街歩き・山歩き,山登り,神社・仏閣,城郭・史跡,滋賀

【滋賀県・近江八幡市 2026.6.29】今年放送されている大河ドラマ「豊臣兄弟」については私自身は観ていないのですが、毎週月曜日に家内が昨夜放送分のドラマの展開を聞かせてくれます。ひとつ感心したのは、登場人物のなかで「お市の方」「織田信長」「荒木村重」らが回を追って順次話題の中心になると、私のサイトのなかの該当するブログへのアクセス数が急上昇します。私個人のブログですらこれだけ影響があるのですから、大河ドラマの主人公にと観光地がご当地の有名人を推すのも頷けます。ところで私のブログですが、弟・秀長について個別に書いたものはありませんが、秀吉については本能寺の変~中国大返し~山崎の戦いあたりを主題にして書いています。ということは間もなくそのブログのアクセス数も跳ね上がるのではと期待しつつ、さらに先読みしてみました。豊臣秀次についても個別に書いたブログがあります。じつはこのブログ、まったく人気がなく3年ほど前に書いたもののず~っとアクセスに関しては閑散としています。「豊臣兄弟」の放映中に秀次にスポットライトがあたれば起死回生となるかといえば、NHKがお茶の間の娯楽として放映する大河ドラマですから先ず秀次を大きく取り扱うこと自体がないはずです。というのは豊臣秀次の死(切腹)は謀反どころか権力争いともいえない、晩年に耄碌した秀吉の狂った采配によるものです。もし多少なりとも史実にもとづいて描くなら秀吉をうんとどす黒い人物として描かねばなりません。NHKが大河ドラマの、しかも最終回が近づいてそれはしないでしょう。 百々神社~岩崎山 豊臣秀次の元の名は治兵衛、尾張のどこにでもいる貧しい百姓の長男。ところが母親が秀吉の姉であったことから、いつの間にか武士に取り立てられ、ここへあそこへと政略的に養子(人質)に入れられ、気づけば二十歳前で近江20万石の大名になっていました。その居城として築かれたのが近江八幡城です。実情は近江の治世のためと畿内への西の入口の防備の必要性から、秀吉がすべての差配をしたうえで君主として秀次を据えただけかもしれません。しかし秀次は武将としては名将ではなかったものの、為政者としては名君であったと言えるかもしれません。なにしろ近江に君主として居たのは5年ほど、しかも年齢的には二十歳前後のとき。それで今にのこる近江八幡の城下町の基礎をつくり上げたのですから凡庸なはずがありません。ましてやのちに「殺生関白」と悪評される兆候は探してもみつかりません。 現地にあった案内図より抜粋 近江八幡へは過去に来たことがありますが、城には案内図の下方にあたる日牟禮ひむれ八幡宮側の登山口から登りました。この登山道なら30分もあれば山上の城跡にたどり着きますが、なにしろ登山道がおもしろくない。 ということで、今日は近江八幡駅から案内図の上方にあるユースホステル前までバスで行き、そこから山を縦走して八幡山城へ、そこから前回登った道をくだって旧城下町へと歩くことにします。 百々神社石段横に登山口がある いきなり粗い山道が待ち受けていますが、 低山を距離をかけて登るので勾配はきびしくない こんな穏やかな山道もあります ひょっこり山林が切れると眺望がひらけます 岩崎山山頂は眺望なし 北之庄山、北之庄城 次のピーク北之庄山の山容が見えました 途中の展望地からは西の湖、安土城のある安土山、観音寺城のある繖山がみえる 北之庄山頂には北之庄城跡が遺っていますこれは大手門跡 大手門跡(桝形虎口)を内側から見る資料がないものの佐々木六角氏が観音寺城の支城として造ったものではないかと推測されています。 曲輪の周囲はすべて土塁で囲まれている 七つ池跡... Read More | Share it now!

城郭・史跡,大阪

【大阪府・豊中市 2026.6.21】神社の屋根にいまでもたまに使われている「茅葺き」のことをウェブで調べていたら、ひょっこり「日本民家集落博物館」なるものに行き当たりました。所在地を調べてみると、なんとびっくり大阪府豊中市で最寄り駅は(服部)緑地公園駅。ここならば私の自宅から大阪メトロ(地下鉄)を一回乗り換え、そのまま北大阪急行に連絡して乗り継ぎのタイミングにより40~50分、電車賃440円でたどり着けます。時間はふんだんにある老後生活の私にとっては所要時間の長短は、ぜんざいに白玉団子が4個入っているか5個入っているか程度の問題でしかないのですが、往復の電車賃が1000円以下で収まるのはなんとも有難い。ということでさっそく行ってみることにしました。※話の発端の茅葺かやぶきについて。茅とはススキやアシ(ヨシ)などイネ科植物の総称で、米わらや麦わらを使う場合は藁葺わらぶきと表現します。茅葺きの方が油分を多く含んでいるため耐久性が優れており、手入れがよければ50年保つこともできますが、藁葺きの場合は10年からせいぜい20年と短くなります。 河内布施の長屋門 入り口前にあった案内図より抜粋 1955年(昭和31年)に、どのような縁があったのかわかりませんが、関西電力が飛騨白川郷の民家一棟を豊中市に寄贈したのがはじまり。そこから服部緑地公園の整備にあわせて財団法人日本民家集落が設立され、大阪府内をはじめ全国から江戸時代に建てられ使われなくなった民家をあつめて遺産として残していこうということになったようです。 河内布施の長屋門... Read More | Share it now!

城郭・史跡,埼玉

【埼玉県・寄居町 2026.5.12】群馬県との県境にちかい埼玉県の北西端、ですから戦国時代でいえば上野こうずけ国との国境にちかい武蔵国の北西端に、鉢形城はあります。築城は関東管領かんれいであった山内上杉氏の家臣・長尾景春といわれています。そののち後北条氏の北条氏邦が拡張改修し上野国への侵攻の拠点としますが、武田信玄の包囲にも上杉謙信の攻城にも屈することがなかったため、そのころから要害堅固な城として名を馳せます。落城したのは秀吉による小田原征伐のさい、前田利家と謙信の跡継ぎである上杉景勝ひきいる3万5千の大軍に包囲されついに降伏し落城します。 ところで上杉謙信の元の名は長尾景虎。長尾景春とは同族ですが、景虎が生誕した時には景春は没していたのでふたりが交わったことはありません。しかし歴史には不思議な成り行きがあります。景春が仕えていたころの山内上杉氏は全盛期でしたが、その後庶流の扇谷おうぎがやつ上杉氏との同族争いなどで衰退し、さらに急成長する後北条氏に追われる形で当時の当主である上杉憲政のりまさは越後へと逃れます。頼ったのは長尾景虎。ここで上杉憲政は関東管領の職位を景虎にゆずり、さらに名門・上杉の姓を名乗ることを認めるだけでなく編諱(へんき:地位が上のものが下のものに実名の一文字をあたえて主従関係を強固にする当時の習慣)して政の字をあたえます。こうして誕生したのが上杉景虎、あらため上杉政虎、出家して上杉謙信。 さて憲政ですが、越後で余生を送るはずが謙信が脳卒中(?)で急死。謙信は自らを毘沙門天の生まれ変わりと称するほどの熱心な仏教信者だったため生涯不犯ふぼん(性行為をしない)ゆえ実子がいません。そのため甥の景勝と後北条氏からの養子(北条氏康の七男)である景虎とのあいだで家督争いが起きます。このとき憲政はよりによって自分を越後に追った後北条氏からの養子に肩入れします。このお家騒動を「御館おたての乱」と後世呼びますが、謙信が憲政のために建てた館がそれで、景虎が当初この憲政の館に籠ったがゆえの命名です。結果は甥の景勝が勝利、憲政は自害したとも討ち取られたとも言われますが、このときに命を落とします。 さて謙信のあとを継ぐことになったその景勝が、秀吉の命とはいえ小田原征伐すなわち後北条討伐の先鋒のひとりとなって、いまは北条氏康の五男(すなわち御館の乱であらそった景虎の兄)である氏邦がまもる鉢形城を攻め落とすことになります。さらにたどれば鉢形城はもともと上杉謙信と同族であったはずの長尾景春の居城、そして景春は謙信をたよって越後に逃れた上杉憲政の数代前(大叔父?)の関東管領に仕えていた家臣。 歴史は読めば読むほど、知れば知るほど枝葉がのびるように興味がかぎりなくひろがってゆきます。鉢形城も遠く上杉謙信とのつながりを知ったからこそ訪ねてきた、と言えるかもしれません。 鉢形城 駐車場にあった案内図より抜粋 鉢形城は荒川に深沢川が合流する三角地形上につくられており、両河川の流れと切り立つ断崖が自然の要害となっていると情報を得てきました。 歴史館は後回しにしてその脇を通りぬけ、深沢川をわたって本曲輪をめざします。 外周に土塁はありますが、この辺りは防御は弱い 深沢川にむかいます。手前の横に走る谷は堀切、右前方が深沢川 のどかな遊歩道のような? これが深沢川・天然の要害?これなら私がオヤツと缶コーヒーをもってサンダル履きで渡れそう 本丸 本丸へ向かうには、左右に土塁、正面で土塁に突き当たるため左折が必要 虎口あり 本曲輪をかこむ土塁 土塁の内側(本曲輪内)南側から見る 本曲輪... Read More | Share it now!

城郭・史跡,埼玉

【埼玉県・ときがわ町、嵐山町 2026.5.12】今回北関東の主に山城をまわるため、大阪から新宿経由でまず埼玉県の川越までやってきました。その川越ですが、JRのチケットのみで行き着こうとしたため池袋、大宮を経由しての道程になりました。さて新宿駅を出てから池袋までは気にもしなかったのですが、荒川をわたり埼玉県に入っても川口市、さいたま市と進めど進めど山がありません。しかも市街地がえんえんと続きます。大宮駅で電車を乗り換えても川越までの区間は平地にひろがる市街地と市街地郊外ばかりで、ここにも山らしい山がありません。首都圏に住んでいる方にとっては意外でさえないのでしょうが、これほど山を見ない風景というのは日本でも稀有でしょう。私の心配は、山がないのになんで山城があるんや? 山城から山を取ったらただの城やろが、と大阪人得意のボヤキを言いながらその日は川越市内に泊まりました。 小倉城(おぐらじょう) 翌朝川越市内でレンタカーを借りて北西に走ったところ、なんとなんと1時間も走ると(距離にして30kmほど)、山がある、森林がある、市街地はない、ホントにここは首都圏かと疑うようなのどかな風景がひろがったきました。 駐車場にあった案内図より抜粋 武蔵小倉城は、後北条氏の重臣であった遠山某によって築城されたともいわれていますが、正確なところはわかっていないようです。北関東に特有の平石をつんだ石垣が遺っているそうで、それを見るために訪ねました。案内図中央やや左下の青い駐車場マークより右へ500mほど歩き、人物イラストの足元あたりから山に入ることにします。 登山口に向かいながら城山をみる 山道を登ります 郭1(主郭=本丸に相当)の手前にある虎口桝形虎口と説明されているものの、よくわかりませんでしたしかも発掘中であたり一面青いビニールシートで覆われていた 主郭への入り口である虎口 主郭跡 主郭から郭3に向かう途中にひょっこり石垣が 郭1と郭3をへだてる堀にかかる木橋現代になって架けられた橋ですが、老朽のため通行禁止 郭3の周囲に石垣がありました 発掘中で立ち入り禁止のため遠目からズームで撮影 郭2と郭4をへだてる大堀切 【概要】比企郡ときがわ町... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛知

【愛知県・新城市 2026.4.16】新城しんしろ市は愛知県の中西部、浜名湖の北端のさらに北に静岡県との県境に接してあります。その地にもともとあったのが古宮ふるみや城。よくよく地図を見ていると、いかにも三河・遠江の徳川氏と甲斐・信濃の武田氏がぶつかり合いそうな場所にあります。歴史的に見るとまさにそのまんま。もとは三河を攻略するために武田信玄が重臣の馬場信春に築城させたもの。古宮城をふくめこのあたり一帯を治めていた奥平定能・信昌父子はもとをたどると徳川の傘下にあった豪族で、信玄の威光で武田家に臣従。ところが信玄の急死を契機に武田氏に見切りをつけ信昌が家康の長女を正室として娶ることで徳川氏に帰参。それを知った信玄のあとをつぐ武田勝頼は憤怒も加わって一気にこの地に攻め入り古宮城も奪還。勝頼はさらに信玄の急死の混乱に乗じて徳川氏にうばわれた長篠城をも奪還にむかうものの、徳川氏に信長みずから率いる織田軍が加勢したことで惨敗。その後は武田氏の勢力が急速に弱まり、徳川氏と争うこともなくなったために城としての存在価値が失われてゆきます。その後はブログのタイトル通り奥平信昌は新城城しんしろじょうをつくってそこを居城とします。 古宮城 古宮城はこの独立した丘陵にあります この丘陵は東西200m×南北150m、比高差25mとのこと。丘陵をおおう樹林の中に足を踏み入れるとわかりますが、丘陵そのものが端から端まで上から下まですべて城郭です。 丘陵の周囲は盆地内でもっとも低い場所にあたり当時はぐるりと沼地だったそうで、そのまま天然の防御となっていました。 現地にあった案内図より この丘陵は個人の方の私有地で、ご本人の了解があってこそ見学できるというものです。出入りは白鳥神社横から、丘陵(城郭)内の立ち入り禁止場所には足を踏み入れない、それらを厳守して見学します。余計なことは考えず、この案内図のとおり推奨ルートに従って歩きました。 南側をあるいて西曲輪へ 歩き始めるとすぐに道が回り込む、この造りも防御を考えてのことでしょう。道の右側が土塁で一段高く盛られていることにも注意。 比高差25ⅿとはいえ上から矢を射かけられると攻めづらい 大小の堀が各所にあります 一段上になったところが主郭 大堀切 西曲輪... Read More | Share it now!

城郭・史跡,愛知

【愛知県・新城市 2026.4.15】信玄亡きあと、跡継ぎの武田勝頼は憑かれたように戦さをくりかえし勢力拡大をはかります。結果として武田家の領土は勝頼の時代に最大版図に達しますが、それは勝頼が亡き父・信玄を越えるために、まるで最大版図を築くことが信玄を越えたことの証明とでもいうように、無理に無理をかさねた進攻進撃によってなされ得たものでした。天正3年(1575年)5月、信玄が倒れた際の混乱にまぎれて家康に奪われていた長篠城を奪還すべく、勝頼率いる1万5千の武田軍が城を包囲します。これが長篠の戦いの発端ですが、この時点では長篠城の戦いと呼ぶべきでしょう。一方の家康ですが、武田軍の西進の報をうけ即座に同盟相手の信長に救援をもとめます。一説では柵(馬防柵)を瞬時につくるため、織田軍の兵は丸太を一本づつ抱えて救援に駆けつけたとされていますが、これはウソでしょう。重荷を背負って歩けば到着するまでに体力を使い果たしてしまいます。そもそも長篠城のある地は山も多く、木材の確保に困ることもありません。おそらくは織田方の作戦参謀(信長自身かもしれない)が柵をつくって武田の騎馬隊の突撃を防ぐ策を考案し、急使をおくって織田軍が到着するまでに丸太を大量に用意しておくよう指示したのではないでしょうか。 長篠城 現地にあった案内図より抜粋 この布陣図で見れば明らかなように長篠城と、馬防柵と鉄砲の三段撃ちで有名な設楽原の決戦場がずいぶん離れていることがわかります。また武田方は全軍を設楽原に布陣させたのではなく、相当数(3千人ほど)を長篠城包囲のために残しています。 長篠城の推定図... Read More | Share it now!

山登り,城郭・史跡,三重

【三重県・松阪市 2026.4.13】今日は大阪から電車で奈良県橿原市まで行き、そこでレンタカーを借りて山里を縫うように進む国道369号線を走って三重県津市の多気北畠氏城館へむかいました。ここは「続日本百名城」にも指定されているのですが、あらかじめパソコンで検索して画像を見たかぎりではどうにも見所がなさそう。と思って訪ねたら案の定というか残念ながらというか心惹かれるようなものもなく。場所の不便さを考えるならふたたび訪ねることも難儀なので、城郭の背後にある山城にも登るだけは登って全容を目に入れ、ふたたび訪ねることができなくても後悔することはないと納得してその場を後にしました。 そして次に向かったのが松阪市の阿坂城。あくまで多気北畠氏城館のついでに寄っただけで、しかも着目したのが阿坂城の別名が白米城といういわくありげな名だったことから興味を覚えただけのことなのですが、ここがなかなか面白かった。と言うことで、多気北畠氏城館について書く予定だったブログを変更して阿坂城ーーーとしました。 阿坂城 登山口にあった案内板より抜粋 阿坂城については案内図からも分かるように北郭の椎ノ木城と南郭の白米城によって構成されています。その特異な名だけでなく、もっとも標高の高い位置にあることから白米城が有名になってしまい、あたかも阿坂城の別名であり通称のようになっていますが、城郭の規模から考えると椎ノ木城が主郭だったようです。 これが元来の登城道なのかはわかりません この平坦地は曲輪跡でしょうか? これはあきらかに防御のために造った門口でしょう ここにははっきり堀切と表示がありました 椎ノ木城 唐突に、椎ノ木城の主郭が現われます 現地にあった案内板より抜粋 切岸あきらかに人の手で急斜面を造っている 造られた坂道をのぼるとすぐに虎口がある 細長く曲輪がひろがる 上から帯曲輪を見下ろす 白米城 椎ノ木城を後にして、 山の斜面を登ります一見穏やかな登り道ですが、攻城となると登るにも上からは丸見え。矢を射られれば身を隠すところもなく、これは厳しい。 南郭の下に来ました さて白米城の名の由来ですが、南北朝時代に足利幕府軍が攻め寄せたさいに城をかこみ水の手を断って城側が降伏するのを待ちました。対して籠城する北畠某はふんだんに水はあると見せかけるため、馬の背に白米を流してあたかも余裕で馬を洗っているかのように見せかけた、という逸話からきています。 この話、他で聞いたことがあるという方もいるかと思います。ウィキペディアから得た情報ですが、柳田國男氏の調査によるとこれに類する「白米伝説」は全国に80ほども残されているそうです。それゆえ真偽のほどは不明。 白米城の主郭曲輪 主郭の下にひろがる曲輪 白米城からの眺望はまさに360度の大パノラマ。遠く伊勢湾まで見渡せます。空模様がイマイチのこの日ですら感動しました。晴天の日に登れば、この景色を見るだけで幸せを感じられそうです。 【アクセス】レンタカーにて... Read More | Share it now!

城郭・史跡,兵庫

【兵庫県・赤穂郡上郡町 2026.3.9】白旗城は兵庫県西部の岡山県との県境に近い、公共交通機関で行けはするものの大変不便な地にあります。大阪からゆく場合、時間を金で買う余裕のある方なら新幹線を使うのでしょうが、時間を差し出して金を節約する私でしたら大阪からJRの新快速で姫路まで行き、そこで普通電車に乗り換えて上郡駅へ。上郡駅から6kmあるいて登山口へ。あるいは上郡駅で智頭急行線にのりかえて2駅北の河野原円心駅へ、そこから2km歩いてもどり登山口へゆく手もあります。どちらにしても片道3時間半ほどはかかります。 白幡城の歴史について話しておきます。せめてその歴史でも知らないと、日本百名城にも続日本百名城にも選定されていない、しかもそんな不便なところにある城をわざわざ訪ねてゆく気にならないでしょう。築城主は赤松則村(円心)といわれており、これは確かなようです。築城時期は南北朝時代に後醍醐天皇の挙兵に応じるかたちで築城したというもの。あるいは後醍醐天皇から離反した足利尊氏に従い、尊氏がいったんは敗れて九州へ落ちのびるさいに敵軍を押しとどめる盾になるよう築いたとの説があります。どちらにしても赤松氏がこのあたり一帯の守護大名になるまえのことです。 足利尊氏が九州へと逃れたさいに、追撃しようとする新田義貞の軍勢を赤松軍がこの白旗城でくい止めた、それがために時間稼ぎのできた尊氏は態勢をととのえ直して東上し、一気呵成に新田軍を蹴散らし楠木正成を自刃に追い込み、のちに北朝とよばれる自軍を勝利に導いたとされています。さて播州の城に詳しい方はこれを聞いて、あれ???と思われるはずです。ここよりもう少し西いまの相生市に感状山城がありますが、ここにつたわる歴史がなんとこれと酷似しているどころか、まったく同じ。しかも盾になって新田軍をくい止めてくれた赤松則村の功績に感謝して足利尊氏が感状をおくったことから感状山と呼ばれるようになったという逸話まであり、どちらが本物かと問われると、コチラよりもアチラの方がなんだか分がいい。そんなこんなの事情で白旗城には積極的に出向く気持ちになれずにいたのですが、このたび宇喜多直家(秀家の親父)について足跡をたどるため岡山県の備前市、赤磐市、岡山市などを回るべく計画を立てるなかで、姫路でレンタカーを借りれば「ついで」に回れると思いいたった次第なのです。なお先に言ってしまうことになりますが、当の白旗城は歴史の真相は置いといても十分に楽しめる、まして「ついで」に訪れるどころか本命として訪ねても弩級のインパクトをうける城跡でした。 登城がそのまま登山 奥に見える山が白旗山、一番高い峰が櫛端丸跡 白旗山は標高440ⅿの低山ですが、上郡町の公式サイトではその登山について以下のように注意をしています。 ・道が狭くなっている・角のとがった石が散乱している・落ち葉で道が隠れており、すべりやすくなっているさまざまな危険がありますので、注意して登りましょう。 登城(登山)口にあった案内図 はじめの内こそ穏やかな道を歩きますが、 道はしだいに険しくなってきます そのうえ荒れています 城の遺構と思われる石積みを発見 散乱する岩と石... Read More | Share it now!