【京都市 2026.4.27】このところ朝からすっきり晴れる日がほとんどなくて、たまに晴れたかと思うとそういう日にかぎって(毎日が休日の)私にもたまたま抜けることができない約束がある。そんなこんなで窓の外を見ていたら、昨夜来の雨があがり西の空はうっすら明るくなっている。のでスマホで天気予報をチェックすると、午後から大阪も京都も奈良も晴れると。いまは新緑の季節。「水も滴るいい男(女)」という表現がありますが、雨上がりの新緑はまさに水も滴るような瑞々しさに輝いて見えます。関西で新緑の美しい場所と言えばいくつか候補はありますが、大阪市内に暮らす身で午後から気軽に出かけられるとなると、京都市街の北につらなる山あいの、そのなかでも貴船神社が最有力候補、ということで今日は家内も誘って出かけることにしました。 叡山鉄道・貴船口駅 叡山鉄道のパノラマ車両「きらら」 大阪と京都をむすぶ京阪電車、その京都側の終点が出町柳駅。改札を出て地下道をあるいてすぐに叡山鉄道の乗車口があります。本線とはべつの鞍馬線に乗ると貴船、鞍馬へと運んでくれるのですが、その手前の市原駅と二ノ瀬駅の間に「もみじのトンネル」があり、その約250mはわざわざスピードを落として運転してくれます。 ※叡山鉄道のパノラマ電車は予約不要で無料ですが、全便で使われているのではありません。HPで確認できます。 貴船口駅のホーム 駅を出ると目の前が貴船川 貴船川沿いをあるく 新緑、そのほとんどが青もみじ 遡っているので右に貴船川が見える 青もみじの隙間からみえる山も新緑で輝いている 川床(の料理屋)が見えてくると、間もなく貴船神社の本宮赤いモミジは春に紅葉するノムラモミジ 川床ではこのモミジを見ながら鮎料理を楽しむ 川床は江戸時代に納涼のため、川面の上に床を張ってそこに坐って喫茶したのが起源だそうです。京都で川床といえば、鴨川とここ貴船川が有名ですが、鴨川(三条四条あたり)では「かわゆか」と読み、貴船では「かわどこ」と読みます。理由は、鴨川では建物の床(ゆか)をそのまま川面に張り出したのに対して、貴船川では建物よりずいぶん低い川面に床(とこ)を据えた、その違いによるそうです。 本宮 本殿への石階段紅葉でも青モミジでも、あまりにも絵になる風景 貴船神社・本宮は水を司る高龗神たかおかみのかみを祀っています。創建はたいへん古く、社伝によると神武天皇の母によるとされており、記録として残されているものでは、千年ほど前にもともと社があった奥宮が大水で流されたためこの場所に遷したとされています。平安時代に定められた重要な神社「二十二社」のひとつに選ばれているので由緒の正しさは折り紙付きです。※「二十二社」は当時のことゆえ畿内の神社を中心に選定しているため、今ではこの格付けは使われていません。 左の建物は展望所兼休憩所 展望所兼休憩所 ご神木の桂の大樹 本殿 干ばつ時の祈雨の儀では黒馬を、長雨の際に止雨の儀では白馬を奉納した 貴船神社の由緒についてもう少しくわしく書いておきます。神武天皇の母ですから神話の時代になりますが、玉依姫たまよりひめは浪速の津(大阪湾)から黄色い船に乗って淀川~賀茂川~貴船川と遡り、この地に水神を祀ったとされており、これが貴船神社の起源とされています。黄色い船→黄船、これが貴船の由来で、しかも地名としては「きぶね」と呼ぶが、神社としては「きふね」が正しいとまで言われると、オチかと突っ込みたくなります。※黄という色名が使われ始めたのは平安時代からで、それまでは黄色という色別表現がなかったのですから「黄色い船」と記録されることはなかったはず。さらに玉依姫が乗ってきたゆえ貴い船→貴船ならわからないでもないですが、なにゆえ黄色い船→貴船とこじつけるのか。のちの時代の関西人がウケ狙いでダジャレとして言ったとしか思えない。 もう一つの起源説。「平安京に遷都されてからは、貴船が御所の御用水である賀茂川の最上流にあることから川上神として崇めれ」これは『京都の寺社505を歩く』に書かれていることをそのまま書き写したものですが、これが正しいのではないでしょうか。(すくなくとも正しいと思える) 中宮(結社ゆいのやしろ) 本宮から中宮へと歩きます 中宮... Read More | Share it now!
新緑の生駒縦走路を南から北へとあるく
【大阪府・八尾市~東大阪市 2026.4.21】登山愛好家にもタイプがあります。高く険しい山に高度な技術と重装備で挑むアルピニスト、岸壁や沢などを登るのを主な目的とするクライマー、この人たちは俗に「山ヤ」(山屋が語源?)と言われているようで別格とします。俗に(あるいは無理やり分類するとしたら)山頂を極めることを目的とした人をピークハンター、整備された自然遊歩道のような道を散歩の延長のようにあるく人をハイカー、山道や尾根道をときには山頂も極めながらあるく人をトレッカーと呼ぶようです。私自身にあてはめるなら、あるときはピークハンター、またあるときはハイカーでもありトレッカーでもあり。ハイカーにとっては雪山歩きは遠慮したいはず。ピークハンターにとっても雪山登山をあえて選ぶ人は少数派でしょう。ハイカーにとってもトレッカーにとっても猛暑の日に好んで山歩きをしようという人はいないでしょう。秋は紅葉が楽しめるのですが、高い山では霧が出やすい。ピークハンターはもちろんトレッカーにとっても厄介です。4月も中旬になると、これから新緑の美しい季節がはじまります。ハイカーにもトレッカーにもピークハンターにとっても、最適最良最高の季節です。前置きがながくなりましたが、これが言いたかった!(山によっては積雪が残っているところや、まだ山開きしていないところもあります) 信貴山口駅~開運橋~高安山 近鉄信貴山口駅から登山口へ前方に見える山並みがこれから歩く生駒山系南から北へと歩くことになります 登山口からしばらく林道をあるく 道の左右を埋める竹林が やがて樹林にかわります 道が新緑におおわれ、 視界が新緑におおわれる 開運橋 この橋がなぜ「開運橋」と名付けられているのかわかりません。むしろボロボロで、そのうち崩落するのではないかと... Read More | Share it now!
古宮城を捨てた奥平信昌が新しく城を築いたので新城市
【愛知県・新城市 2026.4.16】新城しんしろ市は愛知県の中西部、浜名湖の北端のさらに北に静岡県との県境に接してあります。その地にもともとあったのが古宮ふるみや城。よくよく地図を見ていると、いかにも三河・遠江の徳川氏と甲斐・信濃の武田氏がぶつかり合いそうな場所にあります。歴史的に見るとまさにそのまんま。もとは三河を攻略するために武田信玄が重臣の馬場信春に築城させたもの。古宮城をふくめこのあたり一帯を治めていた奥平定能・信昌父子はもとをたどると徳川の傘下にあった豪族で、信玄の威光で武田家に臣従。ところが信玄の急死を契機に武田氏に見切りをつけ信昌が家康の長女を正室として娶ることで徳川氏に帰参。それを知った信玄のあとをつぐ武田勝頼は憤怒も加わって一気にこの地に攻め入り古宮城も奪還。勝頼はさらに信玄の急死の混乱に乗じて徳川氏にうばわれた長篠城をも奪還にむかうものの、徳川氏に信長みずから率いる織田軍が加勢したことで惨敗。その後は武田氏の勢力が急速に弱まり、徳川氏と争うこともなくなったために城としての存在価値が失われてゆきます。その後はブログのタイトル通り奥平信昌は新城城しんしろじょうをつくってそこを居城とします。 古宮城 古宮城はこの独立した丘陵にあります この丘陵は東西200m×南北150m、比高差25mとのこと。丘陵をおおう樹林の中に足を踏み入れるとわかりますが、丘陵そのものが端から端まで上から下まですべて城郭です。 丘陵の周囲は盆地内でもっとも低い場所にあたり当時はぐるりと沼地だったそうで、そのまま天然の防御となっていました。 現地にあった案内図より この丘陵は個人の方の私有地で、ご本人の了解があってこそ見学できるというものです。出入りは白鳥神社横から、丘陵(城郭)内の立ち入り禁止場所には足を踏み入れない、それらを厳守して見学します。余計なことは考えず、この案内図のとおり推奨ルートに従って歩きました。 南側をあるいて西曲輪へ 歩き始めるとすぐに道が回り込む、この造りも防御を考えてのことでしょう。道の右側が土塁で一段高く盛られていることにも注意。 比高差25ⅿとはいえ上から矢を射かけられると攻めづらい 大小の堀が各所にあります 一段上になったところが主郭 大堀切 西曲輪... Read More | Share it now!
長篠城をたずねて武田勝頼の苦悩に思いを馳せる
【愛知県・新城市 2026.4.15】信玄亡きあと、跡継ぎの武田勝頼は憑かれたように戦さをくりかえし勢力拡大をはかります。結果として武田家の領土は勝頼の時代に最大版図に達しますが、それは勝頼が亡き父・信玄を越えるために、まるで最大版図を築くことが信玄を越えたことの証明とでもいうように、無理に無理をかさねた進攻進撃によってなされ得たものでした。天正3年(1575年)5月、信玄が倒れた際の混乱にまぎれて家康に奪われていた長篠城を奪還すべく、勝頼率いる1万5千の武田軍が城を包囲します。これが長篠の戦いの発端ですが、この時点では長篠城の戦いと呼ぶべきでしょう。一方の家康ですが、武田軍の西進の報をうけ即座に同盟相手の信長に救援をもとめます。一説では柵(馬防柵)を瞬時につくるため、織田軍の兵は丸太を一本づつ抱えて救援に駆けつけたとされていますが、これはウソでしょう。重荷を背負って歩けば到着するまでに体力を使い果たしてしまいます。そもそも長篠城のある地は山も多く、木材の確保に困ることもありません。おそらくは織田方の作戦参謀(信長自身かもしれない)が柵をつくって武田の騎馬隊の突撃を防ぐ策を考案し、急使をおくって織田軍が到着するまでに丸太を大量に用意しておくよう指示したのではないでしょうか。 長篠城 現地にあった案内図より抜粋 この布陣図で見れば明らかなように長篠城と、馬防柵と鉄砲の三段撃ちで有名な設楽原の決戦場がずいぶん離れていることがわかります。また武田方は全軍を設楽原に布陣させたのではなく、相当数(3千人ほど)を長篠城包囲のために残しています。 長篠城の推定図... Read More | Share it now!
熱田神宮の秘・草薙の剣はあるのかないのか
【愛知県・名古屋市 2026.4.14】ネットで「秘仏とは」と検索すると、秘仏には二種類あり、①通常秘仏 – – ... Read More | Share it now!
別名の白米城なら各地にある、今日は松阪市の阿坂城へ
【三重県・松阪市 2026.4.13】今日は大阪から電車で奈良県橿原市まで行き、そこでレンタカーを借りて山里を縫うように進む国道369号線を走って三重県津市の多気北畠氏城館へむかいました。ここは「続日本百名城」にも指定されているのですが、あらかじめパソコンで検索して画像を見たかぎりではどうにも見所がなさそう。と思って訪ねたら案の定というか残念ながらというか心惹かれるようなものもなく。場所の不便さを考えるならふたたび訪ねることも難儀なので、城郭の背後にある山城にも登るだけは登って全容を目に入れ、ふたたび訪ねることができなくても後悔することはないと納得してその場を後にしました。 そして次に向かったのが松阪市の阿坂城。あくまで多気北畠氏城館のついでに寄っただけで、しかも着目したのが阿坂城の別名が白米城といういわくありげな名だったことから興味を覚えただけのことなのですが、ここがなかなか面白かった。と言うことで、多気北畠氏城館について書く予定だったブログを変更して阿坂城ーーーとしました。 阿坂城 登山口にあった案内板より抜粋 阿坂城については案内図からも分かるように北郭の椎ノ木城と南郭の白米城によって構成されています。その特異な名だけでなく、もっとも標高の高い位置にあることから白米城が有名になってしまい、あたかも阿坂城の別名であり通称のようになっていますが、城郭の規模から考えると椎ノ木城が主郭だったようです。 これが元来の登城道なのかはわかりません この平坦地は曲輪跡でしょうか? これはあきらかに防御のために造った門口でしょう ここにははっきり堀切と表示がありました 椎ノ木城 唐突に、椎ノ木城の主郭が現われます 現地にあった案内板より抜粋 切岸あきらかに人の手で急斜面を造っている 造られた坂道をのぼるとすぐに虎口がある 細長く曲輪がひろがる 上から帯曲輪を見下ろす 白米城 椎ノ木城を後にして、 山の斜面を登ります一見穏やかな登り道ですが、攻城となると登るにも上からは丸見え。矢を射られれば身を隠すところもなく、これは厳しい。 南郭の下に来ました さて白米城の名の由来ですが、南北朝時代に足利幕府軍が攻め寄せたさいに城をかこみ水の手を断って城側が降伏するのを待ちました。対して籠城する北畠某はふんだんに水はあると見せかけるため、馬の背に白米を流してあたかも余裕で馬を洗っているかのように見せかけた、という逸話からきています。 この話、他で聞いたことがあるという方もいるかと思います。ウィキペディアから得た情報ですが、柳田國男氏の調査によるとこれに類する「白米伝説」は全国に80ほども残されているそうです。それゆえ真偽のほどは不明。 白米城の主郭曲輪 主郭の下にひろがる曲輪 白米城からの眺望はまさに360度の大パノラマ。遠く伊勢湾まで見渡せます。空模様がイマイチのこの日ですら感動しました。晴天の日に登れば、この景色を見るだけで幸せを感じられそうです。 【アクセス】レンタカーにて... Read More | Share it now!
安く早くいつも楽しい六甲山、今日は荒地山へ
【兵庫県・芦屋市~神戸市... Read More | Share it now!
見頃の桜をもとめて醍醐寺へ、そして醍醐山へ登る
【京都市 2026.3.28 &... Read More | Share it now!