智積院で加藤清正、山科で大石内蔵助、意外な歴史探訪
【京都市・東山区~山科区 2023.3.3】
京阪電車・七条駅から東山へ、三十三間堂と国立博物館の間を抜けたところに智積院(ちしゃくいん)はあります。
智積院は僧・覚鑁(かくばん)が高野山から分かれて創建した根来寺の塔頭寺院でしたが、根来寺が秀吉による根来衆攻めで焼失したため、のちに当時の住職・玄侑(げんゆう)が秀吉の死後すぐに家康の援助をえて京都において再興したものです。
さらに時をへて隣接してあった、豊臣家ゆかりの祥雲寺を吸収合併するようなかたちでひとつになり、ひときわ規模の大きな寺院になります。
さて豊臣秀吉の後継者として大阪冬夏の陣で歴史に登場する秀頼より前に、秀吉には跡取りとなるはずであった長男がいました。幼名を鶴丸といい、やはり淀君との間にできた男子ですが、この子は3歳にして亡くなってしまいます。祥雲寺はその鶴丸を弔うために秀吉が悲嘆のうちにつくらせた菩提寺でした。
そのため今の智積院は、真言宗寺院であり鶴丸の菩提寺でもあるふたつの顔を持っています。
智積院
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ちょくちょく見かける、同じ木に赤と白の梅が混ざって咲く紅白梅(源平梅ともいう)ですが、これは本来は紅梅であったはずのものが、紅くなる色素が不足して白く咲いてしまうためだそうです。
なお智積院の梅は、満開には1~2週間早かったようです。
智積院と加藤清正
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智積院の随所には「桔梗紋」が見られます。
桔梗紋といえば、明智光秀の家紋として知られていますが、これは明智家独自のものではなく、美濃・土岐氏の由緒ある家紋です。
それゆえ土岐氏につながる武将はそれぞれにこの桔梗紋をつかっており、ここでは意外なことに加藤清正が関係してきます。
徳川家康の援助でこの智積院が再興されたことは先に書きましたが、そのさい家康は清正に寺の普請を命じます。清正も土岐氏の系譜だったようで、清正といえば「蛇の目」の家紋が有名ですが、そちらは軍事のさいにつかい、家屋敷にはこの桔梗紋を使っています
そのような歴史があって智積院の寺紋が桔梗紋になったようです。
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この壁面を長谷川等伯の「楓図」と、その息子・久蔵の「桜図」が飾っていました。
いまは境内にある宝物館に移して大切に保管されていますが、残念なことに4月まで宝物館改築(新築?)のため休館中でした。
法住寺
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法住寺は「身代わり不動明王像」で有名です。
その名のとおり不動明王が身代わりになって災厄から護ってくれるというもので、公家や武家もこぞって崇めてきました。
その中でも有名なのは、忠臣蔵でしられる大石内蔵助が吉良邸討入をまえにたびたび参拝し大願成熟させたとのことで、いまはその忠臣蔵四十七士の木像が安置されています。
それではこれで東山を離れ、さらに東へあるいて山科へ向かいます。
山科・大石神社
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大石内蔵助は、赤穂藩断絶後も赤穂城下にのこって残務処理をつづけます。その間にも浅野内匠頭の仇討ちに逸る若い者たちを抑えながら、御家再興の道をさぐります。
そして御家再興の可能性が完全に断たれると赤穂の地をはなれ、親戚筋を頼ってここ京都の山科に移り住み、いまある大石神社のあたりに隠棲していたようです。
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大石内蔵助は、この山科で暮らしているころ京都へとしきりに繰り出し、島原や祇園でさかんに遊び呆けていました。内蔵助に対して好意的な資料では、そのように遊び呆ける姿を世間に見せておいて、仇討ちなど考えてもなさそうだと相手を油断させたのだろうと解釈していますが、実際には、単純明快に遊び呆けていたのではないでしょうか。
そもそもが大石内蔵助ほど歴史の中で買いかぶられている人物もまれで、超がつくほどの遊び好き、なかでも女好きに関しては「精力絶倫」などの記録さえあります。さきに訪ねた法住寺、内蔵助がたびたび参拝したと書きましたが、なぜたびたび参ったかといえば、山科から京都の街へ女漁りで繰り出したついでに寄っていたというぐあいです。
京都では、そのころ尼僧に扮した遊女が人気で(今風に言えば、尼さんコスプレ)、遊びなれた内蔵助にとってはその倒錯的な魅力にひかれたのか足しげく通ったようです。
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瑞光院
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山科駅を北へ抜けて、毘沙門堂のてまえに瑞光院があります。
ここには大石内蔵助がたてた浅野内匠頭の供養塔があるのですが、通常は入ることができません。
【アクセス】京阪七条駅 ➡ 智積院~法住寺~山科・大石神社~瑞光院 ➡ 京阪山科駅 23,000歩
【拝観料】智積院・庭園 300円、法住寺・四十七士像など拝観 600円
【満足度】★★★☆☆