が刻まれています。浪士面々の遺骸は江戸で葬られているため、ここには遺髪のみを納めているそうです。ところで花岳寺の案内でもそうですが、赤穂にきて気づいたことは、つねに「赤穂浪士」ではなく「赤穂義士」と記しています。「義士」とは忠義にあつい人のことで義憤から仇討ちはあっても、個人的な心情や信念から復讐などに走る人のことは指しません。さて赤穂浪士は本当に「義士」だったのか、そして忠臣蔵の話そのものは真に美談と言えるのか、少々疑問があります。 赤穂城址・石垣 大手櫓と大手門 赤穂城は櫓や塀など建造物はすべて再築したものですが、石垣は補修はしているものの現存物です。先に外周をまわって石垣を見ておきます。 大手門から入る 大手門 大手門内側から大手櫓をみる 大石宅跡 大手門から入り虎口を回り込むとすぐに大石内蔵助の邸宅跡があります。やはり筆頭家老ということでこの位置に屋敷を構えていたのでしょうか。 本丸 本丸門 本丸をかこむ石垣と堀 本丸門を入る 本丸御殿跡... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,兵庫

【兵庫県・丹波篠山市 2022.10.2】丹波篠山市は兵庫県の中東部にある人口3万人ほどの小都市です。もと多紀郡・篠山町、今田町、丹南町、西紀町の4町が1999年に合併して市となったもので、そこからわかるように田舎といえば田舎であり、自然豊かなこじんまりした町です。JRが市内を走っていますが、最近になって4町が合併してひとつの市となったため、その路線は市域の西の端を通っており、最寄りの篠山口駅から中心街まではバスに乗り換えるか1時間ほどかけて歩く必要があります。そのためでしょうか公共の交通機関をつかって訪問する人は少なく、自家用車かバスツアーということになり、観光地としてもうひとつ注目されないのはそんな不便さもあってかもしれません。自分自身も大阪に住んでいながら、今回が初めての訪問になります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 黒岡の春日神社 鳥居 JR篠山口駅からバスで中心街まで来ました。すぐ南に篠山城址が見えましたが、さきに春日神社に参詣します。 ここは平安時代に奈良の春日大社より分霊された社で、かつて黒岡村の笹山とよばれた、現在の篠山城址のある小丘に祀られていたそうです。 楼門(神門) 春日神社といえば、鹿です。 拝殿 ここには常駐する宮司さんがいないそうで、地元の人たちが清掃なども担当してやっているとか。そのぶん地元との人にはより密着したものなのかもしれませんが、それにしても大変ですね。 篠山城址 大手門をのぞむ 大手門より先に進む 篠山城は、徳川家康が豊臣方の西国大名をおさえるため、山陰道の要衝である篠山の地に急ぎつくらせたものだそうです。縄張り担当は築城の名人・藤堂高虎、普請総奉行は池田輝政、20国の大名に下知されわずか6か月で完成します。 大書院 大書院が復元されています。大書院は廃城後も取り壊すのに金がかかるとの理由で残され、学校施設などに使われていたそうですが、その後失火により焼失。平成の時代になって再建されました。 この大書院だけは入館料400円が要ります。 大書院・内観 大書院・内観 埋門(うずみもん) 埋門(うずみもん)は低い位置にあるため城の内から見たときは目立たず見逃しやすく、城の外から入ってきたときには三方が階段のためすぐに場内が見渡せないようになっています。 天守台 天守台は残っていますが、天守閣は結局最後までつくられなかったそうです。 きれいな石垣が残っています 大手門(跡)から黒金門(跡)へつづく石垣 内濠と石垣 これだけのものを6ヵ月でつくり上げたとは驚きです。まず第一に、石の切り出し場が近くにあったのでしょう。遠方から運んでいたのではとても間に合わないはずです。 外濠 たいていの案内や資料には「篠山城跡」となっていますが、ここでは敢えて「篠山城址」としました。 城址と城跡の違いhttps://kokugoryokuup.com/shiroato/ 河原町妻入商家群 古い街並みのようですが、 それ風に再建されたものが大半(?) 八上城跡 山全体を要塞化した八上城があった高城山 丹波の国人であった波多野氏がながく本拠としていた八上城(跡)を見にゆきます。篠山城址から5km足らず、バス便も少ないので歩きます。 登城口にある春日神社はほぼ廃墟でした この八上城は堅固に守られた城で、明智光秀が丹波攻略の際には力押しに押しても落とせず、兵糧攻めと渾身の説得でなんとか開城させました。なお開城(降伏)にいたって、光秀が城主の波多野兄弟を助命すると約束したにもかかわらず、織田信長が有無を言わせず殺してしまったと史実にあります。 登り道はほぼ丸太階段ですが、 これが延々とつづくので結構バテます 山頂手前で篠山市街方面をのぞむ 山頂... Read More | Share it now!

神社・仏閣,兵庫

【兵庫県・神戸市 2022.8.6】神戸の中心街は三宮です。この三宮ですが、じつは三宮神社(現存しています)がその名の由来です。さて、地図を見ていると二宮商店街とあったのでグーグルマップでアップしてみると近所に二宮神社が。さてさて、よく調べてみると神戸には一宮神社から八宮神社まで建てられ、すべて現存しているそうです。(ただし六宮神社は明治時代その地に高等小学校をつくる必要から八宮神社の社殿に合祀されたため、神社としては存在しますが、独自の社はありません)今日はこの8社(建物としては7つ)をめぐってみたいと思います。ただこれだけではいかにももの足りないので、近辺にたつ生田神社と湊川神社をあわせて回ります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 生田神社 生田神社に到着 まず生田神社にむかいます。 早朝大坂から神戸へ向かう電車で窓に雨がはじけていました。三ノ宮駅に着いた時には雨はあがっていましたが、やはり路面は濡れています。それでもお陰ですこし涼しくなったのには助かります。 楼門 楼門から拝殿をみる 拝殿と本殿(奥) 生田神社は天照大御神の妹神ともつたえられる稚日女尊(わかひるめのみこと)を祭神として祀っています。当初はいまの新神戸駅の北にある布引山に建てられていたものの、8世紀に洪水による土砂崩れで流されてしまい、いまの地に移されたそうです。ご利益は、恋愛成就、御縁結び、安産祈願ですから、さぞかし若い人たちに人気でしょう。 拝殿前の獅子・阿形  口を開けた阿形の狛犬、実は獅子だったhttps://www.shikoku88.net/88blog/?p=1454 戸隠神社(左)と蛭子神社(中央)... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,大阪,兵庫

【兵庫県・伊丹市、大阪府・池田市 2022.6.12】 今日は黒田官兵衛と荒木村重ふたりのゆかりの地を訪ねたいと思います。黒田官兵衛といえば、言わずと知れた秀吉の軍師(知恵袋ともいわれます)ですが、荒木村重が信長に背いた際には思いとどまるようその居城・有岡城へ説得にゆきます。ところが説得に失敗しただけでなく、官兵衛をこころよく思わない者からの讒言により有岡城の地下牢に幽閉され、一年におよぶ牢獄生活で官兵衛は頭髪が抜け落ち、体中に瘡(かさ)ができ、さらにひざの関節が曲がらなくなる障害をかかえることになります。その官兵衛にとっては地獄の思いをした有岡城が本日最初の訪問地です。 JR伊丹駅まえに有岡城址公園があります。この石垣が当時のままのものなのか分かりかねますが、ちょっと整いすぎているように思えます。 石垣を上ってみると、上にあるのはこれだけでした。あとからアレコレ造るよりは、これだけしかありませんという方が潔いのかもしれませんが、しかし物足りません。 街を歩いていると、他にも土塁や 石垣がところどころに残っていました。 ところで荒木村重は信長に背いたことにより、ここ有岡城に籠城します。村重の背信に激怒した信長は、有岡城を厳重に包囲させ、そして村重が城外へ脱出したにもかかわらず、城に残っていた家臣や女子供にいたるまでを、報復と見せしめのために殺しつくします。信長の残虐性をつたえる、敵方に対する殲滅戦や虐殺は数々ありますが、この有岡城での虐殺はその最たるものではないでしょうか。信長ファンであったもここでの惨劇を天下布武の過程で必要だったとはとうてい認められません。 荒木村重の謀反と有岡城の戦い、そして荒木一族の処刑https://senjp.com/arioka-2/ 酒蔵 伊丹は伝統のある酒造りのまちで、ふるい酒蔵も残されています。 旧岡田家宅 江戸時代に酒造家によってたてられた商屋。 酒屋の商家をイメージしたマンホール 極めつけはこれです。伊丹ミュージアム正面入り口のちかくにあります。一点物のマンホールです。 猪名野神社 かつての有岡城は、総構えといって城下の町ごと濠や石垣でぐるりと囲んで防御機能をたかめていたのですが、その総構えの北端にあったのがこの猪名野神社です。 拝殿 拝殿奥の本殿は修繕中で、全体的には少々さびれた感じでした。 伊丹空港から飛行機が飛び立つ 猪名川をわたって池田市へ向かいます。大阪空港(国内線が中心)から5分に1便ぐらいの頻度で飛行機が飛び立ってきます。ところで大阪空港は伊丹空港ともよばれるのですが、伊丹市(兵庫県)、池田市(大阪府)、豊中市(大阪府)の3市の市境にあり、この3市にまたがるのですが、さらに飛び地があって地理的にはたいへん複雑です。 猪名川から池田市をのぞむ ヒメジョオンが咲く猪名川河岸から池田市街を遠望します。ところでヒメジョオンは小さな花ですが、これだけ咲いていると壮観です。 呉服神社 池田市街につきました。 ぜひ立ち寄ってみたかった、JR池田駅からほどちかくにある呉服神社(くれはじんじゃ)をのぞいてみます。 拝殿 拝殿 応神天皇(仁徳天皇の父)の時代に、機織りと裁縫の技術をとりいれるため、呉の国より呉服媛(くれはとりのひめ)と綾羽媛(あやはとりのひめ)姉妹を招きます。姉妹はそれこそ夜も徹して織物、染色、縫製にはげみその技術を日本につたえ残してくれます。その功績に感謝し、呉服媛を呉服大明神として祀ったのがこの神社のはじまりです。なおいま日本につたわる呉服(ごふく)という言葉は、この呉服(くれは)からきています。 拝殿をかざるステンドグラス 拝殿をかざるステンドグラス 池田城公園入口 つぎには、これもほど近くにある池田城址にむかいます。 池田城公園 池田城公園 池田城公園内にたつ天守閣のごとき建物は、説明板によると、公園のシンボルとしてそれらしく造ったもので、史実にもとづいて正確に再現したものではないそうです。 石基がのこっています。 池田城より五月山をのぞむ 公園内に咲くテッポウユリ 動物園へむかう坂道 時間もあるので、入場料無料の池田市立動物園へ寄ってみます。 動物園へむかってあるくと こんなマンホールが道案内してくれる 動物園入口 なんだかチャチい入口ですが、まあそこは入場料無料ということで-... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,兵庫

【兵庫県・姫路市~高砂市~加古川市~明石市 2022.6.4】 今日は秀吉による中国大返しを体感するため、1日の移動距離としてはもっとも長かったであろう姫路から明石までを歩きとおしてみることにします。中国大返しとは、備中高松城(現在の岡山県岡山市)で毛利方とにらみ合っていた羽柴秀吉が、本能寺の変の急報をうけ直ちに畿内へ取って返すのですが、2万の軍勢が7日間で200km超を行軍してそのまま天下分け目の山崎の合戦に突入したことで、奇跡とも、あるいは作り話とも言われています。実際のところ1日30kmペースで歩くことは可能なのか、なにはともあれ実際に歩いてみましょう。 JR姫路駅から姫路城をのぞむ 4か月ぶりに姫路にやってきました。前回の訪問後ネットで知ったのですが、JR姫路駅には眺望所があり、大手前通りをまっすぐに姫路城を遠望することができます。 黒いボックス型建物の2階が眺望所です。 姫路城をデザインしたマンホール 国道2号線沿いの歩道・姫路城の石垣が残る。 大手前通りをまっすぐ姫路城にむかって歩くと、途中で国道2号線と交差します。そこを右折し、先ずは御着城址へ向かいます。 高砂まで15kmの表示 秀吉の軍勢が中国大返しの際に通った道が残っているはずもないので、こんな感じのフツーの道を歩きます。 御着城の本丸跡に模して建てられた市役所東出張所 姫路駅を出てから1時間ほどで御着城址につきました。ここは播磨の守護赤松家の家臣小寺氏の居城ですが、黒田官兵衛(黒田孝高、黒田如水)はもともとは小寺家当主・小寺政職(まさとも)の近習で、当時は小寺官兵衛となのっていました。 黒田官兵衛の功績をたたえた顕彰碑がたつ。 黒田家の廟もある。 高砂市に入りました。 御着城址を見物したあとは、ひたすら明石にむかって歩きます。まもなく高砂市に入りました。 高御位山(たかみくらやま)登山口 車が行き交う国道2号線沿いに登山口がありました。ずっと以前に高御位山には登ったことがあるのですが、ここから登ったという記憶がありません。 陸橋から周辺を眺める。 陸橋から周辺を眺める。 加古川市へ 高架道路(新2号線)の下をくぐって加古川市内へ入って行きます。 市名の由来でもある加古川をわたります。 明石まで18kmの表示。ちょうど半分歩きました。 イオンモールがあったのでここで昼食もかねて休憩します。今日の兵庫県南部の最高気温は28度とのこと、30度にとどかなければ市街地を歩いていてもなんとかしのげます。 リゾート地(?) 写真で見ると一見どこかのリゾート地のようですが、じつは池の向こうに宅地がひろがる、ありふれた風景です。 明石市に入る。 さあいよいよ明石市に入りました。市街まで13km、現在15時なので17時半迄には明石駅につくでしょう。 明石市街 で、17時の時点でここまで来ました。前方に見えるのが明石の中心街です。 明石城 さきに明石城址にむかいます。 明石公園のマンホール 明石城址はなかなか見ごたえがあるのですが、さずがに足が疲れてきて上り下りが辛いのに加え、日差しも弱くなってきれいな写真も撮れないので、次の機会にあらためてゆっくり見学することにします。 明石駅の南側に「魚の棚商店街」といって、魚屋、明石焼、佃煮屋などが多くあつまるアーケード商店街があります。そこにはテレビでも見る「さかなクン」がデザインしたマンホールの蓋がすべて一点物で計19点あります。これだけでも一見の価値があります。そのなかで3点ほど掲載しておきます。 【アクセス】JR姫路駅9時40分発→JR明石駅18時10分着 53,000歩 38km【満足度】★★★☆☆ (いちど体験すれば十分です)【体感後の感想】たしかに足、とくに足首が痛くなりましたが、それはかたいアスファルト道を歩きつづけたためです。土の道であればこれほど足首が痛くなったことはありません。また中国大返しの際には、秀吉や重臣はいうまでもなく徒歩ではなく騎馬だったでしょう。歩いたのは若い侍たちです。若いだけでなく当時の人たちはもともと車も電車も、自転車さえもないのですから歩きなれているはずです。武器や鎧はべつに船に積んで運んだとの説が有力ですが、もしそうであったら7日間で200キロ超を歩くのはけっして不可能ではないと思います。むしろ今回身をもって感じたのは、兵糧の手配の問題です。最初から最後まで国道2号線沿いをずっと歩いたのですが、交通量が多いので途中でほかの道に変えようかと高砂市に入ったあたりで考えたりもしました。しかし国道2号線沿いを歩いているかぎりは、飲食店だけでなくコンビニやスーパーマーケットがちょくちょくあり、けっして飲み食いに困ることはありません。いまの時代ですら途中の飲食のことを考えるのですから、当時としては、軍勢が歩けるか歩けないかよりも皆が飲み食いに困らないかどうか、すなわち兵糧の手配が完璧にできるかどうかが、最大のポイントだったものと思います。その兵糧の手配ができたからこそ中国大返しは実行できたのでしょう ... Read More | Share it now!

山登り,兵庫

【兵庫県・神戸市 2022.1.22】なぜか六甲山の北面は「裏六甲」と呼ばれます。中国地方の瀬戸内側(南側)が山陽で、日本海側(北側)が山陰であることを考えるなら、「裏」と呼ばれても辛抱しなければならないのかもしれません。しかしこれも個人的な意見ですが、山登りの魅力として評価するなら、裏六甲の方が瀬戸内側より数段魅力に満ちていると思います。その裏六甲では、年によって氷瀑が見られます。今冬は寒さがきびしく、その氷瀑が見られるとの情報を得たので、さっそく出向きました。 魚屋道から炭屋道 登山口(魚屋道) 有馬温泉の街を上へ上へとあがって行くと、かんぽの宿があります。そのかんぽの宿の向かってすぐ先に、登山口があります。魚屋道(ととやみち)の名があります。むかし魚屋さんが瀬戸内海で獲れた魚を、この道をつかって有馬温泉まで運んでいたそうです。山道というより林道にちかいしっかりした道です。 炭屋道への分岐 ここから炭屋道に入ります。その名のとおりこのあたりに炭焼き場がたくさんあったそうで、魚の運搬から炭焼きに代わるように、道も林道もどきから山道にかわります。 河原をのぼる 河原に出てきました。最初の滝、百間滝にむかって河原をあがって行きます。 ほとんど道がない... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,兵庫

【兵庫県・神戸市 2022.1.22】六甲山の北面ふところに抱かれるかのようにある有馬温泉。神話のなかにも登場し、確実な記録としては1500年ほども前に僧・行基が隆興につとめたと残されている由緒ある温泉地です。「裏六甲」と呼ばれる六甲山北面の登山の際にはその入り口にもなります。今日は裏六甲の氷瀑を見に行きますので、登山にかかる前にまずは有馬温泉を歩いてみたいと思います。 有馬温泉 有馬温泉駅をおりて最初に目に入るのがこの風景です。いまは工事をしていますが、有馬川の谷部分が公園になっていて、真ん中をながれる小川は温泉水が流入するため温かいです。 秀吉の像 最初の写真を撮ったのが「太閤橋」からで、その橋のそばに秀吉の像(茶人・太閤像)があります。 有馬温泉と秀吉http://alimali.jp/2016/12/09/hideyoshi-arimaonsen/ すこし歩くと「ねねの橋」が見えてきます。 たもとには「ねねの像」 金の湯 泊り客でなくても誰でも入れる「金の湯」。いわゆる外湯です。ほかにも「銀の湯」があります。 有馬温泉の泉質と効能https://www.yukoyuko.net/yukotabi/archive/wu35329 温泉寺 温泉寺 温泉寺の本尊は言うまでもなく薬師如来ですが、ほかにも有馬温泉を見出し発展させた行基と、その後の衰退からの復興に尽力した仁西上人、各々の像が祀られています。 有馬温泉の歴史http://www.arima-onsen.com/history.html 有馬稲荷神社 有馬稲荷神社 有馬稲荷神社の長い階段 かんぽの宿 有馬温泉の街中をずっと上まで上がってくると、かんぽの宿があります。ここの大浴場も泊り客でなくても利用でき、入浴料は500円と格安。混んでいないので(すくなくともいままでに混んでいたことはない)のんびり有馬の湯につかれます。瀬戸内側(南側)から六甲山にとりつきこちら側へ下りてきた時にはいつもここで温泉に入って帰るのですが、今回は素通りします。 登山口 かんぽの宿のむかってすぐ先に登山口があります。それでは山へ入って行きます。 【アクセス】神戸電鉄・有馬温泉駅より。 ほかにも大阪・神戸などからバス便あり【料金】温泉に入らないのであれば不要【満足度】★★☆☆☆ 有馬温泉は温泉を楽しむところであって、観光見物にはむきません。 ... Read More | Share it now!

神社・仏閣,兵庫

【兵庫県・姫路市 2022.1.16】圓教寺は天台宗の別格本山(宗派内でとくべつな位置づけをされた寺)です。しかしハリウッド映画「ラストサムライ」や大河ドラマ「黒田官兵衛」など多数の映画、テレビドラマの撮影に使われたという方が興味をひくかもしれません。境内は、仁王門周辺の東谷、摩尼殿周辺の中谷、本堂などがある西谷に区分されます。 東谷 仁王門 東坂登山口から1時間で仁王門に着きました。これより先は圓教寺境内であることを意味しています。本来ならば誰もが門をくぐって気持ちをあらためるものですが、すぐ横に車の通れる道があり門をくくらずに入ってしまう人がいるのは、「どうなってんだ」というところです。 すごい老木がありました。葉が茂っているのでまだまだ現役です。 中谷 摩尼殿 摩尼殿は観音堂のこと。マニは梵語で「如意」のこと。如意とは自分の思いのままにすることを言います。 摩尼殿の柱の落書きhttps://shimirubon.jp/columns/1674573 摩尼殿は清水寺とおなじ舞台づくりです 摩尼殿 西谷 ➀大講堂から食堂 ②食堂から常行堂 ③食堂から大講堂をふり返る 大講堂を背に常行堂と食堂をみる 通称「三之堂」をぐるっと回ると、このような景色になります。 大講堂 大講堂は2層の1階、屋根は入母屋造りです。 社寺の屋根のかたちhttps://nara-atlas.com/naraarch-glossary/roof-style/ 大講堂の本尊・釈迦如来像 本多家の廟・墓 圓教寺はもとは2万6千石をほこる大寺院でしたが、秀吉が播磨を統治したことからわずか500石に減封されます。その間に寂れてしまうのですが、江戸時代になり徳川家の四天王・本多忠勝(平八郎)の長男・忠政が姫路を収めることになり、そのとき荒れはてた圓教寺の復興につとめたということです。 鐘楼 鐘楼はすこしはなれた場所にありました。 弁慶の伝説ものこる圓教寺https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24322980W7A201C1AA2P00/#:~:text= 秀吉の本陣跡 秀吉が播磨を平定するにあたって、軍師・黒田官兵衛のすすめでここ書写山に本陣をうつします。その現場へ行ってみたいと思います。標識などまったくありませんが、大講堂の右側にある坂を道なりに歩いて行くと15分ほどでたどり着きます。 秀吉の本陣跡 右の壁は残念ながら秀吉時代の遺構ではありません。貯水槽です。 秀吉の本陣跡行き方https://shimirubon.jp/columns/1673791 秀吉と官兵衛のみた風景 ここに陣取り、どこからどのような狼煙(のろし)が上がるかを見守っていたようです。 【アクセス】東坂登山口から1時間ほどで仁王門につきます。境内はずいぶん広いので、ざっと回るだけでも2時間は要します。【拝観料】500円【満足度】★★★★☆ ... Read More | Share it now!

山登り,兵庫

【兵庫県・姫路市 2022.1.16】姫路城を見たあとは、圓教寺のある書写山に東坂登山口から登ってみたいと思います。書写山は秀吉が播磨の国を攻め落してゆくうえで、軍師・黒田官兵衛の進言でその山上に陣をしいた山でもあります。 姫路城をあとにして 姫路城をあとにして 姫路城をあとにして書写山まで歩きます。7kmほどの行程ですので1時間少々と計算しています。楽しい道のりなら良いのですが。 こんな普通の道を歩いて行きます。前方に見えるのが書写山です。 夢前川をわたる 夢前川と書写山 書写山の全景が見えてきました。低山ですし(標高371m)山容を見たかぎりでもハイキング気分で登れそうです。 手前を流れるのは、「夢前(ゆめさき)川」というすてきな名前の川です。 なかなか素敵な「夢前川」の名の由来http://nyabecch.blog47.fc2.com/blog-entry-1527.html スサノオノミコトを主祭神とする八王子神社 東坂登山口 東坂登山口 東坂登山口に着きました。なんだか不気味な光景です。 バス停も人物もダミーです。なぜここにこんなものがあるのかまったく不明。 書写山の登山道はこんな感じで、 ハイキング気分で登れます。 「樫のきずな」 樫の木は生命力がつよいのか、あるいは妙な習性があるのか、このように枝が他の幹にひっつくとか、幹同志でくっついてしまうとか、山中でよく見かけます。 森林破壊がすすむと、やせた土地にも適応できる赤松が増えるそう。だから自然破壊のバロメーターになると書いているけど、だったら赤松の立場はないなあ。 砥石坂... Read More | Share it now!