街歩き・山歩き,城郭・史跡,富士山,静岡

【静岡県・焼津市~静岡市 2023.1.12】昨日は焼津海岸から静岡市との市境の大崩海岸まで歩きましたが、今日は山をつたって静岡市に入ります。山に入るにあたって、まず小山に築かれた花沢城址に寄り、むかしながらの家並みがのこる花沢の里を訪ねてみます。 花沢城址へ 焼津市街より山へと歩く 真ん中にみえる一番高い山が高草山で、その右側の少し低い山が花沢山です。右側を走っているのは新幹線の高架。ときどき横をすり抜けて行きますが、あまりに高速のため一瞬で姿が見えなくなります。 途中から山へと道をまがると、ミカンの木が 花沢城址への向かう道から振り返ると、ミカンの木々が この道が花沢城址へつづきます 関西ではミカンと言えば和歌山ですが、静岡もミカンの産地でした。ミカンの木々には、まだいくつか実がぶら下がっています。ちなみに静岡産の「三ケ日みかん」をむかし取引先から頂いたことがありますが、とてもとても美味でした。 出丸 花沢城の出丸からは、下界の様子がよく見える しかし振り返ると、高草山からはこちらが丸見え 花沢城は今川義元の命により西の守りの要としてつくられた山城です。ところが義元が桶狭間の戦いで信長勢に討ち取られると、求心力を失った今川家の下からは家臣がつぎつぎに離散してゆきます。今川氏が守護する駿河、遠江の北に隣接する甲斐の国にはその当時武田信玄がいました。信玄が今川家のその衰えはじめた兆候を見逃すはずがありません。信玄は今川氏を平らげるべく侵攻を開始します。その最初の標的になったのがここ花沢城でした。花沢城側も果敢に抗戦したため激戦となりますが、やがて落城します。ここで気になるのは、その花沢城攻めのさいに武田信玄は向かいにある高草山に陣を敷き、花沢城を見下ろしながら戦ったと記録にあります。たしかに高草山に陣を敷いた方が有利です。ではなぜ今川家は武田軍侵攻にたいして高草山にあらかじめ砦をかまえなかったのか。それ以前に、なぜ最初からより高い高草山に城を築かなかったのか。その疑問に対する答えをさがしにこの城跡を訪ねたのですが、得られたものはなにもありません。要は今川氏側の無策であり、なぜ無策であったかといえば油断があったからで、なぜ油断があったかといえばみずからの出自と由緒に驕っていたから、とまで言うと言いすぎでしょうか。 曲輪跡 六の曲輪跡 一の曲輪と二の曲輪をしきる堀切跡 一の曲輪(本丸)跡 右の平たん部が一の曲輪、左奥が高草山 花沢の里 花沢の里は???-... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,富士山,静岡

【静岡県・焼津市 2023.1.11】富士山のビューポイントをつないで、富士山の周りをぐるっと一周歩いてみたいと、かれこれ5年ほど前から考えていました。計画を実行するうえで一番の問題になったのは、「富士山が見える日」でなければ出かけても意味がないということです。大阪に住みながら富士山の映像や画像をくりかえし眺めていると、それらは当然晴れた日のうつくしい富士山の姿ばかりを見ることになり、なんとなく富士山の近くまで行けば、いつでも晴れわたった空のもとで富士山を見られるものと錯覚していました。調べるにしたがい「富士山が見える日」は「富士山が見えない日」よりもはるかに少ないことがわかりました。日中の時間内で富士山全体が見えるのは年間にすると20%に過ぎません。さらに大阪から行くとなると、日帰り旅行を繰り返していたのでは交通費がバカになりません。せめて一泊、できれば二泊、すなわち2日連続か3日連続で「富士山が見える日」が必要になってきます。大型連休は、宿泊費、交通費とも価格がはね上がるうえに、どこも大混雑で出かける気持ちになりません。では土日、あるいは土日祝はというと、「自分が出かけられる週末」に「富士山が見える日」がうまい具合に重なることはなかなかありませんでした。昨年秋に仕事を引退しました。いつでも「富士山の見える日」に自分のスケジュールを合わせられるようになりました。 焼津海岸 焼津港... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,大阪

【大阪市内 2023.1.2】大阪の南の中心的な繁華街・難波のもすこし南に、新世界と呼ばれる下町の繁華街があります。この地の成り立ちはいかにも真っ当で、明治36年に第5回内国勧業博覧会(万博のようなもの)が開催されたのち、その跡地を有効に利用しようということで、西側は天王寺公園となり(動物園や市立美術館がある)、東側にはニューヨークの公園ルナパークを模した有料公園をつくり、さらに中心にパリのエッフェル塔からアイデアをもらった通天閣をすえ、最新の文化を輸入した「新しい世界」を作り出してゆきます。人が集まりだすとさらに映画館や遊技場が次々にオープン、その客を目当てに飲食店が軒を並べます。こうして大阪を代表する繁華街へと発展するのですが、戦後の高度成長期に入ると難波(ミナミ)や梅田(キタ)に客を奪われ、さらに全国からあつまる日雇い労働者が生活する、あいりん地区が近いためそこからの人の流入で街の雰囲気はすっかり変わってしまいます。たしかに昭和の時代の新世界は、きたない、あぶない、普通の人はいない、という状態でした。ところが時が変われば何が幸いするかわかりません。近隣に大型アミューズメント施設や商業施設がつくられると人の流れがかわり、さらに街中の昔のままの古い姿がレトロとして注目され、ついにはインバウンドもふくめ若い人達にもSNSで紹介されるそのディープな画像がバカ受けし、一大観光地と化します。今日は天気がイマイチなので初詣をかねた社寺参詣はやめ、ディープな新世界へディープな世界を堪能しに行きたいと思います。 紫色のマークが今回歩いた場所です。 法善寺横丁 法善寺横丁入口 ここは大阪でもっとも古い繁華街のひとつです。江戸時代に建てられた法善寺への参拝者を相手に店を並べていたのが基になっています。右端のひとつ奥の店が夫婦善哉(ぜんざい屋)です。 左側は空き地ではなく、法善寺の墓地 これが法善寺... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,大阪

【大阪府・高槻市 2022.12.28】織田信長より前に近内一円を手中におさめ、「最初の天下人」とも言われた阿波出身の三好長慶は、当時の室町将軍を追いやってのちも京の都に腰を据えることをせず、いまの大阪府高槻市の小高い山上に城を築き、そこから遠隔操作のごとく政に介入してゆきます。この城は近辺をながれる川の名にちなんで芥川山城と呼ばれ、いまでも石垣の一部や曲輪跡が残っています。さらに勢力を拡大して行くと、つぎは大阪平野をみわたす飯盛山の山上尾根にそって新たな城を築きます。これが飯盛山城です。三好長慶が城を築くために選んだ地をよく見ると、政の中心である京と、商売その中でも南蛮貿易の中心である堺ににらみを利かせられる場所であることに気づきます。京、堺のなかに居城を築かなかったのは、町中にみずから移り住めば京なら朝廷、堺なら商人が反発し、益少なしと見たからでしょう。幕府・将軍は軽んじていた長慶も朝廷には遠慮があり、商人には配慮があったということの証でもあります。また戦が日常茶飯事のこの時代ですから、山上に城を構える方が守るには断然有利です。飯盛山城は2週間ほど前に見て歩きました。【aruku-89】https://yamasan-aruku.com/aruku-89/今日は芥川山城を訪ねてみたいと思います。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 高槻城と高山右近 高槻城址 高槻城址... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,大阪

【大阪府・茨木市 2022.12.25】大阪生まれの大阪育ちの人の中には、関東の「茨城県」のことを「いばらきけん」と思い込んでいる人が結構います。なぜかというと、大阪府には「茨木市」が存在し、これを「いばらき」と読むゆえにほかなりません。地理的には、大阪府の北部で京都寄りに位置します。かつての摂津の国にあたり、高槻城、吹田城、池田城、伊丹城(有岡城)などとともにここには茨木城がありました。応仁の乱から三好長慶の時代を経て、織田信長に付いたり離れたりする群雄、荒木村重や高山右近らが生きた時代に、同じように生まれ、戦い、そして死んでいった武将・中川清秀が城主となって拡大増強した城です。摂津の国はことのほか衰亡が激しかったこともあるのでしょうか、さきに列記した城はいずれも遺構がほとんど残っていません。なかでも茨木城は石垣のひとつも、曲輪の一部も残っていません。午後からぽっかり時間が空きました。自宅から茨木まで片道30分なので、往復時間を入れても探索時間はじゅうぶん取れます。なにか名残りでも見られないだろうかとかすかな期待を胸に出向いてみることにしました。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 ここが茨木城跡 阪急茨木市駅から徒歩10分ぐらい、googleマップで「茨木城跡」とピンで表示されるのはこの辺りです。現在マンション建築中、その周囲も住宅と道路で、それらしきものはまったく存在しません。 妙徳寺表口 かつて茨木城の脇門がここ妙徳寺の三門(表門)として移築され、その後台風や地震で何度も倒壊しながらも再建して今に至ると、画像で見たのですが、またまた壊れてしまったのか、現在はこのような「門なし」の状態でした。 楼門 近所の茨木小学校に楼門が再建されています。残念ながらあくまで再現したもので、当時の様子を知るには良いのでしょうが、それ以上のものではありません。 梅林寺 梅林寺は中川家の菩提寺です。この寺の墓地に中側清秀の墓があるはずなのですが、残念ながら寺は閉まっており、御堂の奥にあるはずの墓を見ることはとても無理でした。 茨木神社・東門 茨木神社のこの門は、茨木城の搦め手門(裏門)を移設したものと伝わっています。あくまで「伝わっている」です。そう思ってみると瓦は平成以後の葺き替えのようだし、壁はきれいすぎるし、柱もどうなのでしょう。ということは茨木城の名残りはなにも目にすることができなかったということになります。 茨木神社... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,三重

【三重県・伊賀市 2022.12.20】まず伊賀上野城の呼び名について。この城はそもそもは三重県上野市にあり上野城と呼ばれていましたが、その上野市が2004年に3町2村と合併し、住民投票の結果もふまえた上であらたに伊賀市と名を変えます。そこで城の名も上野城のままではせっかく伊賀市に改めたのにと不満が出て、かといって伊賀城と改めるのは歴史を操作するようなもので、公的には無難な案をとって伊賀上野城と呼ぶことになったようです。ですから私的機関によっては昔のままの上野城と呼んでいるところもあり、またそれが誤りということにはならないようです。さてこの伊賀上野城ですが、豊臣の時代に筒井順慶の養子・筒井定次が築城します。関ヶ原の合戦後しだいに勢力を拡大してゆく徳川家康は、いずれ雌雄を決することになる豊臣家の本城・大阪城に対する抑えとしてこの地に堅牢な城をきずく必要を感じます。そこで当時築城の名人と定評のあった藤堂高虎を伊予宇和島から呼び寄せ、元の城郭を全面的に増改築するよう命じます。そうして出来上がったのがこの伊賀上野城なのですが、じつは城が完成する前に江戸幕府をひらいた徳川家康は老獪な策謀と圧倒的な力の差で豊臣方を壊滅させたため(大阪冬の陣・夏の陣)、本来の築城目的をになうことはなかったようです。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 JR駅から伊賀上野城へあるく 城が見えてきた... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,大阪

【大阪府・岸和田市 2022.12.9】岸和田の名の由来については、南北朝時代にこのあたり一帯が海岸沿いだったからか「岸」と呼ばれており、その当時世に出てきた楠木正成、その一族である和田某がここに城を築いて拠点としたことから「岸の和田」すなわち「岸和田」になったというのがもっとも有力な説です。その和田氏が築いた城は16世紀初期に破却して現在の場所に移築し、豊臣の時代から江戸時代にかけて幾度も改築されながら本格的な城郭に変貌してゆきます。そして徳川家康の養女の子ともあるいは妹の子とも伝わる岡部宜勝が6万石で入城し、以後13代にわたり明治初期まで大坂と紀州をむすぶ要衝の城下町として栄えます。なお岸和田といえば、熱狂的なだんじり祭りで有名ですが、そのだんじり祭りは3代藩主の岡部長泰が京都伏見稲荷を岸和田城下に勧請し、五穀豊穣を祈っておこなった稲荷祭りが起源とされています。今日はそんな歴史をもつ岸和田の街を歩いてみます。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 岸和田駅からスタート 岸和田古城 南海岸和田駅からすぐ近いので、まずは和田氏が拠点としていた昔の岸和田城に寄ってみます。と言っても、いまではなにも遺構はなく、ここに城がありましたと告知する石碑があるだけ。しかも名前は「岸和田古城」となっています。 寺町筋 本徳寺 南海電車の高架下をくぐって現在の岸和田城へ向かう途中、すこし回り道して寺町筋に寄ってみました。目的は本徳寺。この寺は、(あくまで一説では)明智光秀の長男・光慶が出家して南国梵桂を号し開いた寺と伝わっています。そのためこの寺には明智光秀の唯一現存する肖像画があります。残念ながら2020年に27年ぶりかで特別公開されたそうなので次回いつ見られるかはわからないのですが、寺の境内だけでも見ておくつもりで訪ねてみました。しかし境内も非公開のようで、これこそまさに門前払いでした。 岸城神社 岸城神社... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,奈良

【奈良県・天理市~桜井市 2022.12.3】かつて奈良盆地の東南に位置する三輪山の麓から東北の春日山の麓まで通じる、日本書紀にも記された古代の道がありました。山々の裾をぬうように道が走っているからか「山の辺の道」と呼ばれ、全長は26km。そのうち三輪山のある(いまの)桜井市から古墳や神社をたどるように続く天理市までの17kmの道のりが、よく整備され歴史探訪の道とした紹介されています。確認出来るかぎりでは日本でいちばん古い道とのうたい文句ですが、古墳や神社はわかるにしても古代よりはるかに後に建てられたはずの寺院までも路程にふくまれており、実際のところどこまでもとのルートを再現できているのかは疑問です。しかし堅いことは抜きにして、ともかく歩いてみようと思わせるだけの魅力ある古道です。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 天理から歩きはじめる 天理教の教団施設がならぶ 過去に2度ほど桜井側から歩いたことがあるので今回は天理側から歩きはじめることにします。 天理市は駅(JR、近鉄とも同じ駅舎)から東口へ出てそのまま進むと、みごとに天理教の教団施設が立ち並び、まるで宗教都市の観があります。誤解のないように言っておきますと、掃除は行き届いているし、いたって静かで穏やかな町です。 路上には山の辺の道の標識 石上神宮 回廊から楼門 楼門を入ると拝殿へ 拝殿と本殿(奥) 国宝・(摂社)出雲建雄神社拝殿から楼門 石上神宮(いそのかみじんぐう)は日本最古の神社のひとつと言われています。建立は一説では崇神(すじん)天皇の勅命によるとのことですが、その崇神天皇は紀元前100年頃に天皇位についていたと考えられる方です。わかりやすく言うと、もとは朝廷の武器庫であり、神武天皇が国の平定の際につかわれた神剣・韴霊(ふつのみたま)、さらにスサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した際に使った天十握剣(あめのとつかのつるぎ)なども保管されていたそうで、その剣にやどる神霊を祀るためにこの石上神宮がつくられたといわれています。また摂社の出雲建雄神社は三種神器のひとつ草薙剣の神霊を祀るためのものです。 神使の鶏 石上神宮は鶏を神の使いと崇めており、烏骨鶏などのやたらに元気のよい鶏が境内を歩き回っています。鳥類の苦手な人には恐怖かも知れませんが、恐れるのではなく畏れ多いとかしこまって参拝してください。 夜都岐神社 山の辺の道をあるく... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,兵庫

【兵庫県・伊丹市、尼崎市 2022.11.24】市立伊丹ミュージアムにて荒木村重に関する展示会が先週末から始まったので覗いてみることにしました。展示会のタイトルは『信長と戦った男、荒木村重展... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,広島

【広島県・福山市 2022.11.7】鞆の浦の名は古くは7~8世紀に編まれた万葉集に登場します。「我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」大伴旅人が歌ったものです。我妹子とは私の妻、妻がかつて見た鞆の浦のむろの木は変わらずあるけれど、その妻はいまはもういない、という意味になりますが、この歌から大伴旅人は鞆の浦をすくなくとも2度以上訪れていることがわかります。鞆の浦の沖では満潮時には潮流がぶつかり、干潮時にはそこを境に潮が別方向に引いてゆくため、過去には潮待ちの港として栄えたそうです。室町時代の前の南北朝時代にはこのあたり一帯で南朝と北朝の合戦があり、さらに室町時代の終焉の戦国時代にになると、織田信長とともに上洛し15代将軍(室町幕府最後の将軍)となった足利義昭が信長に追放され、毛利氏をたよってこの地に流れつき、「鞆幕府」をひらきます。この鞆幕府は世間的には認められませんでしたが、足利義昭は当時はまだ将軍の地位についており、将軍が宣言したのであれば法的(?)にはその地が幕府といって言えないことはありません。その後も江戸時代末期、鞆の浦沖で海援隊の船・いろは丸が紀州藩の船と衝突して沈没、その賠償交渉のため坂本龍馬が短期間ですが滞在した史実もあれば、最近では宮崎駿制作の「崖の上のポニョ」の舞台になり、「男たちの大和」や「流星ワゴン」など多数のドラマのロケ地として使われています。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 鞆の浜(?) 防波堤越しに... Read More | Share it now!