宇喜多直家の謎・直家はどこまで冷酷非道だったのか

この木座像は岡山市の中心街にある光珍寺に納められていたものですが、戦時下の空襲で寺の堂宇とともに焼失してしまいました。
画像は、wikimedia commonsにて、パブリックドメインになっていることを確認のうえ掲載しています。
私はいまでこそ大阪人を自認し自称していますが、もともとは岡山で幼年期から高校卒業までを過ごしていたため、いまでもわずかながら元岡山人であることを自負しています。
自認とは客観的な自覚、自称とは自己主張の一種にすぎません。しかし自負には自分はこうであると誇る気持ちが多少なりとも含まれています。
戦国時代の歴史小説を読みはじめたころは、自己の智謀と武勇で飛躍する武将、たとえば織田信長、毛利元就、伊達政宗らの躍動に胸を躍らせました。
一方で岡山(備前)の大名であった宇喜多秀家はというと、大名家の跡取りとして何不自由なく育てられ、文武にすぐれ、性格が良く、おまけに容姿端麗、秀吉に仕えてからも忠義心があつく、非の打ちどころがない好漢。(いくぶん浪費癖があって重臣に諫められることもあったそうですが)
この秀家に対しては、つまらないとは思いませんでしたが、下剋上の戦国時代であることを考えるなら物足りなさは感じていました。
歴史小説をさらに幅広く読みすすめるうちに、必然のように秀家の父である直家の存在を知るところとなりました。
岡山にも自己の智謀と武勇で飛躍した武将がいたと胸を躍らせかけたのですが、なにやら直家に対する歴史上の扱いが、信長や元就や政宗のそれとはおおいに違う。あとの三人が英雄として描かれているのに対して、直家はまるで冷酷非道の悪漢。
この当時はパソコンも普及しておらずAI検索はもちろんサイトで調べることもできず、本を購入するにも岡山市内の少し大きめの本屋で探し求めるぐらいが関の山。
それ以上に深く調べることもなかったのですが、それほど極悪な親父から秀家のような好青年が生まれてくるものだろうか?という単純な疑問は残りました。
砥石城


かつて備前の地を守護として治めていたのが赤松氏で、その赤松氏が衰退するやその地から追い払って似非守護として統治をはじめたのが浦上氏、宇喜多家はその浦上氏につかえる家臣でした。
直家の祖父にあたる宇喜多能家はその浦上氏家臣団のなかでも頭一つも二つも抜きんでた存在で、主君の浦上村宗もおろそかにはできない存在でした。
それは能家の居城・砥石城が備前国の経済の中心をなす福岡や西大寺の町を睥睨する山上にあることからも分かります。
しかし家臣のひとりが目立って力をつけてくると、同じ家臣のなかには嫉妬が不安となり危機感から相手を引きずりおろそうと考えるものがあらわれ、主君のなかには懸念が怯えとなり警戒感から相手をこのまま重用すべきか迷うものが出てくるのが世の常です。
砥石城と谷ひとつ隔てた高取山に居城をかまえる島村盛貫は、主君の浦上村宗に讒言し、能家討伐の認を得ます。そしてある夜、宇喜多家の人々が眠りについたころ、高取山城から島村の軍勢が急襲、備前にこの人ありと内外に知らしめた能家もさすがに抵抗する術もなく謀殺されてしまいます。


能家はこの時にはすでに家督を嫡男の興家(直家の父)にゆずっており、興家も30代半ばで本来なら堂々たる殿であって良いはずなのですが、その興家そもそも臆病、妻と長男(直家)と娘をつれて島村の軍勢が雄たけびを上げながら蹂躙する砥石城からさっさと逃げ出します。
その興家しかも無能、行く当てもなく根無し草のように乞食然となって放浪をつづけます。
その興家さらに無気力、能家の仇を討つとか砥石城を取り返すとかそんな気概はまったくない。
その興家おまけに腑抜け、百姓や近所の子供たちからまで腰抜け殿とさげすまれついに自殺してしまいます。
乙子城

この丘陵上に曲輪をならべていた

かたわらを流れる吉井川が瀬戸内海へとそそぐ
父親が父親だけに少年時代の直家は貧しいだけでなく、あまりにも惨めな生活を強いられたようです。
そんな暗い思い出と、大好きだった祖父を惨殺された恨みと、父親に対する拭いようのない侮蔑感あるいは絶望感と、さらに並外れて強靭な反骨心と怨念が混ざりまざって、梟雄・宇喜多直家がつくり上げられたと見るべきなのでしょうか。
そのころ浦上家では村宗が亡くなり、北から勢力を拡大してくる尼子氏に従属するか抗戦するかでお家騒動がもち上がり、親尼子派の兄は劣勢のまま播州西部にまで追いやられ、反尼子派の弟・宗景が高天神城を拠点とて東備前を領します。
暗い過去を背に負い黒い怨念を胸にだく直家は、弟の宗景のもとへ侍って元服し、初陣とも伝わっている早い時期での戦でおおきな武功をあげて乙子城を賜ります。
亀山城


