長谷川等伯の謎・等伯の「松林図屏風」は完成作なのか

2023.6.16記

京都市内・本法寺境内にある「星雲」と名付けられた長谷川等伯(信春)の像。
これと同じ像は等伯の出身地である石川県・七尾市のJR駅前などもにあります。志をむねに京の都へむかう若き日の姿を描いているそうですから、七尾のものが本家ということになります。

長谷川等伯と狩野永徳

長谷川等伯といえば、かならず比較されるのが当時の画壇の主流・狩野派の棟梁だった狩野永徳です。
どちらの方が画師として優れていたかといえば、比較評価できないと言わざるえません。ひとつには両人とも画師として前人未到の領域に達しており、その両人に優劣をつけるのは個人々々の好き嫌いでしかないということ。
そしてもう一つの理由は、狩野永徳については現代に遺っている絵があまりにも少ないという事です。永徳が寡作だったというのではありません。織田信長や豊臣秀吉にひいきにされ、安土城、大坂城、聚楽第などに膨大な屏風絵や障壁画をえがいていたはずです。
ところが権力者の城や御殿(すなわち大舞台)を中心に描いていたばかりに、激動する時代の波に呑まれ、その全部が消失(大半は戦火による焼失)してしまいます。
では等伯はというと、若いころは仏画をえがいており、また壮年になってからも仏画師であった縁から僧侶の肖像画や、寺院の方丈(住職の居所)に襖絵をえがくなどの仕事が中心で、そのため焼失せずに遺されたものが多いという幸運に恵まれています。

等伯の作品がそのような理由でたくさん遺ったという事実は、後世の絵画ファンにとっては僥倖と言えるかもしれませんが、等伯本人が知ったなら苦笑したことでしょう。
当時の等伯にとって狩野派は頭上をおおう堅牢な屋根か、あるいは高くそびえる壁のようなもので、狩野派が画壇を支配しているがために自分には大きな仕事が回ってこない、自分も権力者の城や御殿のような大舞台で筆をふるってみたい。能登の七尾から京へのぼってきた等伯は、つねに狩野派を意識し、その棟梁である永徳にたいしてはいやが上にも対抗心を抱いたはずです。

★長谷川等伯は壮年過ぎるまで「信春」の名でしたが、ここでは「等伯」で通しています。

智積院の大書院に描かれた楓図と桜図(レプリカ)

現在ある智積院は、もとは秀吉が幼くして亡くなった愛息鶴丸のため菩提寺として建てた祥雲禅寺です。
千利休の助力により、その祥雲禅寺に等伯・久蔵父子は障壁画をえがきます。それが楓図(等伯作)と桜図(久蔵作)です。
(当時は異なる部屋に描かれていました)
豊臣家をたおした家康は、秀吉の名残りである祥雲禅寺を真言宗の智積院へ建て替えさせますが、そこにあったすべての絵を残して引き継がせます。

画像は【aruku-116】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-116/

仏画師として頭角をあらわす

等伯は、七尾一帯を守護職としておさめる畠山氏に従属する武家の次男として生まれます。
そのころの畠山氏は没落名家そのもので、財力もなく勢いもなく、その畠山氏にぶら下がるレベルであれば、武家とはいっても刀をもって生きてゆけるのはせいぜい長男のみ。娘ならば嫁がせて片付けられるものの、次男となるとそういうわけにもいきません。
そこへ長谷川となのる染物屋から養子にもらえないかと話がもちこまれます。等伯(信春)が幼少のころから画をえがくに優れた才をみせていてスカウトに近い形で養子入りしたとの説もありますが、詳しいことはわかりません。
確かなことはその長谷川の家は染物屋であると同時に仏画をえがくことも業としていたこと、養父から可愛がられ染物屋としてではなく仏画師として家を継ぐよう勧められたこと、長谷川家は日蓮宗に帰依しており仏画ももっぱら日蓮宗の寺院に奉納していたこと、そして等伯自身も熱心な日蓮宗徒の養家でそだち、日蓮宗の寺院におさめる仏画をえがき続けるうちに、すくなからず日蓮宗に帰依していったであろうことは想像できます。

等伯は仏画師としてその才能を開花させ、しだいに能登一帯に名を知られるようになります。
ところが嫁ももらい、長男(のちの長谷川久蔵)がうまれ、順風満帆とおもわれた矢先に養父母が相次いで亡くなります。等伯にとっては長谷川家に養子入りしたことが人生最初のターニングポイントであり、この養父母の死が二度目のそれになったはずです。
等伯は七尾の地でそこそこ有名な仏画師でおわることに満足できなかったのでしょうか。
そうではなく、自分のなかに渦巻く「画を描きたい」という激情を、このせまい能登ではとても燃焼しつくせないと思ったのではないでしょうか。
まもなく等伯は、妻と久蔵をつれて京へと向かうことになります。

妙成寺

石川県羽咋市(はくいし)にある妙成寺は、日蓮上人の孫弟子にあたる日像が開いたと伝わる日蓮宗の寺院です。
等伯の時代、七尾から京都へゆくには、まず七尾から徒歩で能登半島を横断して羽咋へ。羽咋からは船に乗って敦賀まで行き、そこから京都まで歩くというのが最短ルートだったようです。
それゆえ等伯は間違いなくこの羽咋へは来ているはずで、妙成寺には信春時代にえがいた「涅槃図」が残されています。

画像は【aruku-142】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-142/

京にて雌伏雄飛する

等伯が七尾から京へと出てきたのは、両親が死去した直後と推測されるため33歳のころではないかと思われます。そこからのちの等伯の足取りははっきりしません。
その後で明言できるのは、およそ20年後すなわち等伯50代前半に、豊臣秀吉が幼くして亡くなった愛息鶴丸の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺に、息子や弟子たちとともに後世に語り継がれる障壁画をえがいた事実です。
その20年の間は何をしていたのか。雇われて扇に絵をえがいて糊口をしのいでいたとも、そうではなく自分で店をかまえて自作の扇を売っておおいに繁盛していたとも説がありますが、たしかなことは分かりません。
一時期ですが、狩野派に弟子入りしていたとも言われています。これはけっこう信憑性のたかい話のようですが、具体的な時期や期間はまったくわかりません。

しかし残した作品から推測できることがいくつかあります。
○京に上ってきてまだ間もないころに、世話になっていた本法寺(この寺は日蓮宗の本山で、上洛後しばらく等伯親子はこの寺院の一隅で暮らしていたともいわれています)の住職日堯上人の肖像画をえがいています。その画は、人物観察の鋭さと人物の内面をえがきだす筆の確かさを示しています。
○祥雲禅寺にえがく4年前に、千利休が寄進した大徳寺山門に天井画や柱絵を描いています。このことから上洛後いつの時点かで千利休と出会い、その知己を得るに至っていたことがわかります。
○その翌年に(おそらくは千利休の仲介もあってか)豊臣家五奉行のひとり前田玄以に取り入り、天皇の御所の障壁画をえがくチャンスを得かけますが、狩野永徳の横やりで話がつぶれてしまいます。この事実で、狩野永徳がいかに長谷川等伯を意識し、その活躍と才能に危機感をもっていたかが分かります。

そして等伯にとっては思わぬことからチャンスが訪れます。はたしてそれを等伯が喜んだかどうかは分かりませんが、狩野永徳が急死するのです。
棟梁である永徳の急死で混乱する狩野派に大仕事をうける力はありません。そもそも依頼する側からして永徳のいない狩野派は名前だけの存在でしょう。
こうして祥雲禅寺の仕事は等伯に任せられます。

本法寺

この寺には長谷川等伯の御墓もありますが、最近建てたものなのか、まるで「ご近所さんの御墓」を見るようで、まったく偲ぶ気持ちに浸れませんでした。

画像は【aruku-148】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-148/

長谷川等伯 vs 狩野永徳

ここで1590年にえがかれた永徳の檜図と、1591年にえがかれた等伯の楓図を見比べてみましょう。

1590年 狩野永徳作「檜図屏風」

(この画像は、国立文化財機構所蔵品総合検索システム Colbaseより複写しています)


1591年 長谷川等伯作「楓図」
掲載の画像は事情によりぼかし加工を施しています。明瞭なものは下記のサイトでご覧ください。

智積院のサイト
https://chisan.or.jp/worship/artifact/

等伯の楓図が、その前年に描かれた永徳の檜図を意識していることは明らかです。
いまの時代であればコピーだのと問題視されたかもしれませんが、当時は著名な画師がえがいた画が話題になると、他の画師はそれを見本にして自分の作品の中に取り入れてゆくのは常識でした。むしろそのように他の画師から模倣されてこその「主流」だったわけです。

では永徳の「檜図」と等伯の「楓図」を見較べてみてどうでしょうか。
個人の好みの問題ですからここで優劣はつけません。
いま言いたいことは、永徳の「檜図」が描かれてわずか1年後に、等伯がどれだけ参考にしたにしろ、完全に自分の世界観をつくり上げてしまっていることは驚きでしかありません。

等伯と永徳と、どちらが画をえがく上で恵まれた環境にいたと言えるでしょうか。
たしかに永徳は狩野派の跡取りとして生まれ、生まれながらに日常のすべてが画をえがくために整えられていたと言っても良いでしょう。狩野派の名で、黙っていても仕事(画の注文)はあります。永徳のやるべきことと言えば、ただ良い画をえがくことです。
ところで永徳にとって良い画とはなんでしょうか。それは狩野派にとっての良い絵であり、狩野派に仕事を依頼する人にとっての良い画だということでしょう。
永徳にとっては狩野派の流儀を受け継ぎ、そのなかで狩野派の画をより高い次元で完成させることが宿命だったはずです。しかも、より高い次元での完成にも条件があります。それは狩野派の画を好み狩野派だからこそと仕事を依頼してくれる顧客に、理解できるだけでなく好まれるものでなければいけません。
もし永徳の作品に限界を見るとしたら、それは永徳の才能の限界ではなく、永徳が置かれた環境による限界と見るべきです。

祥雲禅寺(現・智積院)書院の庭

画像は【aruku-116】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-116/

本法寺書院の庭

画像は【aruku-148】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-148/

「松林図屏風」は完成作なのか

祥雲禅寺の障壁画は秀吉を満足させただけでなく、見る人見る人を心酔させ、等伯のもとへは大きな仕事が次々と舞い込むようになります。順風満帆とはこのことです。
ところがそれも長くは続きません。先に書いた大徳寺の山門に、それを寄進した利休の立像が祀られている一件から悪質なデマと噂がひろまり、千利休は切腹を命じられます。すでに等伯の名声は全国にひろまり、いまさら千利休の後ろ盾は必要なかったでしょうが、よき理解者の突然の死は等伯にとって衝撃だったはずです。
さらに追い打ちをかけるように、画才ゆたかな息子であり、跡取りときめていた久蔵が急死します。あまりに突然のことであり、またタイミング的に、長谷川派の隆盛をねたむ狩野派による暗殺ではないかとの憶測もありますが、どうやら病死だったようです。

このときの等伯のこころの痛手はいかばかりだったのでしょうか。
等伯はその悲嘆のなかで「松林図屏風」を描きます。

1593~95年ごろ 長谷川等伯作「松林図屏風」
(この画像は、国立文化財機構所蔵品総合検索システム Colbaseより複写しています)

左隻
右隻

等伯はもともと仏画師であり、仏教にふかく帰依していたことは容易に想像できます。
大陸から大和につたわった仏教の根底にある考えは、すべての事象は意識の下にあるだけで現実には存在しない、心の世界以外には何物もない、すべては「空」である。
そこから発展して形あるものを求めるのは煩悩であり、煩悩があるかぎり人は苦しみ続ける、それゆえ形あるものも、形あるものをもとめる煩悩も、さらには煩悩をかかえる自分自身さえもすべて元を正せば「空」なのだから、そのことを悟れば自ずと煩悩は立ち消え、心穏やかな世界に生きることができる。こういうことを言っています。
その後いろいろな宗派が登場し、「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえれば誰でも極楽浄土へ行けるとか、「南無妙法蓮華経」と題目をとなえれば仏の救いがあるとか、そのように教えを説いたのは、あらゆる一般大衆に理解させるには学問仏教の講釈をたれていたのではとても浸透させられないと判断したからでしょう。
また日本でひろまったのは大乗仏教です。大乗仏教とは「大きな乗り物」でみんなが救われるという意味ですが、厳しい修行をしていない人も、あまり理解力のない人もみんなを救おうという趣旨から、日々の修行を日々念仏や題目を唱えることで代用し、より易しくしたのでしょう。

しかし等伯は仏教の真髄を間違いなく理解し、理解するだけでなく自分の身体の一部にしていたはずです。なぜそう断言できるか、それはこの「松林図屏風」を見ればわかります。
この画はまさに煩悩が立ち消え、さらには自分自身さえも「空」となった、その心象風景を描いたものだと思います。
もし長谷川等伯に「松林図屏風は完成作ですか?」と問うてみたらどうでしょうか。
きっと微苦笑しながら「観る方がお好きなように決めてください」と答えるはずです。すでに等伯にとっては、この画が完成か未完かは、さしたる問題ではなくなっていたことでしょう。

七尾美術館

七尾市にある七尾美術館では、毎年一か月ほどの期間で、テーマを変えて長谷川等伯展を行なっています。

画像は【aruku-144】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-144/

長谷川等伯

Posted by 山さん