街歩き・山歩き,神社・仏閣,奈良

【奈良県・橿原市 2023.2.11】天照大神を先祖にもつ神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)は45歳のときに日向の国を発ち、途中吉備の国に3年ほど滞在して軍容をととのえ、ここから本格的に東征を開始します。難波、熊野と回って大和に入り、数々の戦いをへてついに大和の国を平定。そして畝傍山(うねびやま)の麓、橿原宮にて初代天皇に即位します。これがのちの神武天皇です。なおこの年が西暦では紀元前660年ですが、日本において神武天皇即位を基準にした紀元ではこの時が元年となり、西暦2023年の今年は皇紀2683年にあたります。神武天皇については、即位したのが50歳(51歳?)のとき、そして76年間在位したとのことなので亡くなったのは126歳(127歳?)ということになり、伝説の域をでません。しかし古事記にはじまる神々の伝説が、日本書紀にかわって天皇の系譜をつたえるようになり、ちょうど日本の歴史が「言い伝え」から「史実」に移行するあたりに位置するため、神武天皇こそが最初の天皇と考えられるようになったのではないでしょか。史実として確かなことは、平安時代には同地に神武天皇の陵墓があったと記録されています。そして明治23年(1890年)に神武天皇と皇后を主祭神として橿原神宮が建立されます。神社の社格としては勅祭社になります。勅祭社とは例祭のときに天皇からの勅使(天皇の代理ですが、天皇に等しいものと位置づけられます)が派遣される、全国に現在16社しかない別格の神社のことです。そして神武天皇が即位したのは旧暦の1月1日、これは新暦の2月11日にあたるため、今日が橿原神宮の例祭の日であり、この例祭は紀元祭と呼ばれています。建国記念日に、紀元祭をおこなう橿原神宮に参詣してみます。 橿原神宮・表参道から西参道 橿原神宮前 予想どおり右翼の関係者がどっと参集していました。しかし街中でみる大音量の街宣はもちろんなく、低音量で君が代を流しながら静かに車列が流れてゆきます。自分自身が45度くらい右寄りなので、こういった静かな活動であれば、なんら抵抗はありません。 第一鳥居 神橋から第二鳥居 表参道から入りましたが、さきに西参道へ抜けてみます 西参道は深田池にそって続きます 途中に長山稲荷社があります 神饌田... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,奈良

【奈良県・宇陀市 2023.2.9】奈良県の東寄りにある宇陀市は、山間にひろがる町や村で穏やかな生活が営まれている、そんな印象の土地です。ここに室生寺という寺院があります。古い歴史をもつゆえ古刹であり、知る人ぞ知るという意味では名刹ともいえます。起源はふるく、奈良時代に桓武天皇が皇太子のころ病をわずらい、その病気治癒の祈願をこの地でおこない健康を回復したことから寺院の建立が始まったと伝わっています。(他にも起源説はありますが、この話がいちばんスッキリしています)平安時代から室町時代にいたるまでは、現在の奈良市奈良公園のかたわらにある興福寺の末寺(または別院)としてその傘下にあったようですが、江戸時代になってしだいに高野山・真言宗の密教色が濃くなってゆきます。おそらくは経済的な問題ではないかと思われますが、元禄時代になり、当時の江戸につくられた護国寺に拝領されることになります。(要するに親が興福寺から護国寺にうつる)護国寺は、桂昌院が息子である綱吉(お犬様で有名な5代徳川将軍)にせがんでつくってもらった真言宗の寺です。桂昌院からの多額の寄進により大々的に改修を行うこともでき室生寺は再生します。ここにおいて正式に真言宗寺院へと宗派替えしますが、同時に高野山・金剛峯寺が女人禁制であったのに対して、ここ室生寺は女性の桂昌院が最大の支援者であったこともあり、女人も自由に参拝できるようになります。そのため「女人高野」の別称があります。ところで室生寺には東西南北に4門があり、その4門にかこまれた一帯が聖域とされていたそうですが、いまも南門の佛隆寺から室生寺へ、さらに西門の大野寺へとつづく道が室生古道として残っています。今日は、その室生古道を歩きに行きます。 伊勢本街道をあるいて佛隆寺へ 川沿いに南へあるく JR榛原駅から佛隆寺まではバス便もありますが、本数が少ないので5kmほどの道のりですから、歩いて行くことにしました。なお今歩いている道は、元・伊勢本街道になります。 佛隆寺への道標と、伊勢本街道をしめす石柱 ここで、右へそれる伊勢本街道とわかれます 佛隆寺へは緩やかな坂を登って行く 佛隆寺に到着。この長い階段を上ると境内 佛隆寺 本堂(手前)と白石神社(右奥) 左にみえる十三重石塔は重要文化財だとか 堅恵上人がここにこもって修行した石室... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,和歌山

【和歌山県・高野町 2023.2.1】高野山の寺院を回るのであれば、冬の雪に埋もれた風景が一番美しいと思います。また参拝客や観光客も少なくなるので、静かで厳かな空気を心ゆくまで楽しむができます。ときには、千数百年の歴史がたしかに今そこにあると感じられる至福の瞬間に身をゆだねることができるかもしれません。絶対おすすめの、雪の高野山を訪ねてみます。高野山の歴史については、昨年お盆にたずねた際に『aruku-52 夏の高野山をたずねて歩く』のなかで簡単にですが書きましたので今回は省略します。『夏の高野山をたずねて歩く』https://yamasan-aruku.com/aruku-52/... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,佐賀

【佐賀県・鹿島市 2023.1.20】サッカーチームの鹿島アントラーズがあるのは鹿嶋市で、茨城県南東部一体の「鹿行:ろっこう」あるいは「鹿島」とよばれる地域の5つの市をホームタウンとしていることから、鹿島アントラーズと表記しているのではないかと推測します。その鹿嶋市とはまったく別に、佐賀県南部に鹿島市があります。ところが日本三大神宮である鹿島神宮は、この鹿島市ではなく茨城県の鹿嶋市にあるので話はややこしくなります。では佐賀県の鹿島市はどうかというと、鹿島○○とは称しませんが、年間参詣者数300万人をかぞえる祐徳稲荷神社があります。さてこの祐徳稲荷神社ですが、ホームページ上でも、また鹿島市観光協会の案内でも「日本三大稲荷」と明記しています。日本三大稲荷と言えば、総本社である伏見稲荷大社は別格として、笠間稲荷神社(茨城県)と豊川稲荷(愛知県)を2番目3番目に並べるのが妥当でしょう。祐徳稲荷神社が自称しているのだとしても、なにを根拠に自称しているのか、訪ねてみることにしました。 祐徳稲荷神社へ 参道を進みます 錦波川をへだてて神社を見る 境内へ入る手前にある「神橋」 「稲荷神」はもとは稲を象徴とする穀物および農耕の神様ですが、いまでは五穀豊穣だけでなく商売繁盛、家内安全、病気平癒、恋愛成就、開運、金運、子宝、安産、等々生活全般にわたってマルチに御利益のある、ありがた~い神様です。 鳥居をくぐる D神池をわたる... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,佐賀

【佐賀県・伊万里市、有田町 2023.1.19】有田焼と伊万里焼は違うのかというと、むかしは同じもの、いまは違うものということになります。江戸時代には現在の有田周辺は磁器の一大生産地でしたが、出来上がったものを伊万里の港から輸出していたため伊万里焼と呼んでいたようです。(雑学の余談ですが、イランで採れた青い石をトルコを経由して欧州へ運んでいたたためその石をトルコ石とよびます。これと同じ発想です)やがて明治時代になると、生産地を重視するようになり有田で焼かれた磁器は有田焼、伊万里のおもに大川内山で焼かれたものは伊万里焼と呼ばれるようになります。同時に江戸時代の有田産の磁器は古い伊万里焼ということで古伊万里とよばれます。 大川内山 町の地図も磁器製、もちろん伊万里焼 伊万里焼の窯元があつまる大川内山にきました。ここに興味をもったのはネットでひょっこり街並みを紹介する画像を見たことに始まります。 ネットで見たのはこの橋の画像でした 素人がスマホで撮影ではあまり魅力が伝わりませんか 河原に下りて橋を見ると、こんな感じです ずいぶん手を加えた歩道ですが、気持ちよく歩けます 風鈴ではなくベルで、近づくと鳴ります 焼物(陶器)は大きく陶器と磁器にわけられます。陶器は長石という石の成分がすくない陶土を中高温で焼くため肌のあらい素朴な仕上がりとなり、磁器は逆に長石の多い磁器土を高温(1300度)で17時間以上焼くため、硬く丈夫で肌のなめらかな仕上がりとなります。また磁器土はもとが白いため染付、絵描きするのにも向いています。 街の通りは店舗や窯元など、大半が伊万里焼関係 途中に登り窯がありました 高台からこじんまりした街をのぞむ 川岸の側面に伊万里焼がびっしり 高台(展望台?)から町へもどる 今回の旅行は、家内と同伴しており、それほど長距離は歩けないので、レンタカーを借りて移動し、ポイントごとに散策しています。 伊万里 伊万里駅前... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,岐阜

【静岡市 2023.1.12】山から下りて静岡市街につくと、さっそく駿府城を訪ねてみました。ここは徳川家康にとって(政治的、軍事的に)重要である以上に、お気に入りの土地だったのではないでしょうか。そもそも家康は三河の人ですからいまの岡崎、浜松あたりを拠点にしていました。家康は信長とともに武田氏を滅ぼすと、その所領であった駿河の領有をゆるされ、さっそくいまの静岡市に城をつくりはじめます。この辺りには、ずっと時をさかのぼれば今川氏の城がありましたが、それは防御機能もそなえた館ていどのもので、家康は今川氏の城を改修増築したのではなく、まったく新しく築いたとみるべきでしょう。やがて秀吉の時代になり、家康はさまざまな思惑から関東地方へ転封されます。そのとき築いたのが江戸城であり、江戸城を居城としている時期に天下人となりますが、じきに征夷大将軍の位だけを息子に譲り、自分はこの駿府城にもどり、隠居と称しながら実質上は駿河の地から日本を動かしてゆきます。いわゆる「大御所政治」のはじまりですが、このとき家康は駿府城を拡張さるだけでなく再整備してあきらかにより居心地のよい城に変え、以後ずっとこの城で暮らします。亡くなったのももちろんこの城でのこと。駿河湾でとれた魚をたべて食中毒になって死んだとの説もありますが、これはどうやら創作話で、実のところは胃癌だったようです。享年73歳。 駿府城・外堀と大手門跡 部分的に残っている外堀 外堀... Read More | Share it now!

神社・仏閣,京都

【滋賀県・大津市坂本 2023.1.6】延暦寺を開山したのは最澄ですが、その最澄は766年頃現在の大津市坂本に生まれます。近江国分寺にて15歳で出家し、20歳の時に奈良の東大寺で具足戒をうけて正式な僧となります。ここまでは当時としてはありふれた話なのでしょうが、そこからの最澄上人の精進と運も味方した栄達には目をみはるものがあります。そもそも最澄は東大寺で受戒しているので華厳宗の教化をおおいに受けているはずです。このあたりはのちに真言宗の開祖となる空海と近似しており、密教への関心は必然的に秘めていたはずです。ところが空海が華厳宗に満足できず究極的に密教を極めることになるのに対して、最澄は当時の日本ではそれほどひろまっていない法華経に傾倒してゆきます。そして仏教が最終目的として煩悩からの解脱をめざしている以上その方法を説くのが正しい仏道であって、奈良で隆盛する(いわゆる南都六宗のうち華厳宗と律宗をのぞく)法相宗、三論宗、成実宗、倶舎宗は釈迦の教えを独自に解釈して説いた論書にすぎないと批判します。そのうえで法華経を基とする(中国の)天台宗こそが正しい仏道であると主張します。もし最澄がそのとき奈良に居たら、あるいは20年も前であったら、奈良仏教界から袋叩きにあっていたかもしれません。桓武天皇が平安京へ遷都した理由の一つは、堕落した奈良の仏教界から政の中心すなわち都をひき離すべきと考えてのことでした。そこに平安京の北東(鬼門)比叡山に庵をむすぶ最澄がおり、仏道の論理として奈良仏教を批判したのですから喝采したかもしれません。二十数年ぶりに再開される遣唐使に選ばれたのは当然のことでしょう。唐ではなんとも精力的に、天台教学、禅、さらには密教を学びます。そしてもともと信仰の基礎であった法華経に、唐で学んできた思想をミックスして日本天台宗の源を築きます。難しいところは全部省いて、根底にあるものは「人はだれでも仏になれる」。その後ここ延暦寺から、南無阿弥陀仏の浄土宗の祖・法然、浄土真宗・親鸞、踊り念仏の時宗・一遍、ひたすら座禅の曹洞宗・道元、南無妙法蓮華経の日蓮宗・日蓮など錚々たる顔ぶれの僧(ここでは思想家)が輩出されたのは、最澄がいくつもの仏教思想を総合的に取り入れて延暦寺をつくり上げた故でしょう。※さらに空海が開祖となる真言宗がこれに加わり現在にいたる日本仏教の主流がすべてそろうことになるのですから、延暦寺こそが日本仏教の母と呼ばれるべきかもしれません。 紫色のマークが今回歩いた場所です。 比叡山に向かって 日吉大社の鳥居をくぐり、 日吉大社の横にある表参道(本坂)をめざし、 表参道登り口 JR比叡山坂本駅からここまで、ゆっくり歩いて30分ほど。(京阪坂本比叡山口駅からだと15分ほど)穴太衆の石垣がのこる坂本の街をあるく、楽しい散歩を楽しめます。 比叡山登山については別のブログで詳しく書いています。以下のアドレスをクリック https://yamasan-aruku.com/aruku-98/ 比叡山を登る 飛び地境内にある花摘堂 表参道(本坂)を登ると、まだ半分ほど登ったところに、「飛び地境内」とよぶそうですが、ぽつんと花摘堂の跡があります。飛び地にあるのはそれもそのはず、むかし延暦寺は女人禁制だったため女性はここまで上がってきて花を供えることで参拝していたそうです。その花は、比叡山の峰に咲く花を摘んで供えるのが習わしで、花摘堂の名が残ったとか。 石碑が立ち並び、お寺らしい雰囲気になってきました 廟でしょうか、横目に登り続けます 東塔 そもそも延暦寺ですが、比叡山山上にある100以上の建物(伽藍)を総称してそう呼ぶのであって、延暦寺という一つの建物としての寺が存在するのではありません。(全盛期には3,000におよぶ堂塔があったそうです)東の東塔(とうどう)、西の西塔(さいとう)、北の横川(よこわ)の三つの地域から構成され、それぞれに中核となる伽藍をもっています。 大書院... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,兵庫

【神戸市内 2023.1.3】関西のなかで京都や奈良は別格として、他の中小都市や城下町と比較しても神戸はずいぶん歴史の重みを欠く町のように映ります。しかし歴史を紐解いてみると、意外に古い史書や文献にいまの神戸市内の地名が登場しています。たとえば楠木正成が寡兵で足利尊氏の大軍をむかえ撃った湊川の戦いは南北朝時代、いまの神戸市中央区あたりが舞台です。平家物語で有名な源平合戦において源義経が一躍名をあげる、一ノ谷の戦いも須磨区を中心にした神戸市西側一体が舞台で、時は平安時代末期。さらに紫式部が遺した「源氏物語」には、源氏の君が一時凋落したとき時勢の不利をすばやくさとり須磨へとみずから下向する展開があります。もちろん「源氏物語」は小説であり創作ですが、当時から須磨は京から離れてはいるが朝廷と何らかの繋がりがある田舎として認識されていたということでしょう。この作品が書かれたのは平安時代中期、いまから1000年も前です。今日はその須磨に、源義経、さらに織田信長が好んで舞った幸若舞「敦盛」にも関係する須磨寺があるので、そこへ初詣気分で出かけてみます。 紫色のマークが今回歩いた場所です。 須磨寺へむかって JR須磨駅... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,大阪

【大阪府・高槻市 2022.12.28】織田信長より前に近内一円を手中におさめ、「最初の天下人」とも言われた阿波出身の三好長慶は、当時の室町将軍を追いやってのちも京の都に腰を据えることをせず、いまの大阪府高槻市の小高い山上に城を築き、そこから遠隔操作のごとく政に介入してゆきます。この城は近辺をながれる川の名にちなんで芥川山城と呼ばれ、いまでも石垣の一部や曲輪跡が残っています。さらに勢力を拡大して行くと、つぎは大阪平野をみわたす飯盛山の山上尾根にそって新たな城を築きます。これが飯盛山城です。三好長慶が城を築くために選んだ地をよく見ると、政の中心である京と、商売その中でも南蛮貿易の中心である堺ににらみを利かせられる場所であることに気づきます。京、堺のなかに居城を築かなかったのは、町中にみずから移り住めば京なら朝廷、堺なら商人が反発し、益少なしと見たからでしょう。幕府・将軍は軽んじていた長慶も朝廷には遠慮があり、商人には配慮があったということの証でもあります。また戦が日常茶飯事のこの時代ですから、山上に城を構える方が守るには断然有利です。飯盛山城は2週間ほど前に見て歩きました。【aruku-89】https://yamasan-aruku.com/aruku-89/今日は芥川山城を訪ねてみたいと思います。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 高槻城と高山右近 高槻城址 高槻城址... Read More | Share it now!