【兵庫県・たつの市 2024.3.9】アルプスALPSは、ラテン語のALPESを英語読みにしたもので語源をたどれば、雪をかぶった白い山の峰というような意味があるそうです。そもそもはフランス~スイス~オーストリア~イタリア~ドイツあたりを東西につらぬく山脈のことを指しますが、19世紀にイギリス人技師が信州につらなる山系をみて日本アルプスと呼んだのは白眉といっていいのではないでしょうか。ところがその後、ご当地アルプスがつぎつぎに名乗りをあげます。いまでは全国に50以上あるといわれていますが、その大半は「白い山の峰」とは縁遠いもので、なかには100~200m級の山々が連なるといったのどかなものさえあります。しかしアルプスと名乗るだけのことはあって(?)、どれもアップダウンをくりかえすためそこそこ登りごたえはあり、尾根歩きが主となるので景観も楽しめます。さらに里山が多く登山口までのアプローチが楽なのも魅力です。今日はその〇〇アルプスのなかで、兵庫県南西部たつの市の、標高458mの亀山を最高峰とし北から南へとつらなる新龍アルプスを歩きます。 祇園嶽 JR播磨新宮駅から新龍アルプスへ なぜ新龍アルプスと呼ばれるのか、なにやらイワクありげなと、あらかじめその名の由来をネットなどで調べてみましたがわかりませんでした。ところが現地にきて電車をおりたのが播磨新宮駅、ふと思いついて調べてみると、ここは新宮町。新宮町からスタートし、ゴールは龍野城のある龍野町。新から龍へ、案外そういう単純な理由かもしれません。 山道に入ります 最初のピークである祇園嶽をのぞむ 祇園嶽へは一旦ルートから外れ 荒々しい急坂をのぼる 山頂から... Read More | Share it now!
家康の生誕地・岡崎をたずねる
【愛知県・岡崎市 2024.3.4】「青春18きっぷ」が使える時期になったので、さっそく「普通列車でぎりぎり日帰り旅行できる土地」を精力的に訪ねてみます。今日は、昨年の大河ドラマ「どうする家康」で脚光をあびた、その生誕地である岡崎を訪ねます。ちなみに大阪市内から岡崎まで普通列車(快速、新快速はつかえる)で片道3時間半ですが、料金は往復で8000円のところが2510円ですませられます。 大樹寺 大樹寺山門 境内から見ると、山門、総門を通して岡崎城がみえる 大樹寺は家康の先祖である松平家の菩提寺です。家康は遺命により位牌はこの大樹寺に祀るよう言い残したそうで、3代将軍家光により大造営がおこなわれ、そのさい境内から山門を通して、その先の総門の真ん中に岡崎城がみえる粋な計らいをしたようです。 本堂... Read More | Share it now!
播磨の高砂市に生石神社をたずねる
【兵庫県・高砂市 2024.3.2】大阪からJR神戸線にのって加古川駅をすぎると宝殿駅につきます。なんとも立派な駅名ですが、ここから西へ2kmほどのところ岩山の中腹に、その岩盤をけずって造った(正確には造りかけた)石の宝殿があり、そこから宝殿駅と命名されたようです。10代崇神天皇の時代に疫病がはやり、その平癒と平安のため天皇の勅願によりこの石の宝殿を御神体として創建されたと伝わるのが生石神社です。生石神社は「おうしこじんじゃ」と読みます。なぜそう読むのかは不明です。不明というと、なぜここに石の宝殿が造られたのか、そもそもこの巨石は宝殿として削岩されたものなのか、そういったこともすべて不明です。 生石神社 中央に見えるのが生石神社、左には採石場 生石神社周辺には採石場がたくさんあります むかしから播磨には岩山が多くあることは知られていたようで、いま奈良や大阪にのこる古墳のなかに収められている石棺は、このあたりから巨石を切り出して運んだとの説もあります。 鳥居をくぐり急階段をのぼる... Read More | Share it now!
奈良公園で梅をみて鹿とあそぶ
【奈良市 2024.2.28】近鉄奈良駅から東へあるくとすぐに興福寺の堂宇が右手に見えてきます。それらをやり過ごしずっと東へあるくと春日大社にたどり着きますが、その「ずっと東へ」ひろがっているのが奈良公園です。なぜ街中にこれほど大きな公園があるのかといえば、もとは興福寺の境内であったということです。さらに言えば、春日大社はもとは興福寺を守るための鎮守社ですから、ここも境内みたいなものです。「境内都市」という表現があります。「宗教都市」にも近いのでしょうが、寺院や神社を中核として成立した都市のことをいい、門前町よりも規模がはるかに大きいだけでなく、政治的にもその地域を管轄している(支配している)のが特徴です。鎌倉から室町時代にかけて、大和一国の荘園の大半はこの興福寺が領していました。大和の国には朝廷の権威も武家の威力も及ばず、すなわち興福寺の権勢がつよすぎて朝廷も幕府も守護を配することができなかったということになります。 もっとも今日はそんな興福寺の歴史探訪ではなく、たんに奈良公園で梅を観て、鹿と遊ぶつもりで電車に乗りました。 猿沢池から興福寺 猿沢池から興福寺の五重塔をみる 興福寺へは、南側の猿沢池からアプローチするのがおすすめです。JR奈良駅からだとまっすぐ東へ歩くとここにたどり着きます。近鉄奈良駅からの場合はまっすぐ東へ行かず、いったん目のまえの商店街を南へすすみ、アーケードを抜けたところで左折するとここに出てきます。ところでこの撮影をした場所の背中には、抜群のロケーションで「スタバ」があります。外国人がコーヒーを飲みながらこの光景を眺めているのに比して、日本人がパソコンやスマホを見ながらコーヒーを飲んでいる光景には笑ってしまいました。 猿沢池をまわって 猿沢池を時計回りとは逆にまわると、この場所にでます。この階段をあがって興福寺にいたるのがベストな選択です。(あくまで個人的な感想です)現在、五重塔は修復中で下層部分は足場が組まれているためこれより先の写真は撮っていません。また興福寺については以前にもブログに載せているので、今回は省きます。 奈良公園 奈良公園にて... Read More | Share it now!
熊尾寺山に登った感想は、なんだかなあ
【和歌山県・海南市 2024.2.27】和歌山県に関していえば、大阪市内を起点にしてべつだての特急料金を払わずに、しかも気楽に日帰りで旅行できるのは海南市あたりまでと考えています。大阪府下を南下して府県境をこえるとすぐに和歌山市。ここまではよいとして、ここから先が交通の便が極端にわるくなります。それでも海南駅は、きのくに線の普通電車で4駅目ですので、乗り継ぎをうまくすれば大阪市内から2時間くらいで到着します。その海南駅からさらにバスに乗り換えてとなると往復に一日の大半を取られることになりますが、ガイドブックを見ていると、ここから歩いて登山口までゆける山がありました。海南駅から禅林寺、そこから集落をぬけると登山口、鏡石山から熊尾寺山へと登り、大野城跡を探訪して下山後は藤白神社に立ち寄って海南駅にもどる、ガイドブックによるとこれで5時間30分、内容豊富な充実の山歩きが楽しめると期待していたのですが。 禅林寺から登山口へ 禅林寺に到着 禅林寺境内から山並みを遠望する 集落を抜けて登山口へ... Read More | Share it now!
今城塚古墳・日本でただ一つ(?)みんなが入れる天皇陵古墳
【大阪府・高槻市~茨木市 2024.2.24】日本全国には16万基をこえる古墳が残っているそうで、神社の数8万、寺院の数7.6万の合計を上回ります。ちなみに全国のコンビニの数は6万弱なのでおよそその3倍。それだけ数多ある古墳の中で、おそらく全国唯一とおもわれる、自由に立ち入ることができる天皇陵としての古墳が大阪府高槻市にあります。今城塚古墳と呼ばれているものがそれで、26代継体天皇の陵と推定されています。たとえば石舞台古墳はそのなかに入って見学できますが、被葬者は蘇我馬子と推定されており、馬子は実力者でしたが皇族ではありません。立ち入れる古墳は、立ち入っても保存上の問題がないもの、崩壊などの危険がないもの、そして「天皇家の陵、墓ではない」ものに限られます。(天皇、皇后、皇太后のものを陵、そのほかの皇子や皇女のものを墓と区別します) では、なぜ継体天皇陵すなわち今城塚古墳には入れるのか。この今城塚古墳は墳丘の長さ190mの巨大なものですが、その西2kmほどのところに太田茶臼山古墳とよばれるさらにひとまわり大きい墳丘長226mの古墳があります。明治時代に、おそらく紙の上でのこる資料と大阪北部ではもっとも大きいという事実から、この太田茶臼山古墳こそ継体天皇の陵であると確定したのでしょう。天皇家の陵および墓への一般国民の立ち入りがいつどのようなかたちで禁じられたのかはよくわかりませんが、昭和22年に宮内府(のちの宮内庁)が発足すると、その管轄のもと陵・墓ともに柵でかこわれ、一般国民は各一ヶ所にもうけられた拝所から御陵あるいは御墓にむかって拝礼するようになります。ところが、昭和から平成にかけての両古墳の発掘調査の結果、太田茶臼山古墳は継体天皇の没年(西暦531年)より1世紀ほど前につくられたものであり、また今城塚古墳こそ天皇の陵にふさわしいことが判明します。この発見は学術的には賞賛すべきものだったはずですが、この発見に困惑した人達もいたはずです。報告をきいた宮内庁は「... Read More | Share it now!
夏目漱石の俳句「日は永し三十三間堂長し」は駄作か
【京都市・2024.2.9】京都東山にある三十三間堂は、中央のひときわ大きな中尊と、左右に正確に縦10列、横50列の各500、合計1001体の、十一面千手千眼観音像を本尊としています。それだけの数の仏像を祀るとなるとスペースも広大なものになり、とくに中尊を中心に101ならぶ横列は長大なものになります。三十三間堂は正式には蓮華王院といいますが、とにかく横に長く柱と柱の間が33あることから通称としてそう呼ばれているそうです。(横の全長は120m) この三十三間堂が長いということを読みこんだ俳句があります。「日は永し三十三間堂長し」、意外かもしれませんが、夏目漱石は生涯に小説だけでなく二千句をこえる俳句も残しています。俳句は五七五ですから、日は永し... Read More | Share it now!
和泉山系西端・四国山から四国は見えるか
【和歌山市 2024.2.7】関西人でなければ関西の各県がどのように隣接しあっているかよくわからないかもしれません。大阪府の南端は和歌山県の北端と接しており、その境界線にそって東西に連なっているのが和泉山脈です。山脈とはいっても山々の標高はせいぜい500mを越えるくらい、大方の山は300m前後に過ぎません。ところが周囲に高い山がないだけでなく瀬戸内海が近いこともあって、標高が低いわりに、言い換えると登るのが楽なわりに結構な眺望を楽しめます。オススメは冬のおだやかに晴れた日。いわゆる「陽だまりハイク」を楽しむには絶好の場所です。今日はその中でも西の端、すなわちもっとも瀬戸内海に近い位置にある四国山に登ってみます。四国山は、四国が見えるという意味から名付けられたのでしょうが、さて今日は四国が見られますかどうか。 加太さかな線・めでたいでんしゃ 和歌山市街と加太(港)をむすぶ観光列車 「めでたいでんしゃ」は乗るだけで楽しい 吊革にサカナ、広告一切なし 「めでたいでんしゃ」はすべての便で走っているわけではありません。実はこの写真は加太(かだ)から帰りの便で乗ることができ撮影したもので、あさ往くときは普通の車両でした。 登山口へ 西ノ庄駅で下車、一般道を上がる... Read More | Share it now!
王舎城ともよばれた鹿野城を訪ねる
【鳥取市 2024.2.2】鳥取市西部にある鹿野城は、因幡の豪族だった志加奴(鹿野)氏によりその原形が造られたのではないでしょうか。その後勢力を拡大する尼子氏に攻め落とされています。先日訪ねた布施天神山城を拠点に守護をつとめていた山名氏が、鳥取城主の武田某に攻められその尼子氏を頼りここ鹿野城まで撤退した歴史もあります。羽柴秀吉が鳥取城を落としたのは「飢え殺し」とまでいわれるほどの徹底した兵糧攻めでしたが、その時点では鹿野城はすでに秀吉方のものになっており、尼子氏の旧臣・亀井玆矩(これのり)が城代をつとめていたようです。亀井玆矩はその後徳川方についたことで飛躍し、鹿野藩の藩主となります(すなわち鹿野城の正式な城主でもある)。それを機に城を近代城郭に改修して王舎城(インドにあった、釈迦が長く滞在し説法を行なったマガダ王国の都の名)、また城下町をととのえ鹿野苑(釈迦が悟りをひらいてはじめて説法した地)などインド仏教に関係した名前をつけています。 幸盛寺 幸盛寺・山門 幸盛寺境内 山中鹿之助の墓 鹿野には山中鹿之助の墓があります。由来はこうです。玆矩の正妻は鹿之助の娘、すなわち鹿野藩主・亀井玆矩にとって山中鹿之助は義父になります。玆矩は非業の死をとげた義父の鎮魂の意味もこめて鹿野城下にあった寺を菩提寺とし、鹿之助の本名である幸盛(ゆきもり)から字をもらい幸盛(こうせい)寺と改めました。なお鹿之助の通称は、兜に鹿の角が脇立として飾られていたことが由来で、「鹿野」とは関係ありません。 鹿野城跡... Read More | Share it now!
比叡山には京都側から登るのが正しいか
【京都市 2024.1.27】昨年の1月に滋賀県の坂本から比叡山に登ったのですが、日吉大社の鳥居をくぐりそうして神域に足を踏み入れてから登山を始める、それが正しい比叡山の登り方だとそのときのブログに書きました。あくまでこれは自論であり、文中でも「個人的な自論」とことわっています。ところが先日、京都に住む知人からそのブログを読んで、これでは京都が軽視されているとクレームをつけられました。京都を軽視するつもりがもちろんないだけでなく、そもそもこの私的なブログをそれほど多数の人が読んでいるはずもなく、ましてやこのブログを読んで比叡山の登山ルートを決める参考にする人となると、過去に一人でもいたのかどうか。それはそうだが、と知人が言うには、滋賀県側からの登山ルートを薦めながら京都側からの登山ルートについて何も書かないのは片手落ちではないか。なにが片手落ちなのかよくわかりませんが、学生時代に京都に出てきてその後も京都好きでずっと京都で暮らす知人と話をしているうちに、久しぶりに京都側から比叡山に登るのも悪くないかと思うようになり、別れるときには近々修学院からのぼって大原まで歩いてみると約束していました。自分の愛する街で暮らす人から我が町自慢をきくのは楽しいだけでなく、最高の情報収集になります。 修学院から雲母坂、キララ坂城跡 京都側から比叡山に登る場合、もっともポピュラーなルートは京都一周トレイルにしたがって銀閣寺手前から北白川をぬけて上がるか、修学院から音羽川をさかのぼり離宮脇をのぼるか。今回はおよそ20年前にはじめて比叡山にのぼったときに使った後者の道を選びました。 修学院駅から音羽川をさかのぼる... Read More | Share it now!