街歩き・山歩き,神社・仏閣,花、紅葉見ごろ,奈良

【奈良県・御所市 2023.9.25】「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉がありますが、今年は彼岸を過ぎてもまだ十分に暑い! たしか昨日も日本のどこかで猛暑日のところがあったはずで、そこまでは行かないにしても、今日も大阪、奈良、京都あたりは最高気温が堂々と32度とか33度と言っています。過去何度もこの時期になると、奈良の古道街道をあるいて彼岸花をみてきましたが、こんなに気温が高かったのは記憶にありません。それでも深緑の中、あるいは黄色く実った稲穂と彼岸花の真紅が共演する光景は、一年のうち極々限られた時期にしか見られない眼福とも呼べるもので、暑いのは覚悟のうえで出掛けてみることにしました。 JR御所駅から葛城古道へ 葛城古道は、葛城山から金剛山にかけて東側の山麓を南北に、古寺古社をむすびながらつづく旧道です。下に御所市(ごせし)のHPから借用してきた地図を添付しましたが、この地図は横向きに置かれたもので、右が北になります。今回は地図の右下にあるJR御所駅からスタートし、途中で葛城古道に合流、左へ(すなわち南へ)と歩を進めました。 御所市の公式HPにある市内観光・散策用マップより抜粋 葛城山に登る際はいつも右折しますが、今日は直進... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,富士山,山梨

【山梨県・南都留郡・富士河口湖町 2023.9.17~18】 9月17日から19日まで滞在しましたが、すくなくとも滞在したときは、富士山の全体が見えるのは朝8時過ぎまで、夕方17時以降だけでした。それも運が良くて、です。地元の人の話では、気温が上がると水蒸気が発生して雲がかかってしまうそうです。 9月17日夕 17:26 17:39 17:45 18:03 9月18日朝 6:20 6:28 6:40 7:25 9月18日夕 17:22 17:29 17:40 18:33 ... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,奈良

【奈良市・2023.9.12】東大寺は若草山麓にあった金鐘寺が起源で、この金鐘寺は奈良時代に国分寺・国分尼寺建立の詔が出されると、大和国の国分寺のポジションを与えられます。大和国の国分寺であることは、すなわち全国の国分寺を代表する総本山的な地位も与えられたのでしょう。寺名も金光明寺(金光明四天王護国之寺)と寺名を変えます。やがて聖武天皇は大仏建立の詔を発します。金光明寺の本尊として大仏の建立をはじめたのか、大仏建立が先でその地が金光明寺に隣接していたのかは不明ですが、大仏建立の過程でもともとあった金光明寺の名は消え、東大寺の名がこのころから記録されています。奈良仏教のなかで二大勢力といえば、法相宗と華厳宗ですが、興福寺が法相宗の総本山であるのに対して、東大寺は華厳宗の総本山とされました。仏教勢力はかつての支配者にとっては目の上のコブ。白河天皇が「鴨川の流れと、サイコロの目と、山法師=比叡山の仏徒は思いのままに扱えない」と嘆いたという逸話は有名ですが、奈良の東大寺(興福寺も)の仏徒もなかなか厄介な強者だったようです。平安時代末期に権力を握った平清盛は、堪忍袋の緒がきれたのか自分の五男・重衡に軍勢をあたえ東大寺(と興福寺)を壊滅させます。奈良時代に建立した際にはその伽藍のあまりの規模に建設費がかさみ国の財政を疲弊させるほどであったにもかかわらず、それでも朝廷主導でさっそく再建がはじめられます。これほどの寺は日本の国にとって、焼失しましたではすまされないものだったのでしょう、大仏は平安時代が終わる直前に、大仏殿など諸堂は鎌倉時代初期に再建されます。そして次に消失するのは戦国時代の真っ只中、松永久秀vs三好三人衆&筒井順慶連合の戦いにおいてであり、今日はこの戦いのことをもっと知りたくて、朝早くから出向いてきた次第です。 南大門から中門へ 奈良といえば鹿ですが、参道にもいるいる 南大門... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,奈良

【大阪府・八尾市~奈良県・平群町、王寺町 2023.8.26】生駒山系は大阪府の東端を、奈良県との境界をなすように北から南へ伸びています。山系の中程には、古くは楠木正成が軍事拠点として利用し、のちに三好長慶が本格的に築城した飯盛山城があります。生駒山系の南の端にあるのが高安山で、ここにはずっと時代をさかのぼり、大和朝廷が都を守るためにその山上に築いた高安城がありました。さらに高安山から東へ、すなわち奈良側へ山中をすすむと信貴山に達します。この信貴山には、三好家の祐筆(書記のような役)をつとめながら権勢を拡大し、ついには三好家(主君)に取って代わった松永久秀が築いた名城・信貴山城がありました。 今日は大阪側から高安山にのぼり、高安城、信貴山城と探索して、奈良県の王寺町に下山しようと思います。 まずは高安山へ 近鉄信貴山口駅からスタートします 高安山(中央奥)へ、民家がたつ生活道路をあるく 20分ほどあるくと山道が始まります 信貴山口駅は大阪の中心地から生駒山へ向かった場合の終点になりますが、同時に高安山の山頂まであがるケーブルカーの麓駅でもあります。すなわちいま歩いている道は、ケーブルの軌道の横を並行していることになります。 竹林の下、岩が露出する道をすすむ 樹林の隙間から大阪湾まで見える 高安山の山容が垣間見える 開運橋の下に出合う 上がって開運橋を渡る 左の小高いところが高安山の山頂(何もない) 高安城址 信貴山に向かって東へすすみます 高安城倉庫址 奥へ奥へと倉庫址がつづく この高安城ですが、居住していた跡も、防御のための堀や土塁もみつかっていません。戦うための設備ではなく、いざという時のために、この山上の倉庫群に塩や食料を保管していたようです。 信貴山城址 さらに東、信貴山へ向かうと、 やがて信貴山城・松永屋敷跡が道横に見えます 下に降りて屋敷跡の曲輪(右上)を見上げる 堀切で曲輪を分割して屋敷を建てていたことがわかる 現地にあった案内板より 現地にあった信貴山城の見取り図をみると、松永久秀がいかにも細心な、むしろ臆病なのかと思えるほど巧妙に曲輪(くるわ)配置を考えていることがわかります。実際、信長が嫡男(跡取り息子)の信忠に命じて錚々たる勇将、智将とともに攻め立てさせますが、難攻不落。最後は、力攻めではなく松永方の家臣を寝返らせ、信長方の兵を城内へ隠密裏に侵入させることで落城させています。 左の大きな曲輪は立入屋敷跡 立入屋敷跡 雄嶽、雌嶽 空鉢御法堂より二上山、大和葛城山をのぞむ 雄嶽が信貴山の北峰であり山頂にあたります。信貴山の東懐(奈良側)には朝護孫子寺というたいへんユニークな御寺がありますが、その御堂のひとつです。 ところで信貴山城があった当時、この山頂には4層の天守が建てられていたそうです。これだけ見晴らしのよい山頂ですから物見目的の天守が必要なはずがありません。松永久秀は権力の象徴として、あえて天守を建てたのだと考えられます。そしてこの天守が、その後の城では定番となる「天守閣」のモデルになります。 山頂の御堂から本堂のある伽藍へくだる 正面の小高いところが雌嶽(南峰) 雌嶽入口にあった案内板より 朝護孫子寺伽藍まで下りてきました 朝護孫子寺から信貴山・雄嶽をふりかえる 朝護孫子寺は昨年秋にじっくり見てまわっているので今回は素通りします。たいへんユニークな御寺ですので、興味のある方は、https://yamasan-aruku.com/aruku-64/ 王寺へ もとケーブルカーの軌道があった坂道を下ります 平地に出ると、やがて大和川を渡ります 達磨寺 達磨寺 聖徳太子の愛犬・雪丸の像 聖徳太子が路傍に倒れた老人を助けたところ、その老人こそが達磨大師だったという逸話があります。その現場がここだったということで、ゆかりの寺が建立されています。境内には聖徳太子の愛犬・雪丸の像もあります。雪丸は人の話を理解できるだけでなく、御経も読めたとか... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,兵庫

【兵庫県・出石市 2023.7.24】 但馬国の守護はながらく山名氏が務めていました。織田信長の西国平定にともない、山名祐豊はその居城をいったん捨て退去しますが、すぐに今の出石町中心地にある有子山の山頂にあらたな城を築きます。さらに山麓に居館を築くのですが、信長の命をうけた秀吉(この当時は羽柴秀吉)の軍により攻め滅ぼされます。時がうつり秀吉の時代になると、その家臣である小出吉政が但馬藩主となって入城します。この小出吉政ですが、なかなか世渡りがうまく、関ケ原の戦いにおいては自身は西軍につく一方、弟・秀家は東軍について、戦況が東軍有利とみるや吉政は戦うのをひかえ、秀家は勇躍します。弟・秀家が東軍で働いただけでなく、兄・吉政が西軍で「働かなかった」功もくわえ、小出氏はその領地を安堵されます。吉政の子・吉英はこれも情勢をよむのに長けており、徳川家康にあえて恭順を示すため、有子山上の本体となる城郭を破却し、山麓の居館であった部分を拡張し、天守閣をもたない、いかにも平和な時代の居館然とした城を築きます。これがいまの出石城であり、山上にあったものがいまは有子山城址と呼ばれているものです。出石城の歴史においてはもうひとつ特筆しておくことがあります。小出氏はのちに世継ぎがいなかったために改易となりますが、そのあと仙石政明が信濃上田藩から転封されてあらたな城主となります。信濃上田城といえば、もとは真田家がきずいた名城ですが、いまは城について語るのではなく、信濃地方の名産である蕎麦について。仙石政明は信濃上田藩主時代に食した、その蕎麦の味を忘れがたかったのか、蕎麦職人まで連れて但馬に移り、この地でソバの栽培からはじめて、ついには蕎麦を特産品にまで育て上げます。それゆえ今回は出石城を訪ねるだけでなく、出石蕎麦も食べて、と企画しています。 出石城 出石城の内堀では出石焼の風鈴が奏でています 登城橋をわたり登城門へ 振り返る... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,兵庫

【兵庫県・朝来市、養父市 2023.7.23】日本の産業で「こうぎょう」といえば、いまは「工業」しか思い浮かびませんが、かつては「鉱業」という分野がありました。古くは奈良の大仏本体をつくるために使った銅、表面にぬった金はすべて国産です。武田信玄や上杉謙信が自領内に金の鉱山をもっていたため軍資金が潤沢だったのは有名な話ですが、織田信長は西国平定の過程で但馬国生野の銀山を掌握すると、すぐに自らの直轄地として重要な財源とします。生野銀山は江戸時代になっても幕府の直轄地として栄えますが、しだいに銀鉱が堀りつくされると、かわって銅や錫(すず)の産出が激増します。明治元年、生野銀山(鉱山)と、近隣にある明延鉱山がともに官営となり、さらに明治29年(1896年)民間に払い下げられて民営化すると、大規模な「鉱業」産地へと変貌してゆきます。 このところ猛暑日を頻発するようになり、日中歩くのもしんどくなってきたので、今回はいずれ車で回ろうと計画していた、この鉱山巡りを実行することにしました。 生野銀山 生野代官所の門跡 生野銀山は戦国時代から国内有数の産出量をほこる銀山でしたが、江戸時代になってからは生野奉行が置かれて正式に幕府の管理のもとに入ります。さらに江戸時代中期には管理も生野奉行から生野代官所にかわり、銀の産出量は月150貫(562kg)と最盛期をむかえます。 坑道入口 江戸時代後期にはあらかた掘り尽くしたために銀の産出量は激減しますが、明治元年、明治新政府はここを日本で最初の官営鉱山とし、フランス人技師を招聘して近代的な鉱山へと変革させてゆきます。 坑道 坑道 本道から脇道へ 明治29年(1896年)に民間に権利を委譲する際には、当時の最大財閥である(岩崎)三菱に払い下げられます。こうして三菱合資会社(いまの三菱マテリアル)の手でいっそう近代化を推し進め、銅、錫を中心に70種の鉱石を採掘したそうです。 さらに狸堀がある 採掘のため、じつに350kmをこえる坑道が掘られたそうですが、三菱合資会社により採掘されたものには銀はなく、その意味ではここは生野銀山の坑道ではなく、生野鉱山の坑道というべきかもしれません。 閉山したのは昭和48年(1973年) その閉山前の重機が残されています 神子畑鋳鉄橋 神子畑鋳鉄橋 明治11年に生野から16km北西の神子畑でも鉱山がみつかり、鉱石運搬のために両所をむすぶ道路がつくられます。その際に架けられた鉄橋のひとつです。 神子畑選鉱場跡 もとはこの傾斜上に作業棟が建っており、 下へ流すにしたがい鉱石を選別した 神子畑鉱山は埋蔵量が少なかったのか明治時代末期に閉山になります。そして大正時代になってその跡地につくられたのが掘り出した鉱石を選別する、この選鉱場です。おもに明延鉱山で採掘した鉱石をトロッコ列車で運んでいたそうで、最盛期には24時間営業でフル回転し、その規模は東洋一だったようです。 シックナーとよばれる濾過用の巨大建造物 この上部に選別した鉱石を入れ、脱水・濃縮する フランス人技師ムーセ旧居... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,京都

【京都府・向日市~長岡京市 2023.7.15】久しぶりに京都の寺社を見に行こうと思ったものの、よくよく考えてみるとこの日は3連休のはじまりで、しかも今日から祇園祭がいよいよ佳境にはいるため、まさに言語を絶する人出が予想されます。さらに天気予報によると京都市内の予想最高気温は36度。猛暑のもとで人でごった返すなか寺社見物をたのしむ場面はどうしてもイメージできません。そこで大阪を基点にいうと、京都市の手前にあたる向日市、長岡京市あたりでめぼしい寺社はないかと調べてみたところ、いくつか見つかりました。なかでも長岡京市にある光明寺は紅葉で有名なところですが、紅葉が美しいということは青もみじも美しいはずです。ありがたいことに(というと同じ時に京都市内を散策する人には申し訳ないのですが)、京都盆地から南に外れているためかこの一帯の予想最高気温は33度。正午過ぎまでに引き上げるようにすれば、もっとも暑い時間帯でも30度そこらとなり、これなら最後まで楽しめるレベルでいられます。 向日神社 舞楽殿から拝殿(奥) 拝殿 本社拝殿と祖霊社本殿をつなぐ渡廊下の下をくぐる 向日神社はそもそもは向神社であったようで、社伝によると718年の創建とのことですからずいぶん歴史の古い社です。護火および祈雨の神である火雷大神、五穀豊穣の向日神、さらに神武天皇とその御妃の御母である玉依姫命(玉櫛姫)と、神話の時代の神様を祀っています。 急階段を下る 渡廊下をくぐって本社の後方に抜けると、木立越しに街並みを見下すことになり、この神社が小丘の上にあることがわかります。高さでいうと100mぐらいある急階段をくだると、住宅地に出ますが、そこから長岡京市に変わります。 乙訓寺 表門 徒歩20分ほどで乙訓寺(おとくにでら)に着きます。乙訓寺は推古天皇の勅願により、聖徳太子が開祖となって建立したと伝えられていますが、とにかく関西には「聖徳太子開祖」の寺はあまりに多いので、伝承の域をでません。しかし史実として確実なことは、早良親王はここに幽閉され配流の途上でなくなり、怨霊として祟り神になった事実です。 鐘楼と本殿(奥) 早良親王(さわらしんのう)は桓武天皇の弟であり、次の天皇候補すなわち皇太子でした。桓武天皇は平城京における仏教勢力の過大な影響を憂慮して、(平安京のまえに)長岡京へ遷都を計画します。その実務をおこなう責任者が早良親王と藤原氏の実力者・藤原種継ですが、その種継が暗殺されたことから早良親王は首謀者として拘束されることになります。その拘束されていたのが、この乙訓寺です。早良親王は絶食して自分の無実を訴えますが、聞き入れられることなく、淡路島へ配流となり、その途上でまさに憤死します。 本堂 ところが早良親王の死からのち、桓武天皇の身辺で次々に凶事がおこり、これら不幸不吉な出来事が続発するのは早良親王の祟りだと噂されるようになります。そもそも祟りとか怨霊を恐れるのは、無実の相手を陥れた側のうしろめたい気持ちから出てくるもので、その意味では早良親王は無実で、桓武天皇の側になんらかの意図的なものがあったのでしょうか。早良親王は崇道天皇という追尊の位をあたえられ、さらに怨霊を鎮めるため京都や奈良にある崇道神社に祀られています。(すなわち崇道神社はすべて怨霊神社です) 光明寺 乙訓寺から徒歩15分ほどで光明寺に着きます。光明寺は、平家物語にも出てくる源氏の武将・熊谷直実(くまがいなおざね)が出家してのちに創建した寺です。平家没落の起点となった一ノ谷の戦い(いまの神戸市西側)に勝利した源氏方は、周辺の掃討をすべく個々に見回りをおこなっていました。そのとき熊谷直実は須磨の海岸で逃げ遅れた平家の将を見つけます。勝利の勢いそのままに直実が相手を組み伏せると、それは見た目もうつくしい若者で、いかにも高位のものと思われます(実は平清盛の甥にあたる平敦盛でした)。その首を取れば大殊勲です。しかし相手は自分の息子と同年くらいの若者、しかもその目は涼しげで怒りも恨みもありません。しかも直実の躊躇を見て取ったのか、若者(敦盛)はためらわず自分の首をとって手柄にするよう勧めます。直実はあらゆる感情を殺してそのときは敦盛の首を取るのですが、この事件は直実の心に大きな影を落とすことになり、やがて直実は出家して高野山に上がります。のちに直実は法然上人に出合い、その弟子となり、この光明寺を開山することになります。 総門からいきなり続くゆるやかな階段 いったん平坦部をあるくと次の階段が見えてきます 階段を上りきるとまっすぐ御影堂(本堂にあたる)へ 総門から御影堂への道は、絵画のように美しいもので、この道を歩くだけでもわざわざ来る甲斐があります。階段の傾斜が緩やかなゆえか、風景に厳かさはないのですが、優しさがあります。それゆえ総門をくぐり御影堂にたどり着くまでに、ゆっくり穏やかに仏の慈愛に包み込まれてゆくような感覚をおぼえます。 法然上人像と御影堂 御影堂から阿弥陀堂をみる 阿弥陀堂 阿弥陀堂の奥に法然上人御廟や納骨堂がありますが、一般参拝者はこれより先には立ち入れません。それでも御影堂は中まで入らせてもらえたので良しとしましょう。 御影堂から一段低くなった伽藍へ下る 勅使門... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,奈良

【奈良県・高市郡明日香村 2023.7.2】聖徳太子について興味をもてば、その太子が活躍したのが飛鳥時代ですから当然のように明日香村がゆかりの地として注目されます。明日香村は村全体が歴史的風土保存地区に指定されており、たしかに大きなビルや目立つ看板などは一切なく、いつ訪れても穏やかで落ち着いた散策を楽しめます。なお「明日香村」の表記ですが、もとは飛鳥村であったものが昭和の時代に隣村との合併があり、そのさいに変更されたようです。 今回は歩いたポイントを示す地図を添付しました。 野口王墓古墳(天武・持統天皇陵) 天武・持統天皇陵は八角形墳 当初は5段に築成されていたと考えられています 橘寺、川原寺へ 亀石 何の目的で造られたのか、完成なのか未完なのか、謎につつまれた巨石。たしかに亀と言われれば亀のようですが、なにかの造りかけのようにも見えます。 ところでここを訪れるといつも思うのですが、後方の垣根をもう少し高くして背後の民家が見えないようにすれば良いのでは。民家の住人もきっと迷惑しているはずです。 橘寺 後方に見えるのが橘寺、一説では聖徳太子の生まれた地とも言われています。ここは昨年春に拝観したので今回は遠望するに留めます。(拝観料400円要) 向かいに、当時は大寺院だった川原寺の跡があります 川原寺跡から橘寺を遠望する 岡寺(龍蓋寺) 岡寺・仁王門 天武天皇の子息で若くして亡くなった草壁皇子がくらしていた、岡宮跡に建立されたため岡寺と通称されますが、本来の寺名は龍蓋寺。7世紀末につくられたとの記録があるので、飛鳥時代の末期になります。 仁王門 岡寺は「花の寺」を自称しているようですが、下の画像のようになにやら「やり過ぎ感」が否めません。 手水 奥の院への道 開山堂(中央)、本堂(奥) 本堂(内の如意輪観音坐像は見応えあり) あるがままでも大変魅力のある寺院です。 岡寺境内からの眺望 飛鳥宮跡 この一帯に天皇の宮や政事を執行する建物があり 大和朝廷の心臓部であったことになります 酒船石遺跡 亀形石造物 これは祭祀のためにつくられた導水設備と考えられています。斉明天皇の時代につくられたとのことなので、7世紀中頃、飛鳥時代の真っ只中ということになります。注目すべきは右端の丸い石造物。これはあきらかに亀形で、やはり先に見た亀石と何らかの関連があるのでしょうか。(あるいはこの亀形石造物ゆえになんでもかんでも亀と連想しているだけで、亀石自体は亀とは関係ないのかもしれません) 酒船石 こちらは酒船石との名も付いており、酒造につかったものではないかと推測はされていますが、確証はされていません。 飛鳥寺 裏側(北側)からアプローチ 本堂にある飛鳥大仏(釈迦如来坐像)は日本最古の仏像 蘇我入鹿の首塚... Read More | Share it now!

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【奈良県・生駒郡斑鳩町 2023.6.20】法隆寺は聖徳太子ゆかりの寺です。聖徳太子は天皇(当時は推古天皇)が暮らす宮や政務をとる機能などを飛鳥から斑鳩の地へと移すにさいして、仏教布教のため天皇の宮のとなりに斑鳩寺を建立します。この斑鳩寺は聖徳太子の死後に焼失しますが、その跡地のうえに新しい寺が建立されます。これがいまの法隆寺です。そもそも法隆寺の再建については、「日本書紀」に斑鳩寺が消失したことが書き記されているにもかかわらず否定する意見が強く、昭和の時代になっての発掘調査により旧伽藍跡(若草伽藍とよばれる)がみつかり、やっと再建説が一般化します。再建時期については、現存する建築木材の年輪調査などにより西暦690年から710年頃のあいだに完成したものと考えられており、この年時にしたがえば、聖徳太子もその血をうけつぐ蘇我氏は完全に衰退し、藤原不比等の活躍で藤原氏が最初の黄金期を迎えようとしていたころにあたります。藤原氏といえば大化の改新をすすめることで頭角を現わしますが、そのころ朝廷とも婚姻関係をむすんで絶対権力をにぎっていたのは蘇我氏、そのなかでも主役である蘇我蝦夷・入鹿(えみし・いるか)親子を殺害するクーデターから始まります。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、天皇家)を中臣鎌足(なかとみのかまたり、藤原家の始祖、のちの藤原鎌足)がうしろで扇動することでクーデターを成功させ、天皇中心の律令制国家へと改革したのが大化の改新です。しかしその後の歴史を見てみると、しだいに藤原氏が存在感を増してゆき、蘇我氏がそうだったように天皇家と婚姻関係をむすび、権力を独占してゆきます。そうしてみると、大化の改新の始まりとなるクーデターそのものが、藤原氏が当時の蘇我氏の絶対権力を奪い取り、まんまと我がものにするのが目的であったとさえ思えてきます。これらの歴史をふまえて考えると、なぜ藤原氏が蘇我氏と濃密につながる聖徳太子のために法隆寺という大寺院を再建したのかという疑問が浮上します。 法隆寺へ 法隆寺へと向かう参道 聖徳太子の死から大化の改新の起点となる蘇我蝦夷・入鹿親子暗殺(実際には入鹿は謀殺され、蝦夷は自害している)に至るまでの間には、もうひとつ別の事件がおきています。 聖徳太子の息子であり、いずれは天皇位につく可能性のあった山背大兄王(やましろのおおえのおう)が、さきの蘇我蝦夷・入鹿親子によって自害に追い込まれています。 南大門 これは蘇我蝦夷・入鹿親子にとって都合のよい、すなわち自分たちが絶対権力をにぎるうえで扱いやすい天皇を継承させるためには、人々の信任あつい聖徳太子の息子に表舞台に出てこられては困ると考えたからでしょう。聖徳太子は蘇我氏の血を継ぐだけでなく、蘇我蝦夷の姉を妻として、その子が山背大兄王ですから、これはまったく一族間の争いということになります。 南大門から、さらに中門へと歩く 昭和四十年代ですから今では「むかし」と言ってもいいかもしれませんが、哲学者の梅原猛氏が法隆寺に関して独自の評論を発表し、それが『隠された十字架』として出版されると一大センセーションを巻き起こしました。主とするところは、聖徳太子の怨霊を鎮魂するために法隆寺は建立された、というものです。 中門 中門... Read More | Share it now!

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【大阪府・南河内郡太子町 2023.6.14】大阪府の南東寄り奈良県との県境に太子町はあります。過去の歴史から言うと、大和に属するといえなくもありませんが、難波(大阪)と大和(奈良)の綱引きあいで大阪に引き込まれたということでしょう。太子町になにがあるかと言えば、飛鳥時代の皇族の陵墓が点在しています。もっとも著名なところでは聖徳太子。また皇族ではありませんが、遣隋使として活躍した小野妹子の御墓もあります。午前中に二上山に登り、「ろくわたりの道」をあるいて太子町に到着しました。 竹内街道 下ってきた二上山も雨雲に覆われ 竹内街道と合流したころには雨滴が落ちてきた 竹内街道にのこる常夜燈 竹内街道は飛鳥と難波をむすぶ、国(当時は倭国)によってつくられた最初の道、すなわち正真正銘の国道1号線ということになります。もちろん当時の面影はありませんが、全体に瓦屋根の家が中心で、田園地帯も随所にひろがり、のどかな散策を楽しめます。もっとも今日は、これから雨が本降りになるとのことゆえ、いそいで御陵巡りに向かいます。 孝徳天皇陵 小高い丘の中腹にある孝徳天皇陵 孝徳天皇(36代天皇)は見方によっては可哀想な方です。まず頭に置いていただきたいのは、聖徳太子をはじめその時代に生存した用明天皇(31代、太子の父)や推古天皇(33代、太子の叔母)、敏達天皇(30代、推古天皇の夫)は皆蘇我氏の系統に入ります。聖徳太子の皇子で、推古天皇の次の天皇と目されていた山背大兄王が蘇我蝦夷・入鹿父子の策謀で天皇即位を妨害され、ついには自害しますが、これはまだ蘇我氏一族内での内紛でした。 雨は本降りになってきました その後全盛をほこった蘇我氏(蝦夷、入鹿)を殺害し、政権を奪ったのが中大兄皇子とそれに協力する中臣鎌足です。この政権奪取は結局のところ鎌足が藤原姓を賜り、その後の藤原家の勃興隆盛に繋がるのですから、蘇我氏をつぶして藤原氏が取って代わるクーデターだったと言えます。 太子町はマンホールの蓋も一味違う このとき天皇位についたのが、孝徳天皇です。孝徳天皇は蘇我氏の末裔で(敏達天皇の孫)、急激に蘇我氏主導から藤原氏主導へと移行することをカモフラージュするために形式的に天皇位につかされた感があります。ですから大化の改新はこの孝徳天皇在位中に進むのですが、孝徳天皇の活躍としてはあまり印象がありません。やがて孝徳天皇は病没し、斉明天皇(中大兄皇子の母)の時代をへて、中大兄皇子本人が即位し天智天皇となります。 小野妹子 利長神社 神社横の長い階段をのぼると、 小野妹子の墓がある 小野妹子をウェブで調べると、よく「男性」と注釈がついています。間違いなく男性です。聖徳太子が生存していた時代に遣隋使のなかでも筆頭書記官のような役で隋へ赴きます。蘇我氏の家系ではないかとの説もあるものの定かではないのですが、一般庶民がおいそれと官吏のトップに取り立てられる時代ではないので、なんらかの繋がりはあったのかもしれません。 ところでこの小野妹子の御墓のあるあたりはたいへん雰囲気の良いところでした。 推古天皇陵、用明天皇陵 雨は降りつづきます 推古天皇(聖徳太子の叔母)と用明天皇(太子の実父)については、いずれ聖徳太子とともに詳しく書くつもりですので、今回は説明を省きます。 また雨で足元がずぶぬれになってきたので、この先にある敏達天皇(推古天皇の夫)の御陵は、申し訳ないですがパスします。 山田高塚古墳(推古天皇陵) 推古天皇陵の礼拝所 春日向山古墳(用明天皇陵) 用明天皇陵の礼拝所 叡福寺と聖徳太子御廟 叡福寺・南大門... Read More | Share it now!