狭山池から西高野街道~天野街道をあるいて金剛寺へ

【大阪狭山市~河内長野市 2026.2.17】
今日訪ねる寺院は天野山金剛寺、これは「天野山あるいは天野と呼ばれる土地を母体とする金剛寺という名前の寺」という意味で、天野山が山号、金剛寺が寺号と区別されます。
それゆえ見えるところに聳えているものの金剛山とはなんら関係はありません。
空海を宗祖とする真言宗の寺ゆえ、金剛石(ダイヤモンド)のように固く、あらゆる煩悩を打砕く悟りの力、そんな力強い意味を込めて名付けられたのでしょうか。

※一方の金剛山ですがもとは葛城山系の一峰だったものの、山頂に建てられた寺が「金剛山(山号)転法輪寺(寺号)」ということで、いつしか金剛山と呼ばれるようになったとか。ではなぜ転法輪寺の山号が金剛山なのかと問われると正確なところはわからないのですが、この寺は修験道を興した山岳修行者である役小角えんのおづぬが開祖となっているので、きっと山号にはなにがなんでも金剛をもってきたかったのではないでしょうか。

さて「金剛」のはなしは置いとくとして、さっそく出発しましょう。

「タウン・ドゥ 地域観光案内」のサイトより抜粋

金剛寺までの道程ですが、この日は2月とは思えない穏やかな日和だったのでハイキング気分ですこし長めに歩くよう企画しました。
南海電車・金剛駅から歩きはじめ、狭山池を周回して西高野街道へ、つづいて天野街道に分岐して大和葛城山、金剛山を左に見ながら金剛寺をめざします。

狭山池周回

狭山池周回路をあるく
途中の水面上につくられた展望所
最初の写真で見えた白いビルがこの位置に

西高野街道

ここで西高野街道に合流する
西高野街道はいまの堺市役所あたりから高野山へと向かう旧街道ですが、むかしの面影はほとんど残っていません

天野街道

左へすすむと西高野街道から高野街道へ
右に進むとやがて天野街道の起点に着きます
ここから天野街道

天野街道は小高い尾根道を歩きますが、山深いとは言い難いため木立の隙間から下界の建物が丸見えです。
しかし道は整備されており、登山とかアスレチックを目的とするのでなければ心地よい散歩を楽しめます。

左が大和葛城山、右が金剛山
山深く、ありません
やがて農道に出てきます
前方に大和葛城山と金剛山
田園風景のなかを進み、
途中に立ち寄った青賀原神社
ここまで来るとまもなく到着です
前方の山は方角からして岩湧山、槇尾山

金剛寺

「金剛」について記しておきます。
金剛石とはダイヤモンドのことですが、一般にはきわめて堅固なものを指して言い、転じて仏教では何物にも壊されない強い力(たとえば金剛心)あるいはあらゆる煩悩を砕く悟りを意味します。
もっとも、先ず仏教用語で金剛という辞がつかわれ、転じて一般のきわめて堅固なものを指すようになり、そこからもっとも固い物質であるダイヤモンドを金剛石と呼ぶようになったとみるべきでしょう。
たとえば大阪市内に金剛組という西暦578年創業の世界最古の企業がありますが、この金剛組は聖徳太子が四天王寺を建立するさい朝鮮から宮大工を招聘したところ、そのうちの一人が金剛〇〇という名前だったことから金剛組として創業したと紹介されています。
すなわち6世紀にはすでに金剛という辞は存在したのであり、古代の人の名字はそのひとの職業や役職をあらわすのが慣習だったので、宮大工=仏教にかかわり仏寺を建てる人と考えると、この時点で金剛がすでに仏教上の言辞であったことが推測されます。

金剛は仏教用語と言いましたが、真言宗(真言密教)においては特別に大切であり重要な言辞であったようです。
たとえば真言宗では密教の悟りの世界を視覚化した曼荼羅が有名ですが、これには大日如来の慈悲の世界を母胎のように包みこんで表わす胎蔵界曼荼羅と、大日如来の智慧(真理を見きわめ悟りへと導く力)がいかに堅固であるかをあらわす金剛界曼荼羅があります。
あるいは真言密教には金剛杵こんごうしょという仏具があり、行者は煩悩を打ち砕くため常にこれを手にして修行に励んでいました。

空海上人が高野山に建立した真言宗の総本山は金剛峯寺ですが、この寺号の金剛はこの堅固な力あるいは堅固な悟りをあらわす金剛からつけられた、のであればこれにて金剛についての説明は終了だったのですが、調べてみると実はそうではないようなのです。

総門 / 日差しの関係で寺内側から撮影しています
寺領内をあるく / この道も天野街道の続きだそうです
楼門 / やはり日差しの関係で内側から撮影
金堂と鐘楼(右奥)
多宝塔 / 楼門、金堂、鐘楼、多宝塔すべて重要文化財に指定。
金剛寺には他にも重要文化財に指定された堂宇、国宝に指定された仏像、絵画など多数あります

金剛寺の歴史をいえば、関西ではやたらに登場する行基上人が奈良時代に建立(と伝わる)。
平安時代に荒廃していたとき高野山で修行をつむ僧・阿観が夢告をうけて訪れ、後白河天皇と妹の八条院の篤い帰依をうけて再興につとめます。
その後、八条院の侍女ら女性が4代続けて(尼僧となって)住職を務めたことから女人禁制の高野山にたいして女人も参拝できることから女人高野と呼ばれるようになります。

摩尼院(門の向こうの三角屋根の建物)

歴史好きの方にとってそれ以上に興味深いのは、南北朝時代に金剛寺の子院である摩尼院が南朝の後村上天皇の行宮(あんぐう:天皇が出先でつかう仮の御所)だったことではないでしょうか。
もとは南朝のために命をささげた楠木正成がこの金剛寺で戦勝祈願をしていたことによります。

もっとも金剛寺にとっては有難いことではなかったかもしれません。南朝が消滅してからは南朝勢力にたいする負担から解放され、そののち寺は財政的にゆとりができて最盛期を迎えることになります。

観蔵院の庭園と客殿(左)、奥殿(右奥)

さらに驚くべきことには、南朝の後村上天皇が摩尼院を行宮としていたのと同じ時期に、3年間にわたって金剛寺のおなじく子院である観蔵院の奥殿に、北朝の上皇や親王が幽閉されていた史実があります。
こんな寺、日本史のどこを探しても他にはありません。

さいごに「金剛」についてふたたび、いえ三たび。
金剛峯寺という名称は弘法大師(空海上人)が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう』というお経から名付けたと、当の金剛峯寺の公式サイトに書かれています。
そうなると『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』なるお経がいかなるものなのか気になるのは(宗教に興味がなくても)歴史ファンとして当然のこと。そこで公式サイト内をあちこち探してみたのですが、まったく関連した記述がありません。

それではと『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』と入力して検索してみたところ、「胎蔵・金剛両曼荼羅の真髄を説く」とか「最重要な経典」とかなんとも要領を得ない。さらに調べると「きわめて難解な経典」さらには「理解するのが難しいため読む人が少ない」などと書かれている始末。
どうやら金剛にはあらゆる人の興味や関心をはね返す晦渋難解な教え、という意味もあるのでしょう。

【アクセス】南海・金剛駅~狭山池~西高野街道~天野街道~金剛寺~近鉄・河内長野駅 / 32000歩、6時間20分
【拝観料】金剛寺・伽藍と本坊セット500円
【満足度】★★★★☆