【京都市内 2022.4.23】今日は大徳寺・総見院で期間限定公開されている織田信長の木座像を見にゆきます。もっとも、せっかく京都まで出てきたのにそれだけではもったいないので、大徳寺への道すがら、さらに大徳寺からの帰り道にぶらぶら市内を散策してみたいと思います。 賀茂川 賀茂川の河川敷を北へ 京阪出町柳駅を出るとすぐに高野川と賀茂川とが合流する鴨川デルタをわたり、さらに賀茂川を北へと歩きます。 阿弥陀寺 阿弥陀寺・本殿 京阪出町柳駅から1kmはないです。10分ほどで阿弥陀寺につきます。もとは清玉上人が近江坂本に創建したものですが、その後信長の庇護のもと京都へ移転します。当時は信長の保護と厚遇をえてたいへん大きな寺だったようです。 本能寺の変で信長が討たれた際には、清玉上人みずから本能寺へのりこみ、その遺体だか遺骨だかを持ちかえり、ここに埋葬したと伝えられています。(あくまで、言い伝えです 信長と清玉上人の関係http://annai.demachi.jp/uno/page075.html 阿弥陀寺裏の墓地にある、清玉上人の墓 信長の死後、その後継者としての地位を固めるため羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、みずから主導で一周忌法要をおこなうべく、清玉上人にたいして信長の遺骨を引き渡すよう求めます。ところが清玉上人は、秀吉が天下人たらんと企み、信長謀殺すなわち本能寺の変になんらかの形で関わっていたことを察知しており、そのような者に信長公の遺骨を渡すわけにはいかぬと断固拒否します。(あくまでひとつの説です)そこで登場するのがこれから見にゆく信長の木座像で、秀吉は遺骨がないのでかわりに木座像をつくって棺に入れたと伝えられています。 上御霊神社 上御霊神社 さらに北西方向に500mほどあるくと上御霊神社につきます。御霊神社は京都だけでなく、日本各地にあります。もともとは地震カミナリなどの天変地異や疫病の流行は○○様の怨霊によるものだとの土着信仰があり、その怨霊を鎮めるために建立したのがはじまりです。ちなみにここから2kmほど南には、下御霊神社があります。 上御霊神社・本殿 拝殿には神輿が祀られていました。 あまり見る機会はないので貴重な撮影になります。 この地は応仁の乱のはじまりの地でもあるそうです。東軍方(畠山政長)がこの地に陣をしき、西軍方(畠山義就)がこれを襲撃したことで泥沼のような戦いがスタートします。 上御霊神社には、最恐の怨霊が祀られている?http://kyoto.free-travel.jp/power-spot-256/ 妙覚寺 妙覚寺・大門 次は西方向に1kmも歩かないくらいで妙覚寺です。妙覚寺は(場所も建物も変わっていますが)本能寺の変の際、信長の嫡男・信忠が500人ほどの馬廻衆とともに宿泊していた場所です。 ところで信長が本能寺に滞在しておりそこで事変がおきたので「本能寺の変」ですが、それ以前は信長も京滞在の折にはずっとこの妙覚寺を宿泊地にしていました。 妙覚寺大門の上部 寺とはいえやはり防御の機能を備えていたようで、入口・大門を下から見上げると、梁部分に人が潜めるようになっているのがわかります。 妙覚寺・本殿 「坊主丸儲け」なんてむかしの話なのか、最近はお寺の大変そうな光景をよく見かけます。ここ妙覚寺はこの本堂の裏(もちろん境内)が、月極駐車場になっていました。本堂をこちら側から撮影したのも、反対側から撮ると、駐車している佐〇急便のトラックがもろに写ってしまうがためです。 水火天満宮 妙覚寺からすぐ西に、水火天満宮があります 水火天満宮の拝殿 乗馬を禁ずる石柱 水火天満宮は菅原道真を祀っており、水難、火難などの災難除けのご利益があります。 ところでここの境内には、貴重な石柱が残っています。「是より洛中荷馬口付のもの乗べからず」ここから洛中のため馬に乗ってはいかん。ちなみにこの石柱のずっと先に京都御所がいまもあります。 大徳寺・総門 大徳寺まで出町柳駅から3kmほど道のりですが、あれこれ見て歩いていたら2時間以上かかりました。大徳寺と建勲神社については、https://yamasan-aruku.com/aruku-35/ バス停の広告 建勲神社のある船岡山を下りてきたところで、いかにも京都らしい広告をみつけました。 ところで今どこに向かっているかというと、秀吉が自分の甥であり跡取り候補だった秀次のために(?)建て、その秀次を謀反の疑いで追放すると同時に破却した聚楽第の、その石垣がわずかに残っている現場に向かいます。 聚楽第の石垣 聚楽第石垣・中央から左側 聚楽第石垣・中央から右側 中央から左右を撮影しました。これで全容のすべてで、これだけしか残っていません。どこにあるかというとすんなりわかる場所ではなく、民間のマンションの駐車場のさらにその奥にあります。本来自由に出入りしてよい場所ではないでしょうから、詳細は書きません。興味のある方はネットでしらべて大方の見当をつけ、じっくり探してみてください。 聚楽第はどこにhttps://www.kyoto-arc.or.jp/heiansannsaku/jurakudai/img/20jurakudai.pdf 堀川通を南へ歩きます... Read More | Share it now!
奈良・明日香村にて、飛鳥の里をあるく
【奈良県・明日香村 2022.4.17】ややこしいのですが、飛鳥文化の遺構がのこる地域を飛鳥の里といい、奈良県の明日香村にあります。大阪から電車でくると、近鉄・飛鳥駅で下車しますが、駅近くのコンビニは「○○明日香店」となっています。要は、地名としては明日香、文化としては飛鳥ということなのでしょう。なにはともあれ、明日香村の飛鳥の里を歩いてみます。 飛鳥駅から歩きはじめる ... Read More | Share it now!
紀の川にひろがる桃源郷へ、桃花を愛でにゆく
【和歌山県・紀の川市 2022.4.2】「桃源郷」とは中国の古い話で、漁師が船で桃の咲く林に迷い込み、その林を抜けたところで洞窟をみつけ、その洞窟を抜けると、災いも争いも飢えもない平和な土地にたどり着いたことから「桃源郷」=「理想郷」の言葉がうまれます。ですから理想郷には桃が咲きほこっていたというのではありません。そのことを考慮すると、桃畑に「桃源郷」をキャッチワードとするのはいくらか無理があるようにも思うのですが、それはさておき、和歌山県紀の川市が「桃源郷」とうたう、桃の聖地を訪ねてみます。本日は根来寺でサクラを愛でたあと、ひたすら歩いて紀の川の桃源郷へ向かいました。 紀の川へ向けて歩く 紀の川へ トンネルをぬけると... Read More | Share it now!
かつての大坂、信長vs本願寺ゆかりの地を歩く
【大阪市内 2022.3.21】... Read More | Share it now!
石清水八幡宮から、城南宮のしだれ梅を見にゆく
【京都府・八幡市~京都市伏見区 2022.3.12】石清水八幡宮のあとは、木津川をのぼって流れ橋を訪ね、そこから北へとあるいて京都市伏見区にある城南宮にしだれ梅を見にゆきます。 安居橋 安居橋 石清水八幡宮(男山)の裏参道を下ってくると、この安居橋(あんごばし)の手前に出てきました。この位置からみると歴史を感じさせる橋なのですが、階段をおりて川床から見上げると、橋脚はコンクリート製、橋自体も鉄骨で骨組みをつくりその上に板を貼り付けた代物でした。 安居橋を取り入れたマンホール 流れ橋 流れ橋と茶畑 石清水八幡宮から4,5kmほど歩いた先にある「流れ橋」に到着しました。 流れ橋 流れ橋はさきほどの安居橋とはちがい完全な木製の橋で、時代劇の撮影などにもしばしば使われているそうです。 流れ橋には手摺、柵はありません 何故かというと、川が氾濫すると橋板が流され、このロープで川面を漂い、水量が減ると引っ張りあげて元に戻す仕組みだからです。 対岸の茶畑 ここから城南宮にむかって10kmほど北へと歩きます。 久御山ジャンクション... Read More | Share it now!
山崎の合戦場をあるき、石清水八幡宮に参詣する
【京都・大山崎町~八幡市 2022.3.12】今年正月に天王山に登りましたが、見逃したものがあるので大山崎を再訪し、そこから桂川、宇治川、木津川をわたって石清水八幡宮に参詣します。 離宮八幡宮 大山崎・離宮八幡宮... Read More | Share it now!
信長の夢の跡・安土城址と安土の郷を歩いてみる
【滋賀県・近江八幡市安土町 2022.2.26】織田信長によって築かれた安土城は、それまでの城の概念にはおさまらない、独創的な縄張りと意匠で威容を誇っていたといわれています。そもそも守るための城ではなく、見せること、さらには魅せることに重きをおいていました。真っすぐ上へとのびる大手道からは、登りながらに山上の金色の望楼をもつ天守(天主)閣を見上げます。絢爛豪華に飾られた、その天守にはまさに天主、神たらん信長が住まわっていました。 安土駅 JR安土駅 安土駅は、駅でもあり広告塔でもあり。 安土城址 安土城址・石垣 安土城址・曲輪 自慢の一直線にのびる階段(大手道) 本来城の階段は敵の侵入や攻撃をふせぐ目的で途中に虎口をつくって屈曲させたりするものですが、この安土城は視覚効果を計算して一直線に上りあがってゆく、きわめて特異なつくりになっています。ところがその一番の見せ場の長階段がこれです。土日は工事をしないのなら、道具を片付けてもらえないのかねえ。 安土城はなにが画期的だったのかhttps://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/539262 羽柴秀吉邸跡(下階) 羽柴秀吉邸跡(上階) 上の2枚は羽柴秀吉邸の跡地とつたわる場所です。上下2階に分かれているのは、いまでいうメゾネットタイプではないですか。このあたりにも斬新さがうかがえます。きっと下の階に厩舎や薪置き場、あるいは小者の寝場所などがあり、上の階にあがると秀吉の生活空間があったのでしょう。それにしても上階から前方に見えるのは総見寺のはずですが、みごとにブルーシートで覆われています。てことは見れないということですかね。(結果:やはり立ち入ることはできませんでした) 石階段につかわれた石仏 石階段に、石なら何でもとばかりに石仏が押し込まれています。これは信仰心の有無ではなく、この当時はよその城から石垣をこわして持ちかえる、あるいは近在の社寺から石仏、墓石、石塔なんでもござれとすべて使って、より早く城を完成させることが普請役の腕の見せどころでした。姫路城にはどこから持ってきたのかでかい石棺を門柱のごとく立てて使っていますし、奈良の郡山城には石仏をよりによって逆さまにはめ込んだ「逆さ地蔵」なるものもあります。 黒金門跡 黒金門跡 今までと異なりここで階段が90度右に曲がり、虎口が造られています。ここに黒金門とよばれる立派な門があったそうで、ここからは防御をかんがえた構造になっているわけです。ところで安土城には「蛇石」とよばれる7000人のひとが命がけで運んだ巨石があったはずで、使われるとすればメインゲートにあたるこの黒金門周辺に配置されているはずなのですが、完全に行方不明になっています。 石材として使われていた仏足石 次男・信雄と子息の供養塔 信長本廟 信長の本廟 信長の本廟もここにあります。秀吉が遺品を埋葬してここを本廟としたそうです。ところで次男・信雄(のぶかつ)がどうしようもない愚物で、信長が討たれた直後になにを血迷ったか、この安土城に火を放ってすべてを消失させてしまったとの説がありますが、これは大ウソです。この話は宣教師が書き残したものですが、おそらくはキリスト教に理解を示さない信雄憎しでいい加減に書いたものと思われます。 本丸跡 天守台跡 総見寺 もと総見寺のあった地にのこる三重塔... Read More | Share it now!
かつて繁栄にわいた街・堺をあるく
【大阪府・堺市 2022.2.23】かつて堺には三好長慶から松永久秀、織田信長から豊臣秀吉と、戦国時代の有力武将が深く関わってきました。なぜ有力武将かというと、堺は巨大な富を生み出し、その富にむらがるもののふもあまりに多かったため、本人が有力でなければ弾き出されてしまったからです。富がうなるほどですから豪商もうまれます。武野紹鷗、津田宗及、今井宗久... Read More | Share it now!
日本で一番立派なお墓・仁徳天皇陵へ参拝にゆく
【大阪府・堺市 2022.2.23】堺市北部にある仁徳天皇陵を中心とした百舌鳥古墳群は、羽曳野市・藤井寺市にまたがる古市古墳群とともに、2019年7月に世界遺産として登録されました。大阪では初めての世界遺産登録ですが、はたしてこの遺産で観光客をどれだけ呼べるのか、期待よりも不安の方が大きいと思っていたのもつかの間、翌年早々に新型コロナの感染で世界中の人の動きが止まってしまい、いまに至っています。そんな中、仁徳天皇陵古墳はもしかすると仁徳天皇のものではないのではないかと先日メディアで報じていました。そこでさっそく見に行くことにしました。 三国ヶ丘駅より 南海三国ヶ丘駅階段より仁徳天皇陵古墳をみる 南海三国ヶ丘駅につきました。ここはJR三国ケ丘駅と駅舎を共有しています。駅名は同じですが、「ケ」の大きさが違います。ウソのようなホントの話です。 仁徳天皇陵古墳をぐるりと回る 柵に沿って歩いて行く 標識も各所にあります 案内にしたがって進みます 公園のようになっているところもあります 外周の道沿いにも小さな古墳や 中規模の古墳が点在しています 説明版も各所に配置されています。世界遺産に登録されて準備万端だったんですね。 仁徳天皇陵・拝所 拝所前のお濠 仁徳天皇陵古墳は前方後円墳ですから、拝所は前の方形部にあります。ですからここから見る濠は横にまっすぐに伸びています。これが方形部の幅の半分で、残り半分が背中側に伸びているのですから、いかに巨大かということです。 仁徳天皇陵・拝所 仁徳天皇陵が仁徳天皇のものではない、というのはどうやら間違いないようです。出土する土器や馬具などから、仁徳天皇埋葬時より半世紀近くあとにつくられた古墳である可能性が高いそうで、そうなると仁徳天皇の息子のものではないかと推測されるそうです。仁徳天皇についてはご存知でしょうか。夕餉ときになっても民家のかまどから炊飯のけむりが上がらないのをみて民の生活の苦しさを知り、3年間無税にするだけでなく、自身も宮の屋根の修理すらせずに節約につとめたとの逸話がのこる方です。そこから「仁徳」天皇とよばれるようになったもので、そもそもは大鷦鷯(おおさざき)天皇です。 ところで、このメディア報道について宮内庁は、そうした研究発表があることは知っているとした上で、だからといって仁徳天皇のお墓ではないと変更するつもりはありませんとコメントしています。またある研究者の方も、そういう徳のある方だったので、一番大きなものをぜひ仁徳天皇が眠っているお墓にしようと意図して、むかしの人が日本書紀などにそう記録したのではないかと語っていました。なんだかいい話ですね。 仁徳天皇陵は誰の墓?https://news.yahoo.co.jp/articles/3a5c4ee034055428f45d9251a1e44e9d1f1e2193 大仙公園 仁徳天皇陵の南にひろがる大仙公園、そこにも古墳が 堺にゆかりのある千利休の像も 堺市博物館 大仙公園内にある堺市博物館に入ってみました。 入館料:200円 履中天皇陵古墳 履中天皇陵古墳 大仙公園を南へ抜けると、履中天皇陵古墳があります。前方後円墳ですからこれは後方になります。 【アクセス】南海三国ヶ丘駅または... Read More | Share it now!
そこかしこに信長を感じる岐阜のまちを歩く
【岐阜市内 2022.2.11】織田信長が出身国の尾張をほぼ全域にわたって平定したのが1559年、そして隣国・美濃を攻略し岐阜へ移城するのが1567年。その翌年には伊勢、および畿内の山城、摂津、河内、大和などをいっきに平定しているので、美濃とその核になる稲葉山城(のちの岐阜城)を落とすのがいかに困難だったか、言いかえると美濃を手中にしたことで天下獲りが間近になったことを物語っているようです。 今回は「関西」から外に出て、岐阜のまちを歩いてみます。 岐阜駅前 JR岐阜駅前にたつ黄金の信長像 これが有名な黄金像ですか。たしかに目立ちはしますが、趣味がよいとは言い難いような... Read More | Share it now!