【奈良県・天理市~桜井市 2023.3.27】奈良県にある「花の寺」とも呼ばれる長谷寺で、桜が満開とのこと。桜大好き人間としては早速訪れてみようと企画をはじめました。長谷寺探訪だけでは物足りないので、天理市の昨秋歩いた「山の辺の道」の途上にある長岳寺横から入山し、真東に上って龍王山に登頂、そこから南東にくだって長谷寺を訪ねるルートを組んでみました。 龍王山へ 黒塚古墳から満開の桜と龍王山を眺める 崇神天皇陵... Read More | Share it now!
京都で桜を見てあるき(八坂神社~知恩院~高瀬川)
【京都市・東山区~中京区 2023.3.25】待ちに待った桜の季節がやってきました。ところが毎年のことですが、桜が満開となると天気が不安定になる。関西では京都市内がもっとも早く桜が見ごろを迎えるのですが、東山界隈では満開になったとネットで確認しているものの、このところずっと空はぐずつき模様。今日はなんとか降らずにもちそうですが、明日は本降りとのことなので、万一にもその雨で桜が散ってはと心配になり、それこそ慌てて出かけることにしました。 八坂神社 四条通を東へすすむと、西楼門が見えてきます 京都観光のランドマークにもなっている西楼門 本殿と舞殿(手前) 舞殿は神前結婚の式の準備中でした 本殿の屋根が拝殿を覆う 八坂神社は本殿の屋根庇が前にのびて、拝殿もすっぽり覆ってしまう独特の構造をしています。 ところでこの八坂神社は素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祭神として祀っていますが、インドの祇園精舎の守護神である牛頭天王(ゴズテンノウ)と同一視されたことから、祇園寺と呼ばれていました。八坂神社と呼ばれるようになったのは、明治維新のさいに神仏分離令がだされ、単体の神社になってからのことです。いまは全国に約3000社ある八坂神社の総本社です。 南楼門(内からみています) 摂社、末社がならぶ東側... Read More | Share it now!
箕面大滝から最勝ヶ峰へ登ってみる
【大阪府・箕面市 2023.3.19】最勝ヶ峰(さいしょうがみね)は大阪府最北部の、京都との府境近くにあります。桓武天皇の兄(異母兄?)開成皇子が建立した彌勒寺を基とする勝尾寺(かつおじ)が山麓にあり、その皇子の墓が山頂にあるので、本来は勝尾寺をたずねてそこから開成御墓をめざして登山をはじめるのが一般的です。先日、名物の猿を最近はすっかり見なくなったという話を箕面に住む人から聞き、あんなにわんさかいた猿がいなくなるものなのかと半信半疑だったのですが、ここはひとつ猿の確認もかねて久しぶりに箕面の滝を見にゆこうと決めました。そこで(猿がいないのであれば)見学は滝のみということになり、あまりに物足りないので箕面大滝の側から最勝ヶ峰にのぼり、勝尾寺へくだるコースを企画しました。 箕面滝道 阪急箕面駅から箕面大滝までは2.8km 渓流沿いのおだやかな登り道、箕面滝道を歩きます 箕面山を仰ぎ見て 渓谷を見下ろして 箕面大滝 滝が見えてきました 年間訪問者200万人の人気スポット 箕面滝は、その姿が身につける蓑(みの)に似ていることからその名がつき、さらに滝の名から地名にもなったと言われていますが、真偽のほどはわかりません。蓑というならもうすこし滝そのものの幅が欲しいし、逆にこれで蓑というなら日本中すべての滝が蓑滝になってしまうし。岩肌の様子から推測すると、大雨のあとなど水量がぐっと増えたときには水流の幅がひろがるのでしょうか。ところで肝心の猿ですが、たしかに影も形もありません。かつてはここに到るまでの滝道にもしゃがみ込んで、観光客の荷物(おもに食べ歩く飲食物)にちょっかいを出し、それがもとで怪我をするなどの被害が多い時には届けがでるだけでも年間100件、200件とあったそうですが。 政の茶屋園地へ 滝を横に見ながら坂道をのぼると車道に出てきます。この先に駐車場があって、そこに車を止めて坂を下れば楽に滝までいけます。以前はこの辺りは歩道にも車道にも猿がゴロゴロいたのですが、まったくいません。実は、保護するはずの猿による被害が深刻なため、餌場を山中に移して猿の大移動を行ったようです。箕面山の猿についてhttps://www.city.minoh.lg.jp/bunkazai/nihonzaru.html 駐車場をすぎると、ぐっと山深くなります 政の茶屋園地は、東海自然歩道の西の起点です 東海自然歩道 岩場の急坂もあれば 丸太階段もあります 椿咲く春なのに♪と鼻歌まじりに歩けるかと思うと 岩ゴロゴロで、鼻息が荒くなるところもあります 最勝ヶ峰・開成皇子の墓 開成皇子の墓 最勝ヶ峰のピークは木立の中に方位盤が設置されているだけで、眺望もありません。そこから回りこむと、開成皇子の墓の正面に出てきます。 勝尾寺 道を一気に下って行くと、勝尾寺の伽藍が 本堂 多宝塔をのぞむ 勝尾寺をご存じない方には、赤い小さなものが何なのか見当つかないかもしれません。勝尾寺は「勝王寺」であったとも言われており、勝運の寺として信仰されてきました。近年(というよりも最近)になって、よりひろく受け入れられるようにとの意図もあったのでしょうか、「勝尾寺のいうところの勝つとは、他者を負かすことではなく転んでも起き上がり己に勝つことである」と、方向転換(?)したようで、今では「勝ちダルマの寺」といわれるようになっています。 それゆえ御神木もダルマが囲み 土塀にもダルマ 厄払い三法荒神社にもダルマ 鎮守堂に至っては全面がダルマ 前庭には梅の花が残っていました 今回、勝尾寺ではたいへん申し訳ないことをしてしまいました。というのは勝尾寺を参詣して最勝ヶ峰に登るのであれば、まず勝尾寺受付で拝観料(入山料)500円を払うのですが、最勝ヶ峰から下りてきて勝尾寺へは裏から入ったため拝観料を払わずに見学してまわり、そのまま帰途についてしまいました。このブログを書いていて、拝観料のことに思い至った次第です。もともと己に甘い人間なので、己に克つ勝ちダルマの御利益はなくても構いませんが、けっして意図して踏み倒したのではありませんので、なにとぞご容赦ください。 【アクセス】阪急箕面駅~箕面滝道~箕面滝~政の茶屋園地~最勝ヶ峰~勝尾寺~阪急千里中央駅... Read More | Share it now!
伏見稲荷大社から泉涌寺へと見て歩く
【京都市・伏見区~東山区 2023.3.14】京都伏見区にある伏見稲荷大社は、外国人による訪れたい日本の観光スポットでここ数年ずっと1位の座を保っています。なんといっても朱色の千本鳥居が写真映えするため、SNSで紹介されまくっているのだと思いますが、千本鳥居だけでなく、あまり観光客が立ち寄らないところにも、それはそれは素晴らしいスポットがあります。 伏見稲荷大社はスサノオノミコトの子である宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)を主祭神としています。宇迦とは食べ物のことで、おもに稲(米)をさします。その稲の御魂ということですから元は農耕の神だったと考えられます。時代とともに神様のパワーはアップするだけでなく、マルチになってゆくもので五穀豊穣、商売繁盛、さらに安産、万病平癒、学業成就など幅広く受け入れてくれます。そのマルチゆえなのか、稲荷神社は全国8万1千余あるといわれる神社の中でもダントツ1位の3万社を有し、その3万のなかの総本社が伏見稲荷大社です。 楼門、拝殿、本殿 表参道から楼門へ 楼門 外拝殿と本殿 お守り鳥居... Read More | Share it now!
梅が見ごろの、石山寺を訪ねてみる
【滋賀県・大津市 2023.3.8】琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川のほとりに鎮座する石山寺は、季節ごとに様々な花で彩られ、「花の寺」として知られています。いまは梅が見ごろということで、さっそく出かけてみることにしました。 東大門から本堂へ 仁王像のたつ東大門... Read More | Share it now!
智積院で加藤清正、山科で大石内蔵助、意外な歴史探訪
【京都市・東山区~山科区 2023.3.3】京阪電車・七条駅から東山へ、三十三間堂と国立博物館の間を抜けたところに智積院(ちしゃくいん)はあります。智積院は僧・覚鑁(かくばん)が高野山から分かれて創建した根来寺の塔頭寺院でしたが、根来寺が秀吉による根来衆攻めで焼失したため、のちに当時の住職・玄侑(げんゆう)が秀吉の死後すぐに家康の援助をえて京都において再興したものです。さらに時をへて隣接してあった、豊臣家ゆかりの祥雲寺を吸収合併するようなかたちでひとつになり、ひときわ規模の大きな寺院になります。さて豊臣秀吉の後継者として大阪冬夏の陣で歴史に登場する秀頼より前に、秀吉には跡取りとなるはずであった長男がいました。幼名を鶴丸といい、やはり淀君との間にできた男子ですが、この子は3歳にして亡くなってしまいます。祥雲寺はその鶴丸を弔うために秀吉が悲嘆のうちにつくらせた菩提寺でした。そのため今の智積院は、真言宗寺院であり鶴丸の菩提寺でもあるふたつの顔を持っています。 智積院 金堂 金堂 白梅 紅梅 紅白梅 ちょくちょく見かける、同じ木に赤と白の梅が混ざって咲く紅白梅(源平梅ともいう)ですが、これは本来は紅梅であったはずのものが、紅くなる色素が不足して白く咲いてしまうためだそうです。 なお智積院の梅は、満開には1~2週間早かったようです。 智積院と加藤清正 扉の上部・緑地に金の桔梗紋 智積院の随所には「桔梗紋」が見られます。桔梗紋といえば、明智光秀の家紋として知られていますが、これは明智家独自のものではなく、美濃・土岐氏の由緒ある家紋です。それゆえ土岐氏につながる武将はそれぞれにこの桔梗紋をつかっており、ここでは意外なことに加藤清正が関係してきます。徳川家康の援助でこの智積院が再興されたことは先に書きましたが、そのさい家康は清正に寺の普請を命じます。清正も土岐氏の系譜だったようで、清正といえば「蛇の目」の家紋が有名ですが、そちらは軍事のさいにつかい、家屋敷にはこの桔梗紋を使っていますそのような歴史があって智積院の寺紋が桔梗紋になったようです。 元祥雲寺・客殿の庭 客殿の障壁画(レプリカ) 往時はこの壁面を長谷川等伯の「楓図」と、その息子・久蔵の「桜図」が飾っていました。いまは境内にある宝物館に移して大切に保管されていますが、残念なことに4月まで宝物館改築(新築?)のため休館中でした。 法住寺 山門 境内 ここにも梅が咲いていた 法住寺は「身代わり不動明王像」で有名です。その名のとおり不動明王が身代わりになって災厄から護ってくれるというもので、公家や武家もこぞって崇めてきました。その中でも有名なのは、忠臣蔵でしられる大石内蔵助が吉良邸討入をまえにたびたび参拝し大願成熟させたとのことで、いまはその忠臣蔵四十七士の木像が安置されています。 それではこれで東山を離れ、さらに東へあるいて山科へ向かいます。 山科・大石神社 山科への近道は、走る車も少ない坂道を上がり、 峠を越えると1時間ほどで着きます/... Read More | Share it now!
和歌浦天満宮で梅をめで、和歌の浦をあるく
【和歌山市 2023.2.27】菅原道真を祀るのが全国に12000もあるといわれる天満宮と天神社ですが、そのなかで三大天満宮(天神社)となると、京都の北野天満宮と福岡の太宰府天満宮を別格として、のこる一枠をいくつかの宮社が、われこそはと自称自薦しています。和歌山市にある和歌浦天満宮もそのひとつで、自称する理由は、菅原道真が太宰府に左遷されて赴くさいに、途中で暴風をさけるため当地に船を停め、ここで和歌の浦をながめながら歌を詠んだからということです。なにやら貧弱な理由ですが、そもそも三大天満宮であるかないかよりも、その和歌浦天満宮に植えられた梅が見ごろを迎えているとのことなので、その梅をを見るために訪ねてみることにしました。 和歌浦天満宮 全景 見事な枝垂れ梅 楼門へ向かって石段をのぼる 楼門から見下ろす... Read More | Share it now!
東京にて、忠臣蔵ゆかりの地を見て歩く
【東京都・千代田区他 2023.2.18】昨秋会社をしめる際に、外出を控える世間の空気もあり直接会って挨拶することなく付合いが絶えてしまった得意先や同業者の方々がいました。そこで、かつて自分も出展していた大規模な展示会がいま東京で行われているので、そこへ行けば幾人かとは確実に会えると考え、3年ぶりに東京へ行くことになりました。仕事の続きみたいなものですが、すでに会社がないので交通費を経費で落とすわけにもいかず、それならば一泊して、いま興味を持っている忠臣蔵に関係した地を回ってみるのはどうか。ということで、かつて使っていた東品川、大崎あたりのホテルは高いので(ネットで調べると、なぜかコロナ前よりも3割程度上がっていました)、両国に安いビジネスホテルを見つけて、そこからスタートすることにしました。 吉良邸跡 吉良邸跡... Read More | Share it now!
建国記念の日に、橿原神宮へ参詣する
【奈良県・橿原市 2023.2.11】天照大神を先祖にもつ神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)は45歳のときに日向の国を発ち、途中吉備の国に3年ほど滞在して軍容をととのえ、ここから本格的に東征を開始します。難波、熊野と回って大和に入り、数々の戦いをへてついに大和の国を平定。そして畝傍山(うねびやま)の麓、橿原宮にて初代天皇に即位します。これがのちの神武天皇です。なおこの年が西暦では紀元前660年ですが、日本において神武天皇即位を基準にした紀元ではこの時が元年となり、西暦2023年の今年は皇紀2683年にあたります。神武天皇については、即位したのが50歳(51歳?)のとき、そして76年間在位したとのことなので亡くなったのは126歳(127歳?)ということになり、伝説の域をでません。しかし古事記にはじまる神々の伝説が、日本書紀にかわって天皇の系譜をつたえるようになり、ちょうど日本の歴史が「言い伝え」から「史実」に移行するあたりに位置するため、神武天皇こそが最初の天皇と考えられるようになったのではないでしょか。史実として確かなことは、平安時代には同地に神武天皇の陵墓があったと記録されています。そして明治23年(1890年)に神武天皇と皇后を主祭神として橿原神宮が建立されます。神社の社格としては勅祭社になります。勅祭社とは例祭のときに天皇からの勅使(天皇の代理ですが、天皇に等しいものと位置づけられます)が派遣される、全国に現在16社しかない別格の神社のことです。そして神武天皇が即位したのは旧暦の1月1日、これは新暦の2月11日にあたるため、今日が橿原神宮の例祭の日であり、この例祭は紀元祭と呼ばれています。建国記念日に、紀元祭をおこなう橿原神宮に参詣してみます。 橿原神宮・表参道から西参道 橿原神宮前 予想どおり右翼の関係者がどっと参集していました。しかし街中でみる大音量の街宣はもちろんなく、低音量で君が代を流しながら静かに車列が流れてゆきます。自分自身が45度くらい右寄りなので、こういった静かな活動であれば、なんら抵抗はありません。 第一鳥居 神橋から第二鳥居 表参道から入りましたが、さきに西参道へ抜けてみます 西参道は深田池にそって続きます 途中に長山稲荷社があります 神饌田... Read More | Share it now!
名古刹・室生寺をたずねて室生古道をあるく
【奈良県・宇陀市 2023.2.9】奈良県の東寄りにある宇陀市は、山間にひろがる町や村で穏やかな生活が営まれている、そんな印象の土地です。ここに室生寺という寺院があります。古い歴史をもつゆえ古刹であり、知る人ぞ知るという意味では名刹ともいえます。起源はふるく、奈良時代に桓武天皇が皇太子のころ病をわずらい、その病気治癒の祈願をこの地でおこない健康を回復したことから寺院の建立が始まったと伝わっています。(他にも起源説はありますが、この話がいちばんスッキリしています)平安時代から室町時代にいたるまでは、現在の奈良市奈良公園のかたわらにある興福寺の末寺(または別院)としてその傘下にあったようですが、江戸時代になってしだいに高野山・真言宗の密教色が濃くなってゆきます。おそらくは経済的な問題ではないかと思われますが、元禄時代になり、当時の江戸につくられた護国寺に拝領されることになります。(要するに親が興福寺から護国寺にうつる)護国寺は、桂昌院が息子である綱吉(お犬様で有名な5代徳川将軍)にせがんでつくってもらった真言宗の寺です。桂昌院からの多額の寄進により大々的に改修を行うこともでき室生寺は再生します。ここにおいて正式に真言宗寺院へと宗派替えしますが、同時に高野山・金剛峯寺が女人禁制であったのに対して、ここ室生寺は女性の桂昌院が最大の支援者であったこともあり、女人も自由に参拝できるようになります。そのため「女人高野」の別称があります。ところで室生寺には東西南北に4門があり、その4門にかこまれた一帯が聖域とされていたそうですが、いまも南門の佛隆寺から室生寺へ、さらに西門の大野寺へとつづく道が室生古道として残っています。今日は、その室生古道を歩きに行きます。 伊勢本街道をあるいて佛隆寺へ 川沿いに南へあるく JR榛原駅から佛隆寺まではバス便もありますが、本数が少ないので5kmほどの道のりですから、歩いて行くことにしました。なお今歩いている道は、元・伊勢本街道になります。 佛隆寺への道標と、伊勢本街道をしめす石柱 ここで、右へそれる伊勢本街道とわかれます 佛隆寺へは緩やかな坂を登って行く 佛隆寺に到着。この長い階段を上ると境内 佛隆寺 本堂(手前)と白石神社(右奥) 左にみえる十三重石塔は重要文化財だとか 堅恵上人がここにこもって修行した石室... Read More | Share it now!