街歩き・山歩き,神社・仏閣,奈良

【奈良県・宇陀市 2023.2.9】奈良県の東寄りにある宇陀市は、山間にひろがる町や村で穏やかな生活が営まれている、そんな印象の土地です。ここに室生寺という寺院があります。古い歴史をもつゆえ古刹であり、知る人ぞ知るという意味では名刹ともいえます。起源はふるく、奈良時代に桓武天皇が皇太子のころ病をわずらい、その病気治癒の祈願をこの地でおこない健康を回復したことから寺院の建立が始まったと伝わっています。(他にも起源説はありますが、この話がいちばんスッキリしています)平安時代から室町時代にいたるまでは、現在の奈良市奈良公園のかたわらにある興福寺の末寺(または別院)としてその傘下にあったようですが、江戸時代になってしだいに高野山・真言宗の密教色が濃くなってゆきます。おそらくは経済的な問題ではないかと思われますが、元禄時代になり、当時の江戸につくられた護国寺に拝領されることになります。(要するに親が興福寺から護国寺にうつる)護国寺は、桂昌院が息子である綱吉(お犬様で有名な5代徳川将軍)にせがんでつくってもらった真言宗の寺です。桂昌院からの多額の寄進により大々的に改修を行うこともでき室生寺は再生します。ここにおいて正式に真言宗寺院へと宗派替えしますが、同時に高野山・金剛峯寺が女人禁制であったのに対して、ここ室生寺は女性の桂昌院が最大の支援者であったこともあり、女人も自由に参拝できるようになります。そのため「女人高野」の別称があります。ところで室生寺には東西南北に4門があり、その4門にかこまれた一帯が聖域とされていたそうですが、いまも南門の佛隆寺から室生寺へ、さらに西門の大野寺へとつづく道が室生古道として残っています。今日は、その室生古道を歩きに行きます。 伊勢本街道をあるいて佛隆寺へ 川沿いに南へあるく JR榛原駅から佛隆寺まではバス便もありますが、本数が少ないので5kmほどの道のりですから、歩いて行くことにしました。なお今歩いている道は、元・伊勢本街道になります。 佛隆寺への道標と、伊勢本街道をしめす石柱 ここで、右へそれる伊勢本街道とわかれます 佛隆寺へは緩やかな坂を登って行く 佛隆寺に到着。この長い階段を上ると境内 佛隆寺 本堂(手前)と白石神社(右奥) 左にみえる十三重石塔は重要文化財だとか 堅恵上人がここにこもって修行した石室... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,大阪

【大阪府・南河内郡千早赤阪村 2023.2.5】楠木正成と書いても、今の時代では「くすのきまさなり」と読んで、それ誰?と反応する若い人もいるのかもしれません。「くすのきまさしげ」と読みます。天皇を日本国の頂点とする勤王思想によるならば、間違いなく日本史上トップクラスのヒーローです。天皇家が分裂して争うことになる南北朝時代に、後醍醐天皇に忠誠をつくして南朝のもとをつくる人物です。同朋であった足利尊氏と袂をわけて戦い敗れますが(湊川の戦い)、それも10万もの足利勢を少数で迎え撃つべく練り上げた戦略を後醍醐天皇に却下され、敵の大軍に玉砕覚悟で挑んでゆく私心のない姿があたかも仁義勇を象徴するかのようで、むしろ評価を上げます。足利尊氏がひらいた室町時代をのぞくと、戦国時代から江戸時代にかけては、軍事の天才として「多聞天」の化身と崇敬されます。(四天王として祀られる場合には多聞天、単独では毘沙門天といわれます)また明治時代には正一位を贈られます。正一位は位階のなかでももっとも上のもので、幕府の将軍であるとか関白など公卿の最上位にあるもの以外では、例外中の例外といえます。ところが昭和の時代になると、崇敬されることに変わりはないのですが、その私心のない忠誠心を都合よく利用されることになります。楠木正成は湊川の戦いで敗れ、「七度人として生まれ変わり、朝敵を誅して国に報いたい」と言葉をのこして自害しますが、太平洋戦争において日本帝国軍部はこの言葉を借用し「七生報国」なるスローガンを掲げます。なにかというと四字熟語をつくって有難がるあたりにも何やら寒いものを感じますが、さらに楠木正成を看板がわりに利用して無策のきわみのような作戦計画を立てます。戦争末期の沖縄決戦において、じつに1800を超える戦闘機がアメリカ軍の戦艦に体当たりしてゆきます。俗にいう神風特攻隊ですが、この戦闘は「菊水作戦」と呼ばれていました。「菊水」は楠木正成の旗印です。後醍醐天皇から天皇家の菊紋をつかうよう下賜された正成は、そのまま使うのは畏れ多いと恐縮し、菊のしたに水が流れる独自の紋をつくります。どこまでも私心のない忠誠心を示しつづけた楠木正成を称えることと、その楠木正成を象徴として、どこまでも私心のない忠誠心を強要するのとは、いかに時代が変わろうとも同体にはなりえません。前置きが長くなりました。今日は楠木正成ゆかりの地、大阪府南西部にある千早赤阪村を訪ねます。 千早赤阪村へ JR富田林駅から歩く... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,和歌山

【和歌山県・高野町 2023.2.1】高野山の寺院を回るのであれば、冬の雪に埋もれた風景が一番美しいと思います。また参拝客や観光客も少なくなるので、静かで厳かな空気を心ゆくまで楽しむができます。ときには、千数百年の歴史がたしかに今そこにあると感じられる至福の瞬間に身をゆだねることができるかもしれません。絶対おすすめの、雪の高野山を訪ねてみます。高野山の歴史については、昨年お盆にたずねた際に『aruku-52 夏の高野山をたずねて歩く』のなかで簡単にですが書きましたので今回は省略します。『夏の高野山をたずねて歩く』https://yamasan-aruku.com/aruku-52/... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,京都

【京都市内 2023.1.29】京都東山といえば、いまでは東山区に属する清水寺や八坂神社など観光名所が集中する一帯を指しますが、もともとは京都の中心地から見て東に見える山々のことをいいます。北の比叡山から南の稲荷山まで東山36峰と呼ばれる、たしかに36の山が存在しますが、それらは日本アルプスのように山峰が屹立しながら連なっているのではなく、もっとも標高の高い比叡山848mを別にすれば、200m前後の山が中心で(平均標高は211m)、しかも山の連なりからは分離した吉田山(吉田神社がある)や、山と呼ぶべきなのか首をかしげたくなる円山公園のある円山などもこの中に含まれています。その意味では「東山35低山... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,佐賀

【佐賀県・伊万里市、有田町 2023.1.19】有田焼と伊万里焼は違うのかというと、むかしは同じもの、いまは違うものということになります。江戸時代には現在の有田周辺は磁器の一大生産地でしたが、出来上がったものを伊万里の港から輸出していたため伊万里焼と呼んでいたようです。(雑学の余談ですが、イランで採れた青い石をトルコを経由して欧州へ運んでいたたためその石をトルコ石とよびます。これと同じ発想です)やがて明治時代になると、生産地を重視するようになり有田で焼かれた磁器は有田焼、伊万里のおもに大川内山で焼かれたものは伊万里焼と呼ばれるようになります。同時に江戸時代の有田産の磁器は古い伊万里焼ということで古伊万里とよばれます。 大川内山 町の地図も磁器製、もちろん伊万里焼 伊万里焼の窯元があつまる大川内山にきました。ここに興味をもったのはネットでひょっこり街並みを紹介する画像を見たことに始まります。 ネットで見たのはこの橋の画像でした 素人がスマホで撮影ではあまり魅力が伝わりませんか 河原に下りて橋を見ると、こんな感じです ずいぶん手を加えた歩道ですが、気持ちよく歩けます 風鈴ではなくベルで、近づくと鳴ります 焼物(陶器)は大きく陶器と磁器にわけられます。陶器は長石という石の成分がすくない陶土を中高温で焼くため肌のあらい素朴な仕上がりとなり、磁器は逆に長石の多い磁器土を高温(1300度)で17時間以上焼くため、硬く丈夫で肌のなめらかな仕上がりとなります。また磁器土はもとが白いため染付、絵描きするのにも向いています。 街の通りは店舗や窯元など、大半が伊万里焼関係 途中に登り窯がありました 高台からこじんまりした街をのぞむ 川岸の側面に伊万里焼がびっしり 高台(展望台?)から町へもどる 今回の旅行は、家内と同伴しており、それほど長距離は歩けないので、レンタカーを借りて移動し、ポイントごとに散策しています。 伊万里 伊万里駅前... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,佐賀

【2023.1.17 佐賀市】「肥前、佐賀藩、鍋島氏」とならべても戦国時代の中心となる地域から大きく外れており、同じ九州でも島津義弘や大友宗麟のような有名武将がいたのでもなく、あまりピンと来ないかもしれません。この地はもとは龍造寺氏が領有していました。龍造寺隆信の時代に近辺の土豪を切り従え、居城としての龍造寺佐賀城を築きます。ここで史実として押さえておくべきは、龍造寺隆信の母は夫を亡くしそのとき亡き主人(夫)の菩提を弔う身でした。ところが重臣であった鍋島清房とその子直茂の武勇と才に惚れ込み、父子を完全に龍造寺家に取り込みたいと考えた彼女は、正室が亡くなった鍋島清房のもとへみずから進んで後妻としておさまります。のちに龍造寺隆信がなくなりその嫡子が幼少病弱であることにつけ入って、重臣の鍋島氏が実権を奪ったと歴史には記されています。たしかにそこは事実なのですが、上に書いたような経緯で、龍造寺家側から鍋島家を親戚として取り込み、鍋島直茂が龍造寺隆信の義弟になっていたのも事実です。また直茂は隆信のもとで獅子奮迅のごとく戦働きをしたとの記録はありますが、主君を討ったとか毒殺したとか黒い記録はありません。それゆえ隆信が亡くなれば、義弟の直茂が家督を継ぐことに無理はなく、いわゆる下克上とは意味合いが違うといえます。さらに龍造寺時代よりも領民にとって善政であったならば、これはめでたしめでたしの歴史だったのかもしれません。その鍋島直茂が龍造寺佐賀城を改修して造り上げたのが、この佐賀城です。 佐賀城へ 堀の内側にのこる大楠... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,富士山,静岡

【静岡県・焼津市~静岡市 2023.1.12】昨日は焼津海岸から静岡市との市境の大崩海岸まで歩きましたが、今日は山をつたって静岡市に入ります。山に入るにあたって、まず小山に築かれた花沢城址に寄り、むかしながらの家並みがのこる花沢の里を訪ねてみます。 花沢城址へ 焼津市街より山へと歩く 真ん中にみえる一番高い山が高草山で、その右側の少し低い山が花沢山です。右側を走っているのは新幹線の高架。ときどき横をすり抜けて行きますが、あまりに高速のため一瞬で姿が見えなくなります。 D途中から山へと道をまがると、ミカンの木が 花沢城址への向かう道から振り返ると、ミカンの木々が この道が花沢城址へつづきます 関西ではミカンと言えば和歌山ですが、静岡もミカンの産地でした。ミカンの木々には、まだいくつか実がぶら下がっています。ちなみに静岡産の「三ケ日みかん」をむかし取引先から頂いたことがありますが、とてもとても美味でした。 出丸 花沢城の出丸からは、下界の様子がよく見える しかし振り返ると、高草山からはこちらが丸見え 花沢城は今川義元の命により西の守りの要としてつくられた山城です。ところが義元が桶狭間の戦いで信長勢に討ち取られると、求心力を失った今川家の下からは家臣がつぎつぎに離散してゆきます。今川氏が守護する駿河、遠江の北に隣接する甲斐の国にはその当時武田信玄がいました。信玄が今川家のその衰えはじめた兆候を見逃すはずがありません。信玄は今川氏を平らげるべく侵攻を開始します。その最初の標的になったのがここ花沢城でした。花沢城側も果敢に抗戦したため激戦となりますが、やがて落城します。ここで気になるのは、その花沢城攻めのさいに武田信玄は向かいにある高草山に陣を敷き、花沢城を見下ろしながら戦ったと記録にあります。たしかに高草山に陣を敷いた方が有利です。ではなぜ今川家は武田軍侵攻にたいして高草山にあらかじめ砦をかまえなかったのか。それ以前に、なぜ最初からより高い高草山に城を築かなかったのか。その疑問に対する答えをさがしにこの城跡を訪ねたのですが、得られたものはなにもありません。要は今川氏側の無策であり、なぜ無策であったかといえば油断があったからで、なぜ油断があったかといえばみずからの出自と由緒に驕っていたから、とまで言うと言いすぎでしょうか。 曲輪跡 六の曲輪跡 一の曲輪と二の曲輪をしきる堀切跡 一の曲輪(本丸)跡 右の平たん部が一の曲輪、左奥が高草山 花沢の里 花沢の里は???-... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,富士山,静岡

【静岡県・焼津市 2023.1.11】富士山のビューポイントをつないで、富士山の周りをぐるっと一周歩いてみたいと、かれこれ5年ほど前から考えていました。計画を実行するうえで一番の問題になったのは、「富士山が見える日」でなければ出かけても意味がないということです。大阪に住みながら富士山の映像や画像をくりかえし眺めていると、それらは当然晴れた日のうつくしい富士山の姿ばかりを見ることになり、なんとなく富士山の近くまで行けば、いつでも晴れわたった空のもとで富士山を見られるものと錯覚していました。調べるにしたがい「富士山が見える日」は「富士山が見えない日」よりもはるかに少ないことがわかりました。日中の時間内で富士山全体が見えるのは年間にすると20%に過ぎません。さらに大阪から行くとなると、日帰り旅行を繰り返していたのでは交通費がバカになりません。せめて一泊、できれば二泊、すなわち2日連続か3日連続で「富士山が見える日」が必要になってきます。大型連休は、宿泊費、交通費とも価格がはね上がるうえに、どこも大混雑で出かける気持ちになりません。では土日、あるいは土日祝はというと、「自分が出かけられる週末」に「富士山が見える日」がうまい具合に重なることはなかなかありませんでした。昨年秋に仕事を引退しました。いつでも「富士山の見える日」に自分のスケジュールを合わせられるようになりました。 焼津海岸 焼津港... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,大阪

【大阪市内 2023.1.2】大阪の南の中心的な繁華街・難波のもすこし南に、新世界と呼ばれる下町の繁華街があります。この地の成り立ちはいかにも真っ当で、明治36年に第5回内国勧業博覧会(万博のようなもの)が開催されたのち、その跡地を有効に利用しようということで、西側は天王寺公園となり(動物園や市立美術館がある)、東側にはニューヨークの公園ルナパークを模した有料公園をつくり、さらに中心にパリのエッフェル塔からアイデアをもらった通天閣をすえ、最新の文化を輸入した「新しい世界」を作り出してゆきます。人が集まりだすとさらに映画館や遊技場が次々にオープン、その客を目当てに飲食店が軒を並べます。こうして大阪を代表する繁華街へと発展するのですが、戦後の高度成長期に入ると難波(ミナミ)や梅田(キタ)に客を奪われ、さらに全国からあつまる日雇い労働者が生活する、あいりん地区が近いためそこからの人の流入で街の雰囲気はすっかり変わってしまいます。たしかに昭和の時代の新世界は、きたない、あぶない、普通の人はいない、という状態でした。ところが時が変われば何が幸いするかわかりません。近隣に大型アミューズメント施設や商業施設がつくられると人の流れがかわり、さらに街中の昔のままの古い姿がレトロとして注目され、ついにはインバウンドもふくめ若い人達にもSNSで紹介されるそのディープな画像がバカ受けし、一大観光地と化します。今日は天気がイマイチなので初詣をかねた社寺参詣はやめ、ディープな新世界へディープな世界を堪能しに行きたいと思います。 紫色のマークが今回歩いた場所です。 法善寺横丁 法善寺横丁入口 ここは大阪でもっとも古い繁華街のひとつです。江戸時代に建てられた法善寺への参拝者を相手に店を並べていたのが基になっています。右端のひとつ奥の店が夫婦善哉(ぜんざい屋)です。 左側は空き地ではなく、法善寺の墓地 これが法善寺... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,大阪

【大阪府・高槻市 2022.12.28】織田信長より前に近内一円を手中におさめ、「最初の天下人」とも言われた阿波出身の三好長慶は、当時の室町将軍を追いやってのちも京の都に腰を据えることをせず、いまの大阪府高槻市の小高い山上に城を築き、そこから遠隔操作のごとく政に介入してゆきます。この城は近辺をながれる川の名にちなんで芥川山城と呼ばれ、いまでも石垣の一部や曲輪跡が残っています。さらに勢力を拡大して行くと、つぎは大阪平野をみわたす飯盛山の山上尾根にそって新たな城を築きます。これが飯盛山城です。三好長慶が城を築くために選んだ地をよく見ると、政の中心である京と、商売その中でも南蛮貿易の中心である堺ににらみを利かせられる場所であることに気づきます。京、堺のなかに居城を築かなかったのは、町中にみずから移り住めば京なら朝廷、堺なら商人が反発し、益少なしと見たからでしょう。幕府・将軍は軽んじていた長慶も朝廷には遠慮があり、商人には配慮があったということの証でもあります。また戦が日常茶飯事のこの時代ですから、山上に城を構える方が守るには断然有利です。飯盛山城は2週間ほど前に見て歩きました。【aruku-89】https://yamasan-aruku.com/aruku-89/今日は芥川山城を訪ねてみたいと思います。 紫色のマークが今回訪れた場所です。 高槻城と高山右近 高槻城址 高槻城址... Read More | Share it now!