【大阪府・高槻市~茨木市 2024.2.24】日本全国には16万基をこえる古墳が残っているそうで、神社の数8万、寺院の数7.6万の合計を上回ります。ちなみに全国のコンビニの数は6万弱なのでおよそその3倍。それだけ数多ある古墳の中で、おそらく全国唯一とおもわれる、自由に立ち入ることができる天皇陵としての古墳が大阪府高槻市にあります。今城塚古墳と呼ばれているものがそれで、26代継体天皇の陵と推定されています。たとえば石舞台古墳はそのなかに入って見学できますが、被葬者は蘇我馬子と推定されており、馬子は実力者でしたが皇族ではありません。立ち入れる古墳は、立ち入っても保存上の問題がないもの、崩壊などの危険がないもの、そして「天皇家の陵、墓ではない」ものに限られます。(天皇、皇后、皇太后のものを陵、そのほかの皇子や皇女のものを墓と区別します) では、なぜ継体天皇陵すなわち今城塚古墳には入れるのか。この今城塚古墳は墳丘の長さ190mの巨大なものですが、その西2kmほどのところに太田茶臼山古墳とよばれるさらにひとまわり大きい墳丘長226mの古墳があります。明治時代に、おそらく紙の上でのこる資料と大阪北部ではもっとも大きいという事実から、この太田茶臼山古墳こそ継体天皇の陵であると確定したのでしょう。天皇家の陵および墓への一般国民の立ち入りがいつどのようなかたちで禁じられたのかはよくわかりませんが、昭和22年に宮内府(のちの宮内庁)が発足すると、その管轄のもと陵・墓ともに柵でかこわれ、一般国民は各一ヶ所にもうけられた拝所から御陵あるいは御墓にむかって拝礼するようになります。ところが、昭和から平成にかけての両古墳の発掘調査の結果、太田茶臼山古墳は継体天皇の没年(西暦531年)より1世紀ほど前につくられたものであり、また今城塚古墳こそ天皇の陵にふさわしいことが判明します。この発見は学術的には賞賛すべきものだったはずですが、この発見に困惑した人達もいたはずです。報告をきいた宮内庁は「... Read More | Share it now!
古代にこれほどの城が – – 驚きの鬼ノ城
【岡山県総社市 2024.2.12】岡山県といえば、桃太郎。これには元ネタがあり、温羅(うら)という赤髪、巨漢の悪党がいてそれを崇神天皇がつかわした吉備津彦命(きびつひこのみこと)が退治するという話です。桃太郎が昔話であれば、温羅と吉備津彦命の話も伝説の域を出ませんが、岡山県総社市の山中にある古城は昭和40年代に本格的な調査が行われるまでは、温羅の居城として語り継がれてきました。それゆえ今でも鬼ノ城(きのじょう)と呼ばれています。さて昭和46年の調査で列石や水門がみつかって古代の城であることがわかり、さらに昭和53年の調査で山上の周囲2.8kmをかこむ石塁や土塁、さらに四方に城門跡が発見され、これが7世紀後半に造られた古代山城であることが確定されます。なぜかこの城については史実に記録がありません。そのため由緒のはっきりしている奈良の高安城、大宰府の大野城などが朝鮮式山城と呼ばれるのとは区分して、神籠石系(こうごいしけい)山城と呼ばれています。まあここから先は学術的な話ゆえ、なにはさておき古代城とやらを見に行きましょう。 鬼城山へ JR服部駅より鬼ノ城のある鬼城山へと歩く 徒歩30分で麓の砂川公園に到着 砂川公園からの登り道 JR服部駅から鬼ノ城ビジターセンターまでは約6kmの道程。中間地点になる砂川公園までは平たんな道ですが、後半は上り坂になります。アスファルト道で整備されていますが、路面が固いぶん意外にきつい。 鬼ノ城... Read More | Share it now!
王舎城ともよばれた鹿野城を訪ねる
【鳥取市 2024.2.2】鳥取市西部にある鹿野城は、因幡の豪族だった志加奴(鹿野)氏によりその原形が造られたのではないでしょうか。その後勢力を拡大する尼子氏に攻め落とされています。先日訪ねた布施天神山城を拠点に守護をつとめていた山名氏が、鳥取城主の武田某に攻められその尼子氏を頼りここ鹿野城まで撤退した歴史もあります。羽柴秀吉が鳥取城を落としたのは「飢え殺し」とまでいわれるほどの徹底した兵糧攻めでしたが、その時点では鹿野城はすでに秀吉方のものになっており、尼子氏の旧臣・亀井玆矩(これのり)が城代をつとめていたようです。亀井玆矩はその後徳川方についたことで飛躍し、鹿野藩の藩主となります(すなわち鹿野城の正式な城主でもある)。それを機に城を近代城郭に改修して王舎城(インドにあった、釈迦が長く滞在し説法を行なったマガダ王国の都の名)、また城下町をととのえ鹿野苑(釈迦が悟りをひらいてはじめて説法した地)などインド仏教に関係した名前をつけています。 幸盛寺 幸盛寺・山門 幸盛寺境内 山中鹿之助の墓 鹿野には山中鹿之助の墓があります。由来はこうです。玆矩の正妻は鹿之助の娘、すなわち鹿野藩主・亀井玆矩にとって山中鹿之助は義父になります。玆矩は非業の死をとげた義父の鎮魂の意味もこめて鹿野城下にあった寺を菩提寺とし、鹿之助の本名である幸盛(ゆきもり)から字をもらい幸盛(こうせい)寺と改めました。なお鹿之助の通称は、兜に鹿の角が脇立として飾られていたことが由来で、「鹿野」とは関係ありません。 鹿野城跡... Read More | Share it now!
鳥取市湖山池周辺の史跡を犬犬とあるく
【鳥取市 2024.1.30~2.2】家内の実家から留守にするので4日ほど母親の世話をしてもらえないかと依頼がありました。義母は家の中での介助が必要なほどではなく、義母だけなら家内ひとりで用は足りるのですが、この家にはほとんど人間とおなじように暮らす犬がふたりいます。それゆえ母+犬犬の3人の世話をする必要があり、私は犬犬の担当として出向くことにしました。 湖山池 湖山池にて... Read More | Share it now!
比叡山には京都側から登るのが正しいか
【京都市 2024.1.27】昨年の1月に滋賀県の坂本から比叡山に登ったのですが、日吉大社の鳥居をくぐりそうして神域に足を踏み入れてから登山を始める、それが正しい比叡山の登り方だとそのときのブログに書きました。あくまでこれは自論であり、文中でも「個人的な自論」とことわっています。ところが先日、京都に住む知人からそのブログを読んで、これでは京都が軽視されているとクレームをつけられました。京都を軽視するつもりがもちろんないだけでなく、そもそもこの私的なブログをそれほど多数の人が読んでいるはずもなく、ましてやこのブログを読んで比叡山の登山ルートを決める参考にする人となると、過去に一人でもいたのかどうか。それはそうだが、と知人が言うには、滋賀県側からの登山ルートを薦めながら京都側からの登山ルートについて何も書かないのは片手落ちではないか。なにが片手落ちなのかよくわかりませんが、学生時代に京都に出てきてその後も京都好きでずっと京都で暮らす知人と話をしているうちに、久しぶりに京都側から比叡山に登るのも悪くないかと思うようになり、別れるときには近々修学院からのぼって大原まで歩いてみると約束していました。自分の愛する街で暮らす人から我が町自慢をきくのは楽しいだけでなく、最高の情報収集になります。 修学院から雲母坂、キララ坂城跡 京都側から比叡山に登る場合、もっともポピュラーなルートは京都一周トレイルにしたがって銀閣寺手前から北白川をぬけて上がるか、修学院から音羽川をさかのぼり離宮脇をのぼるか。今回はおよそ20年前にはじめて比叡山にのぼったときに使った後者の道を選びました。 修学院駅から音羽川をさかのぼる... Read More | Share it now!
伊豆半島 – 城山から発端丈山、内浦湾へ
【静岡県・伊豆の国市~沼津市... Read More | Share it now!
山中城は城跡ではなく公園として訪ねるべきか
【静岡県・三島市 2024.1.16】三島市の中心街から北東へ、ちょうど箱根に向かって国道1号線を登ってゆくと山中城跡があります。北条氏の始祖・早雲が韮山城を拠点に関東全域へと進出してゆく過程で、小田原城を落としますが、その小田原城を居城とするのは早雲の子である北条氏2代目氏綱の時代からとされています。北条氏は小田原城を改修し天下に聞こえた総構えの巨城へと変貌させる一方、その周囲には支城をつくり防御を鉄壁なものにしてゆきます。山中城は3代目氏康により造られた、小田原城から見て西の防御の要となる城で、東海道を箱根に向かって上がってきた敵軍を、まさに待ってましたとばかりに迎え撃つ絶好の地に造られました。(後北条氏が北条を名乗るのは2代目氏綱が壮年になってからで、元の性は伊勢。早雲については終生、伊勢宗瑞を名乗っていました) 山中城へ 国道1号線を走るバスの車窓から富士山を望む バスは三島スカイウォークの前を通ってゆく 山中城跡 バス停横にあった案内板より一部抜粋 三の丸堀の脇を進みます 田尻の池 箱井戸... Read More | Share it now!
北条氏の源をたどれば、興国寺城そして韮山城
【静岡県・沼津市 2024.1.16】駿河の興国寺城は、戦国時代には北条氏、今川氏、武田氏の勢力争いのいわば境界地にあたり、それぞれに奪い奪われを繰り返します。さらに信玄の今川氏討伐、信長の武田氏討伐、秀吉の北条氏討伐を経て豊臣氏の勢力下におかれ、その豊臣氏は家康に滅ぼされ最後には徳川氏が支配者になります。興国寺城の歴史を見ていると、戦国時代の大物がずらりと登場することになるのですが、源をたどれば北条氏の始祖・伊勢宗瑞(あるいは伊勢新九郎)のちに北条早雲とよばれる、これまた大物に行きつきます。宗瑞が京の都において幕府の仕事にかかわっていたころ、駿河の今川家では8代当主・義忠が戦死しますが、嫡男が幼少であったため家督争いがもち上がります。その義忠の正室が宗瑞の実姉であったことから、宗瑞は駿河に呼ばれ調停役を務めることになります。ここで二つの説があります。宗瑞の知略で相続争いは血を見ることなく無事に解決したというもの、そうではなく宗瑞はあくまで幕府の代表として赴いたため幕府の威光のまえに逆らうものがなく無事解決したというもの。どちらにしても宗瑞の計算された立ち回りがあったからこその無事解決であり、この時点ですでに宗瑞には一旗も二旗も上げる覚悟があったということではないでしょうか。たしかに宗瑞はこの上首尾の調停の功により富士下方12郷をあたえられ興国寺城の城主となります。(ちなみにこの当時、駿河の国は7郡59郷で成りたっていたようなので、宗瑞はその2割ほどをもらい受けたことになります。あきらかに幼い当主の後見人的な立場を得たものと考えられ、同時に大きな発言権と実行力を手にしたとも言えます) 興国寺城へ ... Read More | Share it now!
大垣城址と墨俣一夜城跡地を訪ねる
【岐阜県・大垣市 2024.1.5】大垣城が歴史の中ではっきりと記録されるのは、美濃の斎藤道三と尾張の織田信秀(信長の父)による争奪戦が繰りひろげられるようになってからです。地理的に言うと大垣城は尾張からずっと美濃の領地へ食い込んが位置にあるのですが、その大垣城を織田氏に奪われるというのは美濃をおさめる斎藤氏にとっては喉元に刃を突き付けられたようなものでしょう。ところが織田信秀が亡くなり、跡取りの信長がその威力を発揮するまでに至らぬうちに斎藤氏は尾張の勢力をぐぐっ押し返し、長良川をはさんで国境をしっかり固めます。歴史を振り返ってみると、信長はこの美濃との国境を越えるのに大変な労苦を強いられたようです。義父である斎藤道三が息子・義龍との戦いに敗れて果てたのが1556年、そのときから信長は美濃侵攻をはかります。しかしその後1560年に桶狭間で今川義元を討って全国にその名を轟かせ、1561年に義龍が病死し嫡男・義興との小戦には勝利しますが、美濃侵略までにはいたりません。このあたりから信長は美濃攻めの方針を変えたようです。義龍を失って屋台骨が揺らぎはじめた斎藤氏の家臣たちの調略を始めます。5年の時がながれ機が熟したころ、当時まだ足軽頭ていどだった秀吉をつかって長良川の対岸(美濃側)に砦を築かせ、そこを拠点に一気に美濃に押し寄せ、翌1567年に美濃を完全に掌握します。この件(くだり)はよく把握しておかねばなりません。秀吉が長良川の対岸に砦を築いた(これが墨俣一夜城)おかげで信長の美濃侵攻が可能になったと、後世にはすべて秀吉の手柄のように語られていますが、そのまえに美濃の有力な国人衆を懐柔してその諸城を手にし、さらに斎藤家の重臣である西美濃三人衆すべてを味方につけています。すなわち美濃に侵攻してきた織田軍に対して全力で交戦する美濃兵はすでにほとんどいなかったということです。 大垣城 あらかじめ書いておきますと、大垣城は石垣と曲輪を遺構として残すのみで、天守をはじめ櫓や塀などはすべて鉄筋コンクリートで復元したものです。 城のそばに鎮座する護国神社 大垣城... Read More | Share it now!
マムシに落とされた揖斐城はいまもマムシに注意
【岐阜県・揖斐川町... Read More | Share it now!