【兵庫県・姫路市 2022.1.16】圓教寺は天台宗の別格本山(宗派内でとくべつな位置づけをされた寺)です。しかしハリウッド映画「ラストサムライ」や大河ドラマ「黒田官兵衛」など多数の映画、テレビドラマの撮影に使われたという方が興味をひくかもしれません。境内は、仁王門周辺の東谷、摩尼殿周辺の中谷、本堂などがある西谷に区分されます。 東谷 仁王門 東坂登山口から1時間で仁王門に着きました。これより先は圓教寺境内であることを意味しています。本来ならば誰もが門をくぐって気持ちをあらためるものですが、すぐ横に車の通れる道があり門をくくらずに入ってしまう人がいるのは、「どうなってんだ」というところです。 すごい老木がありました。葉が茂っているのでまだまだ現役です。 中谷 摩尼殿 摩尼殿は観音堂のこと。マニは梵語で「如意」のこと。如意とは自分の思いのままにすることを言います。 摩尼殿の柱の落書きhttps://shimirubon.jp/columns/1674573 摩尼殿は清水寺とおなじ舞台づくりです 摩尼殿 西谷 ➀大講堂から食堂 ②食堂から常行堂 ③食堂から大講堂をふり返る 大講堂を背に常行堂と食堂をみる 通称「三之堂」をぐるっと回ると、このような景色になります。 大講堂 大講堂は2層の1階、屋根は入母屋造りです。 社寺の屋根のかたちhttps://nara-atlas.com/naraarch-glossary/roof-style/ 大講堂の本尊・釈迦如来像 本多家の廟・墓 圓教寺はもとは2万6千石をほこる大寺院でしたが、秀吉が播磨を統治したことからわずか500石に減封されます。その間に寂れてしまうのですが、江戸時代になり徳川家の四天王・本多忠勝(平八郎)の長男・忠政が姫路を収めることになり、そのとき荒れはてた圓教寺の復興につとめたということです。 鐘楼 鐘楼はすこしはなれた場所にありました。 弁慶の伝説ものこる圓教寺https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24322980W7A201C1AA2P00/#:~:text= 秀吉の本陣跡 秀吉が播磨を平定するにあたって、軍師・黒田官兵衛のすすめでここ書写山に本陣をうつします。その現場へ行ってみたいと思います。標識などまったくありませんが、大講堂の右側にある坂を道なりに歩いて行くと15分ほどでたどり着きます。 秀吉の本陣跡 右の壁は残念ながら秀吉時代の遺構ではありません。貯水槽です。 秀吉の本陣跡行き方https://shimirubon.jp/columns/1673791 秀吉と官兵衛のみた風景 ここに陣取り、どこからどのような狼煙(のろし)が上がるかを見守っていたようです。 【アクセス】東坂登山口から1時間ほどで仁王門につきます。境内はずいぶん広いので、ざっと回るだけでも2時間は要します。【拝観料】500円【満足度】★★★★☆ ... Read More | Share it now!
日本一美しい(と思う)姫路城をたずねる
【兵庫県・姫路市 2022.1.16】個人的意見では、日本でもっとも美しい城、もちろん世界遺産にも登録されている姫路城を訪ねます。最初は赤松則村なる武将が、鎌倉幕府に対抗する後醍醐天皇の側について挙兵し、標高40m余の小高い丘・姫山に砦を築いたのが基です。これが1333年のこと。それからおよそ100年後の1441年、断絶、再興をくりかえしふたたび播磨の国に返り咲いた赤松氏は、従属する武将、小寺氏にこの姫路城の城主をまかせます。さらに時が流れその小寺氏の家臣・黒田重隆が姫路城の城主となるのですが、重隆の息子が黒田孝高(官兵衛)です。孝高の時代に黒田家は頭角をあらわし、やがて織田信長に臣従、信長の家臣である羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の軍師をつとめるようになります。 姫路城へ JR姫路駅から真正面に姫路城がみえる JR姫路駅前からバーンと姫路城が見えます。きっと駅から姫路城へと目抜き通りがつらぬくように街づくりをしたのでしょう。通りの名も「大手前通り」となっています。 なぜ姫路城は戦火を免れたのかhttps://castle-himeji.com/2017/07/reason-why-himeji-castle-remained/ 街中にも石垣が残り、説明板も随所にあります。 真正面に姫路城 国道2号線をはさんで姫路城と相対します。 姫路城は5層6階の大天守と3つの小天守がつながる連結式の城郭です。 姫路城を詳しく知るhttp://himejicastle-tour.jp/ 大手門から入城 桜門橋と大手門 姫路城のことをもっともっと詳しく知るhttps://www.city.himeji.lg.jp/jyokakuken/index.html 大手門を入ってすぐに見える姫路城 右側に回り込んで見上げる 黒田官兵衛普請の石垣 羽柴秀吉がこの姫路城を拠点として播磨平定に乗り出した時代、軍師の黒田官兵衛に命じて普請させた石垣部分だそうです。すなわち姫路城のなかでも、残っているものとしてはもっとも古い造作のひとつになります。 石垣の割れ目ではなく、継ぎ目 石垣といえば、もうひとつ興味深いものがあります。石垣に継ぎ目があります。これは秀吉から秀長へとつづく羽柴時代につくられた石垣に、池田輝政からはじまる池田時代につくられた石垣が繋がれた結果だそうです。 渡り櫓 渡り櫓 櫓(やぐら)にもいろいろあって、これは「渡り櫓」と呼ばれるものだと思うのですが、ここに入れるそうです。追加料金は要らないそうなので、ちょっと入ってみます。 櫓の内部... Read More | Share it now!