武田信玄ゆかりの地をあるく2⃣要害山城 / 信玄はまことに英雄か

【山梨県・甲府市 2024.12.10】
武田晴信(のちの信玄)の父・信虎は武田氏館をあらたにつくり移り住んだ翌年に、その武田氏館の後背にそびえ詰城つめのしろを築きます。
詰城とは敵に攻め込まれたさいに籠城するなど防御力にすぐれた支城のことで、まさに地勢がけわしく防御に適する要害な山にあるゆえ要害山城とよばれるようになったのでしょう。

その用途からいっても詰城が活用されるのは敵に攻め込まれたときであり好ましい事例ではないのですが、この要害山城はさっそく役立つ?ことになり、駿河の今川氏が甲斐へと攻め込むと信虎は正室の大井の方をこの山城に避難させます。
結局今川勢は撃退し事なきをえますが、要害山城での避難生活のうちに懐妊していた大井の方は健康な男児を出産します。それがのちの晴信であり信玄です。

要害山城へ

麓にあった案内板より抜粋
ゆるい山道からはじまり
九十九折りを登ります

晴信は成人すると父・信虎を今川氏の駿河へ追放することによって家督を継承(強奪にちかい?)します。

晴信の最初の正室は出産直後に母子ともに夭折、二番目の妻・三条の方とは性格の不一致で家庭内別居のような状態でした。

「英雄色を好む」という表現がありますが、その言葉どおり晴信はずいぶん好色だったようです。関係した数々の女性のなかでもっとも好んだのが諏訪御寮人。
諏訪御寮人の父親は、諏訪一帯をおさめる武将であり諏訪神社上社の大祝(おおほうり:諏訪神社の最高神職)でもある諏訪頼重。母親は死去していますが、武田氏から(政略結婚により)正室として入った信虎の娘、すなわち晴信の妹が義母として存在します。
婚姻によって強化された同盟関係をもつ両家でしたが、なんらかの理由で晴信は諏訪に攻め込みその地を征圧します。そして甲府の寺に幽閉された頼重は自刃させられ、ここで諏訪家の当主は不在となります。
いったんは頼重と夫人(晴信の妹)との間の男子(諏訪御寮人にとっては異母弟)に跡をつがせるかに見られましたが、晴信はあっさり方針をかえ、美人の誉れ高かった諏訪御寮人を側室とし、ふたりの間に生まれた男子を正式な嗣子とすることに決めます。(この男子がのちの武田勝頼です)

きわめて仲の悪かった三条夫人とはそれでも夫婦の営みはあったのか男子が生まれています。武田義信。
義信は勇壮な若者としてそだち武田家の後継者として(家臣からは)嘱望されますが、晴信から謀反の疑いをかけられ廃嫡のうえ監禁されのちに自害します。
そして晴信は最愛の諏訪御寮人との間に生まれた男子でありいったんは諏訪氏の当主となっていた諏訪勝頼を甲府に呼び寄せ武田勝頼として跡継ぎに指名します。

ここだけ読むと、武田信玄の英雄像にはとうてい結びつきません。
「えげつない」とはもともと大阪弁ですが、辞書でしらべると「無遠慮で節度を超えている、ずうずうしい、いやらしい、あくどい」となります。
信玄ファンには申し訳ないのですが、思わず口をついて出たのは「えげつないオッサン」

要害山城・主郭へ

竪堀(左)、土塁(右)
石組が一部にのこっている
攻める側からすると、いかにも城兵が潜んでいそうな
左の平坦部は曲輪跡と思われます
不動曲輪
切れ間から甲府の町並みが見えます
虎口跡 / 左には石組がのこる
曲輪は徐々に上へと連なる
虎口跡
ひとつ曲輪をすぎると次の虎口
「門跡」と表示されていました
防御のため直線的には進めないようになっている
ここが主郭のようです / 周囲には土塁


父・信虎は領土拡大に執心するあまり、領民を年中戦さに駆りだし(当時は兵農分離がすすんでいなかったので百姓が農耕をしながら農閑期には軍兵とし戦さに参加していた)、そのため領民の不平不満がつもり爆発寸前だったともいわれています。

正室の三条夫人はその名からわかるように京都の公家の娘でつねに京の雅(みやび)を鼻にかけ、甲斐を辺鄙と誹り武田家を田舎大名と蔑んでいたとも伝えられています。

武田晴信がその領土を奪いその父を葬った諏訪御寮人を側室とし愛したのは事実ですが、諏訪御寮人が領土を奪い父を葬った張本人の晴信の寵愛をみずから好んで受け入れていたのも事実です。
晴信が諏訪御寮人の美しさに惹かれたように、諏訪御寮人は晴信のなにかに強く惹かれたということでしょう。
そして勝頼が諏訪家の当主となったのは晴信の意向というよりも、諏訪御寮人にとって(たとえ晴信の妹の子であっても)血のつながりのない異母弟よりも我が子を推したがためと考えるのが妥当です。

武田義信が謀反を起こそうとしていたか否か、その真実はわかりません。
確実にいえることは、晴信が父・信虎を追放した際には大半の家臣が晴信につき従い結果としてこの謀反はあっさり成功しましたが、義信が父・晴信を追放あるいは謀殺しようとしても大半の家臣は反対し謀反は120%成功しなかったことでしょう。

1⃣でも書いたように、武田信玄(晴信)については信頼度の高い記録がろくに残ってません。それゆえすべて推測してゆくことになります。

要害山城・曲輪群

主郭をまもる土塁にも石組がのこる
もとは大規模だったとおもわれる堀切
主郭からは徐々に下がりながら曲輪がつづく
富士山の山頂部分が見えました
虎口をぬけて
さらに曲輪がつづきます

甲州は山が多く平地が少ない、すなわち農業に適した土地ではありません。しかも山から流れくだる河川はたびたび水害をもたらし農作物に関していえば「豊作」には縁のうすい土地でした。
そもそも甲州では米を食べる習慣がないに等しく、麦や稗、粟が主食だったといいます。
川中島合戦において、米どころ越後の上杉軍が兵糧として白い米の飯を食べているのをみて武田軍が目をみはったいう話がのこっています。

そのような過酷な土地にあっても、甲斐の領民がだれひとり土地を離れることなく、麦や稗・粟を喰いながら白い米の飯をたべる敵兵と果敢に戦い続けたのは、凡庸な君主のもとであればちょっと考えられないことでしょう。
武田信玄について推測してゆくにしたがい、信玄の英雄たる姿が浮かび上がってくるように思えます。

【アクセス】要害山城登城口まで、JR甲府駅から5.5km、武田氏館から3km
【満足度】★★★★☆