城郭・史跡,岐阜

【岐阜県・郡上市 2024.7.21】青春18きっぷが使える季節になったので、かねてよりリストアップしていた郡上八幡城を訪ねることにしました。大阪市内を7時10分に出発して岐阜駅まで3時間、距離にすれば3/4を消化しているのでここまでは順調と言えます。ここから高山線に乗り換えるのですが、東海道線にくらべて便数が極端に減るためしばし待ち時間があります。その時間に岐阜駅前広場に出て織田信長の黄金像をスマホで撮影していたのですが、ここで内陸にある岐阜がいかに暑いかを実感。さて岐阜駅から多治見行に乗って美濃太田駅に着きましたが、ここからは私鉄の長良川鉄道に乗り換えるため青春18きっぷは使えません。1380円でチケットを買い車両に乗り込みますが、暑すぎるのか冷房があまり効かない。ワンマン電車なので運転士自ら応急処置として途中の駅で車両にホースで水をかける作業をはじめたものの水の勢いが弱すぎて屋根まで届かずこれも断念。全身に汗を浮かせながら1時間15分後に郡上八幡駅着。ここから市街地までは2kmほど、ぜんぜん歩ける距離ですが、あまりにも暑いので20分後に出るコミュニティバス(乗車賃100円均一)に乗り、13時25分やっとのこと郡上八幡城のふもとにたどり着きました。 郡上八幡城 山内一豊と妻の像... Read More | Share it now!

城郭・史跡,岡山

【岡山県・備前市 2024.7.4】月に1回程度のペースで倉敷市に私用で出向くのですが、往路は午前の早い時間についておく必要があるため新幹線で向かいます。ところがたいていの場合は正午過ぎには要件は片づくため、そのまままっすぐ自宅のある大阪へ戻るのももったいないような気がして、大抵は普通電車を乗り継いでどこか城なり社寺なりに寄り道することにしています。ただ今日は梅雨の晴れ間でなんとも蒸し暑いので、あまり長時間歩き回ると熱中症の心配もあります。そこで地図で確認しながら調べたところ、JRの山陽本線で倉敷から大阪方面へと向かい岡山県の東の端、その先は兵庫県との県境というところに三石城があるのですが、詳しく見ると最寄りの三石駅からは目と鼻の先であることがわかりました。標高291mの山上にある山城ということですが、すぐに山道に入れるのであれば木陰になり土の地面であれば放射熱もなく、さすがに快適ではないものの苦行のようなことはないはずです。 結果を先に言うことになりますが、ぜひ行きたいと探したのではなくどちらかと言うと消極的な理由でえらんだ三石城でしたが、訪ねてみるとこれがなかなかの収穫でした。 登山道をのぼる 三石城がある城山 JR三石駅から登山口(登城口)までは徒歩5分。かつて城が存在した山は、その山そのものが有名でないかぎり大抵は城山と名づけられており、ここも例外ではありません。 いきなり山登りになります 木陰で地面は土ゆえそれほど暑くはない 息つぎ井戸の札があるが、井戸の痕跡なし 岩が多いというのも山城をつくりやすい条件です 岩だらけの道をのぼる 見張り台からはいまは樹木に覆われ視界きかず 山肌が岩だらけでまるで播磨(播州)の山を登っているようなと思っていたのですが、考えてみるとすぐ東の先の県境をこえると備前から播磨へつながるのですから、地質が似ているのも当然でした。 樹間からわずかに見下ろせた このあたりは山登りにきたかのようです 三石城は南北朝時代に地元の豪族である伊藤某が南朝方に加勢し築いたのが始まりのようです。その伊藤某はここ三石城を拠点に西から京へと攻め寄せる北朝勢をくい止めるのに一役買ったそうですが、ここから20㎞ほど東にある播磨の感状山城では北朝方に加勢した赤松氏が、敗れていったんは九州へ落ちのびる足利尊氏の軍勢を援けるため、その感状山城で東から追撃してくる南朝勢をくい止めた歴史があります。 室町時代になり赤松氏が備前の守護職につくと、浦上氏が守護代として三石城に入城。その後山名氏の台頭により赤松氏が備前の守護の地位を奪われますが、応仁の乱のどさくさの中でふたたび守護職に復帰、同時に浦上氏も守護代に復帰します。しかし赤松氏の勢力には陰りが見えはじめており、下剋上をもくろむ浦上氏が反乱の狼煙をあげます。赤松氏は三石城を攻めますが落とせず、ついには浦上氏が備前の守護職につくことになります。 三石城の当時のイメージ図(本丸に立てられていた案内板より抜粋) イラストでいうとその右側から登ってきました。これから三ノ丸→二ノ丸→本丸→鶯丸とあるき、そこから堀沿いにくだって本丸の真下に描かれた大手門へと向かうことにします。※そのあとですが、大手門から下へ降りる道はどこへ抜けるのか不明なため、坂をのぼって三ノ丸まで戻り来た道をひき返しました。 三ノ丸から二ノ丸へ 三の丸へと登ってゆくと突然石垣が 三ノ丸隅にあったであろう矢倉台跡の石垣 三ノ丸下の馬場跡 三ノ丸外縁の土塁跡、外(右)側は切岸で急こう配にしてある 一段高くなった二ノ丸へ 二ノ丸... Read More | Share it now!

城郭・史跡,埼玉,福岡

【埼玉県・行田市 2024.5.25】埼玉県の北部、行田市に忍城(おしじょう)はあります。和田竜氏の小説「のぼうの城」の舞台になった城でもありますが、この小説は主人公の城主がたいへん個性的(のぼうとは、でくのぼうの略)に描かれている点を除けば、どこかコミカルなストーリながらなかなか史実には忠実に描かれています。※野村萬斎さんが主役を演じた映画は見ていないのでこちらとは比較できません。 忍城は利根川と荒川にはさまれた一帯に、自然の池や沼を活かし、さらに川から水をひいてあらたに堀をつくり、徹底して水を利用して防御をかためた、成田氏が室町時代につくりあげた独創的な城でした。室町から戦国時代にかけていくども攻められますが、いちども落城せず。圧巻は戦国時代末期、豊臣秀吉が関東平定(北条征伐)のため10万とも20万ともいわれる大軍で関東平野へと押寄せてきます。そのとき忍城は北条氏の出城のような役をになっており、城主・成田氏親(小説では成田長親)は城兵500に近在の農民を助っ人として3千ほどの人数で籠城していました。武士の数わずかに500なら捨ておけばよいようなものですが、景気づけの意味もあったのか、秀吉の命により石田三成が2万の軍勢を与えられ早速落としてしまう算段になります。(これといった武功のない文官あがりの三成に手柄をたてさせるため秀吉が発案したとも考えられます)三成は忍城が堀や沼にかこまれた難攻な城であることから、水攻めを採用します。一説では総延長28kmにおよぶ堤をつくったといいますが、これはずいぶん数値が水攻めだけに水増しされているようです。しかし近辺の土地の高低差とふたつの河川の水を利用して忍城を水でかこんだのは事実で、その様子は城がまるで水面に浮いていうようで「浮き城」と記録されています。しかし忍城は落ちません。とうとう主たる北条氏の小田原城がさきに落ちてしまい、主を失ったがために開城してこの水による攻城戦はおわります。 忍城 現在の地図上に当時の忍城の縄張をかさねた案内図 忍城については、その城の独創性、攻め側の総大将が石田三成であったこと、「のぼうの城」の舞台になったことなどから、訪ねる日を楽しみにしていたのですが、実際に来てみるとほとんどなにも残っておらず、トホホな思いだけでした。強いて言えば、近くにある観光案内所が親切で荷物を無料で預かってくれたこと、このあとにさほど期待せず訪れた埼玉古墳群が想定外に良かったこと、行田市にデザインマンホールがたくさんあったこと、これらで救われました。 本丸跡にたつ御三階櫓(復元?模擬?)と水堀 水堀... Read More | Share it now!

城郭・史跡,群馬

【群馬県・高崎市 2024.5.24】群馬県高崎市とはいっても市街地からはずれた旧群馬郡箕郷町に、箕輪城址はあります。箕輪城ですが、関東管領・上杉氏の家臣であった長野業政(なりまさ)によりつくられた城のようです。業政は相模から勢力を拡大する北条氏が台頭し上杉氏の威勢が衰えてくると、西上野(こうずけ)の領主としての矜持を保つかのごとく孤軍となっても勢い盛んな北条氏に抵抗しつづけます。すると西からは武田信玄が迫ってきます。ところがあの信玄さえも攻めあぐね幾度も仕切り直しすることになります。それほど抵抗が続けられたのはなんといっても箕輪城の堅い守り、そして長野業政の武勇と武略のたまものだったのでしょう。それを(皮肉にも)証すかのように、業政が死ぬと城内ではその死を秘匿していたにもかかわらず武田軍は得意の諜報で事実をつかみ、周辺の調略もあわせてひたひたと侵攻し、ついには難攻不落といわれた箕輪城を落としてしまいます。この箕輪城、険峻な山上にあるわけでもなく、こんもり盛り上がった丘状にあるいわゆる平山城です。なぜそれほど難攻不落なのか、訪ねてみることにしました。 大堀切 駐車場にあった案内板から抜粋 搦手馬出をぬけて登城します 両側の土塁がくずれていますが、堀底を歩いています。 木俣曲輪あたり 大堀切にまもられた郭馬出... Read More | Share it now!

城郭・史跡,栃木

【栃木県・佐野市 2024.5.23】栃木県の南西部に佐野市があり、そこに唐沢山城はあります。室町~戦国時代の地理でいうと、太平洋側の相模と日本海側の越後の中間点あたりに位置します。この地理的条件が佐野の地、すなわち唐沢山城の運命を翻弄することになります。そしてその激震する時代をなんとか綱渡りのように乗り切ったのが、佐野家15代当主の佐野昌綱です。戦国時代初期のちに北条早雲とよばれる伊勢宗瑞が伊豆・相模を領有します。その息子である2代目氏綱、さらに孫にあたる3代目氏康ともに勢力拡大につとめ、ついには鎌倉から関東一帯を席巻してゆきます。当時の関東管領を世襲していたのは上杉氏ですが、とうてい北条氏の侵略を食い止めることはできず、そのころ越後において百戦百勝、軍神とさえ畏怖されていた長尾景虎に支援を求めます。現実には支援を求めるという以上に、景虎を上杉家の養子とし関東管領職を譲り渡し、ここに景虎は関東管領・上杉景虎(のちの上杉謙信)をなのり、その威名によって一説には坂東武者10万を糾合、南から浸食してくる北条氏を撃退します。この戦においては佐野昌綱はほかの坂東武者同様に上杉景虎に従っています。 唐沢山城・西城 くい違い虎口 現地の案内板より抜粋... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,栃木

【栃木県・足利市 2024.5.21】室町から戦国時代を掘りさげた歴史書や歴史小説を読んでいると、下野国(しもつけのくに)にあった足利学校のことがちょくちょく登場します。当時の最高学府だったそうですが、小説だけでなく歴史書でさえ話を面白くするためか軍師を育成する学校として描かれ、なかでも出自のはっきりしない山本勘助がここで学び、武田信玄に軍師として仕えたと設定するものもあります。しかし史実としてわかっている範囲では、山本勘助は浪人ののち(足利学校にはまったく縁がない)武田家に仕え、武勇はすぐれており手柄もたて侍大将のひとりに取り立てられたようですが、軍略をたてて信玄に具申するほどの人物だったのかとなると疑問です。むしろ緻密とは反対に勘(かん)にたよって一か八かの行動をとるところがあり、そこから山本勘助➡山勘(やまかん)という言葉がうまれたとする説もあります。足利学校の創設は鎌倉時代と言われていますが、その存在が世間に知られるようになったのは1430年ごろ関東管領・上杉憲実(のりざね)が足利の地に腰をすえ復興に尽力したことによります。それゆえ足利学校の名は足利氏がつくった学校ではなく、足利氏発祥の地にあった学校ゆえといえます。※上杉憲実の5代ほど前の上杉某の娘が足利家に嫁ぎ足利尊氏の母となっており、その尊氏は上杉憲実のちょうど1世前を生きていました。※のちに上杉と姓をあらため関東管領職につく長尾景虎(のちの上杉謙信)は憲実のちょうど1世紀あとを生きています。 足利学校 入徳門の奥にある学校門 学校門から入ると杏壇門 杏壇門から孔子廟をみる... Read More | Share it now!

城郭・史跡,徳島

【徳島市 2024.5.11】秀吉の出自はあきらかでなく、若いころに百姓家をとびだして針を売る行商をやっていたとの説もあります。そのころ蜂須賀小六(のちの正勝)に出合います。この小六は野盗の親分で、仕事柄(?)迅速にうごきまわり情報を集める術にも長けており、秀吉は小六の野盗集団を核にして独自の諜報網をつくったとも言われています。あるいは小六は木曽川での輸送を支配する川並衆だったとの説もあり、秀吉は小六がひきいる川並衆の協力を得て墨俣に一夜で城を築いた(墨俣一夜城)と言われています。どれも興味深い話ですが、いまではすべて「興味深い話」を後世に伝えるために創作したものと考えられています。しかし秀吉がやっと武士として歩きはじめた当初から、蜂須賀小六がその歩程に寄り添っていたのは確かです。秀吉は天下人へと歩みつづけるなか四国平定に先立ち、いままでの働きに感謝して正勝(小六)に阿波の国を与えると約束します。しかし正勝はそのときすでに高齢で隠居の身であり、むしろ秀吉のそばで仕えることを望みます。そこで阿波の国は正勝の嫡男であり蜂須賀家の家督をつぐ家政にあたえられます。その家政ですが、親は親と割り切っていたのか、あるいはよほど石田三成を嫌っていたのか、秀吉の死後(父・正勝はずっと前に亡くなっている)は徳川家康に臣従し、関ヶ原でも大坂の陣でも東軍として奮戦し、その功でもって阿波に淡路をくわえた25万7千石の大名として君臨します。その蜂須賀家政がとうしょ内陸の一宮城にはいり、その後治世のやりやすさを考えてあらたに築いたのが徳島城です。 平城 城山... Read More | Share it now!

城郭・史跡,徳島

【徳島市・2024.5.10】徳島市の中心街から10㎞ほど西すなわち内陸に入った郊外の地に一宮城はあります。すでに南北朝時代には当地の土豪であった一宮氏によりつくられていたようで、やがて三好氏が阿波を支配するようになると、一宮氏は三好氏に臣従しこの城を拠点として周囲ににらみを利かせます。ずいぶん難攻不落の堅城だったようで、四国制覇をもくろむ長曾我部氏が阿波へと進行してきた際にもしぶとく抵抗したようです。またその長曾我部氏が城主となりその後秀吉の四国平定のさいには数万の軍勢で攻め立てられますが、この際にもしぶとく奮戦します。しかし軍勢の数で圧倒する秀吉の軍の前にやがて落城。秀吉は阿波の国に蜂須賀氏を配します。その蜂須賀氏は堅城ではあるものの一国を統治するには不便なこの城をはなれ徳島城にうつります。そして家臣の益田某に一宮城は任せることになります。いま残る曲輪や竪堀、土塁は南北朝から戦国時代の遺構と思われますが、石垣に関してはすべて蜂須賀氏時代のものと考えられています。 一宮城へ 北東側から一宮城がのこる山並みをみる このあたり四国御遍路のため地蔵石仏多数あり 麓に鎮座する一宮神社 神社のむかいに登城口がある 赤文字の現在地から時計まわりりに回ります 蜂須賀氏が徳島城を居城としてから、その防御として周囲をかこむように九つの支城を築きます。それが俗に阿波九城と呼ばれるものですが、調べたかぎりではこの一宮城が規模が大きいだけでなく、もっともよく遺構がのこっており、ぜひ訪ねてみたい城としてピックアップしていました。 南城 整備された階段をのぼります 竪堀跡 曲輪跡 右側はいかにも手を加えた様子 三方を崖でかこんだ鉄壁の防御 堀切の底を歩いてゆく、ここも攻めにくそう 才蔵丸の曲輪 門跡... Read More | Share it now!