【京都市 2026.3.28 &... Read More | Share it now!
逢坂の関から音羽山へ、たまには和歌に親しみながら
【滋賀県・大津市 2026.3.24】逢坂の地名は全国にいくつもあります。いまでは「おうさか」と呼ばれていますが、古代には人と人がその坂で出会うことから「あふさか」だったと言われています。百人一首、と書きかけたところでついでに言っておきます。小倉おぐら百人一首は、鎌倉時代に藤原定家が京都嵐山の後背に位置し保津峡を北に見る小倉山の山荘で、そもそもが天皇の勅命で編纂された数々の勅撰和歌集(古今和歌集など)から厳選して、百人の各一首をまとめたものです。(ちなみに小倉餡おぐらあんは、この小倉山で栽培された小豆からつくった餡ゆえに命名されたそうです。) 「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂あふさかの関」これは百人一首10番、作者は蝉丸。「ああこれが、京から出てゆく人も帰ってくる人も、知っている人も知らない人も、出合いまた別れる、逢坂の関なのか」蝉丸は盲目の琵琶法師だったそうですから、私にはなぜ逢坂での人の往来を見たかのように認識できたのかという疑問が出てくるのですが、逢坂の関はすでに歌枕になっており、逢坂の関とくればこんな情景と定義づけられていたと理解すべきなのでしょう。またこの歌は視覚的に人の往来を詠んだだけでなく、人には出会いもあれば別れもある、人と人が出会えば必ず別れもあると、平家物語でいう「祇園精舎の鐘の声... Read More | Share it now!
小野小町は乞食老婆となって野垂れ死んだ?
【京都市 2026.3.5】小野小町は世界三大美人のひとりとされています。クレオパトラ、楊貴妃、そして小野小町。クレオパトラは紀元前の古代エジプトの人、楊貴妃は8世紀の中国(唐)の人、小野小町は9世紀の平安京の人。地理的にも時代的にもこれだけ見るだけで、なんだか怪しい説との見当はつくでしょう。 しかし小野小町が美しい女性であったことは、写真はもちろん当時の肖像画も残ってはいないものの、どうやら確かだったようです。多くの男性に言い寄られたという事実から美なのか艶なのか男が喜ぶような魅力があったことはわかるし、歌人としての優れた才能からその魅力が官能的なものではなく、おそらくは凛とした美しさだったと想像されたのではないでしょうか。 ところがその小野小町、没年齢がはっきりしていません。60代と伝えるものもあれば、70代、80代、90代、ついには100歳没説まであります。没年齢だけでなく、没地もはっきりしません。小野小町の墓でしらべると、東北から本州最西端の下関まで20ヶ所ほどの「候補地」が見つかります。 おそらくは後半生があまりにもはっきりしないため、ここから謎が謎をよんだのか創作が創作をまねいたのか、老いた小野小町は乞食然の落魄した姿で諸国を放浪しついには路傍で野垂れ死にした、さらにはその骸骨(頭蓋骨)の眼窩からススキが生えてきたといった怪談めいた話まで残されます。 補陀洛寺(小町寺) 一般道の歩道から いきなり急階段をのぼりますそれだけ境内が手狭ということでもあります 補陀洛寺の境内にたつ十三本檜1本の根元から13本の幹が出ているとのことですが、何度数え直しても10本しかありませんでした。これも怪奇のひとつ? 小野小町姿見の井戸 あなめのススキ眼窩からススキが生えて、穴目のススキ? 補陀洛寺は(このあたりの伝承では)小野小町の終焉の地とされています。堂内には「小野小町老衰像」(90歳ごろの像とか)が祀られているそうですが、拝観するには予約が必要です。わたしはサイトの画像で十分満足したので予約見学はしていません。 ところで乞食をしながら諸国を放浪したとか路傍で野垂れ死にしたと伝えるかと思えば、ここでは平安京はずれの寺で没したとか、それにもかかわらず頭蓋骨の眼窩からススキが生えるとか。どうやらこの話は、胡散臭い。 中央後方が小野小町供養塔左は深草少将通魂碑 深草少将は小野小町に熱心に愛の告白をします。ところが小野小町はそれを煩わしく思い、テキトーにあしらうために私のもとへ百夜通えばその愛に応えようと告げます。深草少将は九十九夜までは通い続けるのですが、いよいよ最後の日になって雪降る中で行き倒れになってしまいます。じつはこれ、能作者たちが創作した『百夜通いももやがよい』というつくり話で、実話ではありません。 補陀洛寺をあとにして 川沿いに岩倉へとあるく 次の目的地である随身院は電車を乗り継いで醍醐あたりまで行かねばなりません。せっかく叡山鉄道沿いのこの地を訪れながら、補陀洛寺ひとつで立ち去るのはなんとも物足りない。ということで、岩倉の一角にある圓通寺を訪ねるべく叡山鉄道沿いでもあり川沿いでもある道をのんびり歩くことにします。とは言いましたが、ここで圓通寺に話題が移ったのではテレビドラマを見ていたら途中でいきなり他の番宣が入るようなものでしょうから、圓通寺は後回しにしてブログは隨心院へとつづけます。 随身院 総門から 長屋門から庫裡をみる 庭園 期間限定の花の間きれいですが、ぜんぶ造花です 堂宇がならぶ境内への正門 このあたりに小野小町が晩年を過ごした居住家があったとつたわる 小野小町化粧井戸 路傍で野垂れ死にから、補陀洛寺では寺院が終焉の地となり、随身院では専用の井戸もある家で暮らす生活に昇格しています。なんじゃこりゃ、といったところでしょうか。随身院には「卒塔婆小町像」が祀られています。こちらは拝観料をはらって堂内にはいればいつでも拝観できます。(写真撮影は禁止) 能のなかに「卒塔婆小町」という物語があります。高野山の僧があるとき卒塔婆(墓石に後ろに立てる戒名などを書いた板)にすわる乞食老婆を見かけます。話をしたところずいぶん教養豊かで、その素性を問うて小野小町の成れの果てだとわかります。さらには過去の栄華を語るうちに、熱愛された深草少将に冷たくあたり深草が雪のなかで凍死したことを告白するうちに怨霊に取りつかれついには狂乱しはじめます。最期は怨霊から解放され悟りの世界へ向かうというストーリーですが、これは先に書いた『百夜通い』の続きであることは明白です。 小野小町の文塚 この文塚は、小野小町が男達からもらった恋文(ラブレター)を大切にとって置いたものを埋めたと伝わっています。自分に思いを寄せた男性たちの気持ちがこもった文を捨てたり焼いたりするのは罪だと感じて大切に残しておいたということです。 随身院につたわる小野小町の晩年の姿が真実であるのかどうかはわかりません。しかし能の題材につかわれ、墓の候補地が20ヶ所もある乞食老婆とする話の方がどう考えても不自然です。もしかすると、小野小町はクレオパトラや楊貴妃に劣らぬほどに美しく、それだけ羨望もされれば嫉妬もされたのかもしれません。 圓通寺 圓通寺近くの道端からみる比叡山 時間を巻き戻して、圓通寺へ向かう道にもどります。ここで比叡山の写真を掲載したのには理由があります。圓通寺の庭園は比叡山を借景にしています。それゆえ雲で山が見えないのでは訪ねてゆく意味がなくなります。 ここがもとの正門? 境内に入ります 枯山水庭園と比叡山堂内は一切撮禁止 【アクセス】叡山鉄道・市原駅~補陀洛寺~圓通寺~木野駅... Read More | Share it now!
京都東山を、登って歩いて探して登る
【京都市 2026.2.10】京都東山というと、清水寺や高台寺、八坂神社や二年坂など多数の人気観光スポットが集まる地区の名といまでは思われていますが、そもそもは京の都... Read More | Share it now!
琵琶湖疏水に沿って大津から蹴上へと歩いてみた
【滋賀県大津市~京都市 2026.1.2】新年があけて早々に出かけるとなると一般には初詣か初売りになるのでしょうか。しかし年じゅう社寺を歩き回っている私にとっては初詣は蛇足のようなもの、また物欲が枯れてきている身では初売りなんぞまったく興味がない。さらに両者ともに混雑は目に見えており、人混みの苦手な私にとっては苦役にすら思える始末。 ということで本来なら人のすくない山へ登山にゆくのですが、今年は2週間後に心臓のCT検査を控えている身ゆえ無理をするわけにもいかない。ではどうしようかと考えて、昨秋探索した琵琶湖の水運から思案がすすみ琵琶湖疏水を散策しようと決まりました。 途中にあった案内板(琵琶湖疏水ウォーキングマップ)より抜粋 大津・第一疏水 第一疏水取水口琵琶湖の水を疏水にひきこむ取水口ここが琵琶湖疏水の起点になります 第一疏水取水口... Read More | Share it now!
京都・鹿ヶ谷から二条城へと、狩りをしない紅葉狩り
【京都市 2025.12.1】「紅葉狩り / もみじがり」の言葉の由来は、「野山に分け入って自然の恵みを探し求める =... Read More | Share it now!
明智光秀が本能寺へと向かうのに、唐櫃越えを通った?
【京都府・亀岡市 2025.10.13】まず亀岡市の所在について、関西在住以外の方にはピンとこないかもしれませんので述べておきます。亀岡市は京都市の西隣にあります。紅葉時期の京都観光でひときわ人気の保津峡下りはこの亀岡市からスタートして京都市の嵐山がゴールとなります。歴史好きの方に対してなら、明智光秀が居城とし織田信長を討つため本能寺にむけて出発した丹波亀山城のあるところといえば、より興味を持っていただけるでしょうか。明智光秀とその軍勢が本能寺へひたひたと進んだのは旧山陰道ですが、その北側の山系の尾根をむすぶように通じる間道があります。距離的には長くはありません。亀岡市の東寄り(馬堀)から京都市の西寄り(桂)まで11kmほど。この道を「唐櫃越えからとごえ」と呼びます。 唐櫃とは、唐からつたわった脚のついた櫃ひつのことです。話は歴史をずっとさかのぼりますが、西暦4世紀ごろ朝鮮半島(三韓)を征伐したとされる神功じんぐう皇后が帰国したさいに、武器や武具とともに黄金の鶏を唐櫃にいれて埋めたとの伝承があります。ではこの地がその唐櫃が埋められた地なのかというと、そうではありません。唐櫃という地名は西日本に何ヶ所かあります。そのなかで兵庫県の六甲山の山中にも唐櫃という地名があり、そこを通る道を唐櫃道とよびます。その六甲山の唐櫃道を越える(より険しい道の意か?)ゆえに「唐櫃越え」と名づけられたのだとか... Read More | Share it now!
日吉大社は延暦寺の守護社となって泣いてないか
【滋賀県・大津市 2025.2.9】関西以外の土地に住んでいる方でも大抵は比叡山・延暦寺はご存じでしょうが、日吉大社となるとどれぐらい知られているのでしょうか。では関西の方で延暦寺と日吉大社の関係をご存じの方はどれほどいるのでしょうか。正解は、日吉大社に祀られる大山咋神おおやまくいのかみが地主神(この場合は比叡山の地主神)であり、そこから日吉大社が延暦寺の守護社となっています。もうひとつ質問です。平安時代に延暦寺の僧兵(山法師)が自らの要求を認めさすために強訴をくりかえし、当時の白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話は有名ですが、その強訴のさい山法師が脅しとして振りまわした神輿はどこから出てきたものかご存じでしょうか。正解は日吉大社の神輿であり、けっして延暦寺の仏具を持ち出して振りまわしたり乱暴に扱うことはありませんでした。以上のことを考えたとき、延暦寺にとっては日吉大社は守護社というよりも利用するには便利な存在であり、日吉大社にとっての延暦寺はただただ厄介者でしかなかったのではないか、と思えてきませんか? 鳥居をくぐり日吉大社へ JR比叡山坂本駅から歩く 生源寺内にある最澄の産湯を汲んだ井戸(そう伝わっているだけで確証はありません) 大鳥居... Read More | Share it now!
焼酎、京都、デビットボウイといえば、正伝寺
【京都市 2025.1.29】焼酎の話です。戦後の高度成長とともにウィスキーをはじめとしたいわゆる洋酒が庶民の間に浸透しはじめると、日本在来の酒なかでも焼酎は急速に遠ざけられてゆきます。当時は焼酎といえば一升瓶で売られコップや湯呑みに瓶からじかに満たしてちびちびと飲むイメージ、豊かさからカッコよさを求めはじめた時代に、これでは消費者からそっぽを向かれてしまいます。 京都発祥の宝酒造(現・宝ホールディングス)は日本酒・松竹梅こそ石原裕次郎をCMに起用し存在感を示していましたが、創業以来の主力商品である宝焼酎の売り上げは低迷をつづけ、打開策を打ち出すことが喫緊の課題となっていました。ならばオシャレに飲む... Read More | Share it now!
幕末京都の新選組を見てあるく
【京都市 2024.12.31】幕末から明治維新への時代の推移とは、そもそも徳川幕府の力が衰え国政をになうことが覚束なくなってきたことから、幕府の老中・安藤信正がすすめた幕府と朝廷が融和して国政を行おうとする公武合体の動きに端を発します。これに対して薩摩藩の島津久光はおなじ公武合体でも朝廷と幕府に雄藩もくわわる新バージョンを提唱。ところが尊王思想にどっぷり浸かった勤皇派(とくに長州藩)にとっては朝廷・天皇と幕府・将軍を同格に据えるとはもってのほか。さらに当初は尊王とは攘夷の考え方が主流であったため幕府が外国に対して媚びへつらう(かのような)姿勢を目の当たりにして怒りが爆発。ついに長州藩を中心とした勤皇派が倒幕派となって暴走をはじめます。それに対して幕府と関係のつよい会津藩や桑名藩は佐幕派となって対抗、刃傷沙汰がついには市街戦へと拡大してゆきます。※ひとくちに攘夷といっても戦争をしてでも外国を追い払おうとする先鋭的もの、相手有利の一方的な条約は破棄するといった穏便なもの、その考え方はさまざまでした。※佐幕派には尊王思想はなかったのかというとそうではなく、勤皇派のように明確に打ち出していないだけで当時は多かれ少なかれ日本人はみな尊王思想が基本にありました。そんな中で、主義あるいは思想として幕府をまもろうとしたのか、攘夷だとか開国だとか少しでもアタマのなかにあったのか、なんとも疑問だらけの、そして得体のしれない存在として歴史にのこるのが新選組です。 <今回は歩いた順ではなく、話が分かりやすいよう画像を並べ替えています> 京都 JR京都駅前 大晦日であればさすがに京都市内も混雑はなかろうと考え、あえて今日出向きました。自宅から京都へ向かうときはおおむね京阪電車をつかいます。それゆえJR京都駅前を正面から見る機会はあまりないので比較ができませんが、少なくとも混雑の様子はありません。 壬生・島原 当時のものが今ものこる花街島原の大門 輪違屋... Read More | Share it now!