2023.10.28記 お市の方の像は福井市中心街・北ノ庄城址地に立っています。この像の右には茶々、お初、お江の三姉妹像があり、その後ろには横向きに柴田勝家の座像があります。まるで主役はお市のようで、ここは柴田神社の一角でもありますが、「美」を祈願する象徴... Read More | Share it now!
ススキたなびく曽爾高原へ
【奈良県・宇陀郡 2023.10.26】奈良県の北東部、三重県との県境に室生山地はあります。この山塊の成り立ちについては、今年4月に住塚山と国見山にのぼったブログで書いていますので、今回は簡単に(前回も簡単ですが、今回はより簡単に)。1500万年前の火山活動により堆積物が積み重なり、それらが河川によって浸食され谷ができ、いまの特異な景観ができたそうです。その室生山地の中央辺りにあるのが倶留尊山(くろそやま)で、その麓に巨大なお盆のようにひろがるのが曽爾高原(そにこうげん)です。この曽爾高原はススキでたいへん有名で、おそらく関西では最大の面積を誇るススキたなびく草原ではないかと思います。ではなぜススキの名所になったのか、調べなくてもよいのに、つい興味をひかれて調べたところ、いまから50年ほど前にもともと草とススキが生えていた広大なスペースに、なにか観光客を呼べるものはないかとアイデアを出し合った結果、草を刈ってススキを増やせということになったそうです。ススキたなびく曽爾高原の成り立ちはあまりにも現実的に過ぎますが、春の新緑、秋の黄金色、どちらも訪れてみる価値はあります。 太良路バス停から曽爾高原へ バス停そばにあった案内図より抜粋 「現在地」のバス停より、濃緑の点線で記された東海自然歩道をあるいてファームガーデン前を通過、曽爾高原入口にむかいます。 バスが通る道から左へ... Read More | Share it now!
大阪七低山をあるく
【大阪市 2023.10.22】大阪七低山ですが、大阪府内の低い山7つではなく、大阪市内の七低山です。大阪市内に山なんぞあるんかいと、大阪に住んでいる人ですら疑うかもしれませんが、それがあるんです。国土地理院による山の定義では、「周囲よりも盛り上がった地形や場所のことを言い、平地とくらべ、傾斜した地形で形成される」となっています。これが地形学的には、起伏量(標高)が数百メートル以上で、その構造が複雑なものとなるのですが、地形学のために山登りをしているのではない人たちにとっては、国土地理院の定義にしたがえば良いでしょう。ですから大阪市内にもたくさん山はあります。そのなかから、昨秋どこぞのトラックが不法投棄で土砂を盛り上げたまま放置している、といった類いは除外します。ある程度歴史のあるもので、国土地理院によっても山と認定されているものに限定し、そこから、おそらく知名度のあるもの7つを選び出した、それが大阪七低山です。 1.真田山(標高10m) 大阪メトロ森ノ宮駅から地上にでると、大坂城が見える 真田幸村顕彰碑(真田丸跡)に立ち寄ります 三光神社... Read More | Share it now!
全国37店舗の越前大野屋が藩の財政を立て直す
【福井県・大野市 2023.10.18】福井駅から各停の電車で西へ1時間、山間の盆地に大野市、かつての大野藩がありました。初代藩主は、一揆勢を鎮圧した功により織田信長からこの地を拝領した金森長近。長近が4年の歳月をかけて小規模ながらも見た目も美しい越前大野城を築きました。とは言っても、この大野藩では明治維新の廃藩置県により藩自体が消滅するまでに、実に19人もの藩主がコロコロ入れ替わっています。それゆえ金森長近についてここで詳しく記すのは的を得ていません。幕末に土井利忠が大野藩の藩主となったときには、藩財政は莫大な借金によりほぼ壊滅状態でした。利忠はなによりも人材を育てなければならないと考え、藩校明倫館をひらき学問の普及につとめますが、それにしても手持ちの金がありません。そのとき家老の内山良休が地元の特産品を地元ではなく他藩で売ることを提案し、まず手始めに大坂(いまの大阪市久太郎町)に大野屋1号店を出店、地元のたばこ、生糸の販売を始めます。この1号店が軌道に乗ると、2号店は大坂の特産品を買い付け別の他藩で売るというように、つぎつぎに店舗数をふやし、ついには37店舗まで拡大したと言います。もちろん財政の立て直しに多大に寄与したことは言うまでもありません。 城下町をあるく 町中にあった観光案内板より抜粋 越前大野駅からスタートし、城とをむすぶ直線よりも左側(南)一帯をまわり、それから城に上がり、城から下りてからは地図の右側(北)一帯をまわって北大野駅に戻る予定とします。 本願清水イトヨの里... Read More | Share it now!
丸岡城の天守は、国宝→重文→国宝と復活するか
【福井県・坂井市 2023.10.18】丸岡城は、柴田勝家が信長の時代に越前一国を授けられた際に、甥でのちに養子となった柴田勝豊により築かれました。時は流れ、明治維新により新政府ができると、明治4年に廃藩置県により廃城の憂き目となり、天守を残して城郭の建物はすべて取り壊されます。その後天守とその一帯は、当時の丸岡町に払い下げられ公園として整備されますが、周辺の堀は大正から昭和にかけてすべて埋められ消滅します。それでも昭和9年にはこの当時の国宝保護法により「国宝」に指定されるのですが、昭和23年におきた福井地震によりこの天守は崩壊してしまいます。そして昭和25年に国宝保護法から改定された文化財保護法が施行されると、「国宝」のまま留まることはかなわず、「重要文化財」にあらためて指定されます。熱意というより執念というべきでしょうか、そこから天守の復旧計画がすすみ、5年後の昭和30年には倒壊してくずれたその材をあつめ、整理し、組み直してみごとに天守を立て直してみせます。いまでは日本全国にのこる12の現存天守の中にしっかりカウントされており、その規定では「江戸時代以前につくられた天守」ということなのですが、悲しいかな昭和25年指定の「重要文化財」のまま今にいたり、どうやら坂井市にとってはこの丸岡城を国宝に復活(?)させるのが悲願のようです。 丸岡城へ お天守前公園から天守を仰ぎ見る 登城口はいくつかありますが、ここから登ってみます 当時の城の縄張... Read More | Share it now!
朝倉氏が越前に築いた文化都市・一乗谷
【福井市 2023.10.17】朝倉氏は元からの名門ではありません。そもそもは但馬の田舎に根をはる氏族であり、その一派が北陸にうつり、越前朝倉氏7代目・孝景の時代に名門・斯波氏が守護として管轄していた越前国をかわって管理する役につきます。これが守護に対して、守護の代理ゆえ守護代とよばれる役職です。朝倉孝景は類いまれな戦上手で、越前の土豪や一揆勢など反対勢力を完全に切り従えた功で守護代に就くのですが、さらに京の都の将軍家後継騒動に端を発した応仁の乱のドサクサに便乗して、斯波家の後継問題にも介入し、西軍についたかとおもうと東軍に寝返り、あげくに斯波氏の力をそぎ落とし、実質的に越前国を統治します。(役職としてはこの時点では斯波氏が守護、朝倉氏が守護代のままです)孝景の次の8代目か9代目のときに斯波氏は没落し、朝倉氏が名実ともに越前国の守護となりますが、斯波氏同様に将軍家も何の力も持たない据物となっていたため、朝倉氏は実質的に越前国の支配者になります。すなわち「守護大名」というわけです。そして11代目の義景にいたり武よりも文に重きをおいたのか、強兵は二の次で、まるで京の都を模したかのような文化都市をつくります。もっともその当時の京は荒び廃れて見る影もない状態だったため、京の都をしのぐといった方が正しいかもしれません。その文化の華が咲き誇ったのが、いまの福井市中心街から南西に10km余、山麓の谷間にひろがる一乗谷です。 一乗谷へ 一乗谷の朝倉氏遺跡へ... Read More | Share it now!
北ノ庄城も福井城も北ノ庄
【福井市 2023.10.17】柴田勝家が信長から越前49万石をあたえられて築いた、その規模は信長の安土城をも上回ると言われたのが北ノ庄城。しかし勝家は本能寺の変で信長が横死してのち、しだいに秀吉にその地位を脅かされ、ついに賤ヶ岳の戦いでの敗北から越前へと敗走、さらに北ノ庄城での自害にいたります。このとき清須会議ののちに妻とした、信長の妹・お市の方も結婚生活わずが半年余りでともに果て、火をかけた七層とも九層ともつたわる豪壮な天守ともども灰燼と帰します。この越前の地に、関ケ原の合戦ののち68万石で入封するのが徳川家康の次男であり、幼少のころは秀吉の養子に、その後は関東の大名・結城家の養子となっていた結城秀康です。秀康はこの地で松平の姓を名乗り、その姓にも与えられた石高にも恥じないようにと、6年の歳月をかけて巨城を築きます。(勝家の北ノ庄城の遺存した部分をもとに改修したとの説もあります)秀康存命中はこの地域は北ノ庄、そこにある城ゆえ北ノ庄城と呼ばれていたようですが、その後「北」が縁起が悪いとかゴチャゴチャいう人があって、福が居る... Read More | Share it now!
余呉湖を一周して賤ヶ岳に登る
【滋賀県・長浜市 2023.10.14】織田信長の存命中に、秀吉がみずから天下を獲ろうと企んでいたか否かはわかりません。しかし本能寺の変で信長が謀殺され、その報をうけて明智光秀を討つべく備中高松城から京へ駆け戻る段階では、すでに光秀討伐後の先のことまで考えていたかも知れません。いずれ遠からぬ将来、信長軍団のなかで家臣最高位にある柴田勝家とは、どのような形になるにせよ雌雄を決する時がくる。 それから1年と経たないうちに、両者はいまの滋賀県長浜市に琵琶湖を背にし余呉湖を腹にかかえるようにそびえる賤ヶ岳とその一帯を舞台に、まさに天下分け目の大戦をくり広げることになります。 余呉湖一周、ただし徒歩 JR余呉駅前にあった案内板より抜粋 今日の予定ですが、余呉駅から時計とは反対回りに余呉湖を一周し、最北部にある登山口から山に入り、中川清秀の陣跡などを見ながら賤ヶ岳山頂へ。賤ヶ岳リフトに沿うように下り、国道8号線かその脇道をあるいて木ノ本駅へ戻ります。 秀吉の軍は余呉湖の周囲と南側に陣を敷きます。北の堂木山、神明山あたりが前衛。東の山沿いには高山右近、中川清秀。賤ヶ岳には桑山重晴。いまの木之本駅の辺りに秀吉の本陣、その前の山麓には弟の秀長。柴田勝家の軍はさきに進軍してきますが、余呉湖のよほど手前(北)で軍をとめ陣を敷いていました。中谷山、別所山あたりに不破勝光、前田利家。行市山に佐久間盛政。地図上の街道をさらに北へ上ったところに柴田勝家の本陣がありました。 駅からのんびり農道を歩きます... Read More | Share it now!
東寺のすべて
【京都市 2023.10.12】今年は真言宗の立教開宗1200年にあたるそうで、京都の東寺において、すべての伽藍をひらいてすべての仏像、仏具を一度に見せてくれるという一大イベントがあります。タイトルはそのまんま「東寺のすべて」。(立教開宗とは、その宗派の教義ができ上がった時。具体的に言えば、開祖すなわち真言宗の場合なら空海上人が真言密教の教えをひろく説くようになった時を指します)期間は10月9日から31日までの、わずか3週間ほど。行き逃さないよう早めに行っておきます。 東寺とは 南大門から金堂をのぞき見る 8世紀末、遷都にともない平安京の町づくりを始めるにあたって、その鎮護のため羅生門をはさんで東と西に、それぞれ東寺、西寺がつくられました。両寺は国の管理を受ける代わりに国から資金面での全面的な援助をうけられる官寺ですが、823年に当時の嵯峨天皇は、このうち東寺を空海上人に下賜し、そのためこの時から東寺は真言密教の根本道場となります。(西寺については、はっきりした記録が残っておらず、また羅生門とともに跡形もなく消滅しているため、ここでは触れません) 総合受付のある慶賀門(東門)に回る 根本道場(ねもとどうじょう)とはその宗派の総本山のことです。真言宗といえば、高野山の金剛峯寺が有名で、こちらも根本道場ですが、東寺真言宗と高野山真言宗の違いがあります。また空海上人が高野山を開山したのは816年ですから、金剛峯寺は山中に造ったことから考えても純粋に修験のため、そのあとで下賜された東寺は平安京にあり広報の意味があったのではないかと、自分なりに解釈しています。(あくまで個人的な解釈です) 「東寺のすべて」の広告 寺内にあった境内案内図より抜粋 境内伽藍を見てまわる 慶賀門を入ると、(この辺りはいつも拝観無料) 食堂(じきどう) 金堂... Read More | Share it now!
歴史に翻弄されつづけた名城・備中松山城
【岡山県・高梁市 2023.10.10】そもそも臥牛山の4つの峰のなかで、大松山にその後の城の原形となる砦ごときものが築かれたのが1240年のこと。東(都)と西(西国)、北(山陰)と南(山陽)をむすぶ交通の要衝であったため獲ったり取られたりで次々に城主が代わり、そのたびに城郭は拡張されてゆきます。戦国時代、三村元親により初歩的とはいえ石垣を積み上げた、大城郭に仕上がったようです。元親は、その父・家親が勢力を拡大して行く途上で、宇喜多直家(秀家の父)に毒殺される過去があり、宇喜多憎しの一念で毛利氏の支援を受けながら勢力を回復し、備中松山城も奪還します。ところがそののち毛利氏が、上方に魔王のごとくあらわれた織田信長の西下の防波堤の意味もあって宇喜多直家と同盟を結ぶと、激怒した元親は織田信長とむすび、結果として毛利氏と敵対することになります。この決断は時期尚早だったようです。信長はまだ西国侵攻をはじめたばかりで備中まで援軍をおくる予定も余裕もなく、元親は孤立無援のまま、毛利氏の名将・小早川隆景に攻められ(さしもの隆景にも備中松山城は容易には落とせず、支城を落として包囲し周囲から孤立させ)、元親は自害します。こうして備中松山城は毛利氏のものになるのですが、関ヶ原の合戦で西軍が敗れると毛利氏も減封、江戸幕府の管轄となり、一時期城番をおいたあと、池田長幸が6万3千石で入城します。ところが2代目の長常は嫡男(跡取りの男子)がないまま亡くなったため、幕府が定めた法により家そのものが廃絶、城を明け渡すことになります。 臥牛山へ 武家屋敷ものこる石火矢町の通り... Read More | Share it now!