街歩き・山歩き,城郭・史跡,新潟

【新潟県・上越市 2023.11.1】上越市の中心地・高田市街地にのこる高田城は、特異な歴史をもっています。そもそもこの城がなぜ造られたかというと、関ケ原の合戦で豊臣方(西軍)に勝利した徳川家康は、豊臣方の筆頭であり加賀の大藩主・前田家をけん制するため、その西に位置する福井城には次男の結城秀康をいれ、東に位置するここ高田には六男の松平忠輝を配してあらたな城を築かせます。すなわち加賀前田家からすると、北は海、南は山、西は福井藩、東は高田藩と完全包囲されてしまいます。大阪の陣をへて徳川が将軍家になると、家康は前田家と縁戚関係をむすんで「加賀の脅威」をとり除きます。そもそもが前田家けん制のためにつくった城ですから、高田城はこの時点でお役目御免となったとも言えます。高田城はお役目御免でも高田藩は存続しています。しかもそのころ全国の諸藩がそうであったように、高田藩もきびしい財政難にあえいでいました。そこに登場するのが筆頭家老の小栗美作(おぐりみまさか)、ずいぶん強引でもある辣腕をふるって財政の立て直しをすすめます。そんなときに高齢の藩主・松平光長の嫡男が病死、嫡男には子がいなかったため、後継者不在という大問題が発生します。けっきょく光長の弟の遺児・万徳丸をいったん光長の養子とし、つぎの藩主とすることになるのですが、この系譜を推しすすめたのが小栗美作であり、財政立て直しの強引なやりかたに反発していた家臣たちが集まり、ついに御家騒動に発展します。 高田市街地をあるく 高田駅はユニークな駅舎 豪雪地帯にみられる雁木造り ここは雁木のモデル建築 高田城の外濠を元にした河でしょうか 高田城址 大手橋近くにあった案内板より抜粋 当時の城を再現した絵図 この御家騒動は、藩主・光長が小栗美作に隠居を命じたことでいったんは収まりかけますが、小栗は実子の大六に家督をゆずっただけで完全な引退はしておらず、騒動は再燃します。ついには幕府が調停に乗り出しますが、「お為方」と自称する反小栗派からつねに紛争の火があがっており、第三者の目からすると、この「お為方」は「我意の為」に蜂起しているとしか見なされず、「お為方」の主要人物はことごとく他藩への御預け(蟄居謹慎)、逆に「逆意方」とよばれた小栗派にはおとがめなし。これで一件落着だったはずなのですが、4代将軍・家綱が亡くなり、綱吉が5代目として新将軍につくと、なにを思ったかこの越後騒動の裁定のやり直しを命じます。想像ですが、この綱吉は「生類憐みの令」を発した張本人で、とにかく殺傷を嫌悪していました。また独自の正義感をもっていたようで、新将軍となった責任感から過去の灰色もすべて処断すると勇んだのでしょうか。やり直しを命じただけでなく、本人みずから前の決定を反故にしあらためて裁定を下します。小栗父子は切腹、「逆意方」も「お為方」も主要人物は島流し(しかも伊豆諸島への遠流)、さらに多くのものが追放など厳罰をきわめました。また藩主の光長も、次の藩主となるべく養子となっていた綱国(万徳丸)も他藩へお預け、そのため知行(領地)没収となり、ここで松平家高田藩は消滅します。 ハスの密生する西堀をわたる 本城堀(内堀に相当する?) 復興した3層の天守が見える 極楽橋をわたって本城へ さて松平家が改易の憂き目にあい、主のいなくなった高田城ですが、短期間の江戸幕府直轄を経てからのちは、まるで将軍綱吉の不興をかった大名の、流刑先になったかのような様相をみせます。1685年、稲葉正往(まさみち)は、親戚の者が大老を暗殺した事件で連座し懲罰として小田原城から高田城へ移封。1710年、松平定重は、経理上のミスをした家臣を打ち首にし、さらにその関係者にも厳罰を科したことを幕府から処分がいかにも重すぎると厳重注意を受け、桑名城から高田城へ移封。どちらも綱吉が嫌悪する殺傷事件が関係しています。代が替わっても8代将軍吉宗の時代に、榊原家では、父・政岑(まさみね)が幕府が発布した倹約令を無視して吉原で豪遊したかどで強制的に引退、共同責任のように息子・正純は姫路城から高田城へ移封させられています。こうしてみると、なんともユニークな歴史をたどってきた城です。 大掛かりな土塁 こちらにも立派な土塁が残っています 天守台も土塁 天守... Read More | Share it now!

城郭・史跡,新潟

【新潟県・妙高市 2023.11.1】謙信と信玄といえば、川中島の戦いが有名ですが、川中島は越後と甲斐の国境近くにあります。その川中島から信玄が直線的に侵攻してきたとして、謙信の居城である春日山城への途上に、標高185mの山があります。謙信はこの山上に堅固な城、鮫ヶ尾城を築きます。出城のひとつですが、あきらかに信玄が万一にも侵攻してきたときのため最終防御拠点と考えてつくったものと思われます。信玄が亡くなったため、武田軍の侵攻はなくなりました。このまま時代がすぎれば、鮫ヶ尾城は歴史の中に埋もれてしまっていたかもしれません。謙信はあさ厠へ立ったさいに、脳卒中でたおれたと伝えられています。真偽のほどはわかりませんが、急死したのは確かです。ここで問題がおきます、謙信は自分がある朝あっけなく死んでしまうとは予期していなかったので、後継者を決めていませんでした。謙信といえば篤い仏教信奉者で、生涯不犯(ふぼん:男女の性交渉をしない)を通したため、実子がいません。そこで景勝と景虎のふたりを養子としていました。景勝は上田長尾家の当主・長尾政景の次男、景虎は北条氏3代当主・氏康の七男、出身がまったく違うので上下関係がなく、おたがいに忖度も遠慮もありません。ここで必然のように跡目争いがおこります。上杉家が真っ二つに割れて戦う、ぞくにいう「御館の乱」です。 斐太遺跡、斐太神社 鮫ヶ尾城だけでなく、一帯で歴史の里とされていました 斐太神社... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,新潟

【新潟県・上越市 2023.10.31】「戦国武将番付」なるものがあったとすれば、上杉謙信はまちがいなく横綱か大関に列せられるはずです。異名は「越後の虎」あるいは「軍神」。その謙信の居城となれば、戦国歴史ファン、あるいは城郭ファンにとってはそれこそ死ぬまでに絶対見ておきたい城ランキングのトップ3かトップ5には入るはずです。おつむの劣化以外はいたって健康でまだ当分は死ぬことはなさそうですが、それこそ人生なにがあるかわからないので、早いうちに謙信の城は見ておきたいと常々思っていました。その城が春日山城。今回の新潟の旅は家内同伴ですが、城に興味のない家内をどこか置き去りにしてでも、絶対に行きたいと期待に胸ふくらませ上越市に入りました。 林泉寺 春日山城から移築したとつたわる惣門 山門... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,新潟

【新潟県・佐渡市 2023.10.29~31】新潟県は東北地方へ旅するさいに通過したことがあるくらいで、遊びだけでなく仕事でも主な目的地として訪ねた経験がありません。それだけに知識も乏しく、「新潟県」と聞いてとっさに思いつくものは、さて、佐渡島、上杉謙信、コシヒカリ、といったところでしょうか。新潟県は地図で見るだけでも東西、そして南北にもながく、一度の旅ですべて回るのはずいぶんきついのがわかります。そこで佐渡島をべつにして「上杉謙信、コシヒカリ」で検索してみたところ、ヒットするのは新潟県でも南西部に集中することがわかりました。しかも北東部の中心である新潟市からだけでなく、南西部の中心である上越市の直江津港からも佐渡島へ船便があります。これで旅程はきまりました。 佐渡島へ このフェリーで佐渡島の小木港へ2時間40分 船内にあった案内 佐渡島が見えてきました この日は天気があまり良くないだけでなく、風がつよくて寒いので、船内で(上杉謙信に関する本を読むつもりでしたが)ほとんど昼寝をしていました。 ところで直江津~小木の往復便は、11月12日までの運行で、翌日から翌春まで冬季休航になります。というわけで、今回の利用はぎりぎりセーフでした。 翌日、佐渡島周遊 加茂湖... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,福井

【福井県・大野市 2023.10.18】福井駅から各停の電車で西へ1時間、山間の盆地に大野市、かつての大野藩がありました。初代藩主は、一揆勢を鎮圧した功により織田信長からこの地を拝領した金森長近。長近が4年の歳月をかけて小規模ながらも見た目も美しい越前大野城を築きました。とは言っても、この大野藩では明治維新の廃藩置県により藩自体が消滅するまでに、実に19人もの藩主がコロコロ入れ替わっています。それゆえ金森長近についてここで詳しく記すのは的を得ていません。幕末に土井利忠が大野藩の藩主となったときには、藩財政は莫大な借金によりほぼ壊滅状態でした。利忠はなによりも人材を育てなければならないと考え、藩校明倫館をひらき学問の普及につとめますが、それにしても手持ちの金がありません。そのとき家老の内山良休が地元の特産品を地元ではなく他藩で売ることを提案し、まず手始めに大坂(いまの大阪市久太郎町)に大野屋1号店を出店、地元のたばこ、生糸の販売を始めます。この1号店が軌道に乗ると、2号店は大坂の特産品を買い付け別の他藩で売るというように、つぎつぎに店舗数をふやし、ついには37店舗まで拡大したと言います。もちろん財政の立て直しに多大に寄与したことは言うまでもありません。 城下町をあるく 町中にあった観光案内板より抜粋 越前大野駅からスタートし、城とをむすぶ直線よりも左側(南)一帯をまわり、それから城に上がり、城から下りてからは地図の右側(北)一帯をまわって北大野駅に戻る予定とします。 本願清水イトヨの里... Read More | Share it now!

城郭・史跡,福井

【福井県・坂井市 2023.10.18】丸岡城は、柴田勝家が信長の時代に越前一国を授けられた際に、甥でのちに養子となった柴田勝豊により築かれました。時は流れ、明治維新により新政府ができると、明治4年に廃藩置県により廃城の憂き目となり、天守を残して城郭の建物はすべて取り壊されます。その後天守とその一帯は、当時の丸岡町に払い下げられ公園として整備されますが、周辺の堀は大正から昭和にかけてすべて埋められ消滅します。それでも昭和9年にはこの当時の国宝保護法により「国宝」に指定されるのですが、昭和23年におきた福井地震によりこの天守は崩壊してしまいます。そして昭和25年に国宝保護法から改定された文化財保護法が施行されると、「国宝」のまま留まることはかなわず、「重要文化財」にあらためて指定されます。熱意というより執念というべきでしょうか、そこから天守の復旧計画がすすみ、5年後の昭和30年には倒壊してくずれたその材をあつめ、整理し、組み直してみごとに天守を立て直してみせます。いまでは日本全国にのこる12の現存天守の中にしっかりカウントされており、その規定では「江戸時代以前につくられた天守」ということなのですが、悲しいかな昭和25年指定の「重要文化財」のまま今にいたり、どうやら坂井市にとってはこの丸岡城を国宝に復活(?)させるのが悲願のようです。 丸岡城へ お天守前公園から天守を仰ぎ見る 登城口はいくつかありますが、ここから登ってみます 当時の城の縄張... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,福井

【福井市 2023.10.17】朝倉氏は元からの名門ではありません。そもそもは但馬の田舎に根をはる氏族であり、その一派が北陸にうつり、越前朝倉氏7代目・孝景の時代に名門・斯波氏が守護として管轄していた越前国をかわって管理する役につきます。これが守護に対して、守護の代理ゆえ守護代とよばれる役職です。朝倉孝景は類いまれな戦上手で、越前の土豪や一揆勢など反対勢力を完全に切り従えた功で守護代に就くのですが、さらに京の都の将軍家後継騒動に端を発した応仁の乱のドサクサに便乗して、斯波家の後継問題にも介入し、西軍についたかとおもうと東軍に寝返り、あげくに斯波氏の力をそぎ落とし、実質的に越前国を統治します。(役職としてはこの時点では斯波氏が守護、朝倉氏が守護代のままです)孝景の次の8代目か9代目のときに斯波氏は没落し、朝倉氏が名実ともに越前国の守護となりますが、斯波氏同様に将軍家も何の力も持たない据物となっていたため、朝倉氏は実質的に越前国の支配者になります。すなわち「守護大名」というわけです。そして11代目の義景にいたり武よりも文に重きをおいたのか、強兵は二の次で、まるで京の都を模したかのような文化都市をつくります。もっともその当時の京は荒び廃れて見る影もない状態だったため、京の都をしのぐといった方が正しいかもしれません。その文化の華が咲き誇ったのが、いまの福井市中心街から南西に10km余、山麓の谷間にひろがる一乗谷です。 一乗谷へ 一乗谷の朝倉氏遺跡へ... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,福井

【福井市 2023.10.17】柴田勝家が信長から越前49万石をあたえられて築いた、その規模は信長の安土城をも上回ると言われたのが北ノ庄城。しかし勝家は本能寺の変で信長が横死してのち、しだいに秀吉にその地位を脅かされ、ついに賤ヶ岳の戦いでの敗北から越前へと敗走、さらに北ノ庄城での自害にいたります。このとき清須会議ののちに妻とした、信長の妹・お市の方も結婚生活わずが半年余りでともに果て、火をかけた七層とも九層ともつたわる豪壮な天守ともども灰燼と帰します。この越前の地に、関ケ原の合戦ののち68万石で入封するのが徳川家康の次男であり、幼少のころは秀吉の養子に、その後は関東の大名・結城家の養子となっていた結城秀康です。秀康はこの地で松平の姓を名乗り、その姓にも与えられた石高にも恥じないようにと、6年の歳月をかけて巨城を築きます。(勝家の北ノ庄城の遺存した部分をもとに改修したとの説もあります)秀康存命中はこの地域は北ノ庄、そこにある城ゆえ北ノ庄城と呼ばれていたようですが、その後「北」が縁起が悪いとかゴチャゴチャいう人があって、福が居る... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,山登り,城郭・史跡,滋賀

【滋賀県・長浜市 2023.10.14】織田信長の存命中に、秀吉がみずから天下を獲ろうと企んでいたか否かはわかりません。しかし本能寺の変で信長が謀殺され、その報をうけて明智光秀を討つべく備中高松城から京へ駆け戻る段階では、すでに光秀討伐後の先のことまで考えていたかも知れません。いずれ遠からぬ将来、信長軍団のなかで家臣最高位にある柴田勝家とは、どのような形になるにせよ雌雄を決する時がくる。 それから1年と経たないうちに、両者はいまの滋賀県長浜市に琵琶湖を背にし余呉湖を腹にかかえるようにそびえる賤ヶ岳とその一帯を舞台に、まさに天下分け目の大戦をくり広げることになります。 余呉湖一周、ただし徒歩 JR余呉駅前にあった案内板より抜粋 今日の予定ですが、余呉駅から時計とは反対回りに余呉湖を一周し、最北部にある登山口から山に入り、中川清秀の陣跡などを見ながら賤ヶ岳山頂へ。賤ヶ岳リフトに沿うように下り、国道8号線かその脇道をあるいて木ノ本駅へ戻ります。 秀吉の軍は余呉湖の周囲と南側に陣を敷きます。北の堂木山、神明山あたりが前衛。東の山沿いには高山右近、中川清秀。賤ヶ岳には桑山重晴。いまの木之本駅の辺りに秀吉の本陣、その前の山麓には弟の秀長。柴田勝家の軍はさきに進軍してきますが、余呉湖のよほど手前(北)で軍をとめ陣を敷いていました。中谷山、別所山あたりに不破勝光、前田利家。行市山に佐久間盛政。地図上の街道をさらに北へ上ったところに柴田勝家の本陣がありました。 駅からのんびり農道を歩きます... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,城郭・史跡,岡山

【岡山県・高梁市 2023.10.10】そもそも臥牛山の4つの峰のなかで、大松山にその後の城の原形となる砦ごときものが築かれたのが1240年のこと。東(都)と西(西国)、北(山陰)と南(山陽)をむすぶ交通の要衝であったため獲ったり取られたりで次々に城主が代わり、そのたびに城郭は拡張されてゆきます。戦国時代、三村元親により初歩的とはいえ石垣を積み上げた、大城郭に仕上がったようです。元親は、その父・家親が勢力を拡大して行く途上で、宇喜多直家(秀家の父)に毒殺される過去があり、宇喜多憎しの一念で毛利氏の支援を受けながら勢力を回復し、備中松山城も奪還します。ところがそののち毛利氏が、上方に魔王のごとくあらわれた織田信長の西下の防波堤の意味もあって宇喜多直家と同盟を結ぶと、激怒した元親は織田信長とむすび、結果として毛利氏と敵対することになります。この決断は時期尚早だったようです。信長はまだ西国侵攻をはじめたばかりで備中まで援軍をおくる予定も余裕もなく、元親は孤立無援のまま、毛利氏の名将・小早川隆景に攻められ(さしもの隆景にも備中松山城は容易には落とせず、支城を落として包囲し周囲から孤立させ)、元親は自害します。こうして備中松山城は毛利氏のものになるのですが、関ヶ原の合戦で西軍が敗れると毛利氏も減封、江戸幕府の管轄となり、一時期城番をおいたあと、池田長幸が6万3千石で入城します。ところが2代目の長常は嫡男(跡取りの男子)がないまま亡くなったため、幕府が定めた法により家そのものが廃絶、城を明け渡すことになります。 臥牛山へ 武家屋敷ものこる石火矢町の通り... Read More | Share it now!