【兵庫県・神戸市 2023.2.22】兵庫県の南東部、神戸市須磨区から宝塚市まで六甲山系の峰々をつたい歩く、六甲全山縦走路があります。昨年12月には、東端の宝塚駅から六甲山最高部にちかい一軒茶屋をへて有馬温泉にくだるルートを歩きました。今回は逆に西端の須磨浦公園から出発して、東へ向かって歩いてみたいと思います。 六甲全山縦走路のマップはネットでもいろいろ見れますが、下の... Read More | Share it now!
須磨寺は寺か神社かワンダーランドか確認する
【神戸市内 2023.1.3】関西のなかで京都や奈良は別格として、他の中小都市や城下町と比較しても神戸はずいぶん歴史の重みを欠く町のように映ります。しかし歴史を紐解いてみると、意外に古い史書や文献にいまの神戸市内の地名が登場しています。たとえば楠木正成が寡兵で足利尊氏の大軍をむかえ撃った湊川の戦いは南北朝時代、いまの神戸市中央区あたりが舞台です。平家物語で有名な源平合戦において源義経が一躍名をあげる、一ノ谷の戦いも須磨区を中心にした神戸市西側一体が舞台で、時は平安時代末期。さらに紫式部が遺した「源氏物語」には、源氏の君が一時凋落したとき時勢の不利をすばやくさとり須磨へとみずから下向する展開があります。もちろん「源氏物語」は小説であり創作ですが、当時から須磨は京から離れてはいるが朝廷と何らかの繋がりがある田舎として認識されていたということでしょう。この作品が書かれたのは平安時代中期、いまから1000年も前です。今日はその須磨に、源義経、さらに織田信長が好んで舞った幸若舞「敦盛」にも関係する須磨寺があるので、そこへ初詣気分で出かけてみます。 紫色のマークが今回歩いた場所です。 須磨寺へむかって JR須磨駅... Read More | Share it now!
六甲山系縦走(宝塚~大平山~一軒茶屋~有馬温泉)
【兵庫県・宝塚市~神戸市 2022.12.15】六甲山とは通例ではひとつの山を指すのではなく、兵庫県南東部のおよそ50kmにわたって横たわる山塊(あるいは山系)を言うそうです。そのため最高地点については六甲山頂ではなく、六甲山最高峰とよびます。この山系を縦走する六甲全山縦走路なるものがあり、そのルートをたどると六甲山の全貌がつかみやすいとおもいます。神戸市の西、須磨浦公園をスタートし、鉢伏山、鉄拐山、横尾山、高取山と低山をアップダウンしながら北東へすすみ、さらに菊水山、再度山をへて標高702mの摩耶山へ。このあたりでルートの半分です。ここからはアップダウンはあるものの尾根歩きのあんばいで12kmほど西へすすみ標高931mの六甲山最高峰に到着します。さらに西へと向かいますが、ここからは水無山、大平山とアップダウンを繰り返しながら徐々に高度を下げ、終点の宝塚の街へと至ることになります。今日は、宝塚側から縦走路に入り、いまの説明とは逆に大平山、水無山を経て六甲山最高峰へ。そこから縦走路をはずれ北へ下りて有馬温泉をゴールに歩いてみたいと思います。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 宝塚からスタート 阪急宝塚駅・ゆめ広場(宝塚歌劇との関連) 駅を出てすぐに武庫川をわたります 駅から急坂がつづきます 住宅地が終わるまでにずいぶん高度をあげました 登山道 塩尾寺の門前から登山道がはじまる 宝塚の街中からずっと山中につづくアスファルト道は塩尾寺(えんべいじ)の門前でおわり、そこから本格的な登山道にかわります。 急坂がしばらく続きます 最初のピークに達したようで緩い坂に 尾根道歩き 大阪湾と阪神間の街を見る... Read More | Share it now!
光秀が獲り春日局が生まれた黒井城を訪ねる
【兵庫県・丹波市 2022.11.27】明知光秀が丹波平定を進めてゆく上で、その堅い守りゆえにさんざんてこずらされた城がありました。丹波の豪族上がりの盟主であった赤井氏が標高356mの猪ノ口山を中心にして、山頂曲輪部分を石垣でかこみ、山稜上に砦を配して全体を要塞化した、その名は黒井城。明知光秀が信長の命をうけて攻めたてますが、八上城の波多野氏に背後をつかれ潰走させられます。(第一次黒井城の戦い)光秀は二度目は慎重を期してまずは上月城を囲んで身動きできないようにした上で、黒井城の支城をひとつひとつ攻めつぶして孤立化させ、ついに上月城、黒井城とつづけて落城させ丹波平定をなんとか成し遂げます。(第二次黒井城の戦い)しかし黒井城が落ちたのは、みずから悪右衛門と名乗った猛将・赤井直正が第二次黒井城の戦いのまえに病死してしまい、嫡男・直義が幼少のため後見人がついて指揮することになったことで弱体化していたことも大いに影響していたでしょう。光秀はこの黒井城を重臣の斎藤利三に与えます。斎藤利三は山の麓に居館をたて治世につとめますが、その時期に生まれた娘・福が成長してのちに徳川3代将軍・家光の乳母となります。福は家康の孫である家光が将軍職につくことに尽力し、大奥の公務を取り仕切るだけでなく、さらに家光の側室探しにも関わり、しだいに強大な権力を握るようになります。この女性こそがのちの春日局です。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 黒井城にのぼる 猪ノ口山 JR大阪駅から丹波路快速にのると、終点の福知山の手前に黒井駅があります。黒井駅を下りると前方に、山稜に黒井城を有する猪ノ口山が見えます。一見おだやかな山並みに見えたのですが... Read More | Share it now!
荒木村重の足跡をたどり摂津の地をあるく
【兵庫県・伊丹市、尼崎市 2022.11.24】市立伊丹ミュージアムにて荒木村重に関する展示会が先週末から始まったので覗いてみることにしました。展示会のタイトルは『信長と戦った男、荒木村重展... Read More | Share it now!
赤穂義士討入と塩との関連は、ない
【兵庫県・赤穂市 2022.11.3】1701年、播州赤穂藩の藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城の松之廊下にて高家旗本・吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか)に突然切りかかります。吉良氏は命に別状はなかったものの、江戸城殿中でしかも吉良氏が職務として朝廷の使者の接待をしている最中の刃傷沙汰ということもあって、浅野氏はその日の内に切腹を申し渡されます。これが赤穂事件の前半部です。浅野長矩は即日切腹を命じられ播州赤穂の所領も没収となったにもかかわらず、吉良氏にはなんらお咎めもなく、それに反発した家臣たちが一旦は御家のために忍従しようとしたものの、ついに堪忍袋の緒が切れて筆頭家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を中心に赤穂浪士47名が吉良邸に討ち入り、吉良義央を討ち首をはね浅野長矩の墓前に供えて恨みをはらします。これが赤穂事件の後半部になります。この赤穂事件はなんども映画やテレビドラマになっていますが、設定は必ずと言っていいほど吉良義央が悪者、赤穂浪士47名は義憤にかられ自らの命をかけて仇討ちをしたヒーローとして扱われています。なぜ浅野長矩が突然吉良義央を切りつけたのか、その理由はまったくわかっていません。もしかするとそのとき突然神経障害(パニック障害、あるいは発狂)に陥ったのかもしれません。「喧嘩両成敗」でないことに我慢ならなかったとはいえ、そもそも喧嘩ではなく浅野氏からの一方的な攻撃であれば両成敗する方がおかしいということになります。「仇討ち」といえば聞こえはよいですが、単なる復讐に過ぎなかったのかもしれません。さて今日は、そんな浅野長矩と赤穂浪士の故郷である兵庫県・赤穂市を見て歩きます。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 赤穂の街をあるく JR播州赤穂駅の階段には 赤穂浪士の姿絵が飾られています。 駅から赤穂城へとつづく道 おそらくは市の条例で、高層ビルが建てられないだけでなく、駅から城への道路「お城通り」沿いでは洋風建築すら認められず景観を保っているのでしょう。その心意気はよいのですが、祝日だというのになんという人通りの少ないこと。 通称「息継ぎの井戸」 君主・浅野内匠頭長矩による刃傷沙汰を急報するため、江戸より4昼夜早かごに揺られつづけて赤穂にたどり着いた藩士2名が城下に入り、この井戸の水をのんで一息ついたと伝えられています。 ここにも観光客はいません。 花岳寺 花岳寺(かがくじ)は、赤穂歴代藩主である浅野家、永井家、森家の菩提寺であり、大石内蔵助ほか赤穂浪士の香華院(菩提所)でもあります。 浅野家霊廟 赤穂浪士の墓所 赤穂浪士面々の墓標には、自刃(切腹)のため戒名にはすべて「刃」の文字が刻まれています。浪士面々の遺骸は江戸で葬られているため、ここには遺髪のみを納めているそうです。ところで花岳寺の案内でもそうですが、赤穂にきて気づいたことは、つねに「赤穂浪士」ではなく「赤穂義士」と記しています。「義士」とは忠義にあつい人のことで義憤から仇討ちはあっても、個人的な心情や信念から復讐などに走る人のことは指しません。さて赤穂浪士は本当に「義士」だったのか、そして忠臣蔵の話そのものは真に美談と言えるのか、少々疑問があります。 赤穂城址・石垣 大手櫓と大手門 赤穂城は櫓や塀など建造物はすべて再築したものですが、石垣は補修はしているものの現存物です。先に外周をまわって石垣を見ておきます。 大手門から入る 大手門 大手門内側から大手櫓をみる 大石宅跡 大手門から入り虎口を回り込むとすぐに大石内蔵助の邸宅跡があります。やはり筆頭家老ということでこの位置に屋敷を構えていたのでしょうか。 本丸 本丸門 本丸をかこむ石垣と堀 本丸門を入る 本丸御殿跡... Read More | Share it now!
秋の気配ただよう丹波篠山を見てあるく
【兵庫県・丹波篠山市 2022.10.2】丹波篠山市は兵庫県の中東部にある人口3万人ほどの小都市です。もと多紀郡・篠山町、今田町、丹南町、西紀町の4町が1999年に合併して市となったもので、そこからわかるように田舎といえば田舎であり、自然豊かなこじんまりした町です。JRが市内を走っていますが、最近になって4町が合併してひとつの市となったため、その路線は市域の西の端を通っており、最寄りの篠山口駅から中心街まではバスに乗り換えるか1時間ほどかけて歩く必要があります。そのためでしょうか公共の交通機関をつかって訪問する人は少なく、自家用車かバスツアーということになり、観光地としてもうひとつ注目されないのはそんな不便さもあってかもしれません。自分自身も大阪に住んでいながら、今回が初めての訪問になります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 黒岡の春日神社 鳥居 JR篠山口駅からバスで中心街まで来ました。すぐ南に篠山城址が見えましたが、さきに春日神社に参詣します。 ここは平安時代に奈良の春日大社より分霊された社で、かつて黒岡村の笹山とよばれた、現在の篠山城址のある小丘に祀られていたそうです。 楼門(神門) 春日神社といえば、鹿です。 拝殿 ここには常駐する宮司さんがいないそうで、地元の人たちが清掃なども担当してやっているとか。そのぶん地元との人にはより密着したものなのかもしれませんが、それにしても大変ですね。 篠山城址 大手門をのぞむ 大手門より先に進む 篠山城は、徳川家康が豊臣方の西国大名をおさえるため、山陰道の要衝である篠山の地に急ぎつくらせたものだそうです。縄張り担当は築城の名人・藤堂高虎、普請総奉行は池田輝政、20国の大名に下知されわずか6か月で完成します。 大書院 大書院が復元されています。大書院は廃城後も取り壊すのに金がかかるとの理由で残され、学校施設などに使われていたそうですが、その後失火により焼失。平成の時代になって再建されました。 この大書院だけは入館料400円が要ります。 大書院・内観 大書院・内観 埋門(うずみもん) 埋門(うずみもん)は低い位置にあるため城の内から見たときは目立たず見逃しやすく、城の外から入ってきたときには三方が階段のためすぐに場内が見渡せないようになっています。 天守台 天守台は残っていますが、天守閣は結局最後までつくられなかったそうです。 きれいな石垣が残っています 大手門(跡)から黒金門(跡)へつづく石垣 内濠と石垣 これだけのものを6ヵ月でつくり上げたとは驚きです。まず第一に、石の切り出し場が近くにあったのでしょう。遠方から運んでいたのではとても間に合わないはずです。 外濠 たいていの案内や資料には「篠山城跡」となっていますが、ここでは敢えて「篠山城址」としました。 城址と城跡の違いhttps://kokugoryokuup.com/shiroato/ 河原町妻入商家群 古い街並みのようですが、 それ風に再建されたものが大半(?) 八上城跡 山全体を要塞化した八上城があった高城山 丹波の国人であった波多野氏がながく本拠としていた八上城(跡)を見にゆきます。篠山城址から5km足らず、バス便も少ないので歩きます。 登城口にある春日神社はほぼ廃墟でした この八上城は堅固に守られた城で、明智光秀が丹波攻略の際には力押しに押しても落とせず、兵糧攻めと渾身の説得でなんとか開城させました。なお開城(降伏)にいたって、光秀が城主の波多野兄弟を助命すると約束したにもかかわらず、織田信長が有無を言わせず殺してしまったと史実にあります。 登り道はほぼ丸太階段ですが、 これが延々とつづくので結構バテます 山頂手前で篠山市街方面をのぞむ 山頂... Read More | Share it now!
神戸神社めぐり、一宮から八宮まであるく
【兵庫県・神戸市 2022.8.6】神戸の中心街は三宮です。この三宮ですが、じつは三宮神社(現存しています)がその名の由来です。さて、地図を見ていると二宮商店街とあったのでグーグルマップでアップしてみると近所に二宮神社が。さてさて、よく調べてみると神戸には一宮神社から八宮神社まで建てられ、すべて現存しているそうです。(ただし六宮神社は明治時代その地に高等小学校をつくる必要から八宮神社の社殿に合祀されたため、神社としては存在しますが、独自の社はありません)今日はこの8社(建物としては7つ)をめぐってみたいと思います。ただこれだけではいかにももの足りないので、近辺にたつ生田神社と湊川神社をあわせて回ります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 生田神社 生田神社に到着 まず生田神社にむかいます。 早朝大坂から神戸へ向かう電車で窓に雨がはじけていました。三ノ宮駅に着いた時には雨はあがっていましたが、やはり路面は濡れています。それでもお陰ですこし涼しくなったのには助かります。 楼門 楼門から拝殿をみる 拝殿と本殿(奥) 生田神社は天照大御神の妹神ともつたえられる稚日女尊(わかひるめのみこと)を祭神として祀っています。当初はいまの新神戸駅の北にある布引山に建てられていたものの、8世紀に洪水による土砂崩れで流されてしまい、いまの地に移されたそうです。ご利益は、恋愛成就、御縁結び、安産祈願ですから、さぞかし若い人たちに人気でしょう。 拝殿前の獅子・阿形 口を開けた阿形の狛犬、実は獅子だったhttps://www.shikoku88.net/88blog/?p=1454 戸隠神社(左)と蛭子神社(中央)... Read More | Share it now!
苛酷な歴史の舞台となった摂津の地を歩く。
【兵庫県・伊丹市、大阪府・池田市 2022.6.12】 今日は黒田官兵衛と荒木村重ふたりのゆかりの地を訪ねたいと思います。黒田官兵衛といえば、言わずと知れた秀吉の軍師(知恵袋ともいわれます)ですが、荒木村重が信長に背いた際には思いとどまるようその居城・有岡城へ説得にゆきます。ところが説得に失敗しただけでなく、官兵衛をこころよく思わない者からの讒言により有岡城の地下牢に幽閉され、一年におよぶ牢獄生活で官兵衛は頭髪が抜け落ち、体中に瘡(かさ)ができ、さらにひざの関節が曲がらなくなる障害をかかえることになります。その官兵衛にとっては地獄の思いをした有岡城が本日最初の訪問地です。 JR伊丹駅まえに有岡城址公園があります。この石垣が当時のままのものなのか分かりかねますが、ちょっと整いすぎているように思えます。 石垣を上ってみると、上にあるのはこれだけでした。あとからアレコレ造るよりは、これだけしかありませんという方が潔いのかもしれませんが、しかし物足りません。 街を歩いていると、他にも土塁や 石垣がところどころに残っていました。 ところで荒木村重は信長に背いたことにより、ここ有岡城に籠城します。村重の背信に激怒した信長は、有岡城を厳重に包囲させ、そして村重が城外へ脱出したにもかかわらず、城に残っていた家臣や女子供にいたるまでを、報復と見せしめのために殺しつくします。信長の残虐性をつたえる、敵方に対する殲滅戦や虐殺は数々ありますが、この有岡城での虐殺はその最たるものではないでしょうか。信長ファンであったもここでの惨劇を天下布武の過程で必要だったとはとうてい認められません。 荒木村重の謀反と有岡城の戦い、そして荒木一族の処刑https://senjp.com/arioka-2/ 酒蔵 伊丹は伝統のある酒造りのまちで、ふるい酒蔵も残されています。 旧岡田家宅 江戸時代に酒造家によってたてられた商屋。 酒屋の商家をイメージしたマンホール 極めつけはこれです。伊丹ミュージアム正面入り口のちかくにあります。一点物のマンホールです。 猪名野神社 かつての有岡城は、総構えといって城下の町ごと濠や石垣でぐるりと囲んで防御機能をたかめていたのですが、その総構えの北端にあったのがこの猪名野神社です。 拝殿 拝殿奥の本殿は修繕中で、全体的には少々さびれた感じでした。 伊丹空港から飛行機が飛び立つ 猪名川をわたって池田市へ向かいます。大阪空港(国内線が中心)から5分に1便ぐらいの頻度で飛行機が飛び立ってきます。ところで大阪空港は伊丹空港ともよばれるのですが、伊丹市(兵庫県)、池田市(大阪府)、豊中市(大阪府)の3市の市境にあり、この3市にまたがるのですが、さらに飛び地があって地理的にはたいへん複雑です。 猪名川から池田市をのぞむ ヒメジョオンが咲く猪名川河岸から池田市街を遠望します。ところでヒメジョオンは小さな花ですが、これだけ咲いていると壮観です。 呉服神社 池田市街につきました。 ぜひ立ち寄ってみたかった、JR池田駅からほどちかくにある呉服神社(くれはじんじゃ)をのぞいてみます。 拝殿 拝殿 応神天皇(仁徳天皇の父)の時代に、機織りと裁縫の技術をとりいれるため、呉の国より呉服媛(くれはとりのひめ)と綾羽媛(あやはとりのひめ)姉妹を招きます。姉妹はそれこそ夜も徹して織物、染色、縫製にはげみその技術を日本につたえ残してくれます。その功績に感謝し、呉服媛を呉服大明神として祀ったのがこの神社のはじまりです。なおいま日本につたわる呉服(ごふく)という言葉は、この呉服(くれは)からきています。 拝殿をかざるステンドグラス 拝殿をかざるステンドグラス 池田城公園入口 つぎには、これもほど近くにある池田城址にむかいます。 池田城公園 池田城公園 池田城公園内にたつ天守閣のごとき建物は、説明板によると、公園のシンボルとしてそれらしく造ったもので、史実にもとづいて正確に再現したものではないそうです。 石基がのこっています。 池田城より五月山をのぞむ 公園内に咲くテッポウユリ 動物園へむかう坂道 時間もあるので、入場料無料の池田市立動物園へ寄ってみます。 動物園へむかってあるくと こんなマンホールが道案内してくれる 動物園入口 なんだかチャチい入口ですが、まあそこは入場料無料ということで-... Read More | Share it now!
秀吉の中国大返しを一日だけ体感する。
【兵庫県・姫路市~高砂市~加古川市~明石市 2022.6.4】 今日は秀吉による中国大返しを体感するため、1日の移動距離としてはもっとも長かったであろう姫路から明石までを歩きとおしてみることにします。中国大返しとは、備中高松城(現在の岡山県岡山市)で毛利方とにらみ合っていた羽柴秀吉が、本能寺の変の急報をうけ直ちに畿内へ取って返すのですが、2万の軍勢が7日間で200km超を行軍してそのまま天下分け目の山崎の合戦に突入したことで、奇跡とも、あるいは作り話とも言われています。実際のところ1日30kmペースで歩くことは可能なのか、なにはともあれ実際に歩いてみましょう。 JR姫路駅から姫路城をのぞむ 4か月ぶりに姫路にやってきました。前回の訪問後ネットで知ったのですが、JR姫路駅には眺望所があり、大手前通りをまっすぐに姫路城を遠望することができます。 黒いボックス型建物の2階が眺望所です。 姫路城をデザインしたマンホール 国道2号線沿いの歩道・姫路城の石垣が残る。 大手前通りをまっすぐ姫路城にむかって歩くと、途中で国道2号線と交差します。そこを右折し、先ずは御着城址へ向かいます。 高砂まで15kmの表示 秀吉の軍勢が中国大返しの際に通った道が残っているはずもないので、こんな感じのフツーの道を歩きます。 御着城の本丸跡に模して建てられた市役所東出張所 姫路駅を出てから1時間ほどで御着城址につきました。ここは播磨の守護赤松家の家臣小寺氏の居城ですが、黒田官兵衛(黒田孝高、黒田如水)はもともとは小寺家当主・小寺政職(まさとも)の近習で、当時は小寺官兵衛となのっていました。 黒田官兵衛の功績をたたえた顕彰碑がたつ。 黒田家の廟もある。 高砂市に入りました。 御着城址を見物したあとは、ひたすら明石にむかって歩きます。まもなく高砂市に入りました。 高御位山(たかみくらやま)登山口 車が行き交う国道2号線沿いに登山口がありました。ずっと以前に高御位山には登ったことがあるのですが、ここから登ったという記憶がありません。 陸橋から周辺を眺める。 陸橋から周辺を眺める。 加古川市へ 高架道路(新2号線)の下をくぐって加古川市内へ入って行きます。 市名の由来でもある加古川をわたります。 明石まで18kmの表示。ちょうど半分歩きました。 イオンモールがあったのでここで昼食もかねて休憩します。今日の兵庫県南部の最高気温は28度とのこと、30度にとどかなければ市街地を歩いていてもなんとかしのげます。 リゾート地(?) 写真で見ると一見どこかのリゾート地のようですが、じつは池の向こうに宅地がひろがる、ありふれた風景です。 明石市に入る。 さあいよいよ明石市に入りました。市街まで13km、現在15時なので17時半迄には明石駅につくでしょう。 明石市街 で、17時の時点でここまで来ました。前方に見えるのが明石の中心街です。 明石城 さきに明石城址にむかいます。 明石公園のマンホール 明石城址はなかなか見ごたえがあるのですが、さずがに足が疲れてきて上り下りが辛いのに加え、日差しも弱くなってきれいな写真も撮れないので、次の機会にあらためてゆっくり見学することにします。 明石駅の南側に「魚の棚商店街」といって、魚屋、明石焼、佃煮屋などが多くあつまるアーケード商店街があります。そこにはテレビでも見る「さかなクン」がデザインしたマンホールの蓋がすべて一点物で計19点あります。これだけでも一見の価値があります。そのなかで3点ほど掲載しておきます。 【アクセス】JR姫路駅9時40分発→JR明石駅18時10分着 53,000歩 38km【満足度】★★★☆☆ (いちど体験すれば十分です)【体感後の感想】たしかに足、とくに足首が痛くなりましたが、それはかたいアスファルト道を歩きつづけたためです。土の道であればこれほど足首が痛くなったことはありません。また中国大返しの際には、秀吉や重臣はいうまでもなく徒歩ではなく騎馬だったでしょう。歩いたのは若い侍たちです。若いだけでなく当時の人たちはもともと車も電車も、自転車さえもないのですから歩きなれているはずです。武器や鎧はべつに船に積んで運んだとの説が有力ですが、もしそうであったら7日間で200キロ超を歩くのはけっして不可能ではないと思います。むしろ今回身をもって感じたのは、兵糧の手配の問題です。最初から最後まで国道2号線沿いをずっと歩いたのですが、交通量が多いので途中でほかの道に変えようかと高砂市に入ったあたりで考えたりもしました。しかし国道2号線沿いを歩いているかぎりは、飲食店だけでなくコンビニやスーパーマーケットがちょくちょくあり、けっして飲み食いに困ることはありません。いまの時代ですら途中の飲食のことを考えるのですから、当時としては、軍勢が歩けるか歩けないかよりも皆が飲み食いに困らないかどうか、すなわち兵糧の手配が完璧にできるかどうかが、最大のポイントだったものと思います。その兵糧の手配ができたからこそ中国大返しは実行できたのでしょう ... Read More | Share it now!