鉢形城のどこが要害堅固なのやら
【埼玉県・寄居町 2026.5.12】
群馬県との県境にちかい埼玉県の北西端、ですから戦国時代でいえば上野国との国境にちかい武蔵国の北西端に、鉢形城はあります。
築城は関東管領であった山内上杉氏の家臣・長尾景春といわれています。
そののち後北条氏の北条氏邦が拡張改修し上野国への侵攻の拠点としますが、武田信玄の包囲にも上杉謙信の攻城にも屈することがなかったため、そのころから要害堅固な城として名を馳せます。
落城したのは秀吉による小田原征伐のさい、前田利家と謙信の跡継ぎである上杉景勝ひきいる3万5千の大軍に包囲されついに降伏し落城します。
ところで上杉謙信の元の名は長尾景虎。長尾景春とは同族ですが、景虎が生誕した時には景春は没していたのでふたりが交わったことはありません。
しかし歴史には不思議な成り行きがあります。
景春が仕えていたころの山内上杉氏は全盛期でしたが、その後庶流の扇谷上杉氏との同族争いなどで衰退し、さらに急成長する後北条氏に追われる形で当時の当主である上杉憲政は越後へと逃れます。頼ったのは長尾景虎。
ここで上杉憲政は関東管領の職位を景虎にゆずり、さらに名門・上杉の姓を名乗ることを認めるだけでなく編諱(へんき:地位が上のものが下のものに実名の一文字をあたえて主従関係を強固にする当時の習慣)して政の字をあたえます。
こうして誕生したのが上杉景虎、あらため上杉政虎、出家して上杉謙信。
さて憲政ですが、越後で余生を送るはずが謙信が脳卒中(?)で急死。謙信は自らを毘沙門天の生まれ変わりと称するほどの熱心な仏教信者だったため生涯不犯(性行為をしない)ゆえ実子がいません。
そのため甥の景勝と後北条氏からの養子(北条氏康の七男)である景虎とのあいだで家督争いが起きます。
このとき憲政はよりによって自分を越後に追った後北条氏からの養子に肩入れします。このお家騒動を「御館の乱」と後世呼びますが、謙信が憲政のために建てた館がそれで、景虎が当初この憲政の館に籠ったがゆえの命名です。
結果は甥の景勝が勝利、憲政は自害したとも討ち取られたとも言われますが、このときに命を落とします。
さて謙信のあとを継ぐことになったその景勝が、秀吉の命とはいえ小田原征伐すなわち後北条討伐の先鋒のひとりとなって、いまは北条氏康の五男(すなわち御館の乱であらそった景虎の兄)である氏邦がまもる鉢形城を攻め落とすことになります。
さらにたどれば鉢形城はもともと上杉謙信と同族であったはずの長尾景春の居城、そして景春は謙信をたよって越後に逃れた上杉憲政の数代前(大叔父?)の関東管領に仕えていた家臣。
歴史は読めば読むほど、知れば知るほど枝葉がのびるように興味がかぎりなくひろがってゆきます。
鉢形城も遠く上杉謙信とのつながりを知ったからこそ訪ねてきた、と言えるかもしれません。
鉢形城

鉢形城は荒川に深沢川が合流する三角地形上につくられており、両河川の流れと切り立つ断崖が自然の要害となっていると情報を得てきました。
歴史館は後回しにしてその脇を通りぬけ、深沢川をわたって本曲輪をめざします。


手前の横に走る谷は堀切、右前方が深沢川


これなら私がオヤツと缶コーヒーをもってサンダル履きで渡れそう
本丸

左右に土塁、正面で土塁に突き当たるため左折が必要





断崖でもないし水量は少ないし、これなら私がツマミと缶チューハイをもってマリンシューズでも履けば渡れそう

天然の要害との認識で訪ねたのですが、断崖というほどのところはなく、さらに深沢川、荒川ともに水量少なく穏やかな流れで、なにやら拍子抜けしてしまいました。
そもそも荒川とは荒ぶる川が語源ではないのか?と不可解な思いでせせらぎのような川面をみつめ、踵を返して本丸に戻ると、一部が公園化されたこの平和な風景。
どこが要害堅固な城や⁈ と呆れることしきり。
二の曲輪、三の曲輪



敵が攻めてくれば橋は落とします。


裸の土塁は馬出を再現したものと書かれていました
※馬出(うまだし):入口前に設けて敵の侵入を妨げる


なぜかここにだけたいそうな石垣がある

考えられるのは斜面の土砂崩れ防止のため? てことは庭園だけは壊したくなかったってことか?

鉢形城は遺構の残存状態はたいへん良好なのですが、どのように見ても防御が堅固とは思えない。
おそらく長年の風雨による土砂崩れ、あるいは単純に地表が削られたなど、当時とは大きく様相が変わってしまっているのかもしれません。
古城の遺構として観察するのであれば十分に楽しめるものです。
個人的にはイメージ違いに落胆はなはだしく、帰り際に鉢形城歴史館に入るのをすっかり忘れていました。
【アクセス】レンタカーにて
【満足度】★★★★☆





