【愛知県・新城市 2026.4.16】新城しんしろ市は愛知県の中西部、浜名湖の北端のさらに北に静岡県との県境に接してあります。その地にもともとあったのが古宮ふるみや城。よくよく地図を見ていると、いかにも三河・遠江の徳川氏と甲斐・信濃の武田氏がぶつかり合いそうな場所にあります。歴史的に見るとまさにそのまんま。もとは三河を攻略するために武田信玄が重臣の馬場信春に築城させたもの。古宮城をふくめこのあたり一帯を治めていた奥平定能・信昌父子はもとをたどると徳川の傘下にあった豪族で、信玄の威光で武田家に臣従。ところが信玄の急死を契機に武田氏に見切りをつけ信昌が家康の長女を正室として娶ることで徳川氏に帰参。それを知った信玄のあとをつぐ武田勝頼は憤怒も加わって一気にこの地に攻め入り古宮城も奪還。勝頼はさらに信玄の急死の混乱に乗じて徳川氏にうばわれた長篠城をも奪還にむかうものの、徳川氏に信長みずから率いる織田軍が加勢したことで惨敗。その後は武田氏の勢力が急速に弱まり、徳川氏と争うこともなくなったために城としての存在価値が失われてゆきます。その後はブログのタイトル通り奥平信昌は新城城しんしろじょうをつくってそこを居城とします。 古宮城 古宮城はこの独立した丘陵にあります この丘陵は東西200m×南北150m、比高差25mとのこと。丘陵をおおう樹林の中に足を踏み入れるとわかりますが、丘陵そのものが端から端まで上から下まですべて城郭です。 丘陵の周囲は盆地内でもっとも低い場所にあたり当時はぐるりと沼地だったそうで、そのまま天然の防御となっていました。 現地にあった案内図より この丘陵は個人の方の私有地で、ご本人の了解があってこそ見学できるというものです。出入りは白鳥神社横から、丘陵(城郭)内の立ち入り禁止場所には足を踏み入れない、それらを厳守して見学します。余計なことは考えず、この案内図のとおり推奨ルートに従って歩きました。 南側をあるいて西曲輪へ 歩き始めるとすぐに道が回り込む、この造りも防御を考えてのことでしょう。道の右側が土塁で一段高く盛られていることにも注意。 比高差25ⅿとはいえ上から矢を射かけられると攻めづらい 大小の堀が各所にあります 一段上になったところが主郭 大堀切 西曲輪... Read More | Share it now!
長篠城をたずねて武田勝頼の苦悩に思いを馳せる
【愛知県・新城市 2026.4.15】信玄亡きあと、跡継ぎの武田勝頼は憑かれたように戦さをくりかえし勢力拡大をはかります。結果として武田家の領土は勝頼の時代に最大版図に達しますが、それは勝頼が亡き父・信玄を越えるために、まるで最大版図を築くことが信玄を越えたことの証明とでもいうように、無理に無理をかさねた進攻進撃によってなされ得たものでした。天正3年(1575年)5月、信玄が倒れた際の混乱にまぎれて家康に奪われていた長篠城を奪還すべく、勝頼率いる1万5千の武田軍が城を包囲します。これが長篠の戦いの発端ですが、この時点では長篠城の戦いと呼ぶべきでしょう。一方の家康ですが、武田軍の西進の報をうけ即座に同盟相手の信長に救援をもとめます。一説では柵(馬防柵)を瞬時につくるため、織田軍の兵は丸太を一本づつ抱えて救援に駆けつけたとされていますが、これはウソでしょう。重荷を背負って歩けば到着するまでに体力を使い果たしてしまいます。そもそも長篠城のある地は山も多く、木材の確保に困ることもありません。おそらくは織田方の作戦参謀(信長自身かもしれない)が柵をつくって武田の騎馬隊の突撃を防ぐ策を考案し、急使をおくって織田軍が到着するまでに丸太を大量に用意しておくよう指示したのではないでしょうか。 長篠城 現地にあった案内図より抜粋 この布陣図で見れば明らかなように長篠城と、馬防柵と鉄砲の三段撃ちで有名な設楽原の決戦場がずいぶん離れていることがわかります。また武田方は全軍を設楽原に布陣させたのではなく、相当数(3千人ほど)を長篠城包囲のために残しています。 長篠城の推定図... Read More | Share it now!
別名の白米城なら各地にある、今日は松阪市の阿坂城へ
【三重県・松阪市 2026.4.13】今日は大阪から電車で奈良県橿原市まで行き、そこでレンタカーを借りて山里を縫うように進む国道369号線を走って三重県津市の多気北畠氏城館へむかいました。ここは「続日本百名城」にも指定されているのですが、あらかじめパソコンで検索して画像を見たかぎりではどうにも見所がなさそう。と思って訪ねたら案の定というか残念ながらというか心惹かれるようなものもなく。場所の不便さを考えるならふたたび訪ねることも難儀なので、城郭の背後にある山城にも登るだけは登って全容を目に入れ、ふたたび訪ねることができなくても後悔することはないと納得してその場を後にしました。 そして次に向かったのが松阪市の阿坂城。あくまで多気北畠氏城館のついでに寄っただけで、しかも着目したのが阿坂城の別名が白米城といういわくありげな名だったことから興味を覚えただけのことなのですが、ここがなかなか面白かった。と言うことで、多気北畠氏城館について書く予定だったブログを変更して阿坂城ーーーとしました。 阿坂城 登山口にあった案内板より抜粋 阿坂城については案内図からも分かるように北郭の椎ノ木城と南郭の白米城によって構成されています。その特異な名だけでなく、もっとも標高の高い位置にあることから白米城が有名になってしまい、あたかも阿坂城の別名であり通称のようになっていますが、城郭の規模から考えると椎ノ木城が主郭だったようです。 これが元来の登城道なのかはわかりません この平坦地は曲輪跡でしょうか? これはあきらかに防御のために造った門口でしょう ここにははっきり堀切と表示がありました 椎ノ木城 唐突に、椎ノ木城の主郭が現われます 現地にあった案内板より抜粋 切岸あきらかに人の手で急斜面を造っている 造られた坂道をのぼるとすぐに虎口がある 細長く曲輪がひろがる 上から帯曲輪を見下ろす 白米城 椎ノ木城を後にして、 山の斜面を登ります一見穏やかな登り道ですが、攻城となると登るにも上からは丸見え。矢を射られれば身を隠すところもなく、これは厳しい。 南郭の下に来ました さて白米城の名の由来ですが、南北朝時代に足利幕府軍が攻め寄せたさいに城をかこみ水の手を断って城側が降伏するのを待ちました。対して籠城する北畠某はふんだんに水はあると見せかけるため、馬の背に白米を流してあたかも余裕で馬を洗っているかのように見せかけた、という逸話からきています。 この話、他で聞いたことがあるという方もいるかと思います。ウィキペディアから得た情報ですが、柳田國男氏の調査によるとこれに類する「白米伝説」は全国に80ほども残されているそうです。それゆえ真偽のほどは不明。 白米城の主郭曲輪 主郭の下にひろがる曲輪 白米城からの眺望はまさに360度の大パノラマ。遠く伊勢湾まで見渡せます。空模様がイマイチのこの日ですら感動しました。晴天の日に登れば、この景色を見るだけで幸せを感じられそうです。 【アクセス】レンタカーにて... Read More | Share it now!
白旗城址をめざして白旗山をのぼる
【兵庫県・赤穂郡上郡町 2026.3.9】白旗城は兵庫県西部の岡山県との県境に近い、公共交通機関で行けはするものの大変不便な地にあります。大阪からゆく場合、時間を金で買う余裕のある方なら新幹線を使うのでしょうが、時間を差し出して金を節約する私でしたら大阪からJRの新快速で姫路まで行き、そこで普通電車に乗り換えて上郡駅へ。上郡駅から6kmあるいて登山口へ。あるいは上郡駅で智頭急行線にのりかえて2駅北の河野原円心駅へ、そこから2km歩いてもどり登山口へゆく手もあります。どちらにしても片道3時間半ほどはかかります。 白幡城の歴史について話しておきます。せめてその歴史でも知らないと、日本百名城にも続日本百名城にも選定されていない、しかもそんな不便なところにある城をわざわざ訪ねてゆく気にならないでしょう。築城主は赤松則村(円心)といわれており、これは確かなようです。築城時期は南北朝時代に後醍醐天皇の挙兵に応じるかたちで築城したというもの。あるいは後醍醐天皇から離反した足利尊氏に従い、尊氏がいったんは敗れて九州へ落ちのびるさいに敵軍を押しとどめる盾になるよう築いたとの説があります。どちらにしても赤松氏がこのあたり一帯の守護大名になるまえのことです。 足利尊氏が九州へと逃れたさいに、追撃しようとする新田義貞の軍勢を赤松軍がこの白旗城でくい止めた、それがために時間稼ぎのできた尊氏は態勢をととのえ直して東上し、一気呵成に新田軍を蹴散らし楠木正成を自刃に追い込み、のちに北朝とよばれる自軍を勝利に導いたとされています。さて播州の城に詳しい方はこれを聞いて、あれ???と思われるはずです。ここよりもう少し西いまの相生市に感状山城がありますが、ここにつたわる歴史がなんとこれと酷似しているどころか、まったく同じ。しかも盾になって新田軍をくい止めてくれた赤松則村の功績に感謝して足利尊氏が感状をおくったことから感状山と呼ばれるようになったという逸話まであり、どちらが本物かと問われると、コチラよりもアチラの方がなんだか分がいい。そんなこんなの事情で白旗城には積極的に出向く気持ちになれずにいたのですが、このたび宇喜多直家(秀家の親父)について足跡をたどるため岡山県の備前市、赤磐市、岡山市などを回るべく計画を立てるなかで、姫路でレンタカーを借りれば「ついで」に回れると思いいたった次第なのです。なお先に言ってしまうことになりますが、当の白旗城は歴史の真相は置いといても十分に楽しめる、まして「ついで」に訪れるどころか本命として訪ねても弩級のインパクトをうける城跡でした。 登城がそのまま登山 奥に見える山が白旗山、一番高い峰が櫛端丸跡 白旗山は標高440ⅿの低山ですが、上郡町の公式サイトではその登山について以下のように注意をしています。 ・道が狭くなっている・角のとがった石が散乱している・落ち葉で道が隠れており、すべりやすくなっているさまざまな危険がありますので、注意して登りましょう。 登城(登山)口にあった案内図 はじめの内こそ穏やかな道を歩きますが、 道はしだいに険しくなってきます そのうえ荒れています 城の遺構と思われる石積みを発見 散乱する岩と石... Read More | Share it now!
千早赤坂の上赤坂城から間道をぬけて金剛山の千早城へ
【大阪府・千早赤阪村 2026.2.26】「河内の悪党から智と勇で頭角をあらわし、巨大な幕府軍に寡兵で立ち向かい互角以上の戦いをつづけ、忠君愛国そのままに最後は負け戦に身を投じてゆく」これだけ読めば、歴史ファンでなくても多くの人が楠木正成を思い浮かべることでしょう。楠木正成にこのイメージ(あるいは評価というべきか?)が定着したのは、『太平記』の記述によります。さらに現代でいえば、吉川英治の『私本太平記』によりそのイメージは確固たるものになります。(私は『私本太平記』の方しか読んでいません)。1991年に放映された大河ドラマ『太平記』は、この『私本太平記』をもとにしています。主演(足利尊氏役)は真田広之、正成役は武田鉄矢。この正成役のキャスティングについては逸話があり、当初は高倉健さんを考えていたところ、それではイメージ的にスマートなヒーローになってしまうということで、もっと泥臭いイメージの武田鉄矢さんに決まったとか。良くも悪くも、楠木正成はスマートとはほど遠い奇手、奇策、奇計でもって幕府の大軍を翻弄します。その舞台となったのが出生地である現在の千早赤阪村にのこる赤坂城... Read More | Share it now!
そんな訳でこんな姿になった天守閣 / 小倉城&中津城
【福岡県北九州市 2026.1.18、大分県中津市 2026.1.22】 いま日本にのこる城の天守閣は、大きく分けると以下の4つのタイプがあります。 現存天守 :... Read More | Share it now!
琵琶湖疏水に沿って大津から蹴上へと歩いてみた
【滋賀県大津市~京都市 2026.1.2】新年があけて早々に出かけるとなると一般には初詣か初売りになるのでしょうか。しかし年じゅう社寺を歩き回っている私にとっては初詣は蛇足のようなもの、また物欲が枯れてきている身では初売りなんぞまったく興味がない。さらに両者ともに混雑は目に見えており、人混みの苦手な私にとっては苦役にすら思える始末。 ということで本来なら人のすくない山へ登山にゆくのですが、今年は2週間後に心臓のCT検査を控えている身ゆえ無理をするわけにもいかない。ではどうしようかと考えて、昨秋探索した琵琶湖の水運から思案がすすみ琵琶湖疏水を散策しようと決まりました。 途中にあった案内板(琵琶湖疏水ウォーキングマップ)より抜粋 大津・第一疏水 第一疏水取水口琵琶湖の水を疏水にひきこむ取水口ここが琵琶湖疏水の起点になります 第一疏水取水口... Read More | Share it now!
信玄が落とせなかった高天神城を勝頼が落としたことは賞賛すべきか
【静岡県・掛川市 2025.12.12】高天神城といえば、武田勝頼を思い浮かべます。さほど戦国時代の歴史に興味のない方からすると、そいつぁだれだ?となるのかもしれませんが、誰もが知っている武田信玄の跡取りです。信玄の四男とされています。信玄と正室とのあいだに生まれ最初から後継者とされていた嫡男・義信は謀反の疑いで切腹(幽閉されて病死との説がいまでは有力)、次男は盲目のため出家、三男は夭折。ということで四男の勝頼が後継者に指名されます。 たんに武田家の後継者であればメデタシメデタシだったのでしょうが、だれの跡を継ぐかといえば先任者はあの傑物にして英雄の信玄。これは重荷でしょう。しかも勝頼の母は、武田家の同盟者である諏訪氏の娘。諏訪氏は諏訪神社上社の神職を世襲する名族ではありますが、武田家の本拠が甲斐国であるのにたいして諏訪は信濃国の一地方。諏訪神社といわれても見たこともないし、家中ではそいつぁだれだ?の受け止め方だったのではないでしょうか。 勝頼は信玄に従って戦をかさね武功をあげますが、つねに力が入り過ぎた戦ぶりでした。本人が凡庸でしかも謙虚な性格であれば、信玄のもとにそろう名将ぞろいの重臣たちに支えられて武田家を(そこそこに)維持してゆくこともできたのでしょうが、勝頼は凡庸ではなかった。凡庸ではなかったからこそ父・信玄を越えたいと渇望したのでしょう。 高天神城 現地にあった案内図より抜粋山頂の石垣は昭和初期に造った模擬天守が焼失した残骸(この図は北が下になっています) カーナビに目的地として「〇〇城」と入力して検索した際、それが山城だと「該当なし」で非協力的な対応をされることが多いのですが、今回借りた車のカーナビは新しいのか古いのか知りませんが、「高天神城」と入力一発で目的地表示をしてくれました。ただし到着したのはなぜか搦手口(裏口)、どうせなら大手口(表口)から登城したかったのですが、まあ良しとします。 高天神城の歴史はといえば、今川氏の勢力下で維持されていたものの武田氏と徳川氏が(一時的に)同盟して今川を滅ぼした段階で徳川の支配下にはいります。さらに武田と徳川が同盟を破棄して争うようになると、信玄が2万とも3万ともつたわる大軍勢で包囲しますがなんとか持ちこたえます。ところがその3年後、この年は信玄の没した翌年になりますが、勝頼がやはり2万の軍勢をひきいて強襲し降伏させます。この戦勝によって勝頼の名は全国に知れわたります。理由は信玄でさえ落とせなかった城を跡継ぎ息子が落とした。このとき勝頼は父・信玄を越えたと勘違いしたのかもしれません。 搦手口から二の丸へ 搦手門跡から整備された道を上がるネットで調べたところ大手口からの登城道も同じように整備されていました 三日月井戸(右)... Read More | Share it now!
武田がつくり徳川がうばい家康が感服した諏訪原城
【静岡県・島田市 ... Read More | Share it now!
二俣城と鳥羽山城を歩いて、家康はどうしたか考える
【静岡県・浜松市 2025.12.6】2023年放送の大河ドラマ「どうする家康」でもその騒動はあつかわれたようなので、ディープな歴史ファンでなくとも一般に知られているものとして話をすすめます。信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち、そのドサクサに便乗して今川家の人質の身から脱出した家康。両者は臣従の関係ではなく同盟関係をむすびます。立場上信長が兄、家康が弟的な上下関係ではありますが、臣従ではなく同盟関係ですからあくまで対等な立場です。ここは大事なポイントですので念頭においてください。同盟関係を強化するため家康の長男・信康のもとへ信長の長女・徳姫が嫁入りします。このとき新郎・新婦ともに9歳、さらに信康の「信」は信長の一字を与えられたもの。政略結婚ミエミエですが、長男と長女の婚姻というところにこの政略結婚がいかに重要視されていたかが伺えます。ところがその二人が成人し娘ふたりが生まれたころから不仲になり、徳姫が父・信長に不平不満だけでなく、夫の信康と姑(家康の妻)の築山つきやま殿(せな姫)が敵の武田氏と通じているとホントかウソかわからないことを書きならべた手紙をおくり、それに激怒した信長が家康に無理強いして信康と築山殿を殺害させしめる、といういかにも眉唾物の話があります。家康の指示で信康が切腹したのが二俣城、また築山殿は見苦しく取り乱す懸念から二俣城に護送される途中で殺されたと伝わっています。今日はその二俣城を訪ねます。 二俣城 二俣城および鳥羽山城は浜松市の北部、以前は天竜市とよばれた(いまは浜松市天竜区)地域にあります。両城が隣り合わせており、縄張の具合から二俣城は軍事のため、鳥羽山城は居住だけでなく迎賓の意図もこめて造られたものと考えられます。天竜川と旧二俣川が合流する3方向を川の流れに阻まれた要害の地にありました。いまは天竜川が180度湾曲し同じように3方向をその流れで阻んでいます。残念なのは両城共にいまは木立が密生し、山城の最高部に立ってすら3方向をかこむ川面をはっきり見ることができず、いま自分がいかに要害の地に立っているのかを実感することができません。 現地にあった縄張図より抜粋 北の丸は神社の境内になっていました 北の丸と本丸を区切る堀(四号堀) 虎口... Read More | Share it now!