豊臣秀次の謎・秀次が殺生関白でないのは明らかなのに
2023.5.13 記
秀次は豊臣秀吉の甥であり、秀吉同様に生まれたときには姓もなく、生年月日も定かでありません。
それゆえ切腹して死んだのは、28~30歳と推定されます。
それにしてはこの像の顔は青年には見えません。老成しているにしても、年齢とあまりにもかけ離れているように見えます。
もしかすると、豊臣秀次は若くして非業の死を遂げさえしなければ、このような重厚な雰囲気をもつ賢明友愛な関白になっていただろうと、誰かが伝えようとしているのでしょうか。
画像は【aruku-23】より
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秀次はもちろん殺生関白ではない
秀次は「殺生関白」なる悪名、悪評とともに歴史に記録されています。
いわく、試し斬りと称して辻斬りをくり返し、その数が数百人に及んだため自ら「千人斬り」と豪語した。妊婦の腹の中を見てみたいとその腹を切って胎児をのぞき見た。罪人を処刑するに際して四肢を順に切り落として異常な快楽に浸った。
どれもこれもあまりに度が過ぎており、そのまま信じることができないレベルです。
そもそも秀次のこうした悪行が記録されているのは、「信長公記」を書いている太田牛一の「太閤さま軍記の内」が初見で、その後江戸時代になって書かれた太閤記の定番である「甫庵太閤記」、あるいは「川角太閤記」などでどんどん尾ひれがつき、過激になってゆきます。
そもそも「信長公記」は、織田信長の家来であった太田牛一が、いまで言うところの従軍記者の心意気で信長の生涯を描き残そうとしたもの。そえゆえ信憑性が高い資料と評価されていますが、秀吉に関する記録はどれもこれも秀吉本人が後世に自分を偉人として伝えるために指示して書かせた臭いがプンプンしており、この「太閤さま軍記の内」も秀吉の意向でずいぶん手を加えていると考えられます。
そして江戸時代になって世に出る「太閤記」にいたっては、庶民にウケが良いように書かれたものですから、でっち上げられた秀次の悪行を、さらにこれでもかとばかりに残虐非道に脚色したのでしょう。
秀吉が関白に就任するのに前後して大掛かりな国替えが行われ、秀次は近江の地で自身と家臣分あわせて42万石の大名となります。
秀次は琵琶湖をのぞむ八幡山の山上に城を築き、この地に腰をすえるつもりで治世に励みますが、その統治はまことに善政といえる、たいへん評判のよいものだったようです。
画像はともに【aruku-23】より
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しだいに正しく評価されてきた秀次の実像
江戸時代には太閤記に影響され、「秀次極悪説」は信じられていたようですが、明治以後しだいに歴史を専門にしらべる研究者が「太閤記」の記述に疑いを持ちはじめ、秀次についても昭和の時代には名誉の回復がすすんだようです。
ただ一人、司馬遼太郎氏だけは中短編集「豊臣家の人々」のなかに収録されている『殺生関白』で、秀次を江戸時代からつたわる残虐非道な人物像そのままに描いています。
司馬氏ほどの作家が、諸氏の研究により秀次像がすっかり真新しいものになっていることを知らなかったはずがなく、おそらく知っていながら物語をおもしろく仕上げるために、故意に江戸時代につくられた狂気の秀次像を踏襲したのではないか。あくまで邪推ですが – –
小林千草氏の『太閤秀吉と秀次謀反』は、「大こうさまぐんき」(太閤さま軍記)をいかに読むべきかを、太田牛一の筆致を詳細にたどりながら解説してゆきます。すべてを仔細に読むには少々骨が折れますが、いかにも太田牛一が書きづらいことを書いているポイントなどをあげ、どうやら事実が歪曲されていることを示唆してくれます。
もっとも参考になったというか、まっとうな秀次像を目のまえに見せてくれたのは小和田哲男氏の『豊臣秀次 – 殺生関白の悲劇」です。この本のタイトルがまさに正鵠を射ているといえます、豊臣秀次は悲劇の関白であり、悲劇の人生をおくった人でした。
秀次が関白の職を譲られてから高野山で切腹するまで、4年足らず暮らした聚楽第の石垣が、京都市内にわずかに残っています。
画像は【aruku-36】より
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秀吉に振りまわされた秀次の人生
秀次は、秀吉の姉ともが尾張の百姓・弥助のもとに嫁ぎ、その長男として生まれます。百姓家での名は治兵衛。
治兵衛の家は豊かではないものの、なんとか食べて行ける生活は維持しており、一家の誰もがそのまま一百姓として平凡で平穏な人生を送っていけたらよいと思いながら、その通りの生活を送っていました。
かれらの人生が激変するのは、母ともの弟にのちに天下人となる木下藤吉郎(のちの秀吉)がいたがためです。しかも藤吉郎には実子がいなかったため、親戚縁者を片っ端から引きぬいて自身の持ち駒としてつかいます。
藤吉郎からすれば、一生涯水呑み百姓として生きる運命だった親類縁者全員を武家に取り立ててやっていると鼻高々なのでしょうが、それを有難いと思ったか、有難迷惑と感じたかは人それぞれでしょう。
そのときどのように感じていたかは別にして、秀吉の思惑にもっともはげしく振りまわされ、自分の人生を顧みる間もなく、終焉へを追い込まれてしまったのが秀次(治兵衛)です。
近江の雄・浅井長政が小谷城にたてこもった際、織田信長からその攻略を任されたのが秀吉でした。
秀吉は得意とする調略で、浅井長政の家臣を寝返らせ、小谷城をまもる周囲の支城を順に落としてゆきます。そのなかで宮部城は攻防するどちらにとっても最重要な支城であり、また城主の宮部継潤は浅井家の重臣でもあったため、秀吉はこの宮部継潤にたいしては人質を差し出して懐柔につとめます。
そのとき人質として渡されたのが幼少の治兵衛です。治兵衛は宮部家の養子となり、宮部吉継と名をあらためます。
その後小谷城が落城し浅井家が滅亡すると、信長は宮部継潤を秀吉の与力(家臣とはちがい戦のときだけ加勢する、独立した大名)として付けます。ここで主従関係がはっきりしたため、人質をあずけておく意味がなくなり、秀次はいったん秀吉(木下秀吉から羽柴秀吉と改名したころ)のもとへ戻ったようです。
ところが信長の四国平定にともない、それまで明智光秀の仲介で長曾我部家に四国の治世をまかせる方針だったものが、突然に讃岐の地で武をほこる三好家が我を主張しはじめます。そこに秀吉が絡んでいます。
秀吉としては、ライバルの光秀主導で長曾我部家が勢力を拡大するのは面白くありません。三好家が助勢を求めてきたのを機に、信長に進言し、みずから三好家と強い契りをむすんで長曾我部(すなわち明智光秀)追い落としを計ります。このとき道具として使われたのがまたしても秀次。
宮部家から秀吉の下へもどっていた秀次は、その数年後には四国の三好家(三好康長)のもとへまた養子としてもらわれ、三好信吉と名をあらためます。
京都の智積院には、もとは秀吉が早世した愛児・鶴丸のために建てた祥雲禅寺があり、そこには亡き鶴丸のために描くよう秀吉から求められ描いた、長谷川等伯渾身の襖絵が残っています。
画像は【aruku-116】より
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名将ではなかったが名君だった秀次
秀次にとっては自分の婚姻とて秀吉の出世の手段にすぎません。
信長亡きあと、その後継者をきめるために宿老たちが集まったのが清洲会議ですが、参加者(採決権を持つもの)は秀吉、その秀吉と対立する柴田勝家、そして丹羽長秀、池田恒興の4名でした。
秀吉の見るところ丹羽長秀は中立、池田恒興は日和見。ところが秀吉はこんな日がくることも予想していたのか、早々に手を打っていました。
主君信長を謀殺した明智光秀を討つべく駆けつけた山崎の戦いの直前に、池田恒興の娘と秀次の婚姻を秀次本人のまったく知らぬところで取り決めています。さらに恒興の次男を養子とすることで両者の関係をがっちり固め、共に光秀討伐に挑みます。
恒興が利に敏いことを見抜いている秀吉は、清洲会議の席で自分に味方してくれれば、親戚関係にある貴殿に悪いことがあるはずなかろうと誘導します。
秀吉が天下統一をめざし邁進していたころが、秀次にとってはもっとも安定した時期だったのではないでしょうか。このころ近江へ加増転封の命を受けます。戦ではこれといった働きはできず名将とは記録されていませんが、統治にかけては名君として領民から慕われたようです。
秀次の運命が急変するのは、秀吉と茶々(淀君)との間に生まれた鶴丸が夭逝し、さらに秀吉が片腕と頼んでいた弟・秀長が病没、敬愛する母・大政所も老死といったぐあいに、秀吉の身につらいことが重なった時期にあたります。秀次本人ではなく、秀吉の幸不幸によって秀次の運命が決まってしまうのも悲劇としか言いようがありません。
謀反の疑いをかけられた秀次は、申し開きのため秀吉との面会に向かいますがかなわず、高野山に登るよう命じられます。
さらに数日後には賜死の命がくだされ、金剛峯寺主殿の柳の間にて切腹して果てたと伝えられています。
画像は【aruku-52】より
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秀次謀反は冤罪、殺生関白は作り話
秀吉は鶴丸のほかに実子ができないことを悲観して関白職を秀次にゆずります。本心として秀次に家督をゆずる気持ちがあったのか、とりあえずは秀次に関白職を譲るだけゆずって、今後のことを考えようとしたのか。自身は太閤としてその後も朝鮮出兵などを指示していたのですから、位としての関白を譲っただけで、ひきつづき天下人は自分であると自負していたのは確かです。
ここで思いもしなかった出来事がおきます。淀君がふたたび懐妊し、拾丸(のちの秀頼)を出産したのです。
そもそもこの淀君懐妊からして出産の日時から逆算すると疑問だらけなのですが、生まれてきた拾丸は秀吉とは似ても似つかぬ大柄で、常識的に考えれば秀吉が不審を覚えぬはずがありません。ところが秀吉はなんら疑うこともなくこの子を溺愛するのですから、このあたりからすでに「常識的には考えられない何か」があったということでしょう。
一般的な通説では、ここから秀吉は秀次に関白職を譲ったことを後悔しはじめたとされていますが、そもそも秀吉本人としては天下人は自分であり、秀次はあくまで一時的に関白という職を譲られたにすぎないと思っていたなら、ことさら後悔することもなかったはずです。今までがそうであったように、秀次の意思や意向など関係なく、関白職を辞めさせ秀頼を正式な後継ぎとするよう指示すれば済むことです。
ところがこのときの秀吉は一大名ではなく、天下をおさめる最高権力者であり、全国の諸大名だけでなく、貴族、武士、僧侶から庶民まですべての人々がその動向を見守っています。いったんは甥の秀次を後継ぎと指名し関白職を譲るという、見方によっては英断ともいえる決定をしながら、その後に実子ができたからといってひょいと首をすげ替えたのでは人々の支持を得られません。ましてやその実子であるはずの子の種(たね)がいかにも疑わしいとなれば、やがては笑いものになり、人々の気持ちが現政権から離れてゆくのは目にみえています。
そうなると「現政権を守ろうとする人達」が知恵を働かせ、秀次が関白職を辞めるのは当然であると世間に思わせる(世間を惑わせる)作業に取り掛かることになります。これが「秀次謀反」の真相ではないでしょうか。
「秀次謀反」の噂が流れてからの出来事を下記のように時系列で並べると、すべてが仕組まれたうえで動いたように思えてなりません。しかも後の世に、「秀次は悪人でなかった」との証拠を残さないために、大急ぎで関係者や関係物件を処分したのではないかとも思えます。
文禄4年6月末、唐突に秀次謀反の噂がながれる。
7月3日、前田玄以、石田三成ら秀吉の奉行たちがとつぜん聚楽第に乗り込んできて、秀次に対し謀反の有無の究明が行われる。寝耳に水の秀次はもちろん否定するが、謀叛など考えたこともないとの誓紙を出すよう求められ、言われるままに提出する。
7月5日、秀次が勝手に毛利輝元と好(よしみ)を結んでいるとの証拠書類が、石田三成から秀吉に届けられる。
7月8日、ふたたび前田玄以らが使者としておとずれ、秀次にたいして伏見城へ出頭するよう秀吉からの命令が届けられる。すぐに伏見城へ赴くが、拝謁はおろか登城することすら許されず、「御対面に及ばざる条、まず高野山へ登山然るべし」と高野山ゆき(すなわち追放)を命じられる。
このとき秀次は一切抗議もせず、すみやかに準備をととのえ夕刻には京を離れたとのこと。すでに覚悟は決まっていたのでしょうか。
おなじ7月8日、秀次の妻妾らが捕えられ、監禁される。
7月10日、秀次は11名の小姓とともに高野山に入る。
7月13日、京にのこっていた秀次の家臣たちに切腹、斬首、磔などの死罪が言い渡される。
7月15日、福島正則らが使者として高野山へあらわれ、秀次に切腹の命をつたえる。
7月16日、秀吉は使者がもち帰った秀次の首を検分。
8月2日、京の三条河原にて、秀次の妻妾子息ら39名全員が処刑され、秀次の首とともに河原に掘った一つの穴に放り込まれ、その上に「秀次悪逆」と文字をきざんだ石碑がたてられる。
8月某日、聚楽第の徹底した破却がはじまる。
京都市内三条大橋の西詰に、瑞泉寺はあり、その境内に秀次とその一族の墓があります。
関白までつとめた人の墓にしては可哀想なほどこじんまりしたものですが、この墓は京都の商人・角倉了以が哀悼の意をこめ私費でつくったものです。
画像は【aruku-123】より
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