街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,奈良

【奈良県・宇陀市 2024.9.28】今日は奈良県宇陀市にある松山城(宇陀松山城)を訪ねてみます。往くのが少々不便なところですが、近鉄榛原駅で電車をおりてバスに乗り換え25分、降り立つ地は喧騒とは無縁のこじんまりと落ち着いた城下町です。室町時代この地には宇陀三将(秋山、芳野、沢の3氏)と呼ばれる有力国人がおり、それぞれに城をかまえていました。松山城は秋山氏の居城であり、当時は秋山城と呼ばれていたようですが、いつのころからか松山城と呼称がかわります。呼称がかわったのはこのあたりの土地がむかし松山と呼ばれていたからのようです。芳野城と沢城(澤城)が、芳野氏と沢氏の没落とともに荒廃してゆくなかで、松山城だけは宇陀郡さらに宇陀藩の中核として領主そして藩主がかわりながらも改修、増築がおこなわれます。豊臣秀吉の政権下では、秀長の居城である大和郡山城、日本三大山城のひとつ高取城とならび大和三城に数えられています。江戸時代前期には、織田信長の息子として最後まで生き残っていた次男の信雄が大坂の陣で徳川方に味方した報奨としてこの地を与えられます。もっとも信雄自身はどうやら宇陀を知行する気はさらさらなく、京都に住みながら宇陀からの「あがり」で茶の湯だの鷹狩りだのと呑気に暮らしていたようです。そのためでしょうか、宇陀松山城の城史には織田信雄の名は出てきません。この信雄というひとは、まさに出来の悪い(信長から見て)2代目そのものなのですが、宇陀でも特に記録に残したいとは考えていないようなので、ここではひとまず放っておいて、それでは宇陀松山城を訪ねてみます。 西口関門から春日神社へ 西口関門を入ると町屋街 突き当りの石垣が春日門跡 二の鳥居(左手前)から社殿(奥)... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,広島

【広島県・呉市 2024.9.2】 戦艦大和は連合艦隊の旗艦となるべく昭和16年(1941)12月16日竣工。その8日前の12月8日に真珠湾攻撃をおこない太平洋戦争が始まっているので、これは大和が就役できる日をまって開戦したと見るべきでしょう。それほどの期待のなかで生まれた超弩級戦艦の大和でしたが、欧米ではそのころ航空機による戦闘が主流となっており、大和が主戦で活躍することはほとんどありませんでした。世界最大を誇る46インチ砲にしても、戦場ではその巨大な砲身が火を噴くことさえほとんどなかったと記録にはあります。(すくなくともこの46インチ砲による戦果は、大本営発表を除いてはまったく記録されていません)その後はただ動かすだけでもオイルを大量に喰うからか、あるいは巨体ゆえに目立って標的にされやすいからか、国内のドックや戦場海域の港湾で停泊していることが多く、大和ホテルと揶揄されたりもします。 大和の最期は、沖縄への海上特攻(天号作戦)のため出撃し、沖縄のはるか手前の鹿児島坊岬沖で米軍の空母から出撃した戦闘機の猛攻にあい撃沈します。一言でいえば、まったく役立たずの無用の長物であったわけですが、数々の批判や中傷を浴びせられながらそれにかかわらず多くのファンがいまもいることは事実です。それではなぜ大和は無用の長物であったにもかかわらずこれほど人気があるのでしょうか。 大和ミュージアム なにやら忙し気な呉港 港に面して建つミュージアム... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,京都

【京都市伏見区 2024.8.24】 「天下は一人の天下にあらず乃ち天下の天下なり」という言葉が中国の兵学書・六韜のなかにあります。天下は君主一人のものではなく万民のものだという考えで、現代の感覚からいっても至極真っ当な言葉です。この言葉を下敷きにして吉田松陰は「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と言っています。「一人の天下」の一人とは天皇のことです。単純に読むと、偏執的なまでのガチガチ尊王思想のようですが、吉田松陰がのこした名言の2つ3つでも知っていれば、そんな単純なものではなくさらに深い意味があるはずだと容易に察しがつくはずです。すなわち封建制の江戸時代から近代国家へと生まれ変わる段階で、天皇を中心としてその下(もと)で万民がまとまって国を形作りさらに国を動かしてゆく、というようなことを言いたかったのでしょう。尊王思想ではありますが、天皇は神ではなく万民と一体となっていると捉えるべきです。 ところが、その天皇を神格化することで尊崇の対象とし、万民は天皇と一体であるがゆえに日本国民であるならば天皇にはたとえ命を賭してでも忠心を尽くさねばならないと、なんとも国民にとっては理不尽な理屈を押しつけてくる連中があられます。思想的には、本来美徳であるはずの愛国主義が右傾化しさらに先鋭化して国家主義へと流れたとでも言えばよいでしょうか。(ちなみに国家主義とは国家を第一とし、国民よりも国家を優先する考え) そもそも日本において天皇は尊敬される存在でした。なかには天皇のためにみずからの命を捧げることに大義を感じた人がいました。たとえば楠木正成。もしかすると、乃木希典(乃木大将)は明治天皇が崩御された後、自分が生きている大義名分がないと考えたゆえに自決を選んだのでしょうか。ちなみに乃木希典は、冒頭にかいた吉田松陰とおなじく、松下村塾を創設した玉木文之進から薫陶を受けています。 明治天皇陵を仰ぎみる乃木神社 背後に見える丘陵に、 明治天皇の伏見桃山陵がある 明治天皇が崩御されたのが明治45年7月30日、そして9月13日に大喪の儀がおこなわれますが、その日の夜まさに明治天皇の遺体をのせた車が出発する合図の号砲がひびいた刹那に、乃木希典は妻静子とともに自刃します。乃木希典の辞世の句は、「うつし世を神去りましし大君の御あと慕ひて我は逝くなり」 明治天皇陵のある桃山に対面するように 境内の伽藍は北面しています この乃木神社は近畿を中心にした全国の民間の人々の尽力により創建されたそうです。そこには政治的な干渉はなく、純粋に乃木大将を敬慕する一般の人たちの志から生まれたと言ってよいでしょう。乃木大将は軍人としてはけっして有能ではなかったようです。じっさい旅順攻略に行き詰まっていたときには乃木を解任しろとの怒りの声は少なからずありました。乃木大将がそれほどに敬慕されたのは、軍人として有能ゆえではなく人として有徳ゆえのものでした。逸話はたくさんあります。その逸話がマスコミ(おもに新聞)で紹介されるにしたがい、乃木希典は人としての美徳を兼ね備えた徳人、武士道をまさに具現する軍神としてひろく知れわたります。そして明治天皇の大喪の日に殉死。それ自体がセンセーショナルですが、そこには天皇にみずからの命をささげようとする忠心が鮮やかに顕れたかもしれません。 学習院長時代の乃木希典の胸像 ロシアの降伏をうけて会見した水師営に植えれれていたナツメの木を植樹したもの 乃木大将を軍神として崇め、その軍神がみずからの命を賭して天皇への忠心をつらぬいたことをひろく国民に知らしめることがプロパガンダとなったのはいつからなのでしょうか。日清戦争の公的な記録については、真実をただしく伝えていた決定稿が没にされ軍部にとって都合よく改竄されていた事実が、のちにその没になった決定稿が世に現れたことで後世に知られることになりました。(渡辺延志氏の著作「日清・日露戦史の真実」による)太平洋戦争における大本営発表の欺瞞を知る我々としては、そのあとの日露戦争においても真実がそのまま伝えられたとは到底信じられません。 本殿拝殿横にある、えびす神社 よく見ると、「幸せに成り」鯛(ダジャレか?) 勝運をまねく祠... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,大阪

【大阪府・東大阪市 2024.8.21】日露戦争に関して調べていたところ、当然のように司馬遼太郎氏の小説「坂の上の雲」を読み直すことになりました。この「坂の上の雲」は司馬氏の最高傑作のひとつとされている作品で、たしかに主人公の秋山兄弟などは実に生き生きと描かれているのですが、脇を固めるはずの乃木大将はというとまるで能無しであるかのような。「坂の上の雲」における乃木大将の描かれ方があまりにも酷いということで以前から物議をかもしていたようですが、とくに21世紀になって乃木大将の名誉を回復するというより司馬氏のことを勉強不足と逆批判することを目的としたような書籍が複数出版されているようです。 司馬氏はひろい意味での天才を描くのが好きなのでしょう。坂本竜馬「竜馬がゆく」、千葉周作「北斗の人」、吉田松陰「世に棲む日々」、戦国の武将を取り上げたものでも北条早雲「箱根の坂」、斎藤道三「国盗り物語・前編」、秀吉「新史 太閤記」など。「坂の上の雲」においては、天才は秋山兄弟であり児玉大将ということになるのでしょうが、では乃木大将はかれら天才を際立たせるためにまるで道化のように登場させているのかというとそうでもない。なにやら司馬氏にとっては乃木大将を心情的に、あるいは生理的に受け入れがたいという一種嫌悪感のようなものをもちながら描いているかのように思えるのです。なぜ司馬氏は、きっと乃木大将についてそれほどの無能ではないと理解していながら(この部分は推理です)、なおも徹底して愚物ときめつけたのか。 そんなモヤモヤを解消する手がかりでもないかと思い、自宅からそれほど遠くないにもかかわらず今まで訪れる機会のなかった、東大阪市にある司馬遼太郎記念館をたずねてみました。 小阪はえらい下町 近鉄河内小阪駅からつづく下町っぽい商店街へ 司馬遼太郎記念館へゆくには近鉄河内小阪駅で降りますが、小阪はえらい下町です。(ここでつかう関西弁の「えらい」は、偉いではなく「ずいぶんな」といった意味合いです) 屋根の上にあるのが小阪城 グーグルマップを見ながら歩いていたところ、途中に「小阪城」とあるので寄ってみることにしました。現場についてもそれらしきものはなく、ふと見上げたところ民家の屋根の上に??!!それでなくても暑くてうんざりしているのに、コケそうになりました。まったく大阪人のやりそうなことです、きっと「小阪城」の名も「大阪城(大坂城)」に対するシャレでしょう。 小阪神社の参道(?)を抜ける こんなところに司馬遼太郎記念館なんてあるのか?と不安になるかもしれませんが、それがあるんです! それが大阪です。 司馬遼太郎記念館 司馬氏の宅地の一角に立てられた記念館 真正面から ぐるっと回って入口へ 先に書いておきますと、ここは司馬遼太郎の信奉者というくらいの熱烈ファンか、なにかの目的あって訪ねた人でなければ、すくなくとも大満足できる人はちょっといないと思います。 見るものといえば、膨大な蔵書(の一部)だけ。ほかは繰りかえし流れる映像を観るくらい。しかも館内すべて撮影禁止。入り口に「カフェOPEN... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,島根

【島根県・大田市 2024.7.31】石見銀山は2007年に世界遺産に登録されています。その登録理由は、石見銀山世界遺産センターによると、①「16世紀から17世紀初頭の石見銀山が世界経済に与えた影響」②「銀生産の考古学的証拠が良好な状態で保存されている」③「銀山と鉱山集落から輸送路、港にいたる鉱山活動の総体を留める」②と③については現地を見て歩けば確認できるはずですが、①については資料をさがしながら考えてみたいと思います。 ①でいう16世紀から17世紀初頭ですが、守護大名の山内氏と戦国大名の尼子氏が出雲を中心に中国地方の覇権を争っていたのが1530年~1550年代、毛利氏が石見銀山の奪取もふくめて尼子氏を制圧したのが1560年代、信長の家臣として秀吉が中国攻めをおこなっていたのが1580年前後、そして関白となり事実上の天下人になったのは1585年、関ヶ原の戦いが1600年で家康が江戸幕府をひらいたのが1603年。こうしてみてくると、①でいう時期はまさに風雲急を告げる戦国時代にぴったり合致します。この間石見銀山の支配者も、山内氏→尼子氏→毛利氏→豊臣氏→徳川氏と目まぐるしく入れ替わります。それだけ石見銀山に魅力すなわち価値があったわけで、石見銀山を占有すれば莫大な富がもたらされたということでしょう。いかに戦国の武将たちがこの石見銀山を喉から手が出るほど欲していたかを示す例、それも露骨な例をひとつあげておきます。家康は関ヶ原で勝利しますが、この勝利は徳川方が親豊臣方に1勝したというだけで大坂城には豊臣秀頼は健在です。それにもかかわらず家康は豊臣家の一家老の立場のまま朱印状をだして石見銀山への出入りを禁制します、しかも関ヶ原で勝利したわずか10日後のこと。そして1ヶ月後には人を遣ってこの石見銀山を毛利氏から接収してしまいます。 石見銀山をあるく 観光案内所駐車場にあるジオラマ 石見銀山を見て歩くには、観光案内所前でうけつけているワンコインガイド(ひとり500円均一)に参加することをおすすめします。個人でも回れますが、限られた時間内で得られる情報量がまったくちがいます。なおこのツアーでは、ジオラマの左平坦地から谷沿いに右端の山間部まであるき、そこで坑道に入ります。 車も走れる舗装道と並行する遊歩道を歩きます 寺院跡... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,兵庫

【兵庫県・小野市 2024.6.29】 アルプスALPSが、ラテン語のALPESを英語読みにしたもので、語源をたどれば雪をかぶった白い山の峰というような意味があるということは以前書きました。また日本国内では最初に日本アルプスがその名で紹介されてからのち、ご当地アルプスがいまでは50以上も存在するということも書きました。さて今日ですが、兵庫県の中南部瀬戸内海から20kmほど内陸に入った小野市にある、その名も小野アルプスを歩いてみます。この小野アルプス、小野市の観光協会が日本一低いアルプスと宣伝しているくらいで、たしかにそのなかの最高峰ですら標高は199メートル、ほかの峰はすべて150m前後です。それだけ聞くとハイキングを想像するのですが、端から端まであるくと無名峰をふくめて12山の頂を極めることになり、すなわち全行程がアップダウンの連続で、歩きごたえは十分といえます。 小野市観光協会の案内より抜粋引用... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,花、紅葉見ごろ,京都

【京都市 2024.5.5】京都市街地は南側だけが大阪平野にむかっておおきく開けていますが、ほかの3方向は東山、北山、西山と通称される山々でぐるりと囲まれています。これらの山々は標高こそ高いものでも1000メートルに達する山はありませんが、歴史と観光の点から名前だけは聞いたことがあるといわれるはずの山が多数あります。これらの山々の峰やら谷やらをつたって歩くルートが、京都一周トレイルと呼ばれるものです。(冒頭で書いたように南側は平野ですから山道はなく、実際には南ルートは存在しないゆえ京都を一周はしていません)さて東山からスタートすると、伏見稲荷~東福寺前~蹴上~清水~大文字山~銀閣寺前~比叡山~大原の南面をかすめ鞍馬~貴船と歩きます。このあたりは人気スポットですから多数の観光客もいれば登山客もいます。有名ゆえその名に引かれて足を止めることもしばしばかもしれません。それはそれで良いのですが、そこから先すなわち二ノ瀬から氷室をとおり高雄・清滝にいたるルート、ここは人気とか知名度の点ではかすんでしまいますが、じつは「京都一周トレイル」を「あるく道」として見たばあい、こここそがメイン、あるいは真髄とでもいうべき場所です。今日はその京都一周トレイルの真髄を新録の下で歩いてみます。(京都一周トレイルのどこがメインであるか真髄であるかの判断は、個人的な感想によるものです) 二ノ瀬から氷室へ 二ノ瀬駅は山のなかにあります 京都一周トレイルは要所ごとに標識がある(左) 山道に入ります 出町柳から叡山電車に乗り換えたところ、二ノ瀬駅は無人駅でスマホタッチでの料金支払いについてはネットが繋がらないことがあるので、車内で支払タッチをすませるようアナウンスがありました。たしかに二ノ瀬駅ではネットはなんとか繋がっていましたが、500mほど歩いて山道に入ると、そこから先はまるで繋がりません。YAMAPなどの山のアプリを使われる方は、あらかじめ地図をダウンロードしておくことをおすすめします。 急坂もありますが、長くは続きません ここも足元をよく見て歩けば大丈夫 樹間から比叡山の山並みがチラリ 京都市街から二ノ瀬、鞍馬へつながる道の架橋 渡渉もあり、変化にとんだ道 林道に出てきました 氷室から栂尾へ 氷室の集落 唐突に開けた土地にでますが、ここが氷室(ひむろ)です。名前の由来は禁裏(皇居)におさめる氷をつくり保存していた場所で、平安時代からこの地を所領として与えられ氷の管理をする役職が代々受け継がれていたそうです。電柱はありますが、自動販売機はありません。まさに日本の原風景をみるかのようです。 杉の植林地をつき抜ける 見上げると、こんな風景が見えます 「沢の池」の横をあるく 水気の関係か新緑がことのほか鮮やか 山間を抜け、明るさが増してくる 栂尾に到着 栂尾、高雄から清滝へ 朝日峰から発する清滝川 二ノ瀬から栂尾までおよそ5時間、26000歩の歩きになります。ここからはバス便があるので歩きを終了することも可能ですが、力尽きたのでなければもうすこし歩いてください。なんといってもここから清滝までのモミジは(晩秋の紅葉も初夏の青もみじも)圧巻です。 高雄からは渓谷にそって歩きます 水量が増えると水面下に没する沈下橋 その沈下橋をわたりながら見る風景 いちだんと緑が濃い 青もみじは青もみじで幻想的なまでの緑の濃さに溜息がでそうですが、ここの紅葉はこれまた現実離れしたほどの美しさです。高雄と清滝の中間あたりにあるためここまで足を伸ばす人も少なく、ひとり静かに贅沢な時間を堪能できます。※以前最後に訪れたのはずいぶん前のため、紅葉の時期にいまなお静かに堪能できるかはわかりません。 このあたりは河原に下りて歩きます 滑るのに注意すれば難なく歩けます そして清滝に着きました 清滝バス停についたのはバスが出た直後で、次の便まで1時間あります。1時間あれば嵐山まで歩いてゆけるので、ここからさらに歩き、阪急嵐山駅から電車にのりました。 【アクセス】叡山電車・二ノ瀬駅~向山~氷室~上ノ水峠~沢の池~栂尾~高雄~清滝~嵐山~阪急嵐山駅 37000歩、7時間【満足度】★★★★★ ... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,城郭・史跡,花、紅葉見ごろ,滋賀

【滋賀県・長浜市 2024.5.3】毎年なんどか山登りを共にするHさんと今年のGWはどこに出かけるか打ち合わせていたところ、ひょっこり「菅浦」という地名が出てきました。自分の不勉強というよりも、この地名は知っている人がむしろ少ないと思います。地理的には琵琶湖の北端より南に突き出した岬の、その西側の入り江一帯にあたります。歴史的にはずいぶんコアです。神様にそなえる食事を神饌(しんせん)といいますが、天皇にそなえる食事は贄(にえ)とよばれます。この贄を供する役目の人を贄人(にえびと)と呼ぶそうですが、この贄人が移り住み定着したのがこの地の起源だということです。それだけでもなかなか由緒正しい歴史を感じさせますが、さらに地理的には岬の根本は山にふさがれ、すなわち近江であれ越前であれ平地から接近するには山に阻まれ、交通手段としては琵琶湖を船で漕いでくる以外にない隔絶された土地です。そのため隠れ里となり、淳仁天皇が孝謙上皇の怒りをかって廃帝のうえ追放されたさいにここに逃れ隠棲したとの言い伝えもあります。今日は、その菅浦をたずね、当地を隔絶していた山々をあるいて奥琵琶湖の散策をしてみたいと思います。 琵琶湖の湖岸にそってならぶ菅浦集落 JR永原駅から菅浦集落までの9km弱は、時間の関係で徒歩ではなく、はじめから地元のコミュニティバスに乗せてもらうつもりでした。ところがJR列車が車内でトラブルがあったとかで到着が遅れてしまい、駅の改札口を出たときにはバスはすでに出たあと。しかも駅舎内に記されたタクシー会社に電話したら、今日は葬式があるので車の手配ができないと、なんともローカルな理由で断られる始末。 西の四足門... Read More | Share it now!