長篠城をたずねて武田勝頼の苦悩に思いを馳せる
【愛知県・新城市 2026.4.15】
信玄亡きあと、跡継ぎの武田勝頼は憑かれたように戦さをくりかえし勢力拡大をはかります。
結果として武田家の領土は勝頼の時代に最大版図に達しますが、それは勝頼が亡き父・信玄を越えるために、まるで最大版図を築くことが信玄を越えたことの証明とでもいうように、無理に無理をかさねた進攻進撃によってなされ得たものでした。
天正3年(1575年)5月、信玄が倒れた際の混乱にまぎれて家康に奪われていた長篠城を奪還すべく、勝頼率いる1万5千の武田軍が城を包囲します。これが長篠の戦いの発端ですが、この時点では長篠城の戦いと呼ぶべきでしょう。
一方の家康ですが、武田軍の西進の報をうけ即座に同盟相手の信長に救援をもとめます。
一説では柵(馬防柵)を瞬時につくるため、織田軍の兵は丸太を一本づつ抱えて救援に駆けつけたとされていますが、これはウソでしょう。重荷を背負って歩けば到着するまでに体力を使い果たしてしまいます。
そもそも長篠城のある地は山も多く、木材の確保に困ることもありません。おそらくは織田方の作戦参謀(信長自身かもしれない)が柵をつくって武田の騎馬隊の突撃を防ぐ策を考案し、急使をおくって織田軍が到着するまでに丸太を大量に用意しておくよう指示したのではないでしょうか。
長篠城

この布陣図で見れば明らかなように長篠城と、馬防柵と鉄砲の三段撃ちで有名な設楽原の決戦場がずいぶん離れていることがわかります。
また武田方は全軍を設楽原に布陣させたのではなく、相当数(3千人ほど)を長篠城包囲のために残しています。





土塁基部の石積はいつの時代のものか不明




武田軍は鳶ヶ巣山を中心に、中山砦、久間山砦、姥ヶ懐砦、君ヶ臥床砦を尾根沿いに築き、長篠城を見下ろすように包囲します。
いっぽう3万8千とつたわる織田・徳川連合軍は到着するや設楽原に突貫工事で馬防柵を築くと同時に4千の別動隊を組織して山の背後へ迂回し奇襲作戦を敢行します。
この緒戦はすでに長篠城の戦いではなく、長篠の戦いと呼ぶべきものでしょう。結果は織田・徳川軍の完勝。
資料館にて



これが世にいう武田騎馬隊の「赤揃え」なのでしょうか、えらく澱んだ色合いで想像していたものとはずいぶん違いました。
もっとも時がたち色がくすんでしまったのかも知れません。
(設楽原にあった)馬防柵

設楽原はいまは市街地になり当時を彷彿させる風景は残っていません
通説では丘の斜面を駆け下ってくる武田軍の騎馬隊をこの(3重になっていた?)馬防柵で妨げ、3千丁の鉄砲隊を3隊にわけ3段撃ちで武田軍を壊滅させたということになっています。
しかしよく考えてみるとこの通説にはあやしい部分があります。

武田軍1万5千のうち長篠城の包囲に3千残しているので、残りの1万2千が設楽原の決戦に挑んだことになります。
その1万2千もの兵がすべて騎馬隊のはずがありません。半分以上は歩兵だったはずで、馬防柵に妨げられ次々に撃ち倒される騎馬隊を前に見ながら歩兵がためらいもなく馬の尻を追うように馬防柵に突撃するでしょうか。
また3千丁の鉄砲というのも怪しい。
なんとなれば、決戦の地である設楽原を後世に掘り返してみてもそれほどの鉄砲玉は見つからなかったということです。
長篠の戦いの詳細には不明な点が多々あります。
しかし信玄時代からの武田の重臣、なかでも武田四天王といわれた馬場信春、山県昌景、内藤昌豊の三人が織田・徳川軍がつくった馬防柵をみて突撃の中止を進言したのは事実です。
それでも彼らにとっては主君である勝頼が聞く耳を持たず、三人それぞれ敗戦そして自らの死を覚悟し突撃して果てたのも事実です。
それではなぜ武田四天王とまでいわれた重臣たちは、無理にでも突撃の中止を強いることをしなかったのか。
勝頼にとっては父・信玄を越えること、そのためにはさらなる勢力の拡大がすべてであり、休むことなく戦さに駆り立てられる兵も、度重なる戦さのために年貢をしぼり取られつづける民も、疲れはて「武田」から心が離れていることに気づかなかったのでしょう。
馬場信春、山県昌景、内藤昌豊にとっても同じ、これ以上信玄公の息子に従うよりも武人らしく戦場で死ぬ道を選んだのでしょうか。
【アクセス】レンタカーでまわる
【料金】長篠城址史跡保存館+設楽原歴史資料館共通入場券 : 600円
【満足度】★★★☆☆






