川越夜戦に謎はない、勇将が数を頼りの敵を蹴散らした

【埼玉県・川越市 2026.5.11】
日本人は「三大〇〇」を選定するのが大好きなようで、さらに選定された「三大〇〇」に好奇心をそそられる(私のような)日本人が数多いるため、「日本三大奇襲」なんてものまで存在します。
すべて戦国時代に属しており、「厳島の戦い」、「桶狭間の戦い」、そして残るひとつが一連の川越城の戦いのなかで終尾となる「川越夜戦」がそれです。

この「川越夜戦」ですが、後北条氏の重臣・北条綱成つなしげが3千の兵でまもる川越城を関東管領かんとうかんれい古河公方こがくぼうも加わった8万の大軍が包囲攻城。絶体絶命のピンチに援軍として駆け付けた北条氏康が8千の寡兵で奇襲し圧倒的勝利をおさめたというもの。
いかにも同時代にあった厳島の戦いや桶狭間の戦いとならべて「日本三大奇襲」とうたえば、ミーハー歴史愛好家の私なんぞはすぐに興味をおぼえて資料を探しはじめるわけですが。

「川越夜戦」については一次資料はなく、それどころかすべて江戸時代に書かれた軍記物によります。すなわちどこまでホントでどこから作り話かも定かでないのですが、当の川越城の戦い、さらに川越夜戦にいたる経緯をよくよく探ってみると、包囲攻城した大軍が負けてうのていで逃げ散ったのも当然と思えてきます。

川越城跡

西大手門があったとされる地
現在は市役所、川越城の築城をになった太田道灌の像が立つ
川越城の縄張図 / 遺構はほとんど残っていません

武家政権として鎌倉幕府のあとを継ぐかたちになった室町幕府は政治の中心を京都に据えますが、関東をしっかり管理するためにわざわざ鎌倉府をもうけ、将軍・足利尊氏たかうじの四男である基氏もとうじをその長官として鎌倉公方くぼうに任命します。さらに鎌倉公方を補助する目的で関東管領かんれいをつけます。
ここまでは良かったのでしょうが、鎌倉公方は基氏から4代にわたって世襲されたため独立意欲に目覚めはじめます。一方の関東管領は当初は上野こうずけ・武蔵・越後などの守護であった山内上杉氏に委任され、委任のはずが独占し、ついに世襲するようになり、幕府の後押しもあって独立志向の鎌倉公方と激しく争うようになります。

一度は、幕府からの要請で駿河守護の今川氏が関東管領の上杉氏に加勢したこともあって、4代目鎌倉公方の足利持氏もちうじは自害に追い込みまれ、ここで鎌倉府そのものが消滅します。(永享の乱)
ところが持氏の子・成氏しげうじがゾンビのごとく、いえいえ表現がわるい、不死鳥のごとく5代目鎌倉公方につくと、関東管領および幕府との対立までも再燃します。
そして成氏が現職の関東管領を暗殺したことからふたたび騒乱が勃発、この戦いは30年に及びます。(享徳の乱)

奥の本殿をかこむ土塁跡 / あきらかに低すぎるので削られたのでしょうか
江戸時代に建てられた本殿の一部(玄関、大広間、家老詰所)が遺構として残る

関東管領と幕府の連合が天皇の勅旨を賜ったことで成氏は朝敵となり、さすがに鎌倉に居続けることはかなわず本拠を下野古河しもつけこが(現在の茨城県・古河市)移します。このときから鎌倉公方の名は消え、古河公方と呼ばれるようになります。
一方、幕府は鎌倉府を再興する目的であらたな鎌倉公方として足利政知まさともを京都から送りますが、この政知は南関東一帯ではいまだ足利成氏の勢力がつよくて鎌倉に入ることができず、伊豆の堀越に留まりそこを本拠としたことから堀越公方と呼ばれます。(正式にはこの堀越公方が鎌倉公方の後身です)

さてここで後北条氏の祖である北条早雲が登場します。(生前に本人が北条早雲と名乗ったことはなく、伊勢新九郎あるいは伊勢宗瑞とすべきですが、ここでは北条早雲でとおします)
早雲は室町幕府の政所まんどころ執事をつとめる家系の出とするのが現在の認識です。
早雲自身が申次衆もうしつぎしゅう(将軍への対面を取り次ぐなどそこそこの重職)をつとめていたころ、駿河の今川家で内訌ないこう(内輪もめ)があり、それを早雲が治めに向かいます。そのときに駿河にツテができたのか、堀越公方の足利政知が死去し跡継ぎ争いがおこると、ここでも早雲が治めるために伊豆へと向かいます。
ところがこの時の「治める」は少々意味合いが違い、早雲は跡継ぎ候補を追い出して自身がその地の治世者に治まってしまいます。

このときの早雲による「下剋上」をもって戦国時代の始まりとする説もありますが、それは別の話。ここでは早雲が今川家との縁で駿河にあらわれ、鎌倉公方の後身である堀越公方をつぶして出世の足掛かりとしたことを記憶しておいてください。

御殿内

御殿内に入る
広間の杉戸に残された板絵
家老詰所の様子を人形で再現
あまりにも見ていただく遺構が残っていないので、せめてこの縄張をみてかつての川越城をイメージしてください。

鎌倉公方に対する関東管領ですが、こちらもこちらで揉め事だらけ。
そもそも関東管領は山内上杉氏が委任から独占、さらには世襲するまでになったと先に書きました。その山内上杉氏は上野・武蔵・越後の守護であり上杉氏の宗家にあたりますが、その上杉氏の庶流であり山内上杉氏を補佐する立場の扇谷おうぎがやつ上杉氏が台頭し、本拠の相模から武蔵一国に勢力を拡大するまでになります。
そのときの当主・上杉持朝が武蔵での地盤をかためるため家宰の太田道灌どうかんにつくらせたのが江戸城であり、この川越城であったということです。

ようやく話が川越城まで到達しました。
ここからやっとのことで川越夜戦について話すことになりますが、古河公方、山内上杉氏、扇谷上杉氏がいかに仲良しではなかったかがわかっていただけたでしょう。しかも古河×山内、古河×扇谷、山内×扇谷それぞれ三様に不仲だったのなら、古河×山内×扇谷の3者がそろったところで一枚岩になるはずがありません。

三芳野神社

「お城の天神さま」として親しまれてきた三芳野神社
城内に入って一度曲がり、神社につづくこの小道が童謡「とうりゃんせ」の舞台になった道といわれています
「♪ ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ – – -」

太田道灌は多才であり、しかも武勇にもすぐれた逸材だったようです。
あるときから扇谷上杉家がめざましく隆盛したのはひとえに道灌あってのことといっても過言ではないでしょう。道灌はいち家臣ではなく家宰です、当主にかわって家内の政、財、武すべてを切り盛りする存在でした。
その道灌がいまの横浜市港北区にある小机城を攻めたさい、「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と歌を詠んで攻城軍を鼓舞したといいます。このあたりに本人の機智もうかがえる反面、人を喰ったような性格も垣間見えます。

そのときの扇谷上杉家の当主は上杉定正、持朝の2代後になりますが道灌の存在が煙たかったのか、それどころか道灌のあまりの突出ぶりに頭首としての自分の地位がおびやかされると危惧したのか、あるいは道灌の専横をねたみ憎む家臣からの讒言ざんげんがあったのか、道灌は暗殺されてしまいます。

道灌あっての扇谷上杉ですから、道灌なくば扇谷上杉がどうなるかは一目瞭然。
道灌の死と同時に扇谷上杉家の凋落がはじまります。

川越太師 喜多院

手水舎から慈恵堂をみる
(川越城で撮影できた写真があまりにも少ないので市街を歩いたさいの写真を掲載します)
慈恵堂から境内を見わたす / 正面は多宝塔
慈眼堂
境内続きで鎮座する仙波東照宮

扇谷上杉家の力が弱ったことから山内上杉氏が攻勢をかけてきます。
ここからまた同族間での泥沼のような争いがおこるのですが、それは名門上杉家全体の力をそぐことになり、同時に他からの勢力の浸食をゆるすことになります。
先に触れた早雲にはじまる後北条氏の台頭がそれです。

伊豆で勃興した後北条氏は早雲の時代に相模一帯をおさめ、2代目氏綱が武蔵、下総へと勢力を拡大しついに川越城も落としてしまいます。(この氏綱が北条を名乗ったことから、鎌倉時代の執政・北条氏と区別して後北条といいます)
このとき扇谷上杉氏はどのような思いを抱いていたのでしょうか。
上杉家といえば、藤原氏につらなる公家から武家になったもので、源氏、平氏とならぶ名門武家です。その名門・上杉家が、火事場泥棒のように堀越公方を追いやって成り上がった、どこの馬の骨ともしれないエセ北条ごときの風下に立てるか!と切歯扼腕していたことでしょう。

こうして扇谷上杉氏は川越城を奪還すべく軍をおこすのですが、まさっているのは武家としての由緒ぐらいのもの、道灌亡きあとでは武力も智謀もとうてい及びません。
そこで唯一の誇りである「由緒」にすがったのかどうなのか、すくなくとも後北条家の成り上がりぶりに反感をもっていた(と思われる)名門の面々が集まってきます。
川越夜戦にいたる前の状況は、川越城を包囲していた軍勢として
①扇谷上杉氏。
②それまでずっと扇谷と敵対していた山内上杉氏。
③さらに古河公方、といえば関東管領とは犬猿の仲だっただけでなく、第4代古河公方・足利晴氏の正妻が2代目北条氏綱の娘、第5代古河公方・足利義氏の正妻が3代目北条氏康の娘というぐあいに、後北条氏とは重厚な姻戚関係までむすんでいます。それにもかかわらず、ここで後北条氏をたたけば利がうまれれると判断したのでしょうか。
こうして8万ともつたわる軍勢が川越城を包囲します。

ところでこのころ駿河国の当主は今川義元ですが、今川氏としては過去に今川家の内紛を治めたとはいえその後に伊豆から立ち上がったと思うや見る見るうちに関東一円に勢力をひろげる後北条家には苦々しい思いは抱いていたはずです。なんといっても今川氏も清和源氏の流れをくむ名門です。

④川越城包囲戦とはべつに、このとき駿河の今川氏が北条勢力圏の西から迫りきて、後北条氏は東西から挟撃される形になり絶対絶命のピンチに陥ります。
さてこのときの後北条家の当主は勇将の誉高い3代目氏康。難敵は④今川氏のみと冷静に判断したのでしょう、当時今川氏と同盟関係を結んでいた武田氏(晴信、のちの信玄)にわたりをつけ、さっさと今川氏と和睦をむすんでしまいます。
これで西からの脅威はなくなり、川越城の戦いに専念できるようになりました。

川越の街のシンボルになっている時の鐘

敵勢8万とは軍記物ゆえ大げさに書いているのではないかともいわれていますが、かりに8万いたところで欲と見栄で集まっている野合集団なんぞ怖れるにたりません。
氏康は背後から浅めに攻めては反撃をくらうと即座に退却し、いかにも戦意が低いかのように見せて相手の油断を誘います。
そして機が熟したある夜、油断どころか弛緩したように眠りこける敵勢にむかって火を噴くような夜襲がおこなわれます。

川越城は御殿の一部をのぞき遺構と呼べるものはほとんど残っていません。
すなわち掲載する写真も足りないので、神社の写真やらついには街中観光のついでに撮影したものまで代役でアップすることになりました。

【アクセス】川越駅を起点に歩く
【入場料】川越城本丸御殿:100円 (ほかにも有料のところはあるが入っていない)
【満足度】★★★☆☆