街歩き・山歩き,城郭・史跡,京都

【京都市 2024.12.31】幕末から明治維新への時代の推移とは、そもそも徳川幕府の力が衰え国政をになうことが覚束なくなってきたことから、幕府の老中・安藤信正がすすめた幕府と朝廷が融和して国政を行おうとする公武合体の動きに端を発します。これに対して薩摩藩の島津久光はおなじ公武合体でも朝廷と幕府に雄藩もくわわる新バージョンを提唱。ところが尊王思想にどっぷり浸かった勤皇派(とくに長州藩)にとっては朝廷・天皇と幕府・将軍を同格に据えるとはもってのほか。さらに当初は尊王とは攘夷の考え方が主流であったため幕府が外国に対して媚びへつらう(かのような)姿勢を目の当たりにして怒りが爆発。ついに長州藩を中心とした勤皇派が倒幕派となって暴走をはじめます。それに対して幕府と関係のつよい会津藩や桑名藩は佐幕派となって対抗、刃傷沙汰がついには市街戦へと拡大してゆきます。※ひとくちに攘夷といっても戦争をしてでも外国を追い払おうとする先鋭的もの、相手有利の一方的な条約は破棄するといった穏便なもの、その考え方はさまざまでした。※佐幕派には尊王思想はなかったのかというとそうではなく、勤皇派のように明確に打ち出していないだけで当時は多かれ少なかれ日本人はみな尊王思想が基本にありました。そんな中で、主義あるいは思想として幕府をまもろうとしたのか、攘夷だとか開国だとか少しでもアタマのなかにあったのか、なんとも疑問だらけの、そして得体のしれない存在として歴史にのこるのが新選組です。 <今回は歩いた順ではなく、話が分かりやすいよう画像を並べ替えています> 京都 JR京都駅前 大晦日であればさすがに京都市内も混雑はなかろうと考え、あえて今日出向きました。自宅から京都へ向かうときはおおむね京阪電車をつかいます。それゆえJR京都駅前を正面から見る機会はあまりないので比較ができませんが、少なくとも混雑の様子はありません。 壬生・島原 当時のものが今ものこる花街島原の大門 輪違屋... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,山梨,山さん

【山梨県・甲州市ほか 2024.12.10~13】武田信玄ゆかりの地を、1⃣で書いた武田氏館、2⃣で書いた要害山城につづき、いくつか回りました。順に書き出してゆきます。 甲斐善光寺 山門 山門から本堂をのぞむ いまの長野市一帯は武田信玄と上杉謙信とが幾たびも干戈を交えた場所であり、そこに建立された善光寺に戦火が及ぶことを危惧し、まず謙信が本尊・善光寺如来を本国越後、いまの上越市の十念寺に移したとされています。たしかに十念寺はそこから「浜善光寺」と呼ばれるようになるのですが、じつはその本尊は偽物だったようです。つぎに信玄がやはり善光寺如来が焼失することを懼れ、どうやら今度こそ間違いなく本物の本尊を甲州へと移します。その善光寺如来を甲斐の地で本尊として祀るため建立したのが、この甲斐善光寺です。 信玄はたいへん信仰心があつく心底善光寺如来が焼失することを懼れたのはたしかですが、本尊を甲斐の国に移すとともに、本家の信濃善光寺のいわゆる「門前町」もちゃっかり移転させ、おかげで当時このあたり一帯は甲州一の賑わいを見せるようになったということです。 本堂 本堂 善光寺如来のその後について書いておきます。織田氏による武田氏滅亡におよんで総大将だった信忠(信長の嫡男)は善光寺如来を自領の岐阜城へ持ち帰ります。(次男の信雄が清州城へ持ちこんだとの説もあります)ところが同年本能寺の変により信長、信忠がともに亡くなると、徳川家康のはたらきで翌年には善光寺如来はここ甲斐善光寺へいったんは戻されます。それから10余年、権力を掌握した豊臣秀吉は京都に方広寺を建立し本尊として東大寺の大仏にまさる大大仏を造らせます。ところが慶長の大地震で大大仏は壊れてしまい、秀吉は側近からの入れ知恵でしょうが善光寺如来を方広寺の本尊として祀ることを命じます。すると吉祥どころか秀吉はこのころから急に病みはじめ、祟りと怖れたのか善光寺如来にお帰りいただくことを祈念し、甲斐善光寺ではなく本家の信濃善光寺へと戻すことになります。 恵林寺 恵林寺は甲府市の中心街から20kmほど北東、いまの甲州市にある武田家の菩提寺です。信玄は京をはじめ上方から高僧を恵林寺の住職として招きますが、なかでも美濃(いまの岐阜)の崇福寺から招かれた快川紹喜上人が有名です。 山門 山門に記された「滅却心頭火自涼」 織田信忠は武田勝頼を自害させ武田氏を滅亡させると、武田領の掃討をはじめます。恵林寺については、かつて織田氏と抗戦し甲州まで逃げた武将がここに匿われているはずだと詰問し身柄を引き渡すよう要求します。しかし快川上人はここが浄域であることを理由に拒否。すると織田軍は快川上人ほか数十人の僧を山門の上に押し上げ下から火を放ちます。これに先立ち信忠は諏訪大社にも火を放っているのでどうやら神仏専門の放火魔だったのかもしれません。 下から迫りくる炎と灼熱のなか、快川上人は「心頭滅却すれば自ずから火もまた涼し」と偈げ(仏の教えや徳をたたえる韻文)をとなえながら往生したということです。 三重塔 開山堂 庭園 武田信玄の墓 「心頭滅却すれば」の偈ですが、そもそもこれは快川上人のオリジナルではなく中国の書に記されたものです。また近年の研究では快川上人は燃え盛る山門上でこのような偈は唱えていないとも言われています。 もうひとつ追記しておきます。平山優氏の『武田三代』を読んでいたらこの恵林寺山門炎上について触れている箇所がありました。山門に押し上げられた僧侶のうち16人が決死の覚悟で山門上から飛び降り難を逃れたとのこと。そのとき山門をとりかこむ織田軍の兵たちは槍を地面にふせて僧たちが逃げてゆくのを見逃したということです。ちょっと救われる話です。 見延山久遠寺 1571年、織田信長はかねてより仏門としての規律の退廃が目に余る比叡山が敵対する浅井・朝倉氏をかくまったこともあってついに全山焼き討ちの挙に出ます。その報をきいた信玄は胸を痛め、比叡山(延暦寺)をそっくり甲州へ移すことを考えます。そのとき候補地になったのがいまの南巨摩郡身延町にある身延山の久遠寺であり、久遠寺には代替え地をあたえるのでそっくり堂宇をのこして移転してもらい、残された堂宇をそのまま使って延暦寺を再興しようと企図します。 巨大な山門 長い長い石階段をのぼる(両脇に傾斜の異なる坂道もある) 当然と言えば当然ですが、久遠寺側はその要請に対して徹底抗戦もいとわぬ覚悟で拒絶します。このとき信玄は、どこまで本当かはわかりませんが、比叡山を焼き尽くし屈服させた信長と、久遠寺から移転の要請を拒否されてなす術もない自分自身との実行力の差を嘆いたとも言われています。1571年というと、信長38歳、浅井・朝倉や本願寺・一向宗徒など反対勢力に手を焼きながらも天下統一にむけて驀進していたころ。一方の信玄は50歳、当時ではすでに老境であり持病の労咳(肺結核)の症状も末期に近づき、それでいながら北条氏や上杉氏との諍いで西上(この場合は京にのぼり天下に号令する意)もままならず、ずいぶん焦っていたのでしょう。このあたりは信玄の人間らしさがもっとも垣間見える時期です。 仏殿(左)、客殿(右奥) 仏殿より 祖師堂 祖師堂より本殿と五重塔 祖師堂にて 五重塔 信玄は自分の余命が残り少ないことを自覚し西上をよほど焦っていたのでしょう、翌1572年甲斐を発ち西へと進軍をはじめますが、その途上で(戦死ではなく)病没します。 信玄築石 本栖湖と精進湖をつなぐ場所に中央往還(という名の道)が通っており、中世には軍用道路として利用されていました。その一部に「信玄築石」とよばれる溶岩をつみかさねた石垣のような防壁があります。どのような目的でつくられたのか判然とせず、もしかすると信玄とは関係ないかもしれません。(武田軍が富士の樹海をぬけて進軍したという記録はあります) 中央往環をあるく 樹海のなか人っ子ひとりいない... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,山梨

【山梨県・甲府市 2024.12.9】まちがいなく武田信玄は戦国時代最高の武将のひとり、なのでしょうか。いかに戦さに強かったか – –... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,花、紅葉見ごろ,山さん

【大阪府・箕面市、池田市 2024.11.30】今秋は残暑が異常にきびしく長くつづいた影響で紅葉がまるで美しくありません。少々大げさですが、日本の秋の代名詞である紅葉を堪能することなく冬を迎えるのでは満足して年を越せません。四季にめぐまれた日本で生まれた以上は常にその四季がおりなす自然の美を満喫したいものです。どこか見逃していないか関西の紅葉の名所を探していたところ手頃な距離(個人的な指標として自宅から往復の交通費が1,000円以内)に箕面の滝がありました。箕面ならば入場料も拝観料も志納金も要りません。プラスワンとして、かねがね訪れたいと思っていた池田のカップヌードルミュージアムに寄ってみます。電車を途中下車するため交通費が1,000円をすこし超えますが、ここもラーメン作りの体験などを希望しなければ入場無料です。 箕面の紅葉 阪急箕面駅の改札を出ると、この時期ならば北へ向かって人の流れがあります。流れにしたがって歩いていけば直に紅葉が見えてきます。駅から滝までは渓流沿いの道を2.7km歩くことになりますが、この道沿いに紅葉がつづきます。 それにしても、人が多い。 色づき方が良好というか、ここの紅葉は例年どおりの「紅葉」です。川や池があるとその水面から水蒸気となって水分が供給されるため紅葉が美しくなると聞いたことがあります。くわえて今年は残暑が異常に厳しかったですが、その間も渓流をつねに水が流れていたためここは暑さが和らいでいたのではないでしょうか。 ただし、人は多い。 龍安寺・山門 龍安寺境内 箕面の滝 のんびり歩いて1時間ほどで滝につきましたが、ここだけは紅葉が「見頃過ぎ」のようです。 ネットで「箕面、紅葉」で検索すると、瀑布を背に真赤なモミジ(カエデ)の画像が目に飛び込んでくるでしょうが、その真赤なはずのものが右に見える枯れ色の樹です。なお下の人混みは途切れることがありません。下で写真撮影をするのであれば、スマホなりカメラなりを頭上にもち上げて人混みの頭越しに撮ることになります。 池田のカップヌードルミュージアム ミュージアムの前にたつ安藤百福氏の像チキンラーメンを手にカップヌードルの台座の上に 安藤百福氏はチキンラーメンのかたちで世界で最初にインスタントラーメンを発明し、さらにカップヌードルを世にだした偉人です。 なお日清食品はおなじ「粉」関係というだけで、美智子上皇后の実家にあたる日清製粉とはまったく関係がありません。安藤百福氏は小屋で麺をこねながら独力でインスタントラーメンを開発した、ユニークな創業者です。(台湾出身で商売人として大阪へ移り住み帰化しています) 日清食品が販売した歴代のラーメン 敷地内にある自動販売機... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,城郭・史跡,花、紅葉見ごろ

【京都市・大山崎町~長岡京市 2024.11.28】天王山には過去2度登ったことがあります。山頂には秀吉が天王山の戦いで明智軍を撃破してのち本城とするためにつくらせた山崎城がありました。秀吉は主君であった信長の先見の明に触発されたのか、天下を治めるためには摂津の地に海に面して城を構えることが最良と考えていたようで、いずれは大坂城をつくることになります。その前段階でつくらせたのがこの山崎城ということになります。信長が徹底して一向宗の総本山である摂津の石山本願寺をつぶそうとしたのは、その地にみずから城をかまえる構想があったからで、信長の第一の子分であった秀吉には継承するという意図もあったかもしれません。それゆえ山崎城はあくまで「仮の本城」「暫時の本城」であったはずです。ところが山崎城を巨城と表現している記述をしばしば見かけます。仮の、あるいは暫時の本城が巨城であるはずがありません。これは確認しておく必要があると、あらためて天王山に登ることにしました。 天王山をのぼる JR線の踏切越しに天王山を見る 一般にば天下分け目の戦いと言えば天王山の戦いのように伝えられていますが、実際には天王山において干戈を交えたことはなく、その山麓の東側、淀川沿いの平地で戦いはおこなわれました。それゆえいまでは土地の名前から山崎の戦いと改められつつあります。 宝積寺の山門を入り 三重塔を横に見て 本殿横の山道を登ります なかなかワイルドな登山道です 秀吉の活躍を描いた屏風絵風の陶板画 天王山へはいくつかの登山道がありますが、この道は「秀吉の道」と名づけらています。道沿いには、秀吉が中国大返しで畿内へ駆けもどり明智光秀を討伐して天下取りの足がかりをつくる活躍を、陶板画を順に並べることで解説しています。内容は思いっきり秀吉びいきです。 展望所から合戦のあった一帯を見わたせる 合戦時の両軍の配陣 十七烈士の墓幕末の禁門の変でやぶれて自刃した尊王攘夷派の墓 途中にある三社宮 酒解神社は産土神・牛頭天王を祀る天王山の山名はこの牛頭天王に由来 ここからもう少し山道をのぼると山頂 山崎城 本丸にあたる曲輪、奥が天守台相当部か? 一段高く、天守台跡と思われる 天守台跡から下の曲輪をみる 天守台にのこる石垣跡 本丸下にある二ノ丸相当の曲輪 井戸は二ノ丸に続く小ぶりの曲輪にある 曲輪の外周にのこる土塁 山崎城に関してのこっており見られるのはこれだけです。秀吉はこの城をつくっても腰を落ち着けることなく早々に大坂城を築かせていることから考えてもやはり一時的な本城であり、ここに時間と金をかけて巨城をかまえる必然性がありません。「居城」を「巨城」と誤植したのではないかとさえ疑ってしまいます。 山崎城が巨城でなかったことは確認できましたが、これだけで下山して帰宅したのではあまりに物足りません。そこで小倉神社のある東方面へとくだり長岡京まであるいて紅葉の名所でもある光明寺を訪ねてみることにしました。 小倉神社にむかって下山 下山とはいっても山中をいったん西へ それから東へと旋回するように歩きます やがて遊歩道のような道を下ってゆきます 小倉神社秀吉が合戦に先立ち戦勝祈願をしたとか、ホンマか? 光明寺 光明寺は昨年夏にたずねて、モミジの青葉が濃密に繁茂して木陰をつくるたいへん雰囲気のよい御寺と記憶していたので今回紅葉狩りのために再訪しました。さきに結果からいいますと、青葉が3割、見頃が4割、変色または枯葉が3割、色づきが遅れているのではなくあまりに長びいた残暑のために紅葉も乱れてしまったということでしょう。それでも人出は前回の100倍ほど。※写真撮影についていえば、どこを撮ってもきれいといえるものではなく、部分部分で切り取るように撮影しました。またきれいな写真が撮れそうなところには必ず人がわんさかいて紅葉を撮ったのか人を撮ったのかわからない写真になりがちです。 総門 総門からつづく参道 参道 参道 観音堂で特別公開されていた秘仏写真撮影可とけっこう大きな字で書かれていました 御影堂... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,滋賀

【滋賀県・東近江市 2024.11.24】今日は滋賀県の東近江市、赤神山(太郎坊山)の中腹に鎮座する阿賀神社(太郎坊宮)をたずねます。唐突ですが、日本の神様の話になります。天照大御神(アマテラス)と素戔嗚尊(スサノオ)の誓約(占い... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,長野

【長野市 2024.11.6】信濃・川中島の戦いは日本史上もっとも有名な合戦のひとつでしょう。この合戦の特徴は、あわせて5度の戦いを通してじつに12年に及ぶこと、そのなかで第4次合戦といわれる1561年におこなわれた八幡原の戦いのみが大規模な合戦であり、他の4つは小競り合いに終始するかあるいは睨みあって対陣を続けたにすぎないことです。発端は、信濃の地を領有する村上義清にたいして領地拡大をはかる武田信玄がじわじわと侵攻をすすめついに居城である葛尾城を落とします。ここにきて義清は自力では支えきれないと判断して越後の上杉謙信に助けを求めます。※武田信玄はこのころ晴信と称していますが、ここでは信玄でとおします。※上杉謙信もこのころは長尾景虎、その後なんどか改名するもののここでは上杉謙信でとおします。 なぜ大規模な合戦をさけて12年もの長期にわたったかと言えば、謙信にとっては村上義清から助勢の要請があっての、いわゆる義の戦いであり、自分の領土(越後)を侵されているのではないため武田軍を殲滅させる必要はなく追い返せば用は果たせると考えたのでしょう。信玄は武将としてデビューしたばかりのころに村上義清との戦で2連敗しますが、その後に合戦の前にはまず調略で相手の足元を崩してしまうことを得手としてからは連戦連勝。ところが川中島での相手は欲ではなく義のために、しかも地元ではなく他国から出張ってきた謙信ゆえ調略のやりようがない。かといって信玄としては強攻はしたくない。なぜなら信玄の領土である甲斐の国は山ばかりでもともと人が多く住める土地ではありません。しぜん領民(人口)がすくないため一度の戦で大量の死傷者を出すと、たとえその戦には勝利したところで軍力をもとに戻すのに時間がかかる。それではなぜ第四次の合戦だけが大規模な激戦になったのか。この合戦のまえに謙信は関東管領に叙せられます。すなわち幕府から関東の統治を任せられたわけで義侠心のつよい謙信としては自分の力で関東地方の情勢を安定させようと決意します。その結果まずは関東全域を武力で制覇しようともくろむ北条氏の横暴に憤り、越後を発つと上野から武蔵へと破竹の勢いで進軍します。北条氏の支城を片っ端から落としてゆくその鬼神のごとき姿に諸国の武将たちもぞくぞくと従い、ついには北条氏の居城である相模の小田原城を10万もの大軍で囲むことになります。ここで北条氏がうった手は、見方によっては相模の後背に位置する甲斐国の武田信玄とむすび後方から牽制してもらうことでした。長期の対陣に倦みはじめていたことにくわえ、謙信が越後の龍なら甲斐の虎と怖れられる信玄が動き出したことで小田原城を囲んでいた関東諸国の軍勢は散り散りになってしまいます。所詮は烏合の衆にすぎなかったのでしょうが、謙信としては面目丸つぶれと感じたのでしょう。ここはいったん越後に帰りますが、すぐに軍勢をととのえて信濃・川中島へと進軍します。この第四次合戦だけは謙信にとって義の戦ではなく、信玄に対する意趣返しだったとみるべきです。 キツツキ戦法はホントかウソか 八幡原の古戦場跡にあった案内板より抜粋 越後の春日山城を発った上杉軍は善光寺をへて妻女山(図の上中央)に陣取ります。一方の武田軍は、いったん茶臼山(図には入っていないさらに下方向)に陣取りますが、なぜか移動して海津城(図の左上)に全軍が入ります。 ※この図は右下が北になっており東西南北が正確にわかりません。 武田軍は海津城にて軍議をひらき通説では軍師の山本勘助の献策により、全軍を2つにわけて一隊は深夜闇にまぎれて妻女山にあがり奇襲を敢行、意表を突かれ逃避する(すなわち下山するしかない)上杉軍が平地に下りてきたところを別の一隊が強襲して壊滅する、という作戦をとります。これは啄木鳥が樹木をくちばしで突いて虫を追い出す習性からキツツキ戦法と呼ばれますが、もちろん後世における命名です。ここで疑問があります。武田軍は(諸説ありますが)総勢2万、そのうちの1万2千が奇襲部隊で平地にのこる本隊が8千というのが通説ですが、これは不可解なことこの上もありません。まず闇にまぎれての奇襲に1万2千もの大軍が動けばその気配を消すことは不可能でしょうし、人がひとりか二人ずつしか登れない山道に1万2千の大人数がとりつけばどれほどの長蛇の列になることやら、効率の悪いこと甚だしい。さらに上杉軍の総勢(これも諸説ありますが)1万3千が逃れて下山すれば仮に1割の死傷者を出していたとしても1万以上の戦力は残っていることになり、それを迎え撃つ武田軍本隊が8千ではいかにも心もとないでしょう。ところで現実にはどうなったかというと謙信は裏の裏をいき、かがり火をのこして妻女山上にいると見せかけ別のルートをたどって下山、8千の軍勢で待ちかまえる武田軍本隊に1万3千の総力で襲いかかったということです。ではいかにして謙信が武田軍の作戦を見破ったかというと、その日の夕方に海津城からあがる炊煙が通常より多いことから夜食の準備をしていると考え、そこから夜襲があると察知したというのです。そんなアホな。これではまるで仁徳天皇が炊煙のすくないことから民の生活の厳しさをしり徳政をしいたという故事を思いださせる戯言レベルです。 海津城(いまの松代城)から妻女山をのぞむ 武田信玄のもとで軍師をつとめたとされる山本勘助ですが、いぜんはその存在すら疑問視されていました。勘助が登場するのは江戸時代にかかれた軍記物「甲陽軍鑑」のみで、ほかの記録にその名が見当たらないだけでなく、いまにのこる信玄の数々の書状にも勘助のことはいちども書かれていません。 最近の研究で実存自体は証明されたようですが、ホントに軍師だったのか、どれほどの活躍をしたのかまではいまもわかりません。 妻女山から川中島一帯を見わたす海津城は右の樹木にさえぎられ見えない 一方の上杉謙信にも宇佐美定行という軍師がいたということになっています。しかしこの人物は実存はしたようですが、謙信の軍師として活躍したというのはほぼウソです。謙信は軍神・毘沙門天そのもの戦の天才で、軍師を必要としませんでした。 ではなぜ宇佐美定行と固有の名をもった人物が軍師として登場するのか、それについては後で述べます。 八幡原の戦いのホントとウソ 八幡原は史跡公園になっており、 公園内には八幡神社があります 八幡神社 さらに奥へ進むと、長野市立博物館がありますここに展示されている川中島合戦の資料はまるでダメ。 信玄と謙信の一騎打ちの像 小説や映画では、霧が晴れると武田軍の眼前にこつぜんと上杉の軍勢が姿を現すという劇的なシーンが描写されます。裏をかいたつもりがさらにその裏をかかれたのですから慌てふためくのは武田軍。上杉勢は怒涛の勢いで攻めかかり、幾重にもかさなる武田の陣を突き破りつつ、ついに謙信が信玄に討ちかかる瞬間がこの像です。 ここでも疑問があります。謙信は白頭巾をかぶっていたようですが、謙信が仏道に帰依して法号・謙信を名乗ったのはこの八幡原の戦いから9年後、剃髪して法体となるのはさらにその4年後ですからこのときに白頭巾をかぶっているのは道理があいません。 「甲陽軍鑑」など武田氏に好意的な軍記物には、信玄は慌てず、まさに山のごとく動かず軍配団扇ひとつで謙信の一太刀を受け止めたとなっています。これをもって信玄の豪胆を示すとともに、深読みすれば謙信の太刀さばきの未熟さを伝えたかったのでしょう。ところが紀州徳川家にのこる川中島の戦いをえがいた屏風絵には、川へと逃げる信玄を謙信が追いかけ一太刀浴びせようとする場面が描かれています。紀州徳川家は越後流軍学を取り入れており上杉氏に好意的に、逃げる信玄&追いかける謙信の構図をのこしたのでしょう。 余談ですが、「敵に塩をおくる」という慣用句、領土が海に面していない甲斐国の信玄が敵対する今川と北条の両氏から塩の流通をとめられ苦渋していたところ、日本海に面する越後の謙信が困っているものを援けるのが人たるものと敵対していながら塩を送った逸話からうまれたとされていますが、これはまっかなウソ。今川氏や北条氏に頼らなくても武田氏が信濃、美濃、飛騨あるいは上野から塩を買い付けることは可能です。そもそも甲州金でつねに金庫がうるおっている武田氏を利にさとい商人が見捨てるはずがありません。 ホントかウソかわからないまま歴史に残った山本勘助 山本勘助の墓は八幡原から千曲川を渡った対岸にある 石田三成の家臣で関ケ原合戦で活躍した島左近について調べていたときは、資料になるものが少ないだけでなく興味をもって調べる人もすくないのか参考にする記述さえ容易に見あたりませんでした。ところが山本勘助については信用できる一次資料はないものの、後世の人の関心が満々で様々な見解が満ちあふれており、どれを信じていいのやら。一説では、山本勘助はやたらにカンだけはよくてすべてをカンに頼っていたので、ヤマカン(山勘)という言葉がうまれたなんていう、褒めてるのか貶しているのかわからない記述もありました。 山本勘助は隻眼で顔や身体にも多くの傷がありさらに足がわるくて歩行が乱れていたといいます。そのため先に長期逗留した駿河で今川氏に臣事しようとしたときにはその外見の悪さから断られたものの、つぎに向かった甲斐では信玄は部下から伝え聞いただけで100石で取り立てることをきめ、さらに本人と会って話をしてからは大いに気に入り即座に300石に加増したとか。これなどは今川家の見る目のなさを皮肉り、信玄の人を見る目の確かさを喧伝したものと思われます。 さて山本勘助に関してはなんとか実存したことが確認できるだけで軍師だったのか否かは不明、謙信の軍師とされる宇佐美定行については実存は確認できるものの軍師であったとは考えがたいということになります。ところが宇佐美定行の子孫と称する宇佐美定祐なる人物がたしかに存在し、紀州徳川家に臣事していたことが記録されています。この人物こそが越後流軍学を紀州徳川家につたえ軍学者として取り立てられた人です。ここからは想像ですが、宇佐美定祐は先祖の宇佐美定行を架空の謙信の軍師とし、その子孫であると自分にハクをつけて紀州徳川家に売りこんだのではないでしょうか。 川中島合戦の実態を揺るがす?ホントかウソか さいごに第四次川中島の戦いに関して最大の疑問を書いておきます。本来ならばこれをまず先に述べねばならないのですが、そうすると後の話の展開がむずかしくなるのであえて最後にしました。下の図を見てください。 雨宮渡にある案内図より抜粋 これは最初に掲載した川中島での両軍の陣の配置をもうすこし広範囲にえがき上を北にしたものです。あらためて陣取りの経緯をのべます。上杉謙信は右上の春日山(越後の居城)から進軍し善光寺にいったん入り、そのあと右下の黄色い山としてえがかれている妻女山に陣を敷きます。すぐ上すなわちすぐ北には信玄の支城である海津城があります。たしかに海津城を山上から監視するには好都合でしょうが、この位置はみづから自分の(越後への)退路を塞いだことになります。 つぎに信玄ですがいったん左やや上に緑色でえがかれた茶臼山に陣を敷きます。妻女山のすぐ北に海津城、北西の茶臼山山上に甲斐からきた本隊、これで完璧に上杉軍の退路を断ち、絶対有利な布陣になりました。ところが武田軍はほどなく茶臼山を下り海津城へ移動してしまいます。 謙信としては自分からすすんで窮鼠となったようなものです。信玄にいたっては絶対有利なマウントポジションをとりながらゴングを聞き違えてコーナーへもどってしまったようなものです。軍神と称えられたふたりがそろいもそろってこのように稚拙な行動をとるものでしょうか。いまにつたわる川中島の第四次の戦いがあまりにも劇的な展開をするだけに、調べるにしたがい、まるでつくられたように劇的すぎると思わざるえません。 この戦いにおける死者数は武田軍4000人超え上杉軍3000人超えと伝えているものもあれば、両軍とも戦争参加者の4割が死傷したとの記述もあります。どちらにしても両軍とも戦力を回復するのに多大な時間を要する大ダメージのはずです。ところがそれぞれの戦歴を調べると、この激戦が1561年9月ですが、同年の末までに信玄はさらに2回、謙信は4回も次の戦いのため出陣しています。あまりに腑に落ちなことばかりです。【アクセス】車と徒歩【入場料】長野県立歴史館:300円【満足度】★★★☆☆ ... 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街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣

【京都府・木津川市 2024.11.19】大阪市内から真東にむかうと奈良市に到りますが、そこから北へ進路を変えるとじきに京都府にはいり木津川市があります。大阪からも奈良からも京都からも簡単にいける土地です。しずかな田園風景のなかに国宝や重文をあまた所蔵する社寺が散在していますが、平日ともなると観光客を見かけることもまれです。 その木津川市に三上山という里山があります。はっきりいうと登山愛好者にもあまり知られていない山です。山腹途中に国宝の五重塔をもつ海住山寺がありますが、登山者以外は気楽に歩いてゆける場所にはなく車が必須となるため平日は参詣者もほとんどいません。さて、今日は静かな見て歩きをたのしみに行きます。 JR棚倉駅から 「お茶の京都」の広告で全身装飾の列車でJR棚倉駅へ 駅前の湧出宮参道をぬける すぐに宅地はおわり山里をあるく 竹林のなかをすすむ 竹林を歩くことが30分以上もつづきます。京都の嵐山にある竹林のように手入れされたものではありませんが、さすがにこれだけ長距離にわたって竹林を歩いたのははじめての経験です。 登山 やっと登山気分になってきました... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,京都

【京都府・宮津市 2024.10.20】まず細川家の説明から始めます。細川氏は南北朝時代に足利尊氏のもとで要職について勃興しますが、その後も脈々と家系を存続しつづけます。明治維新後も細川氏の系譜から侯爵、子爵、男爵と計8家もの華族がうまれ、平成の時代に誕生した細川姓の総理大臣もこの家系の人です。応仁の乱ののち勢力をうしなった細川氏本流にたいして、室町時代も末期になって分流ながら足利義昭をたてて幕府再興をはかったのが細川藤孝(のちの幽斎)。それを援けたのが明智光秀。光秀は(一説では)美濃の国衆であり、一時期美濃を掌握した斎藤道三と縁故関係にあり、さらに道三の愛娘・濃姫が織田信長に嫁いでいた縁から信長に接近。ここで義昭をともなって上洛し天皇の詔(みことのり)をえてあらたな将軍に据えることで、将軍家にたいしては大きな貸しを、朝廷に対しては太いパイプをつくる利を説きます。この計略はあらたな将軍となった義昭が信長の思惑どおり操り人形となることを嫌い独立独歩の態度を示したことで破綻、それどころか信長の逆鱗に触れ義昭は追放、信長は独力で天下統一にむけて驀進してゆきます。ここには明らかに歪みがあります。義昭はこのとき将軍のままなので信長は幕府の存在(意向)を完全に無視、また相手方から頼まれて義昭を新将軍たらしめる詔をくだした朝廷も完全に無視。一説では本能寺の変の黒幕は、幕府とも朝廷ともいわれています。 一方明智光秀と細川藤孝はともに信長に仕えながら戦功をあげ、城もちの家臣として取り立てられます。さらに家同士の関係強化のため信長の勧めもあって、光秀の三女・玉(のちに洗礼を受けてガラシャ)が藤孝の嫡男(跡取り息子)忠興に嫁ぎます。それから4年後、本能寺の変。もともと盟友でもあり親友でもありさらに互いの娘と息子が婚姻しているゆえ光秀としては細川家が味方してくれるのは前提としていた感すらあるのですが、想定外なことに藤孝は拒否の返事こそ寄こさないものの剃髪して引退し、家督を忠興にゆずります。明智光秀とは関わりはないし今後も関わる気はないとの宣言といえます。南北朝時代からえんえんと「家」をまもってきた細川家のこと、状況を細心に判断し光秀に与しても利もなければ与するだけの理もないと判断したのでしょう。忠興はどうかというと、明智光秀が主君・織田信長を討ったことはまぎれもなく謀反であり、「家」の存続を考えるなら光秀の実娘の玉の存在は厄介そのもので、通常ならば離縁したはずです。ところが夫の忠興には愛する妻を離縁することはできませんでした。 宮津 宮津市内にたつガラシャの像 忠興は玉を心底愛していました。しかしその愛は偏愛であり、しだいに狂愛のおもむきを帯びてきます。 宮津の城で暮らしていたときには、玉を誰にも見らないよう屋敷の一番奥の棟に監禁するように住まわせていました。もちろんいっさいの外出を禁じていたといいます。 山上から天橋立をみる 天橋立の先、入り江部分に宮津の街がひろがっています。そこに宮津城はありましたが、おそらく玉(ガラシャ)は最後まで天橋立を見ることはなかったのではないでしょうか。 忠興の狂愛についてはいくつも逸話が残っています。有名なところでは屋敷に出入りする庭師が偶然にも室内にいる玉の姿をのぞき見てしまい、そのことに激怒した忠興が即座に庭へ駆け下り刀で首をすっ飛ばしたとか。この逸話はよく耳目にふれますが、はっきり否定しているものはないのでけっこう真実なのかもしれません。 三土野へ 本能寺の変のあと、忠興は丹後半島の山中深くにある三土野の地に玉の身柄を移します。いうまでもなく大名の正室ですから身辺の世話をする侍女数名、さらに護衛のための武人と男手十数名程度がしたがいます。宮津城で暮らしたところで人に見られないよう屋敷奥に軟禁しているのですからわざわざ山奥に移さなくても良かろうにと突っ込みを入れたくもなりますが、資料によってはいったん離縁したと書いているものもあるので、もしかすると世間には離縁したこととし身柄を隠したのかもしれません。 棚田のひろがる山里 ここまででもずいぶん山奥へと入ってきましたが、三土野はさらに山奥の奥です。それどころかさらに奥へと進んだところ道が荒れはてて通行止めになっており、Uターンしていったん山をくだり違う道からあらためてアプローチすることになりました。とにかく車でたどり着くのさえ大変です。 なんとか三土野に着きました 大滝... Read More | Share it now!