街歩き・山歩き,神社・仏閣,花、紅葉見ごろ,兵庫

【兵庫県・高砂市 2024.3.2】大阪からJR神戸線にのって加古川駅をすぎると宝殿駅につきます。なんとも立派な駅名ですが、ここから西へ2kmほどのところ岩山の中腹に、その岩盤をけずって造った(正確には造りかけた)石の宝殿があり、そこから宝殿駅と命名されたようです。10代崇神天皇の時代に疫病がはやり、その平癒と平安のため天皇の勅願によりこの石の宝殿を御神体として創建されたと伝わるのが生石神社です。生石神社は「おうしこじんじゃ」と読みます。なぜそう読むのかは不明です。不明というと、なぜここに石の宝殿が造られたのか、そもそもこの巨石は宝殿として削岩されたものなのか、そういったこともすべて不明です。  生石神社 中央に見えるのが生石神社、左には採石場 生石神社周辺には採石場がたくさんあります むかしから播磨には岩山が多くあることは知られていたようで、いま奈良や大阪にのこる古墳のなかに収められている石棺は、このあたりから巨石を切り出して運んだとの説もあります。 鳥居をくぐり急階段をのぼる... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,大阪

【大阪府・高槻市~茨木市 2024.2.24】日本全国には16万基をこえる古墳が残っているそうで、神社の数8万、寺院の数7.6万の合計を上回ります。ちなみに全国のコンビニの数は6万弱なのでおよそその3倍。それだけ数多ある古墳の中で、おそらく全国唯一とおもわれる、自由に立ち入ることができる天皇陵としての古墳が大阪府高槻市にあります。今城塚古墳と呼ばれているものがそれで、26代継体天皇の陵と推定されています。たとえば石舞台古墳はそのなかに入って見学できますが、被葬者は蘇我馬子と推定されており、馬子は実力者でしたが皇族ではありません。立ち入れる古墳は、立ち入っても保存上の問題がないもの、崩壊などの危険がないもの、そして「天皇家の陵、墓ではない」ものに限られます。(天皇、皇后、皇太后のものを陵、そのほかの皇子や皇女のものを墓と区別します) では、なぜ継体天皇陵すなわち今城塚古墳には入れるのか。この今城塚古墳は墳丘の長さ190mの巨大なものですが、その西2kmほどのところに太田茶臼山古墳とよばれるさらにひとまわり大きい墳丘長226mの古墳があります。明治時代に、おそらく紙の上でのこる資料と大阪北部ではもっとも大きいという事実から、この太田茶臼山古墳こそ継体天皇の陵であると確定したのでしょう。天皇家の陵および墓への一般国民の立ち入りがいつどのようなかたちで禁じられたのかはよくわかりませんが、昭和22年に宮内府(のちの宮内庁)が発足すると、その管轄のもと陵・墓ともに柵でかこわれ、一般国民は各一ヶ所にもうけられた拝所から御陵あるいは御墓にむかって拝礼するようになります。ところが、昭和から平成にかけての両古墳の発掘調査の結果、太田茶臼山古墳は継体天皇の没年(西暦531年)より1世紀ほど前につくられたものであり、また今城塚古墳こそ天皇の陵にふさわしいことが判明します。この発見は学術的には賞賛すべきものだったはずですが、この発見に困惑した人達もいたはずです。報告をきいた宮内庁は「... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,和歌山

【和歌山市 2024.2.7】関西人でなければ関西の各県がどのように隣接しあっているかよくわからないかもしれません。大阪府の南端は和歌山県の北端と接しており、その境界線にそって東西に連なっているのが和泉山脈です。山脈とはいっても山々の標高はせいぜい500mを越えるくらい、大方の山は300m前後に過ぎません。ところが周囲に高い山がないだけでなく瀬戸内海が近いこともあって、標高が低いわりに、言い換えると登るのが楽なわりに結構な眺望を楽しめます。オススメは冬のおだやかに晴れた日。いわゆる「陽だまりハイク」を楽しむには絶好の場所です。今日はその中でも西の端、すなわちもっとも瀬戸内海に近い位置にある四国山に登ってみます。四国山は、四国が見えるという意味から名付けられたのでしょうが、さて今日は四国が見られますかどうか。 加太さかな線・めでたいでんしゃ 和歌山市街と加太(港)をむすぶ観光列車 「めでたいでんしゃ」は乗るだけで楽しい 吊革にサカナ、広告一切なし 「めでたいでんしゃ」はすべての便で走っているわけではありません。実はこの写真は加太(かだ)から帰りの便で乗ることができ撮影したもので、あさ往くときは普通の車両でした。 登山口へ 西ノ庄駅で下車、一般道を上がる... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,鳥取

【鳥取市 2024.1.30~2.2】家内の実家から留守にするので4日ほど母親の世話をしてもらえないかと依頼がありました。義母は家の中での介助が必要なほどではなく、義母だけなら家内ひとりで用は足りるのですが、この家にはほとんど人間とおなじように暮らす犬がふたりいます。それゆえ母+犬犬の3人の世話をする必要があり、私は犬犬の担当として出向くことにしました。 湖山池 湖山池にて... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,城郭・史跡,京都

【京都市 2024.1.27】昨年の1月に滋賀県の坂本から比叡山に登ったのですが、日吉大社の鳥居をくぐりそうして神域に足を踏み入れてから登山を始める、それが正しい比叡山の登り方だとそのときのブログに書きました。あくまでこれは自論であり、文中でも「個人的な自論」とことわっています。ところが先日、京都に住む知人からそのブログを読んで、これでは京都が軽視されているとクレームをつけられました。京都を軽視するつもりがもちろんないだけでなく、そもそもこの私的なブログをそれほど多数の人が読んでいるはずもなく、ましてやこのブログを読んで比叡山の登山ルートを決める参考にする人となると、過去に一人でもいたのかどうか。それはそうだが、と知人が言うには、滋賀県側からの登山ルートを薦めながら京都側からの登山ルートについて何も書かないのは片手落ちではないか。なにが片手落ちなのかよくわかりませんが、学生時代に京都に出てきてその後も京都好きでずっと京都で暮らす知人と話をしているうちに、久しぶりに京都側から比叡山に登るのも悪くないかと思うようになり、別れるときには近々修学院からのぼって大原まで歩いてみると約束していました。自分の愛する街で暮らす人から我が町自慢をきくのは楽しいだけでなく、最高の情報収集になります。 修学院から雲母坂、キララ坂城跡 京都側から比叡山に登る場合、もっともポピュラーなルートは京都一周トレイルにしたがって銀閣寺手前から北白川をぬけて上がるか、修学院から音羽川をさかのぼり離宮脇をのぼるか。今回はおよそ20年前にはじめて比叡山にのぼったときに使った後者の道を選びました。 修学院駅から音羽川をさかのぼる... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,富士山,静岡

【静岡県・沼津市 2024.1.16】駿河の興国寺城は、戦国時代には北条氏、今川氏、武田氏の勢力争いのいわば境界地にあたり、それぞれに奪い奪われを繰り返します。さらに信玄の今川氏討伐、信長の武田氏討伐、秀吉の北条氏討伐を経て豊臣氏の勢力下におかれ、その豊臣氏は家康に滅ぼされ最後には徳川氏が支配者になります。興国寺城の歴史を見ていると、戦国時代の大物がずらりと登場することになるのですが、源をたどれば北条氏の始祖・伊勢宗瑞(あるいは伊勢新九郎)のちに北条早雲とよばれる、これまた大物に行きつきます。宗瑞が京の都において幕府の仕事にかかわっていたころ、駿河の今川家では8代当主・義忠が戦死しますが、嫡男が幼少であったため家督争いがもち上がります。その義忠の正室が宗瑞の実姉であったことから、宗瑞は駿河に呼ばれ調停役を務めることになります。ここで二つの説があります。宗瑞の知略で相続争いは血を見ることなく無事に解決したというもの、そうではなく宗瑞はあくまで幕府の代表として赴いたため幕府の威光のまえに逆らうものがなく無事解決したというもの。どちらにしても宗瑞の計算された立ち回りがあったからこその無事解決であり、この時点ですでに宗瑞には一旗も二旗も上げる覚悟があったということではないでしょうか。たしかに宗瑞はこの上首尾の調停の功により富士下方12郷をあたえられ興国寺城の城主となります。(ちなみにこの当時、駿河の国は7郡59郷で成りたっていたようなので、宗瑞はその2割ほどをもらい受けたことになります。あきらかに幼い当主の後見人的な立場を得たものと考えられ、同時に大きな発言権と実行力を手にしたとも言えます) 興国寺城へ ... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,香川

【香川県・琴平町 2024.1.9】香川県の西寄りに琴平山はあります。香川県内でもっとも高い峰をもつ北側が大麻山(おおさやま)、そこからなだらかに続く南側を象頭山と称し、金刀比羅宮が鎮座しています。金刀比羅宮の本宮に祀られるのは大物主神(おおものぬしのかみ)。日本書紀に登場する神様で、本来の名は大国主命(おおくにぬしのみこと)、出雲に瑞穂国をつくり出雲大社に祀られる神様ですが、また因幡の白兎をたすけた話でも有名で、その話の中では大国様(だいこくさま)として紹介されています。(大黒様は七福神でまったく別の神様です)どうやら大国主命は出雲からはなれ他の地へ行幸したときには大物主神と称されたのか、大和でも三輪山で大物主神として祀られていますが、ここ讃岐でも昔は瀬戸内海にうかぶ島であった琴平山に行宮(あんぐう:神様の仮の居所、頓宮ともいう)を構えたことからそこに金刀比羅宮を建立し大物主神として祀られることになります。 小中高校時代は岡山県の瀬戸内海側に住んでいたため、そのころにはよく親に連れられ、あるいは同級生と遠足気分でこの金刀比羅宮はたびたび訪れましたが、今回数十年ぶりに門前町から785段の石段を上がって参詣したいと思います。 参道 金刀比羅宮北神苑にたつ高灯篭 土産物屋や旅館が立ち並ぶ 名物の石段登りがスタート 初詣が終わり、店の半分は閉まっていた 大門... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,岐阜

【岐阜県・大垣市 2024.1.5】大垣城が歴史の中ではっきりと記録されるのは、美濃の斎藤道三と尾張の織田信秀(信長の父)による争奪戦が繰りひろげられるようになってからです。地理的に言うと大垣城は尾張からずっと美濃の領地へ食い込んが位置にあるのですが、その大垣城を織田氏に奪われるというのは美濃をおさめる斎藤氏にとっては喉元に刃を突き付けられたようなものでしょう。ところが織田信秀が亡くなり、跡取りの信長がその威力を発揮するまでに至らぬうちに斎藤氏は尾張の勢力をぐぐっ押し返し、長良川をはさんで国境をしっかり固めます。歴史を振り返ってみると、信長はこの美濃との国境を越えるのに大変な労苦を強いられたようです。義父である斎藤道三が息子・義龍との戦いに敗れて果てたのが1556年、そのときから信長は美濃侵攻をはかります。しかしその後1560年に桶狭間で今川義元を討って全国にその名を轟かせ、1561年に義龍が病死し嫡男・義興との小戦には勝利しますが、美濃侵略までにはいたりません。このあたりから信長は美濃攻めの方針を変えたようです。義龍を失って屋台骨が揺らぎはじめた斎藤氏の家臣たちの調略を始めます。5年の時がながれ機が熟したころ、当時まだ足軽頭ていどだった秀吉をつかって長良川の対岸(美濃側)に砦を築かせ、そこを拠点に一気に美濃に押し寄せ、翌1567年に美濃を完全に掌握します。この件(くだり)はよく把握しておかねばなりません。秀吉が長良川の対岸に砦を築いた(これが墨俣一夜城)おかげで信長の美濃侵攻が可能になったと、後世にはすべて秀吉の手柄のように語られていますが、そのまえに美濃の有力な国人衆を懐柔してその諸城を手にし、さらに斎藤家の重臣である西美濃三人衆すべてを味方につけています。すなわち美濃に侵攻してきた織田軍に対して全力で交戦する美濃兵はすでにほとんどいなかったということです。 大垣城 あらかじめ書いておきますと、大垣城は石垣と曲輪を遺構として残すのみで、天守をはじめ櫓や塀などはすべて鉄筋コンクリートで復元したものです。 城のそばに鎮座する護国神社 大垣城... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,和歌山

【和歌山県・日高郡日高川町 2024.1.1】 2024年最初の見て歩きはどこにしようかといろいろ考えたのですが、有名な神社仏閣は初詣でごった返しているであろうし、天守がのこる城や歴史資料館の類は元旦ということで休館していると思われるし、それならば山登りか山城しかない、加えて年始に尋常でない人出のところが近所にあると交通機関が混雑するのでそれらを避け、和歌山県の御坊市の東、日高郡日高川町にある手取城を訪ねてみることにしました。 吉田八幡神社 神社入口 吉田八幡神社 JR御坊駅からまずは道成寺に行くため歩いていたところ、20分ほどで神社の入り口が見えました。吉田八幡神社とあります。今年の初詣はここにしようと思います。ところで初詣に行くなら神社か寺かどちらにすべきか。今年一年の安全、健康、幸運などなどを「神」に祈るのですから神社だと思っていたのですが、調べてみたところどちらでも良いそうです。ただ、これからゆく道成寺は天台宗の寺で、先祖の菩提寺でもなければもちろん自身が天台宗の信徒でもなく、そこへ元旦の朝から10円の賽銭で祈願にゆくのも遠慮があります。その点、八幡神にとくべつ信仰があるわけではありませんが、神道そのものが万物に神は宿るといっているのですから、どこの神社でもウェルカムしてくれるでしょう。 道成寺 道成寺・石段から仁王門 この石段には仕掛けがあって、階段脇の土手は上に行くほど幅広になるよう造られており、そのため遠近法を逆手にとった視覚効果により階段の勾配がゆるやかに見え、訪れた人をこころよく迎えてくれているそうです。たしかに緩やかにみえますが、現実にこの階段は寺のものとしてはずいぶん緩やかです—「いっそう」緩やかに見えるということにして、ありがたく受け止めたいと思います。 仁王門 本堂 本堂(左)、三重塔(右) この寺には「安珍と清姫の悲恋物語」が伝承として残っています。大筋は、旅の途中に一夜の宿をもとめた僧・安珍に清姫が惚れて恋狂いしたあげく、身を引く安珍に裏切られたとおもった清姫は大蛇となって追いまわし、寺の鐘のなかにかくれた安珍を焼き殺したというのです。それにしてもこの話、伝説であったにしても「悲恋」ではなくスリラーかオカルトの類ではないですか。 清姫でも安珍でもなく、本尊の千手観音に賽銭10円とともに手を合わせておきました。 手取城へ 日高川をわたり手取城へ向かいます ミカンではなく、甘夏 いかにも山城が似合う田園風景 ここから手取城址登り口となっています 手取城案内板より 案内板によると、まっすぐに歩いてゆけば次々に見どころに出くわすということのようです。さっそく登ってみます。 手取城 南北朝時代のころ、大和国の南部から日高川上流域を支配していた玉置氏がここに城を築き、その後もこの城を居城として支配を続けたようです。秀吉の紀州侵攻にさいして、ここよりも西方いまの御坊駅近くに城をかまえその一帯を支配していた湯川氏は秀吉に対抗しますが、玉置氏は秀吉に従います。そのため両氏は敵対することになり、より勢力の大きい湯川氏が玉置氏を城から追いやり、秀吉と交戦状態に入ります。秀吉方は地の利をいかして抵抗する湯川軍にてこずり和睦します。そして領地を安堵するのですが、その翌年に湯川氏の当主は急死(病死とされていますが、秀吉方の手による毒殺説が有力です)して領地は押収されます。一方の、秀吉方に付いたことから湯川氏に追いやられた玉置氏はこの手取城に返り咲いたということです。 道のりの前半はこんな林道を歩きます ここから山城の遺構が点在します さっそく目に入る堀の跡 竪堀の跡 溜池は草だらけで見えません 東の丸に着きました... Read More | Share it now!