【滋賀県・大津市 2023.3.8】琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川のほとりに鎮座する石山寺は、季節ごとに様々な花で彩られ、「花の寺」として知られています。いまは梅が見ごろということで、さっそく出かけてみることにしました。 東大門から本堂へ 仁王像のたつ東大門... Read More | Share it now!
智積院で加藤清正、山科で大石内蔵助、意外な歴史探訪
【京都市・東山区~山科区 2023.3.3】京阪電車・七条駅から東山へ、三十三間堂と国立博物館の間を抜けたところに智積院(ちしゃくいん)はあります。智積院は僧・覚鑁(かくばん)が高野山から分かれて創建した根来寺の塔頭寺院でしたが、根来寺が秀吉による根来衆攻めで焼失したため、のちに当時の住職・玄侑(げんゆう)が秀吉の死後すぐに家康の援助をえて京都において再興したものです。さらに時をへて隣接してあった、豊臣家ゆかりの祥雲寺を吸収合併するようなかたちでひとつになり、ひときわ規模の大きな寺院になります。さて豊臣秀吉の後継者として大阪冬夏の陣で歴史に登場する秀頼より前に、秀吉には跡取りとなるはずであった長男がいました。幼名を鶴丸といい、やはり淀君との間にできた男子ですが、この子は3歳にして亡くなってしまいます。祥雲寺はその鶴丸を弔うために秀吉が悲嘆のうちにつくらせた菩提寺でした。そのため今の智積院は、真言宗寺院であり鶴丸の菩提寺でもあるふたつの顔を持っています。 智積院 金堂 金堂 白梅 紅梅 紅白梅 ちょくちょく見かける、同じ木に赤と白の梅が混ざって咲く紅白梅(源平梅ともいう)ですが、これは本来は紅梅であったはずのものが、紅くなる色素が不足して白く咲いてしまうためだそうです。 なお智積院の梅は、満開には1~2週間早かったようです。 智積院と加藤清正 扉の上部・緑地に金の桔梗紋 智積院の随所には「桔梗紋」が見られます。桔梗紋といえば、明智光秀の家紋として知られていますが、これは明智家独自のものではなく、美濃・土岐氏の由緒ある家紋です。それゆえ土岐氏につながる武将はそれぞれにこの桔梗紋をつかっており、ここでは意外なことに加藤清正が関係してきます。徳川家康の援助でこの智積院が再興されたことは先に書きましたが、そのさい家康は清正に寺の普請を命じます。清正も土岐氏の系譜だったようで、清正といえば「蛇の目」の家紋が有名ですが、そちらは軍事のさいにつかい、家屋敷にはこの桔梗紋を使っていますそのような歴史があって智積院の寺紋が桔梗紋になったようです。 元祥雲寺・客殿の庭 客殿の障壁画(レプリカ) この壁面を長谷川等伯の「楓図」と、その息子・久蔵の「桜図」が飾っていました。いまは境内にある宝物館に移して大切に保管されていますが、残念なことに4月まで宝物館改築(新築?)のため休館中でした。 法住寺 山門 境内 ここにも梅が咲いていた 法住寺は「身代わり不動明王像」で有名です。その名のとおり不動明王が身代わりになって災厄から護ってくれるというもので、公家や武家もこぞって崇めてきました。その中でも有名なのは、忠臣蔵でしられる大石内蔵助が吉良邸討入をまえにたびたび参拝し大願成熟させたとのことで、いまはその忠臣蔵四十七士の木像が安置されています。 それではこれで東山を離れ、さらに東へあるいて山科へ向かいます。 山科・大石神社 山科への近道は、走る車も少ない坂道を上がり、 峠を越えると1時間ほどで着きます/... Read More | Share it now!
和歌浦天満宮で梅をめで、和歌の浦をあるく
【和歌山市 2023.2.27】菅原道真を祀るのが全国に12000もあるといわれる天満宮と天神社ですが、そのなかで三大天満宮(天神社)となると、京都の北野天満宮と福岡の太宰府天満宮を別格として、のこる一枠をいくつかの宮社が、われこそはと自称自薦しています。和歌山市にある和歌浦天満宮もそのひとつで、自称する理由は、菅原道真が太宰府に左遷されて赴くさいに、途中で暴風をさけるため当地に船を停め、ここで和歌の浦をながめながら歌を詠んだからということです。なにやら貧弱な理由ですが、そもそも三大天満宮であるかないかよりも、その和歌浦天満宮に植えられた梅が見ごろを迎えているとのことなので、その梅をを見るために訪ねてみることにしました。 和歌浦天満宮 全景 見事な枝垂れ梅 楼門へ向かって石段をのぼる 楼門から見下ろす... Read More | Share it now!
東京にて、忠臣蔵ゆかりの地を見て歩く
【東京都・千代田区他 2023.2.18】昨秋会社をしめる際に、外出を控える世間の空気もあり直接会って挨拶することなく付合いが絶えてしまった得意先や同業者の方々がいました。そこで、かつて自分も出展していた大規模な展示会がいま東京で行われているので、そこへ行けば幾人かとは確実に会えると考え、3年ぶりに東京へ行くことになりました。仕事の続きみたいなものですが、すでに会社がないので交通費を経費で落とすわけにもいかず、それならば一泊して、いま興味を持っている忠臣蔵に関係した地を回ってみるのはどうか。ということで、かつて使っていた東品川、大崎あたりのホテルは高いので(ネットで調べると、なぜかコロナ前よりも3割程度上がっていました)、両国に安いビジネスホテルを見つけて、そこからスタートすることにしました。 吉良邸跡 吉良邸跡... Read More | Share it now!
建国記念の日に、橿原神宮へ参詣する
【奈良県・橿原市 2023.2.11】天照大神を先祖にもつ神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)は45歳のときに日向の国を発ち、途中吉備の国に3年ほど滞在して軍容をととのえ、ここから本格的に東征を開始します。難波、熊野と回って大和に入り、数々の戦いをへてついに大和の国を平定。そして畝傍山(うねびやま)の麓、橿原宮にて初代天皇に即位します。これがのちの神武天皇です。なおこの年が西暦では紀元前660年ですが、日本において神武天皇即位を基準にした紀元ではこの時が元年となり、西暦2023年の今年は皇紀2683年にあたります。神武天皇については、即位したのが50歳(51歳?)のとき、そして76年間在位したとのことなので亡くなったのは126歳(127歳?)ということになり、伝説の域をでません。しかし古事記にはじまる神々の伝説が、日本書紀にかわって天皇の系譜をつたえるようになり、ちょうど日本の歴史が「言い伝え」から「史実」に移行するあたりに位置するため、神武天皇こそが最初の天皇と考えられるようになったのではないでしょか。史実として確かなことは、平安時代には同地に神武天皇の陵墓があったと記録されています。そして明治23年(1890年)に神武天皇と皇后を主祭神として橿原神宮が建立されます。神社の社格としては勅祭社になります。勅祭社とは例祭のときに天皇からの勅使(天皇の代理ですが、天皇に等しいものと位置づけられます)が派遣される、全国に現在16社しかない別格の神社のことです。そして神武天皇が即位したのは旧暦の1月1日、これは新暦の2月11日にあたるため、今日が橿原神宮の例祭の日であり、この例祭は紀元祭と呼ばれています。建国記念日に、紀元祭をおこなう橿原神宮に参詣してみます。 橿原神宮・表参道から西参道 橿原神宮前 予想どおり右翼の関係者がどっと参集していました。しかし街中でみる大音量の街宣はもちろんなく、低音量で君が代を流しながら静かに車列が流れてゆきます。自分自身が15度くらい右寄りなので、こういった静かな活動であれば、なんら抵抗はありません。 第一鳥居 神橋から第二鳥居 表参道から入りましたが、さきに西参道へ抜けてみます 西参道は深田池にそって続きます 途中に長山稲荷社があります 神饌田... Read More | Share it now!
名古刹・室生寺をたずねて室生古道をあるく
【奈良県・宇陀市 2023.2.9】奈良県の東寄りにある宇陀市は、山間にひろがる町や村で穏やかな生活が営まれている、そんな印象の土地です。ここに室生寺という寺院があります。古い歴史をもつゆえ古刹であり、知る人ぞ知るという意味では名刹ともいえます。起源はふるく、奈良時代に桓武天皇が皇太子のころ病をわずらい、その病気治癒の祈願をこの地でおこない健康を回復したことから寺院の建立が始まったと伝わっています。(他にも起源説はありますが、この話がいちばんスッキリしています)平安時代から室町時代にいたるまでは、現在の奈良市奈良公園のかたわらにある興福寺の末寺(または別院)としてその傘下にあったようですが、江戸時代になってしだいに高野山・真言宗の密教色が濃くなってゆきます。おそらくは経済的な問題ではないかと思われますが、元禄時代になり、当時の江戸につくられた護国寺に拝領されることになります。(要するに親が興福寺から護国寺にうつる)護国寺は、桂昌院が息子である綱吉(お犬様で有名な5代徳川将軍)にせがんでつくってもらった真言宗の寺です。桂昌院からの多額の寄進により大々的に改修を行うこともでき室生寺は再生します。ここにおいて正式に真言宗寺院へと宗派替えしますが、同時に高野山・金剛峯寺が女人禁制であったのに対して、ここ室生寺は女性の桂昌院が最大の支援者であったこともあり、女人も自由に参拝できるようになります。そのため「女人高野」の別称があります。ところで室生寺には東西南北に4門があり、その4門にかこまれた一帯が聖域とされていたそうですが、いまも南門の佛隆寺から室生寺へ、さらに西門の大野寺へとつづく道が室生古道として残っています。今日は、その室生古道を歩きに行きます。 伊勢本街道をあるいて佛隆寺へ 川沿いに南へあるく JR榛原駅から佛隆寺まではバス便もありますが、本数が少ないので5kmほどの道のりですから、歩いて行くことにしました。なお今歩いている道は、元・伊勢本街道になります。 佛隆寺への道標と、伊勢本街道をしめす石柱 ここで、右へそれる伊勢本街道とわかれます 佛隆寺へは緩やかな坂を登って行く 佛隆寺に到着。この長い階段を上ると境内 佛隆寺 本堂(手前)と白石神社(右奥) 左にみえる十三重石塔は重要文化財だとか 堅恵上人がここにこもって修行した石室... Read More | Share it now!
雪の高野山をたずねて歩く
【和歌山県・高野町 2023.2.1】高野山の寺院を回るのであれば、冬の雪に埋もれた風景が一番美しいと思います。また参拝客や観光客も少なくなるので、静かで厳かな空気を心ゆくまで楽しむができます。ときには、千数百年の歴史がたしかに今そこにあると感じられる至福の瞬間に身をゆだねることができるかもしれません。絶対おすすめの、雪の高野山を訪ねてみます。高野山の歴史については、昨年お盆にたずねた際に『aruku-52 夏の高野山をたずねて歩く』のなかで簡単にですが書きましたので今回は省略します。『夏の高野山をたずねて歩く』https://yamasan-aruku.com/aruku-52/... Read More | Share it now!
祐徳稲荷神社は日本三大稲荷なのか、訪ねてみた
【佐賀県・鹿島市 2023.1.20】サッカーチームの鹿島アントラーズがあるのは鹿嶋市で、茨城県南東部一体の「鹿行:ろっこう」あるいは「鹿島」とよばれる地域の5つの市をホームタウンとしていることから、鹿島アントラーズと表記しているのではないかと推測します。その鹿嶋市とはまったく別に、佐賀県南部に鹿島市があります。ところが日本三大神宮である鹿島神宮は、この鹿島市ではなく茨城県の鹿嶋市にあるので話はややこしくなります。では佐賀県の鹿島市はどうかというと、鹿島○○とは称しませんが、年間参詣者数300万人をかぞえる祐徳稲荷神社があります。さてこの祐徳稲荷神社ですが、ホームページ上でも、また鹿島市観光協会の案内でも「日本三大稲荷」と明記しています。日本三大稲荷と言えば、総本社である伏見稲荷大社は別格として、笠間稲荷神社(茨城県)と豊川稲荷(愛知県)を2番目3番目に並べるのが妥当でしょう。祐徳稲荷神社が自称しているのだとしても、なにを根拠に自称しているのか、訪ねてみることにしました。 祐徳稲荷神社へ 参道を進みます 錦波川をへだてて神社を見る 境内へ入る手前にある「神橋」 「稲荷神」はもとは稲を象徴とする穀物および農耕の神様ですが、いまでは五穀豊穣だけでなく商売繁盛、家内安全、病気平癒、恋愛成就、開運、金運、子宝、安産、等々生活全般にわたってマルチに御利益のある、ありがた~い神様です。 鳥居をくぐる 神池をわたる... Read More | Share it now!
有田焼と伊万里焼は違うのか
【佐賀県・伊万里市、有田町 2023.1.19】有田焼と伊万里焼は違うのかというと、むかしは同じもの、いまは違うものということになります。江戸時代には現在の有田周辺は磁器の一大生産地でしたが、出来上がったものを伊万里の港から輸出していたため伊万里焼と呼んでいたようです。(雑学の余談ですが、イランで採れた青い石をトルコを経由して欧州へ運んでいたたためその石をトルコ石とよびます。これと同じ発想です)やがて明治時代になると、生産地を重視するようになり有田で焼かれた磁器は有田焼、伊万里のおもに大川内山で焼かれたものは伊万里焼と呼ばれるようになります。同時に江戸時代の有田産の磁器は古い伊万里焼ということで古伊万里とよばれます。 大川内山 町の地図も磁器製、もちろん伊万里焼 伊万里焼の窯元があつまる大川内山にきました。ここに興味をもったのはネットでひょっこり街並みを紹介する画像を見たことに始まります。 ネットで見たのはこの橋の画像でした 素人がスマホで撮影ではあまり魅力が伝わりませんか 河原に下りて橋を見ると、こんな感じです ずいぶん手を加えた歩道ですが、気持ちよく歩けます 風鈴ではなくベルで、近づくと鳴ります 焼物(陶器)は大きく陶器と磁器にわけられます。陶器は長石という石の成分がすくない陶土を中高温で焼くため肌のあらい素朴な仕上がりとなり、磁器は逆に長石の多い磁器土を高温(1300度)で17時間以上焼くため、硬く丈夫で肌のなめらかな仕上がりとなります。また磁器土はもとが白いため染付、絵描きするのにも向いています。 街の通りは店舗や窯元など、大半が伊万里焼関係 途中に登り窯がありました 高台からこじんまりした街をのぞむ 川岸の側面に伊万里焼がびっしり 高台(展望台?)から町へもどる 今回の旅行は、家内と同伴しており、それほど長距離は歩けないので、レンタカーを借りて移動し、ポイントごとに散策しています。 伊万里 伊万里駅前... Read More | Share it now!
徳川家康が愛した駿河、その城を見に行く
【静岡市 2023.1.12】山から下りて静岡市街につくと、さっそく駿府城を訪ねてみました。ここは徳川家康にとって(政治的、軍事的に)重要である以上に、お気に入りの土地だったのではないでしょうか。そもそも家康は三河の人ですからいまの岡崎、浜松あたりを拠点にしていました。家康は信長とともに武田氏を滅ぼすと、その所領であった駿河の領有をゆるされ、さっそくいまの静岡市に城をつくりはじめます。この辺りには、ずっと時をさかのぼれば今川氏の城がありましたが、それは防御機能もそなえた館ていどのもので、家康は今川氏の城を改修増築したのではなく、まったく新しく築いたとみるべきでしょう。やがて秀吉の時代になり、家康はさまざまな思惑から関東地方へ転封されます。そのとき築いたのが江戸城であり、江戸城を居城としている時期に天下人となりますが、じきに征夷大将軍の位だけを息子に譲り、自分はこの駿府城にもどり、隠居と称しながら実質上は駿河の地から日本を動かしてゆきます。いわゆる「大御所政治」のはじまりですが、このとき家康は駿府城を拡張さるだけでなく再整備してあきらかにより居心地のよい城に変え、以後ずっとこの城で暮らします。亡くなったのももちろんこの城でのこと。駿河湾でとれた魚をたべて食中毒になって死んだとの説もありますが、これはどうやら創作話で、実のところは胃癌だったようです。享年73歳。 駿府城・外堀と大手門跡 部分的に残っている外堀 外堀... Read More | Share it now!