紀州根来寺に、訳あって満開直前の桜を見にゆく
【和歌山県・岩出市 2022.4.2】
「日本さくら名所100選」なるものがあります。
日本さくらの会という組織が選出したものだそうですが、まったくご当地への忖度なしに100名所を選んだとは言い切れません。しかし今まで多くの土地に(桜の)花見にいった内で、この100選に入っている名所でハズレはありませんでした。
ですから近年は、花見の季節になるとまず「日本さくら名所100選」を参考にしています。
さて今年は、和歌山県の根来寺と、滋賀県の豊公園(長浜城)をリストアップしました。
「さくらの見頃情報」によると、今週末は、根来寺の桜は満開前、豊公園は三分咲き。
来週末になると、根来寺はすでに週半ばに満開、豊公園はちょうど満開とのこと。
そこで今週末に根来寺へ、来週末は豊公園へ桜を見にゆくことにしました。
バス停から根来寺へ
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JR和泉砂川駅からのバスを根来寺にもっとも近い岩出図書館前で下りると、この見事な桜並木が迎えてくれます。
ここから根来寺まで歩きますが、すぐそこと言う距離です。
根来寺・大門
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桜道をあるく
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光明殿
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光明殿は正式には「常光明真言殿」といいます。この根来寺を興した覚鑁(かくばん)上人を本尊としています。
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平安時代後期、高野山で修行する僧で空海の再来ともいわれた覚鑁は、鳥羽上皇の庇護のもと高野山内に大伝法院、密厳院を建立し、大きな力を持つことになります。
その当時高野山はすっかり堕落していました。
そこで覚鑁は空海の教えにたちもどり高野山の復興に努めるのですが、反対派(すなわち、その堕落したのを良しとする)僧たちの抵抗にあい、覚鑁一門の寺院が焼き討ちにあいます。
ついに覚鑁は一門衆をつれて高野山を下り、この地にあらたに寺院を建てます。
それが根来寺のはじまりです。
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覚鑁上人が亡くなったあとも宗徒をあつめ寺領を拡大し、室町時代末期すなわち戦国時代には一大宗教都市へと発展します。この当時の根来寺の寺領は72万石に相当したそうです。
ちなみに1石は成人ひとりが一年間にたべる米の量であり、のちには成人ひとりが1年間生活できる糧量とみなされるようになります。すなわち根来寺の寺領だけで72万人を養えたことになります。
このころ織田勢の出世頭である明智光秀や羽柴秀吉の自領が、1国半とか2国与えられ30万とか40万石なので、比較するとそのすごさがわかります。
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すこし歩くと、本堂にそうとうする大伝法院につきます。
覚鑁の没後、高野山の大伝法院から寺籍をこちらへ移し、それをもってこの地が大伝法院の本家となります。
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根来衆とはこの根来寺の周辺に居住した僧兵軍団(寺の用心棒みたいなもの)のことで、最盛期には1万人を擁したそうです。
信長・秀吉の時代で、傘下の大名は1万石にたいしておよそ300人程度の兵をかかえていたようなので、根来寺寺領72万石であれば計算上は2万人の兵をかかえられることになります。ですから1万人は余裕のはずで、その余裕分で鉄砲(当時の火縄銃)を大量にそろえることができたのかもしれません。
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根来衆は信長とは友好関係にあり、石山(大坂)本願寺の戦いにも協力しています。
根来寺が真言宗であり、そのころ信長が苦戦を強いられていた石山本願寺が浄土真宗であって宗教対立もあったかもしれません。おそらくは信長が宗教上の対立をあおり、傭兵として雇ったものとおもいます。
桜見物のはずが、すっかり生臭い話になってしまいました。
それにしても桜と言い、寺院と言い、たいへん見ごたえありました。
【アクセス】JR和泉砂川駅よりバス、岩出図書館前下車、徒歩すぐ
【拝観料】根来寺 500円
【満足度】★★★★★