【徳島市 2024.5.11】秀吉の出自はあきらかでなく、若いころに百姓家をとびだして針を売る行商をやっていたとの説もあります。そのころ蜂須賀小六(のちの正勝)に出合います。この小六は野盗の親分で、仕事柄(?)迅速にうごきまわり情報を集める術にも長けており、秀吉は小六の野盗集団を核にして独自の諜報網をつくったとも言われています。あるいは小六は木曽川での輸送を支配する川並衆だったとの説もあり、秀吉は小六がひきいる川並衆の協力を得て墨俣に一夜で城を築いた(墨俣一夜城)と言われています。どれも興味深い話ですが、いまではすべて「興味深い話」を後世に伝えるために創作したものと考えられています。しかし秀吉がやっと武士として歩きはじめた当初から、蜂須賀小六がその歩程に寄り添っていたのは確かです。秀吉は天下人へと歩みつづけるなか四国平定に先立ち、いままでの働きに感謝して正勝(小六)に阿波の国を与えると約束します。しかし正勝はそのときすでに高齢で隠居の身であり、むしろ秀吉のそばで仕えることを望みます。そこで阿波の国は正勝の嫡男であり蜂須賀家の家督をつぐ家政にあたえられます。その家政ですが、親は親と割り切っていたのか、あるいはよほど石田三成を嫌っていたのか、秀吉の死後(父・正勝はずっと前に亡くなっている)は徳川家康に臣従し、関ヶ原でも大坂の陣でも東軍として奮戦し、その功でもって阿波に淡路をくわえた25万7千石の大名として君臨します。その蜂須賀家政がとうしょ内陸の一宮城にはいり、その後治世のやりやすさを考えてあらたに築いたのが徳島城です。 平城 城山... Read More | Share it now!
一宮城が名城であることに偽りなし
【徳島市・2024.5.10】徳島市の中心街から10㎞ほど西すなわち内陸に入った郊外の地に一宮城はあります。すでに南北朝時代には当地の土豪であった一宮氏によりつくられていたようで、やがて三好氏が阿波を支配するようになると、一宮氏は三好氏に臣従しこの城を拠点として周囲ににらみを利かせます。ずいぶん難攻不落の堅城だったようで、四国制覇をもくろむ長曾我部氏が阿波へと進行してきた際にもしぶとく抵抗したようです。またその長曾我部氏が城主となりその後秀吉の四国平定のさいには数万の軍勢で攻め立てられますが、この際にもしぶとく奮戦します。しかし軍勢の数で圧倒する秀吉の軍の前にやがて落城。秀吉は阿波の国に蜂須賀氏を配します。その蜂須賀氏は堅城ではあるものの一国を統治するには不便なこの城をはなれ徳島城にうつります。そして家臣の益田某に一宮城は任せることになります。いま残る曲輪や竪堀、土塁は南北朝から戦国時代の遺構と思われますが、石垣に関してはすべて蜂須賀氏時代のものと考えられています。 一宮城へ 北東側から一宮城がのこる山並みをみる このあたり四国御遍路のため地蔵石仏多数あり 麓に鎮座する一宮神社 神社のむかいに登城口がある 赤文字の現在地から時計まわりりに回ります 蜂須賀氏が徳島城を居城としてから、その防御として周囲をかこむように九つの支城を築きます。それが俗に阿波九城と呼ばれるものですが、調べたかぎりではこの一宮城が規模が大きいだけでなく、もっともよく遺構がのこっており、ぜひ訪ねてみたい城としてピックアップしていました。 南城 整備された階段をのぼります 竪堀跡 曲輪跡 右側はいかにも手を加えた様子 三方を崖でかこんだ鉄壁の防御 堀切の底を歩いてゆく、ここも攻めにくそう 才蔵丸の曲輪 門跡... Read More | Share it now!
残念だった撫養城、さらに残念だった勝瑞城
徳島県に城と城跡を見にゆき、ぜんぶで5城を訪ねました。もちろんすべてに大満足を期待してはいませんが、あらかじめネットで調べて訪ねるか否かを判断してのことゆえ、「まずまず」の成果は得られるものと信じています。しかしです、その「まずまず」にもいたらなかった、残念だったものもありました。 撫養城 【徳島県・鳴門市... Read More | Share it now!
大坂城の記憶から淡路島にのこる洲本城を訪ねる
【兵庫県・洲本市 2024.5.9】いまの洲本市の中心地は地理的に淡路島の中心にあるだけでなく、戦国時代のころから淡路一国の政治、経済の中心地として栄えていました。この地に最初に城を築いたのは三好氏の家臣であり淡路水軍をひきいた安宅氏といわれています。世が戦国時代に突入すると、中国地方の大勢力である毛利氏と東から勢力を拡大する織田信長との間に挟まれ、淡路のなかでも両勢力のどちらにつくか意見が割れますが、安宅信康は織田氏へ、それに対して菅平右衛門は毛利氏につきます。淡路での攻防はまず先手を取ったのは毛利氏。淡路島の北端にある信康のまもる岩屋城が落とされると平右衛門は岩屋城主にとって代わります。しかしほどなく信長の命をうけた秀吉により淡路が平定されると、平右衛門は遁走していずこかに身を潜めます。ところが本能寺の変により信長が謀殺されると、明智光秀に呼応した長曾我部氏の後押しもあって平右衛門は表舞台に復活し、その時は仙石秀久の下にあった洲本城を電光石火というよりもドサクサ紛れに奪い取ります。ところがところが、それもつかの間のことでいわゆる中国大返しで備前から畿内へもどる秀吉の遠隔操作による派兵であっという間に追い出され四国の長曾我部氏のもとへ逃れたということです。菅平右衛門は戦下手だったのでしょうか、そこのところはよくわかりませんが、この武将の最期には胸を打たれるものがあります。平右衛門は紆余曲折をへて秀吉の家臣となり、水軍をひきいて朝鮮の役にも加わったようです。そして関ヶ原の戦いでは西軍についていたため敗軍となり領地を没収され蟄居します。ここでまた表舞台から消えるのですが、やがて大坂冬の陣で豊臣方が敗れると、徳川方との講和条約として大阪城の外堀を埋めることになります。そのさい平右衛門は堀をうめる工事の一部を担当させられます。ところが講和条約では外堀だけを埋めることとなっていたにもかかわらず、工事が進むにつれて当たり前のように内堀までも埋めるよう指示が下されます。平右衛門はこの講和条件を無視する行為を武士の道に反すると反発し、一歩もひかぬ抵抗をしめしたのでしょうか、ついに切腹を命じられます。この話が記憶に残っていて、菅平右衛門から洲本城に関心を持つにいたりました。 平城 街の南に位置する洲本城... Read More | Share it now!
菅浦集落から奥琵琶湖を散策する
【滋賀県・長浜市 2024.5.3】毎年なんどか山登りを共にするHさんと今年のGWはどこに出かけるか打ち合わせていたところ、ひょっこり「菅浦」という地名が出てきました。自分の不勉強というよりも、この地名は知っている人がむしろ少ないと思います。地理的には琵琶湖の北端より南に突き出した岬の、その西側の入り江一帯にあたります。歴史的にはずいぶんコアです。神様にそなえる食事を神饌(しんせん)といいますが、天皇にそなえる食事は贄(にえ)とよばれます。この贄を供する役目の人を贄人(にえびと)と呼ぶそうですが、この贄人が移り住み定着したのがこの地の起源だということです。それだけでもなかなか由緒正しい歴史を感じさせますが、さらに地理的には岬の根本は山にふさがれ、すなわち近江であれ越前であれ平地から接近するには山に阻まれ、交通手段としては琵琶湖を船で漕いでくる以外にない隔絶された土地です。そのため隠れ里となり、淳仁天皇が孝謙上皇の怒りをかって廃帝のうえ追放されたさいにここに逃れ隠棲したとの言い伝えもあります。今日は、その菅浦をたずね、当地を隔絶していた山々をあるいて奥琵琶湖の散策をしてみたいと思います。 琵琶湖の湖岸にそってならぶ菅浦集落 JR永原駅から菅浦集落までの9km弱は、時間の関係で徒歩ではなく、はじめから地元のコミュニティバスに乗せてもらうつもりでした。ところがJR列車が車内でトラブルがあったとかで到着が遅れてしまい、駅の改札口を出たときにはバスはすでに出たあと。しかも駅舎内に記されたタクシー会社に電話したら、今日は葬式があるので車の手配ができないと、なんともローカルな理由で断られる始末。 西の四足門... Read More | Share it now!
富田松山城では瀬戸内海の眺望も楽しめる
【岡山県・備前市 2024.4.25】岡山県備前市の、瀬戸内海の入り江が深く入り込んだところ、まるでその入り江を見わたすかのような山上に富田松山城はあります。歴史を簡単に書いておきます。世が応仁の乱をへて戦国時代に突入したばかりのころ、備前の国では浦上氏が勃興します。父親が亡くなり、兄・政宗と弟・宗景が争いはじめます。ことの発端は、北から浸食してきた大勢力の尼子氏に対して政宗は従属することを選び、宗景は対抗することを主張します。この兄弟での争いのなかで宗景が天神山城を主城とし、富田松山城を支城としてつかっていたようです。さてこの兄弟争いの結果ですが、西の毛利氏の助勢をうけた宗景が勝利し備前一国、さらに一時は東の播磨にまで勢力をのばす戦国大名となります。ところが家臣であった宇喜多直家がしだいに頭角をあらわし、ついには浦上氏を追放、やがて富田松山城は廃城となります。 登城というよりほぼ登山 富田松山... Read More | Share it now!
談山神社から御破裂山、そして明日香の里へ
【奈良県・桜井市 2024.4.13】御破裂山という奇妙な名前の山があります。多武峰(とうのみね)の山頂をそう呼ぶのですが、多武峰に関しては、神々が天からこの山の頂に降臨し、そこから天香久山(あまのかぐやま)へと下っていったという神話の世界にも登場します。御破裂山の名の由来については、醍醐天皇(後醍醐ではありません)の時代いらい天下に異変があると山全体が鳴動したとか。その回数は35回とか、50回超とか、資料によりまちまちなのが少々胡散臭い、いえいえ少々気にはなるのですが、かつてはその鳴動を注意深く聞くための拝所のような場所まであったというのですから、やはり由緒ある神山ともいえる山なのでしょう。その多武峰の南ふところに談山神社(たんざんじんじゃ)があります。飛鳥時代に蘇我氏が権勢をふるっていたころ、その専横ぶりに怒りを抱く中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が中大兄皇子を誘いひそかに談合した場所と言われており、この談合ののち蘇我氏を排除し(入鹿を暗殺、父の蝦夷は自害)ここから大化の改新が始まることになります。 神社へ バスを降りると、屋形橋をわたる 東大門... Read More | Share it now!
九鬼海賊は船をつくり運送業をいとなみ食用油もつくった
【三重県・鳥羽市 2023.4.10】九鬼嘉隆(くきよしたか)は、伊勢志摩を中心に活動する熊野海賊衆の一部である九鬼氏の11代目当主です。ここでいう海賊衆とは強盗団としての海賊ではなく、自前の船で水先案内もすれば、物資も運び、要請があれば武器をもって戦の助太刀にもむかいます。すなわちガイドに、運送に、傭兵に、言うなれば船をもった便利屋です。そうでした、その船も自前でつくるので造船業もこなしています。その九鬼氏のなかで、九鬼嘉隆が頭角をあらわしたのは織田信長の配下となり、長島一向一揆の鎮圧などに貢献したことによります。さらに摂津での石山本願寺との戦いでは、巨大な船体に鉄板をはって防御した安宅船をつくり、ろう城する摂津本願寺に兵糧を運び込もうとする毛利水軍を完膚なきまでに殲滅し、これを機に本願寺側の抵抗は急速に衰えてゆきます。本能寺の変で信長が横死してからは秀吉に仕えることになり、朝鮮出兵のさいには大型船をつくって水軍の総大将として出兵するなどの活躍をしています。なおこの時期に、南北朝時代からの遺構としてのこる城跡にあらたに鳥羽城の築城をおこなったようです。豊臣家と徳川家の争乱のなかで九鬼氏も運命に翻弄されます。関ヶ原の戦いにおいて嘉隆は九鬼家を存続させるため、家督をつがせた次男の守隆には東軍(徳川方)につかせ、隠居した自分は西軍(豊臣方)につきます。どちらが勝っても負けても、父か息子のどちらかは生き残れる策であり、これは信州の真田氏も同じことをしています。もちろん勝ったのは東軍。嘉隆は自害しますが、嘉隆にしたがっていた末弟はのがれてのちに四日市に腰をすえ回船業をはじめます。さらに武士をすてて商売に精をだすのですが、当時四日市周辺に菜種が生えひろがっていることに着目し、油づくりをはじめます。いま四日市に本社をかまえ、ひろくゴマ製品なかでもごま油を主に製造販売する老舗会社の九鬼産業は、そんなことで九鬼嘉隆をルーツにしているそうです。 鳥羽城・三の丸広場から 三の丸跡が現在の入口になります 現在の城跡の案内図... Read More | Share it now!
横浜の市街地にのこる小机城、茅ヶ崎城
【横浜市 2024.4.2】小机城が歴史の表舞台にはじめて登場するのは長尾景春の乱においてではないでしょうか。室町幕府が京都にありながら関東10ヵ国を統治するため設置したのが鎌倉府であり、その長官が鎌倉公方です。鎌倉公方とは役職名というよりも、京都の室町幕府将軍にたいして鎌倉すなわち関東の将軍といったようなものです。それゆえ鎌倉公方は足利将軍家の直系が世襲しており、じっさいに執務をとりしきるのは補佐役の関東管領、その職は上杉氏が世襲していました。その上杉氏が山内上杉家、扇谷上杉家に分かれており、さらに有力家臣である長尾氏も白井長尾家、惣社長尾家、犬懸長尾家、鎌倉長尾家にわかれ、関東管領を直接補佐する最重要ポストの家宰職を持ちまわりで務めていました。こんな状況なら跡目争いがおきるのは必定で、案の上白井長尾家の家督をついだ景春は自分に家宰職が回ってこなかったことに不満をだき、さらに白井長尾家に家宰職が回らないことで既得権益をうしなう周りのものに後押しされ、ついに挙兵します。このとき景春を支持する豊嶋某が立てこもったのが小机城なのですが、それだけであれば後世にさほど注目されることもなかったでしょう。ここに太田道灌が登場します。扇谷上杉家の重臣であり、武だけでなく文にも秀で、また江戸城の原型をつくったとも伝わる有能な武将ですが、自信過剰で人を食ったような面もあり、最後は仕えていた扇谷上杉家の手で暗殺されています。よほど目に余るものがあり主家として危機感を抱いたのでしょうか。その太田道灌がこの小机城を攻め落とすことになるのですが、その際に「小机はまず手習ひのはじめにて、いろはにほへと、ちりぢりとなる」と戯れ歌をうたっています。小机はこの地の地名ですが、それを子供が勉強につかう小さな机にかけ、「小机城ごときは手習いはじめのように、いろはにほへと書くほどにたやすく散り散りとなる(落城する)だろう」と小馬鹿にしたわけです。いろはにほへとの小机城を訪ねてみることにしました。 小机城へむかって 日産スタジアムの横を通って 小机城へ行くには小机駅が最寄になりますが、今夕大阪へもどる都合で新横浜駅のコインロッカーに荷物を預けました。小机駅は一駅だけ先、わざわざ電車に乗り直すこともないので新横浜駅から歩くことにしました。 前方の丘陵が小机城址 現在は、小机城址市民の森なる公園です 小机城 小机城跡の第一の特徴は、この竹林です もっとも当時から竹林があったのかは不明 大がかりな空堀 竹があると斜面をいかにも登りやすいので 竹林は当時はなかったものと考えるべきでしょう 二の丸広場 二の丸から本丸へと向かいます 防御と言えば堀と土塁だけ、そのぶん堀は大がかり 本丸広場 本丸は二の丸とどっこいどっこいの広さ、位置的にも横に並んでいるだけで、資料によるとどちらが主となる曲輪なのかはっきりしないそうです。 本丸から櫓跡へむかいます 天守がない代わりに、ここに遠望するための櫓があった いろはにほへと、の内に落とせるとは思えませんが、それほどの堅城というイメージはありませんでした。それにしても「市民の森」となっており近くに住宅がひしめいているにもかかわらず、散歩する人すら見かけませんでした。密生する竹林と木立のため、たしかに憩いの場とするにはふさわしい雰囲気ではないかもしれません。 茅ヶ崎城へむかって 小机城から6kmほどあるいて茅ヶ崎城を訪ねます。茅ヶ崎城は横浜市の港北ニュータウンを開発中にみつけられた遺跡のひとつで、どうやら小机城の支城だったのではないかと考えられています。小机城のその後はというと、後北条氏が勢力を拡大すると相模から武蔵へ進出してゆく拠点として整備しなおしたようで、茅ヶ崎城もやはり支城のひとつとして使われていたようです。※鎌倉時代の執権・北条氏は相模北条氏とよばれ、北条早雲にはじまる北条氏は小田原北条氏または後北条氏として区別されています。 港北ニュータウンのマンション群を抜けて 戸建て住宅地に出ると、やがて茅ヶ崎城につきます ここは茅ヶ崎城址公園となっています 現地にあった案内板より抜粋 茅ヶ崎城 案内板のある北曲輪(郭) 西曲輪へ向かいます このあたりが西曲輪と思われます 中曲輪... Read More | Share it now!
鎌倉にて、こだわってのちざっと歩く
【神奈川県・鎌倉市 2024.3.31~4.1】過去に訪れたことのない鎌倉を訪ねました。一日半をまるまる鎌倉見物にあてましたが、とてもすべてをじっくり見てまわることはできませんでした。こだわって見て歩いたのは、鎌倉時代初期の頼朝、実朝ゆかりの地。そして幕府倒幕にかかわる後醍醐天皇の皇子・護良親王と足利尊氏ゆかりの地。鎌倉幕府を立ちあげたのは源頼朝ですが、3代目将軍・源実朝が26歳の若さで暗殺され頼朝の血筋は絶え、その後は執権・北条氏による統制(というよりも支配)の時代がながく続きます。その北条氏の出過ぎた執政に業を煮やして王政復古をとなえ行動をおこしたのが後醍醐天皇であり、その勅命にこたえて参集したのが、関東では足利尊氏であり新田義貞であり、畿内では楠木正成です。ところが北条氏をたおして鎌倉幕府を地上から葬り去ったものの、その後はそれぞれの野心や思惑がぞろぞろと顔をだし複雑にからみ合い、ついに足利尊氏の弟で好戦家の直義が、後醍醐天皇の皇子で行動家の護良親王(もりよししんのう)を殺してしまうところから、後醍醐天皇(のちの南朝)vs... Read More | Share it now!