城郭・史跡,和歌山

【和歌山市 2022.9.24】和歌山城は、豊臣秀吉が弟・秀長に紀州を平定させてのち当時若山(のちに和歌山と改名)と呼ばれていた地に、築城の名人・藤堂高虎を城普請奉行として、わずか1年で築城させたのが始まりです。その後江戸時代になって、浅野幸長が37万石で紀州藩主となり城主となると大改修をおこないます。つづいて徳川家康の十男・頼宣が55万石で入城し、のちに徳川御三家のひとつにかぞえられる紀州徳川家を興すことになります。城郭は紀州徳川家の居城だっただけにずいぶん立派なものだったようで、第二次大戦前までは天守閣をふくむ11棟の建物が国宝に指定されていましたが、和歌山大空襲によりすべて焼失してしまいました。現在のこる天守閣は昭和30年代にコンクリートで復元されたものです。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 和歌山城へ 和歌山城・全景 濠と石垣 一の橋をわたり大手門へ 石垣は往時のものが遺っているため、なかなか見ごたえがあります。実際に歩いて見たのとは順番が変わりますが、次に和歌山城に現存している石垣を歴史的に古いものから順にならべてみます。 石垣 石垣① 以下、3種の石垣は築かれた時代により、使われた石の種類と組み方がそれぞれ異なります。石垣①は豊臣時代に築かれた、紀州青石など自然石を切り出してそのまま積んだ野面積み。 石垣② 石垣②は浅野時代に築かれた、和泉砂岩を打って形をととのえ接ぎ合せながら積む、打込みハギ。「ハギ」とは「接合」の意味です。 石垣③... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,滋賀

【滋賀県・近江八幡市安土 2022.5.28】思えば、安土にくるのはほんの3か月ぶりです。もっとも前回は信長がらみでしたが、今回はその信長と敵対した六角義賢(ろっかくよしかた)の居城であった観音寺城を見にゆきます。観音寺城(址)は、安土城(址)の北東にある標高432mの繖山(きぬがさやま)の山頂から南山麓部分にかけてひろがる大城郭です。しかも単に大きいというだけでなく、城郭全体に石垣が組まれており、日本最初の総石垣の城と言われています。 安土駅から繖山へ JR安土駅から歩きはじめます 後方が観音寺城址のある繖山 今回は安土城はスルーして、六角氏の居城・観音寺城(址)にむかいます。 桑実寺 桑実寺参道から登ってみます。 山門をぬけても階段がつづきます。 本堂 桑実寺は通り抜けるだけでも、拝観料300円が要ります。すなわち観音寺城址... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,奈良

【奈良県・明日香村 2022.4.17】ややこしいのですが、飛鳥文化の遺構がのこる地域を飛鳥の里といい、奈良県の明日香村にあります。大阪から電車でくると、近鉄・飛鳥駅で下車しますが、駅近くのコンビニは「○○明日香店」となっています。要は、地名としては明日香、文化としては飛鳥ということなのでしょう。なにはともあれ、明日香村の飛鳥の里を歩いてみます。 飛鳥駅から歩きはじめる ... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,滋賀

【滋賀県・近江八幡市安土町 2022.2.26】織田信長によって築かれた安土城は、それまでの城の概念にはおさまらない、独創的な縄張りと意匠で威容を誇っていたといわれています。そもそも守るための城ではなく、見せること、さらには魅せることに重きをおいていました。真っすぐ上へとのびる大手道からは、登りながらに山上の金色の望楼をもつ天守(天主)閣を見上げます。絢爛豪華に飾られた、その天守にはまさに天主、神たらん信長が住まわっていました。 安土駅 JR安土駅 安土駅は、駅でもあり広告塔でもあり。 安土城址 安土城址・石垣 安土城址・曲輪 自慢の一直線にのびる階段(大手道) 本来城の階段は敵の侵入や攻撃をふせぐ目的で途中に虎口をつくって屈曲させたりするものですが、この安土城は視覚効果を計算して一直線に上りあがってゆく、きわめて特異なつくりになっています。ところがその一番の見せ場の長階段がこれです。土日は工事をしないのなら、道具を片付けてもらえないのかねえ。 安土城はなにが画期的だったのかhttps://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/539262 羽柴秀吉邸跡(下階) 羽柴秀吉邸跡(上階) 上の2枚は羽柴秀吉邸の跡地とつたわる場所です。上下2階に分かれているのは、いまでいうメゾネットタイプではないですか。このあたりにも斬新さがうかがえます。きっと下の階に厩舎や薪置き場、あるいは小者の寝場所などがあり、上の階にあがると秀吉の生活空間があったのでしょう。それにしても上階から前方に見えるのは総見寺のはずですが、みごとにブルーシートで覆われています。てことは見れないということですかね。(結果:やはり立ち入ることはできませんでした) 石階段につかわれた石仏 石階段に、石なら何でもとばかりに石仏が押し込まれています。これは信仰心の有無ではなく、この当時はよその城から石垣をこわして持ちかえる、あるいは近在の社寺から石仏、墓石、石塔なんでもござれとすべて使って、より早く城を完成させることが普請役の腕の見せどころでした。姫路城にはどこから持ってきたのかでかい石棺を門柱のごとく立てて使っていますし、奈良の郡山城には石仏をよりによって逆さまにはめ込んだ「逆さ地蔵」なるものもあります。 黒金門跡 黒金門跡 今までと異なりここで階段が90度右に曲がり、虎口が造られています。ここに黒金門とよばれる立派な門があったそうで、ここからは防御をかんがえた構造になっているわけです。ところで安土城には「蛇石」とよばれる7000人のひとが命がけで運んだ巨石があったはずで、使われるとすればメインゲートにあたるこの黒金門周辺に配置されているはずなのですが、完全に行方不明になっています。 石材として使われていた仏足石 次男・信雄と子息の供養塔 信長本廟 信長の本廟 信長の本廟もここにあります。秀吉が遺品を埋葬してここを本廟としたそうです。ところで次男・信雄(のぶかつ)がどうしようもない愚物で、信長が討たれた直後になにを血迷ったか、この安土城に火を放ってすべてを消失させてしまったとの説がありますが、これは大ウソです。この話は宣教師が書き残したものですが、おそらくはキリスト教に理解を示さない信雄憎しでいい加減に書いたものと思われます。 本丸跡 天守台跡 総見寺 もと総見寺のあった地にのこる三重塔... Read More | Share it now!

千利休,街歩き・山歩き,城郭・史跡,大阪

【大阪府・堺市 2022.2.23】堺市北部にある仁徳天皇陵を中心とした百舌鳥古墳群は、羽曳野市・藤井寺市にまたがる古市古墳群とともに、2019年7月に世界遺産として登録されました。大阪では初めての世界遺産登録ですが、はたしてこの遺産で観光客をどれだけ呼べるのか、期待よりも不安の方が大きいと思っていたのもつかの間、翌年早々に新型コロナの感染で世界中の人の動きが止まってしまい、いまに至っています。そんな中、仁徳天皇陵古墳はもしかすると仁徳天皇のものではないのではないかと先日メディアで報じていました。そこでさっそく見に行くことにしました。 三国ヶ丘駅より 南海三国ヶ丘駅階段より仁徳天皇陵古墳をみる 南海三国ヶ丘駅につきました。ここはJR三国ケ丘駅と駅舎を共有しています。駅名は同じですが、「ケ」の大きさが違います。ウソのようなホントの話です。 仁徳天皇陵古墳をぐるりと回る 柵に沿って歩いて行く 標識も各所にあります 案内にしたがって進みます 公園のようになっているところもあります 外周の道沿いにも小さな古墳や 中規模の古墳が点在しています 説明版も各所に配置されています。世界遺産に登録されて準備万端だったんですね。 仁徳天皇陵・拝所 拝所前のお濠 仁徳天皇陵古墳は前方後円墳ですから、拝所は前の方形部にあります。ですからここから見る濠は横にまっすぐに伸びています。これが方形部の幅の半分で、残り半分が背中側に伸びているのですから、いかに巨大かということです。 仁徳天皇陵・拝所 仁徳天皇陵が仁徳天皇のものではない、というのはどうやら間違いないようです。出土する土器や馬具などから、仁徳天皇埋葬時より半世紀近くあとにつくられた古墳である可能性が高いそうで、そうなると仁徳天皇の息子のものではないかと推測されるそうです。仁徳天皇についてはご存知でしょうか。夕餉ときになっても民家のかまどから炊飯のけむりが上がらないのをみて民の生活の苦しさを知り、3年間無税にするだけでなく、自身も宮の屋根の修理すらせずに節約につとめたとの逸話がのこる方です。そこから「仁徳」天皇とよばれるようになったもので、そもそもは大鷦鷯(おおさざき)天皇です。 ところで、このメディア報道について宮内庁は、そうした研究発表があることは知っているとした上で、だからといって仁徳天皇のお墓ではないと変更するつもりはありませんとコメントしています。またある研究者の方も、そういう徳のある方だったので、一番大きなものをぜひ仁徳天皇が眠っているお墓にしようと意図して、むかしの人が日本書紀などにそう記録したのではないかと語っていました。なんだかいい話ですね。 仁徳天皇陵は誰の墓?https://news.yahoo.co.jp/articles/3a5c4ee034055428f45d9251a1e44e9d1f1e2193 大仙公園 仁徳天皇陵の南にひろがる大仙公園、そこにも古墳が 堺にゆかりのある千利休の像も 堺市博物館 大仙公園内にある堺市博物館に入ってみました。 入館料:200円 履中天皇陵古墳 履中天皇陵古墳 大仙公園を南へ抜けると、履中天皇陵古墳があります。前方後円墳ですからこれは後方になります。 【アクセス】南海三国ヶ丘駅または... Read More | Share it now!

城郭・史跡,岐阜

【岐阜市内 2022.2.11】織田信長は尾張一国を平定後、美濃、伊勢と領土をひろげ、いよいよ天下を治めるために「天下布武」をかかげます。その起点となったのが、岐阜城です。岐阜城はもとは信長の正室・帰蝶(濃姫)の父、すなわち信長にとっては岳父である斎藤道三の居城でした。道三から信長に城主が代わるまでには、のちに秀吉の軍師となる竹中半兵衛がかかわったこともあり、なにかと歴史にその名を刻まれている名城です。 今回は「関西」から外に出て、その岐阜城を訪ねてみます。 金華山 金華山... Read More | Share it now!

城郭・史跡,大阪

【大阪市内 2022.2.5】いまある大坂城は、秀吉が建てたものではありません。大坂冬の陣・冬夏の陣により豊臣家を滅ぼして後、徳川家康は当時の大坂城を徹底的に焼きつくし埋めつくしてしまいます。ですから秀吉が築いた大坂城は残骸となって、いまの家康が建てた(新)大坂城の下にねむっています。とは言え、いまの大坂城も見ごたえは充分にあります。今日はゆっくり時間をかけて大坂城を見て回りたいと思います。 大坂城へ 第二寝屋川・新鴫野橋 自宅から3kmほどの距離ですので、ここまで歩いてきました。寝屋川の向こうにさっそく天守閣が見えます。 ところで大阪は、むかしは大坂と書いていました。それゆえここでは大坂城と書きます。 京橋口 北口にあたる京橋口 大坂の陣についてhttps://benesse.jp/contents/history/osakanatsunojin-fuyunojin/ 肥後石 京橋口から入るとこの巨石が迎えてくれます。 表面積はたたみ33畳分あるそうです。当初は肥後の加藤清正が運んだと考えられていたため「肥後石」と名付けられましたが、あとになって備前岡山の池田家の担当だったことが分かったと案内板に書いてありました。 石垣の巨石はどうやって運んだのかhttps://shirobito.jp/article/361 北内濠をはさんで 極楽橋と天守閣 青屋門 青屋門より もうすこし時計回りにまわって青屋門まできました。 梅林 青屋門の近所に、大坂城の人気スポットでもある梅林があります。 立ち寄ってみましたが、チラホラ咲き始めという状況でした。 豊国神社と秀吉像 西日本ではおなじみの豊国神社。秀吉を神として祀っていますが、この大坂城内の神社では秀頼(息子)と秀長(弟)も祀られています。 桜門 桜門... Read More | Share it now!

城郭・史跡,兵庫

【兵庫県・姫路市 2022.1.16】個人的意見では、日本でもっとも美しい城、もちろん世界遺産にも登録されている姫路城を訪ねます。最初は赤松則村なる武将が、鎌倉幕府に対抗する後醍醐天皇の側について挙兵し、標高40m余の小高い丘・姫山に砦を築いたのが基です。これが1333年のこと。それからおよそ100年後の1441年、断絶、再興をくりかえしふたたび播磨の国に返り咲いた赤松氏は、従属する武将、小寺氏にこの姫路城の城主をまかせます。さらに時が流れその小寺氏の家臣・黒田重隆が姫路城の城主となるのですが、重隆の息子が黒田孝高(官兵衛)です。孝高の時代に黒田家は頭角をあらわし、やがて織田信長に臣従、信長の家臣である羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の軍師をつとめるようになります。 姫路城へ JR姫路駅から真正面に姫路城がみえる JR姫路駅前からバーンと姫路城が見えます。きっと駅から姫路城へと目抜き通りがつらぬくように街づくりをしたのでしょう。通りの名も「大手前通り」となっています。 なぜ姫路城は戦火を免れたのかhttps://castle-himeji.com/2017/07/reason-why-himeji-castle-remained/ 街中にも石垣が残り、説明板も随所にあります。 真正面に姫路城 国道2号線をはさんで姫路城と相対します。 姫路城は5層6階の大天守と3つの小天守がつながる連結式の城郭です。 姫路城を詳しく知るhttp://himejicastle-tour.jp/ 大手門から入城 桜門橋と大手門 姫路城のことをもっともっと詳しく知るhttps://www.city.himeji.lg.jp/jyokakuken/index.html 大手門を入ってすぐに見える姫路城 右側に回り込んで見上げる 黒田官兵衛普請の石垣 羽柴秀吉がこの姫路城を拠点として播磨平定に乗り出した時代、軍師の黒田官兵衛に命じて普請させた石垣部分だそうです。すなわち姫路城のなかでも、残っているものとしてはもっとも古い造作のひとつになります。 石垣の割れ目ではなく、継ぎ目 石垣といえば、もうひとつ興味深いものがあります。石垣に継ぎ目があります。これは秀吉から秀長へとつづく羽柴時代につくられた石垣に、池田輝政からはじまる池田時代につくられた石垣が繋がれた結果だそうです。 渡り櫓 渡り櫓 櫓(やぐら)にもいろいろあって、これは「渡り櫓」と呼ばれるものだと思うのですが、ここに入れるそうです。追加料金は要らないそうなので、ちょっと入ってみます。 櫓の内部... Read More | Share it now!