【広島県・大竹市 2024.9.4】福島正則は秀吉の母(のちの大政所)の妹の子として尾張に生まれます。すなわち秀吉の従弟にあたり、少年のころから小姓として仕えたようです。たんに血縁関係による身びいきではなく、正則本人の勇猛果敢な武功によりしだいに頭角をあらわし、ついに柴田勝家とたたかう賤ヶ岳の戦いで、のちに語り継がれる七本槍でもって世間にその名を知られるところとなります。その後も小牧・長久手の戦い、四国、九州さらに小田原征伐、そして朝鮮出兵と戦をかさね武功を積みあげ、秀吉が亡くなるまえには尾張・清州城にて20万石の大名になっていました。 さてその後におこる関ヶ原合戦について、西軍=豊臣方と東軍=徳川方の天下争いというように認識されがちですが、この時点での家康には豊臣家の天下を簒奪しようとする野心はまだなかったと見るべきです。正確には、豊臣家(秀頼)のもとで自分の剛腕辣腕をさらに発揮せんとする家康と、出過ぎる家康に危機感をだく石田三成、さらに三成の仕置きに憤る福島正則をはじめとした豊臣派の武将たち、そしてその豊臣派の憤りを三成排除の道具として利用しようと暗躍する家康の参謀・本多正信、こうして必然的に三成vs家康の戦いが演出されたと見るべきでしょう。 亀居公園 亀居城は1970~80年代に発掘調査がおこなわれ、その後整備されていまは公園になっています。案内図の右下、国道2号線から繋がる道をあるき、松の丸跡にたどり着きました。 松の丸は駐車場のようです 石垣にそって歩きます 二ノ丸から本丸へつづくあたりの石垣です 石田三成を殺してやりたいほどに嫌悪していた正則は、黒田長政の勧めで関ヶ原の役では東軍・徳川方につきます。長政は謀略の天才といわれた黒田官兵衛の嫡男であり、さずがに人を口説くには天賦の才があったようで、この戦い(関ヶ原)が豊臣家に弓を引くものではなく、石田三成を排除するためのものだと説得し納得させます。もっともその黒田長政はというと、家康側近の本多正信にあやつられていたことは言うまでもありません。 石垣をみる おもに本丸周辺にのこる石垣は 実に見事で一見の価値があります 全体は切込み接ぎ、端は算木積み 城郭石垣の完成された姿です 本丸 本丸をささえる石垣 本丸へ 本丸への虎口... Read More | Share it now!
毛利元就に惹かれて吉田郡山城へ
【広島県・安芸高田市... Read More | Share it now!
戦艦大和のふるさと呉をたずねる
【広島県・呉市 2024.9.2】 戦艦大和は連合艦隊の旗艦となるべく昭和16年(1941)12月16日竣工。その8日前の12月8日に真珠湾攻撃をおこない太平洋戦争が始まっているので、これは大和が就役できる日をまって開戦したと見るべきでしょう。それほどの期待のなかで生まれた超弩級戦艦の大和でしたが、欧米ではそのころ航空機による戦闘が主流となっており、大和が主戦で活躍することはほとんどありませんでした。世界最大を誇る46インチ砲にしても、戦場ではその巨大な砲身が火を噴くことさえほとんどなかったと記録にはあります。(すくなくともこの46インチ砲による戦果は、大本営発表を除いてはまったく記録されていません)その後はただ動かすだけでもオイルを大量に喰うからか、あるいは巨体ゆえに目立って標的にされやすいからか、国内のドックや戦場海域の港湾で停泊していることが多く、大和ホテルと揶揄されたりもします。 大和の最期は、沖縄への海上特攻(天号作戦)のため出撃し、沖縄のはるか手前の鹿児島坊岬沖で米軍の空母から出撃した戦闘機の猛攻にあい撃沈します。一言でいえば、まったく役立たずの無用の長物であったわけですが、数々の批判や中傷を浴びせられながらそれにかかわらず多くのファンがいまもいることは事実です。それではなぜ大和は無用の長物であったにもかかわらずこれほど人気があるのでしょうか。 大和ミュージアム なにやら忙し気な呉港 港に面して建つミュージアム... Read More | Share it now!
小早川家の水軍城を竹原・忠海にたずねる
【広島県・竹原市 2023.12.14】乃美宗勝(浦宗勝とも)はもとは小早川家の本家である沼田小早川家の重臣の家系に生まれました。分家の竹原小早川に毛利家から養子入りした男児(のちの小早川隆景)が本家も併呑した両小早川家の当主になると、水軍をひきいる武将としてそこで重用されます。隆景の初陣のさいには勇猛果敢に敵勢を蹴散らして隆景に初戦の勝利をもたらし、毛利元就にとっての大戦である厳島の戦いでは村上水軍を味方に引き入れ、ここでも元就に毛利家躍進のための勝利をもたらします。その後も小早川水軍の主力として九州攻めのさいには大友軍と戦い数々の戦功をあげ、さらには織田信長が石山本願寺を囲んでいたときは、500隻ともいわれる船をひきいて木津川にむかい、待ち受ける織田方の水軍船を木っ端みじんに粉砕し、悠々石山本願寺に武器、兵糧をおさめます。最後まで武人として戦いの日々をおくりますが、最後は豊臣秀吉の天下になってのち、その秀吉の命で朝鮮出兵に隆景が出陣するのに付き従い、そこで病におかされ66歳の生涯を終えます。その乃美宗勝の居城・賀儀城(かぎじょう、鍵城とも)が、広島県竹原市の忠海といわれる地に残っています。 忠海 JR忠海駅から徒歩10分で浦床神社 浦床神社 前方に見える丘陵が賀儀城 天気がさえないのが残念です。写真で見てきた記憶では青空の下の海はエメラルドグリーンで、鳥居と合わせて絶景ポイントのはずだったのですが。 賀儀城へ 砂浜をあるいて賀儀城へ ほぼ岩の塊 船留め 登城するまえに周囲を回ってみます 城跡は公園になっているようで、ここが公園入口 公園入口はさけて、ここから上がります 城の遺構 山上というより岩上(?)に向かう この石垣と石段はいつの時代のものか不明 堀切の跡と思われます 曲輪跡 左は土塁跡ですが、右の石列は? この石列もいつの時代のものなのか? なんだこれは? 昭和か平成の作? 本丸に相当する曲輪跡... Read More | Share it now!
小早川隆景が統治の要として築いた三原城
【広島県・三原市 2023.12.14】秀吉が天下人となってから指名した五大老は、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景の五人です。毛利輝元はもちろんのこと、小早川隆景も毛利家の重臣であり輝元の叔父です。そうしてみると、秀吉みずからのこの人選はなんだかイビツに思えてきます。そもそもの発端は、秀吉が毛利氏に属する清水宗治がまもる備中高松城を水攻めにした際、その最中に秀吉の主君である織田信長が本能寺で討たれますが、そのとき秀吉と毛利軍の頭をつとめる小早川隆景のあいだで急転直下和睦がむすばれ、清水宗治はみずから切腹、こうして秀吉はメンツをつぶされることもなく、さらに毛利家に追撃されることもなく疾風迅雷の勢いで畿内へとって返し(中国大返し)、鎧袖一触のもとに逆臣・明智光秀を討ち取ってしまいます(山崎の戦い)。そこから秀吉は一気に天下人へと駆け上がるのですが、このあたりの経緯があまりにも出来過ぎており、筋書きがあったのではないか、さらに突っ込んで言えば秀吉と隆景とのあいだに密約があったのではないかとさえ考えてしまいます。秀吉が天下統一に邁進するとともに、毛利家そのなかでも小早川隆景にたいする秀吉からの優遇は誰の目からもあきらかです。四国平定がすむと伊予一国をあたえ、九州平定を終えると筑前、筑後、さらに肥前の一部のあわせて37万石を加増しようとします。 三原城 三原城の天守台へ上がるには、駅の構内を抜ける 駅の建物から出ると、まずこの石垣が目にとび込みます 天守台の前方まで歩いてふり返ると、後方に駅のホームが 三原城は港湾に接してもいれば、海水を引きこんだ水路で周囲をかこみ、平城とも海城ともいえる、しかもずいぶんと大きな巨城だったようです。そのため終戦後市街地の整備をする際にも、三原城の遺構をすべて残すとなると市街地化の整備が進まず、かと言って歴史保存のためにいくらかは残さねばならず、結果として天守台だけをのこし、さらにその天守台も一部は駅のホームの下にのこる、という大胆な案を採用したようです。 街中にあった当時の三原城の縄張と、現在を重ねた図 そこでこのような不思議な光景が出現します... Read More | Share it now!
毛利家の智将・小早川隆景が築いた新高山城
【広島県・三原市 2023.12.14】戦国時代に西国の雄と名をはせた毛利家、その基礎を築いた毛利元就が、長男・隆元、次男・元春、三男・隆景の三兄弟に一本ずつの矢を持たせ、一本の矢ならたやすく折れるが、3本まとまると折れにくいと諭し、そこから3人が力をあわせて毛利家をまもってゆくよう訓(おし)えたのが、有名な「三矢の訓:みつやのおしえ」です。三兄弟はその後、隆元は嫡男ゆえ家督をつぎ(41歳で急逝したため嫡男の輝元が跡を継ぐ)、元春は母方の実家である吉川(きっかわ)家に養子入りします。三男の隆景ですが、当時いまの三原市に隣接する竹原市一帯に地盤をもっていた、竹原小早川家の当主・小早川興景が急死、実子がいなかったため、興景の妻が元就の兄の娘(すなわち隆景の従姉妹)という縁もあって、そこに養子入り、やがて元服して自身が当主となります。ここまでは生臭くもキナ臭くもないのですが、そのあとはさずが謀略の毛利の真髄を見せてくれます。小早川家でも三原に地盤をもつ本家の沼田(ぬた)小早川家の当主・小早川繁平は生まれながらに病弱であったためそこにつけこみ、毛利元就は無理やり繁平を出家させ、さらに繁平の妹を隆景の嫁にすることで、沼田小早川家を乗っ取り、竹田小早川家と併合してしまいます。もともと沼田小早川家が本城としていたのが高山城であり、その西側に向かい合うようにそびえる山に両小早川家の当主となった隆景があらたに築いたのが新高山城です。(『三矢の訓』の逸話が後世の創作であることは今ではよく知られていますが、元就が三兄弟に協力して毛利家を守ってゆくよう訓えたのは事実で、その時の状況をこの逸話ほど鮮やかに描写しているものはないので、今もかわらず引用されているようです) 新高山城へ 新高山城と高山城をのぞむ はじめに、この城をみた後からたずねた隆景の菩提寺である米山寺へと登る道から、新高山城(左の山)と高山城(右の山)を望見し撮影した写真を掲載します。ふたつの山の間には河が流れており、これは沼田川(ぬたがわ)とよばれています。沼田小早川というぐらいですから昔からの呼び名なのでしょう。 新高山城のある山を麓からのぞむと、ずいぶん険しい 標識や案内板は整えられています 新高山城 整備後の新高山城のイメージ図 山道を登ります... Read More | Share it now!
広島城を見て歩く
【広島市 2022.11.8】中国地方の覇者・毛利元就は亡くなる前、嫡男の隆元が若くして急逝していたため孫の輝元に家督を譲ります。そのとき輝元はわずか11歳、そこで亡き父・隆元の弟である吉川元春、小早川隆景の補佐を受けることになります。(元春は元就の次男で吉川家に養子入りし吉川家当主となり、隆景は三男で小早川家に養子入りし小早川家当主となっていました)毛利輝元は祖父・元就の遺言をまもり、二人の叔父に支えられながら天下をねらう野心はもたず、逆に天下をねらうゆえ中国の地を侵そうとする者には威厳をもって対抗します。織田信長、そして信長の命をうけて備中へと侵攻する羽柴秀吉との衝突は避けられませんでした。その輝元が信長の没後に天下をほぼ手中にした秀吉から中国9ヶ国120万石の領有を認められ、交通の要衝であった太田川の三角洲に新たな城を築いて郡山城から本拠地を移します。これが広島城です。その後は関ヶ原の合戦で西軍が敗れたため、その西軍の総大将にまつりあげられていた輝元は周防・長州2ヵ国に減封、結果として広島城を明け渡すことになります。広島城に城主として在任したのはわずか9年間に過ぎませんでした。そのあとには秀吉子飼いで豊臣家恩顧の大名でありながら、石田三成との確執などから徳川家康にしたがった福島正則が城主となります。しかしその正則も城を修繕したことに対して難癖をつけられ信濃へと減封のうえ体よく追いやられます。こちらは19年間の在任でした。このあと恒久的に城主となるのが浅野家です。浅野長政は豊臣家5奉行の1人でしたが、秀吉の死後影の実力者となった北政所(寧々)と兄妹関係にあり(長政は浅野家の婿養子で家督をつぎ、寧々は浅野家の養女で秀吉に嫁ぐ)、関ケ原の合戦が実質的には、豊臣家&淀君... Read More | Share it now!
因島水軍城を見て歩く
【広島県・尾道市 2022.11.7】かつて瀬戸内海の、安芸(現・広島)と伊予(現・愛媛)にはさまれた一帯を支配していた村上水軍と呼ばれる海賊衆がいました。南北朝時代に起源をもち、室町時代に勢力をひろげて行きます。やがて3家にわかれ、それぞれ本拠地とする島名を冠して、能島村上家、因島村上家、来島村上家と呼ばれます。やっていたことは海峡を関所にみたて、そこを通過する船から通行税を取り立てることゆえ、地元では海賊ではなく管理者であるとの見解もあるようですが、まず幕府から認められた守護職ではなく、通行税を払わずに運航している船に対しては容赦なく急襲、略奪を行なっているのですから、やはり海賊に近いでしょう。しかし戦国時代になると各地でより大きな勢力をもつ大名が勃興し、村上水軍も単独で生き残ることが難しくなってきます。村上3家の中で、もっとも目立って歴史に名を残したのが因島村上家です。毛利家に臣従し、毛利が織田信長と激突する摂津の戦いでは、毛利からの命で摂津の地で籠城する石山本願寺へ海上から兵糧を運び入れる役をうけもち、それを阻止せんと待ち受ける織田軍の船を完膚なきまでに打ちのめし、みごとに大役を果たします。(ただし2度目には、信長がつくらせた鉄板張りの巨船に迎撃され、反対に木っ端みじんに蹴散らされてしまいます)織田家も豊臣家も戦国時代の激動の中で滅亡して行きますが、臣従していた毛利家は江戸時代をとおして存続したため、因島村上家も長州藩の船手組として生き残ります。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 因島水軍城 駐車場のある麓から見上げる さて村上水軍城ですが、地元の観光案内には「日本唯一の水軍城」とうたっているものの、もともとこの場所に城はありませんでした。家臣の住居があった地に、「村上水軍史料館」を城郭風の建物としてつくったというのが実情です。 ここだけ見ると、まずまずの雰囲気ですが、 全体を見ると、まるで粗大ゴミ捨て場? 城門ではなく、山門となっていました 隅櫓 本丸に相当する建物 /... Read More | Share it now!
歴史の舞台・鞆の浦を見て歩く
【広島県・福山市 2022.11.7】鞆の浦の名は古くは7~8世紀に編まれた万葉集に登場します。「我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」大伴旅人が歌ったものです。我妹子とは私の妻、妻がかつて見た鞆の浦のむろの木は変わらずあるけれど、その妻はいまはもういない、という意味になりますが、この歌から大伴旅人は鞆の浦をすくなくとも2度以上訪れていることがわかります。鞆の浦の沖では満潮時には潮流がぶつかり、干潮時にはそこを境に潮が別方向に引いてゆくため、過去には潮待ちの港として栄えたそうです。室町時代の前の南北朝時代にはこのあたり一帯で南朝と北朝の合戦があり、さらに室町時代の終焉の戦国時代にになると、織田信長とともに上洛し15代将軍(室町幕府最後の将軍)となった足利義昭が信長に追放され、毛利氏をたよってこの地に流れつき、「鞆幕府」をひらきます。この鞆幕府は世間的には認められませんでしたが、足利義昭は当時はまだ将軍の地位についており、将軍が宣言したのであれば法的(?)にはその地が幕府といって言えないことはありません。その後も江戸時代末期、鞆の浦沖で海援隊の船・いろは丸が紀州藩の船と衝突して沈没、その賠償交渉のため坂本龍馬が短期間ですが滞在した史実もあれば、最近では宮崎駿制作の「崖の上のポニョ」の舞台になり、「男たちの大和」や「流星ワゴン」など多数のドラマのロケ地として使われています。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 鞆の浜(?) 防波堤越しに... Read More | Share it now!
福山城を見て歩く
【広島県・福山市 2022.11.6】築城400年を記念して大規模改修をおこなっていた福山城が、工事を終え今年8月から一般公開されたこともあって訪ねてみることにしました。福山城の最大のポイントは、日本において本格的に築城された最後の近代城郭ということです。江戸時代初期、徳川家康のいとこである水野勝成が10万石をあたえられ大和郡山より転封されます。目的は毛利家をはじめとする西国大名に対する抑えであり、そのため所領10万石とはとても思えない巨城を築くことになります。その偉容で牽制しようと考えてのことでしょう。福山市の観光ガイドにうたう「日本城郭の最高到達点であり最高傑作」というキャッチコピーには首をひねりますが、最後につくられた城だからこそすべての技術を集結した完成形と考えるなら、根拠のないものではないのでしょう。構造としては本丸のまわりを二の丸、さらに三の丸が取り囲む連結式の平山城で、石垣は本丸に進むにしたがい3段階により高く積み上げられた、一ニ三(ひふみ)段とよばれる縄張りになっています。多数の門や櫓が京都の伏見城から移築されその優美な姿を伝えていましたが、第二次大戦時の空襲で、伏見櫓と筋鉄御門をのぞくすべてが焼失してしまいます。1966年に天守、月見櫓などを鉄筋コンクリート造りで復元、さらに今回築城400年を記念して大規模改修が行われました。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 福山城 JR福山駅からすぐ目の前がお城です 繁華街がひろがる福山駅南口側から駅舎をぬけて北口を出ると、びっくりするほどすぐそばに福山城はあります。 東坂口門より入ります 空襲でくずれた石垣をくみ直し虎口を再現しています 天守をのぞむ 月見櫓をのぞむ 天守 天守へ 天守(東面) 天守(北面) 天守(北面と西面) 天守(西面) 天守(南面) 天守のまわりを一周すると、北面だけが黒いことがわかります。これは天守の北側は砲撃をうけたときに砲弾がとどく可能性があり、その弱点をカバーするために鉄板を北面全体にはり付けていたそうです。1966年の復元工事では鉄板はなかったそうですが、今回の修復工事では鉄板の復元もおこないました。なお蛇足になるかもしれませんが... Read More | Share it now!