【滋賀県・長浜市 2026.10.16】 「JR秋の乗り放題パス(3日間)」を7,850円で購入して一昨日は私用で岡山県の倉敷に行って夜戻り、昨日は滋賀県の米原市の鎌刃城を見に行きました。一昨日の本来の電車賃は往復で7,480円、この段階でモトをとるまでもう少し。昨日の電車賃は往復で3,960円、これでじゅうぶんにモトはとれました。さて今日は三重県の山へ行くつもりでいました。NAVITIMEで時刻を調べながら電車賃をみると、往復で3,380円。昨日の時点ですでにモトはとれているのですから予定通りにすればよいのですが、せっかくだからもうすこし電車賃の高くかかるところへ行く方が得なのではと、なにが「せっかく」なのやら、急遽予定を変更することに。昨日行った米原のさらに先(福井県寄り)に呉枯ノ峰くれこのみねという山があります。最寄りの駅は木ノ本駅。大阪市内からだと往復の電車賃は4620円。7480+3960+4620... Read More | Share it now!
登山靴をはいて鎌刃山を登れば、鎌刃城の全貌が見える
【滋賀県・米原市 2026.10.15】 鎌刃城は滋賀県・米原市にあります。米原はいまでもJR東海道本線・東海道新幹線と北陸本線の接続点として(そこそこ)交通の要衝ですが、室町から戦国時代には地理的に(そこそこどころではない)要所でした。北近江と南近江の境界に位置し、北は越前、東は美濃、南は近江から山城・京、西は琵琶湖の水運、畿内を中心に国のあり方考えていた当時としては日本のへそともいえる場所です。それだけに米原周辺には名城(歴史的に価値がある、建築技術がすぐれている、だけでなくたんに名前がよく知られているものも含め)が目白押しです。京極氏の上平寺城、六角氏の観音寺城、浅井氏の小谷城、秀吉の長浜城、信長の安土城、石田三成の佐和山城、井伊家の彦根城などなど、(どの城が「有名なだけでつまらない」とここでは耳打ちしませんが)、これらの錚々そうそうたる城に比べて鎌刃城はあまりにも知名度がひくい。もしこの城が「続日本百名城」に選定されていなかったら永久に行くことはなかったかもしれません。実際のところ、「日本百名城」「続日本百名城」の本を見ていて、関西で訪れていない城がまだあったと気づいて注目したぐらいです。さらに注目したからすぐに行こうと考えたかというとそうでもなく、なにしろ大阪市内からだと往復の交通費がおよそ4,000円。「見に行きたい気持ち」と「必要な交通費」を天秤にかけてズルズルしているうちに「JR秋の乗り放題パス」がはじまりました。内容はJR全線の普通・快速・新快速電車に3日間乗り放題で7850円。ちょうど倉敷に行く用事があったため1日目に大坂ー倉敷を往復すると実質モトはほぼ取れます。考えようで、鎌刃城へはタダで往復できる。やっとこれで鎌刃城を訪ねることになりました。 鎌刃城へ JR米原駅から北西に歩きはじめるとすぐに市街地をはなれ田園風景がみえてきます。左に霞んで見えるのは伊吹山 山に踏み込み林道を進みます 小さな標識を見逃さぬよう、ここから左の隆起部にあがります 尾根をあるくこの尾根がそのまま曲輪(郭)群につながる 畝状竪堀 現地にあった案内板より抜粋左上の西郭群の先端にあたる西-Ⅷ郭からスタートします。 西郭群 西-Ⅷ郭から西-Ⅶ郭(一段上)をみる 西-Ⅶ郭から西-Ⅵ郭(一段上)をみるこのように曲輪が一段ずつ高く連結している 大堀切 西-Ⅱ郭から西-Ⅰ郭へはこの斜面をのぼる 設けられた坂道をはずれるとこの急勾配を登ることになる 階段状に曲輪が連結する山城はいくつも見てきましたが、ⅧからⅠまでこれほど見事に段差のついた連結式の曲輪群を見たのははじめてです。 南郭と七つ堀 鎌刃城は室町時代の応仁の乱以前につくられたようです。築城主は当時このあたりに勢力を誇っていた土豪の堀氏?と言われています。(城の規模からみて時代とともに拡張されたのではないでしょうか、一土豪の城としては大きすぎます)北近江で京極氏と浅井氏、南近江で六角氏が勢力を伸ばしはじめると、その境界に位置する鎌刃城は3者の間で翻弄されます。翻弄とは、この場合こっちに付き、あっちに付きしながら生き延びます。最終的には浅井氏に属するようになりますが、信長が浅井・朝倉と敵対すると織田方に臣従し、姉川の合戦で織田方が勝利したためここでも見事に生き延びます。※京極氏と六角氏はともに宇多源氏の流れをくむ名門・佐々木氏の系譜で、京極氏は京都の京極通りに、六角氏はおなじく京都の六角東洞院に屋敷があったことがその家名のおこりで、浅井氏が近江浅井郡の出であるためその家名を名乗ったのとは違いがあります。 南-Ⅱ郭... Read More | Share it now!
山内一豊が築いた高知城は、まあまあどころか大変良かった
【高知市 2026.10.2】 高知城の築城者であり初代城主は山内一豊です。山内一豊というと、妻の内助の功ばかりがやたら有名です。【内助の功... Read More | Share it now!
長宗我部元親が生まれ育ち雄飛した、岡豊城
【高知県・南国市、高知市、安芸市、四万十市 2026.9.29~10.1】 十七代当主・長宗我部友親氏の著書『秦氏の夢 長宗我部元親』によると、長宗我部家は秦氏はたしの後裔であるとのこと。秦氏は古代日本において養蚕や酒造さらには土木や製鉄などの技術をつたえた渡来系士族で、莫大な財と力を有していました。その後裔といえば超名門ということになりますが、朝鮮から渡来した秦氏の秦(はた)は中国の秦(しん)と同字であることから秦氏の先祖は(中国)秦の始皇帝であるという突飛な説があります... Read More | Share it now!
大阪城にて大坂城の石垣を見て歩く
【大阪市 2026.8.20】 まず誤解や混乱をさけるために書いておきます。いま私たちが目にするオオサカ城は、所在地が「大阪市中央区大阪城1番」であることからも大阪城と表記するのが正しいでしょう。しかし豊臣秀吉が築城した城が破却され徳川家康・秀忠の意向により新たな城が築かれ、その後江戸時代の終焉までは大坂城と表記されていました。明治になって大坂が大阪と変わったのは、坂が「土に反(かえ)る」と書くため死を意味するようで縁起が悪いと改めたとか。しかしこの理由はなんだかうさん臭い。たしかに古語では「反る(かえる)」と読み、「もとに戻る」という意味もあります。しかし坂という字が縁起が悪いというのであれば、乃木坂46は立場がないでしょう。 もっとも私は乃木坂46のファンではないのでこの問題は置いとくとして。家内が大阪歴史博物館で開催されている「豊臣兄弟」の特別展を見に行くというので、付き合うことにしました。私の主な目的は、大阪城において地中から発掘された秀吉時代の大坂城の石垣が昨年春に公開されたにもかかわらず見に行っていなかったため。大阪歴史博物館は大阪城の南西角向かいに位置します。 大阪歴史博物館から大阪城を見わたす 中央の、大阪には不相応な上品なビルが大阪歴史博物館 博物館の上階から大阪城の全貌が見わたせます。ここは知る人ぞ知る撮影スポットです。 大阪歴史博物館は通常の入館料は大人600円ですが、65歳以上の大阪市在住者は無料です。ところが「豊臣兄弟」展は特別展ということで別料金が2000円必要。「まけてんか」の交渉は不可。ちなみに家内は迷わずチケットを購入し、わたしは迷わず無料コースに進みました。 大阪城の石垣 大阪城公園公式MAPより マップ左下の南西角から右(東)方向を見る。中央右寄りに六番櫓。 南西角から北方向をみる。左からの土橋、中央あたりに千貫櫓、大手門、多門櫓。 土橋をすすんで大手門へ 千貫櫓石垣が屈折しているのは、正面上からだけでなく横からも攻城兵を狙いやすくしている。 大手門... Read More | Share it now!
五色塚古墳は全国で40番目に大きい、これはなかなかスゴイ
【兵庫県・神戸市 2026.8.11】 今日の大阪周辺の最高気温は30度からせいぜい32度、しかも天気は晴れ。これは久しぶりに山登りに行こうかと昨夜までは考えていたのですが、朝起きてみると東日本を通過する台風の影響で風が強い。平地でこれだけ強ければ... Read More | Share it now!
猛暑の古市古墳群を見て歩いた感想は暑いだけではない
【大阪府・藤井寺市~羽曳野市 2026.7.28】 日本で文字が使われ始めたのは古墳時代がはじまったのと同時期ですが、それは死者とともに埋葬する鉄器(たとえば刀)に大王おおきみの名前、大王につかえて納棺をした家来の名や身分、その時の年月日などを記したというもので歴史を時系列で読み解けるレベルのものではありません。そこで後代の人が目を向けたのが大陸。3世紀の中国は魏・蜀・呉による三国時代といわれ、その歴史を記録した「三国志」のなかで日本(倭国)のことを記述した部分(いわゆる魏志倭人伝)から日本に邪馬台国があり卑弥呼がいたといった事実を知ることができます。もっとも邪馬台国も卑弥呼も3世紀前半の弥生時代の話。古墳時代についてはどうなんだと言うと、大陸では三国時代のあと南北朝にわかれての混乱期に入るため海の向こうの倭国のことまで書き残す余裕がなかったのか、3世紀後半から5世紀初頭まで記録がありません。そのためいまの日本ではこの文献上の空白期間を「空白の150年」とか「空白の4世紀」と称してミステリー扱いしています。 ふたたび中国に倭国の記録が見られるようになるのは5世紀以後。有名なのが当時の南朝宗に使者をおくり朝貢ちょうこうした「倭の五王」についての記述。讃さん・珍ちん・済さい・興こう・武ぶと五王の名が並んでいますが、どうやら最初の讃が応神天皇か仁徳天皇(に相当する大王)と日本の研究者のあいだでは考えられています。(応神が仁徳の父です) 空白の150年から倭の五王にいたる時代の天皇(正確には大王おおきみ)とその関係者を葬る古墳(陵墓)群が、世界遺産として登録されている百舌鳥・古市古墳群です。今日はそのなかで藤井寺市と羽曳野市にひろがる古市古墳群を訪ねてみます。 藤井寺市の公式HPより抜粋中央左寄りの仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳)から北の津堂城山古墳へ、東にあるいて允恭天皇陵古墳(市野山古墳)、そこからずっと南東へと歩きます。 日本全国には16万基の古墳があります。そのなかで天皇・皇后・皇太后・太皇太后のものを陵(みささぎ)、ほかの皇族(皇太子など)のものを墓と区別し、合わせて陵墓とよび総数は899(あるいは897)。それでは残り大半のものはというと、ヤマトおよび地方の豪族のものということです。 そもそも「天皇」の呼び名は40代目の天武がはじめて称したとのことで、それまでは大王(おおきみ)、大王とは全国の豪族のなかでもっとも力があり、長であり頂であった人のことをさしていました。(それならば、アマテラスを祖として神武天皇を初代とする天皇の系譜はフィクションかといえば、さにあらず。むかしの人々が自分たちの先祖や国の起源についてこうであったのであろうと信じてきた神話です) 岡ミサンザイ古墳 前方部... Read More | Share it now!
平戸から外海へ、隠れキリシタンからカクレキリシタンへ
【長崎県・平戸市~長崎市 2026.7.11~12】いま手元に「隠れキリシタン」に関する本が2冊あります。宮崎賢太郎氏の『潜伏キリシタン』と、後藤真樹氏の『かくれキリシタン』。たとえばアマゾンで「隠れキリシタン」と入力して本を探すと、出てくるのは「潜伏キリシタン」あるいは「かくれキリシタン」「カクレキリシタン」をタイトル名に入れたものばかり。 私だけが?知らぬ間に、言葉の定義がかわってしまったようです。〇禁教令のもと、江戸時代を通してうわべは仏教徒をよそおってキリスト教信仰をまもり通した人々のことを「隠れキリシタン」。たしかに学校でそう習ったように記憶しています。ところがその後、①明治以降禁教が徐々に緩和されるとともにキリスト教信者であることを明らかにしあらたに建てられた教会に戻ってきた人々を、それまで隠れていた(潜伏していた)という意味で「潜伏キリシタン」と言い、②仏教信仰や神道信奉にかくれてキリスト教を信仰していたもののキリスト教に仏教や神道が混合され日常的な先祖信仰もくわわり、その特異な信仰を禁教が解かれたのちもキリスト教に戻ることなく独自に信仰しつづける人々のことを「カクレキリシタン、かくれキリシタン」と区別しているようです。 これらの定義を御存じの方にとってはいまの説明は冗長に思えるかもしれませんが、ご存じでない方にはこの定義を頭においていただかないと話を先にすすめられません。『潜伏キリシタン』のなかで宮崎氏はカクレキリシタンについて「隠れてもいなければ、キリスト教徒でもない」と書いておられます。たしかにそうなのですが、そこまではっきり言い切ってしまったのでは身も蓋もない。そう思って『かくれキリシタン』を読むとこの本は情緒的な写真が多く、論評はさけて見て聞いた事実を淡々と記しているためわずかに残るカクレキリシタンにたいして感傷をおぼえてしまいます。そう思って『潜伏キリシタン』のページをあらためてめくると、カクレキリシタンと呼ばれる人たちが自分たちは何も悪いことはしておらず逃げも隠れもしていないのだからそんな呼び方(カクレキリシタン)はやめてほしいと言われた体験がつづられ、実態に合った名称に変えるべきなのだろうが「カクレキリシタン」の呼び方が市民権をえた今となってはそれも難しいし混乱をまねく恐れもあると書かれています。 この2冊の本を読んだおかげで、隠れキリシタンゆかりの地を見て歩く旅の中身がずいぶん濃くなりました。 平戸、春日、生月島 平戸一帯には石で組んだ道と塀がよく見られます 仏教寺院の向こうにキリスト教会の尖塔がのぞく有名な風景 平戸大橋の近くに建つ田平天主堂レンガ造りの重厚な建物ですが、明治になっての創建であり隠れキリシタンとは無縁とのことで世界遺産への登録からは除外されたとか。 平戸島中央あたりにある紐差教会おなじく前身が明治時代、この教会自体は昭和の建築で隠れキリシタンとは直接つながりがない。 平戸島から生月島へわたる手前あたりに春日集落はあります いまでは棚田が観光名所になっていますが、かつては隠れキリシタンの里でした 生月島江戸時代には隠れキリシタンが多く住んでいた。 カトリック山田教会明治時代になって宣教師からカトリックに戻るよう勧められるものの独自の信仰をまもったカクレキリシタンの子孫がいまも島には残っている。 平戸周辺をまわったかぎりでは、「かつて隠れキリシタンがいた」「いまもカクレキリシタンがいる」と説明を見聞きするだけで遺構も実像も見ることはありませんでしたが、美しい風景を堪能することはできました。取材ではないので、まずは満足。 外海(そとめ)へ、大野集落 大野集落 大野教会明治26年、この地で信仰を守り生きていた隠れキリシタンのためにド・ロ神父が私財を投じて建てたもの。いまは老朽化のため入れない。 出津(しつ)集落 出津教会堂明治15年に、やはりド・ロ神父によって建てられたもの。 大野教会と同様に禁教が緩やかになってから潜伏キリシタンのために建てられた教会ということになります。 ではカクレキリシタンはというと、礼拝するための教会のような施設はもたず、自宅に祭壇等をととのえて独自に信仰を守っているようです。 たとえばオラショ。もとはラテン語やポルトガル語による祈りの言葉だったはずが、200年以上におよぶ禁教の期間は宣教師も神父もいないゆえ、キリスト教に対する理解もおぼつかない人々が口頭でいい伝えていたのですから当初のものとはずいぶん変わってしまったことでしょう。ネット検索では「呪文のように唱えられた」と解説しています。AIだけに遠慮ない表現ですが、言い得て妙です。 出津集落から山に向かう途中にある野道共同墓地(キリシタン墓地) 昔の墓は石塔がなく結晶片岩を積み上げただけのもの。遺体は頭を南に向け膝を曲げて寝かせていた。 禁教令が敷かれ国外追放か殉死の結果、外国人宣教師も神父もすべて姿を消します。そのあとただ一人で隠れキリシタンに布教をつづけたのがジワン神父の弟子であった日本人伝道師バスチャン(セバスチャンに由来、元の名は治兵衛)です。そのバスチャンが隠れ潜んでいた家屋が残っているので訪ねてみます。 車で行けるところまで山を上り、途中から細道を歩きます。一般の隠れキリシタンが暮らしていた家の跡でしょうか、墓地にもあった結晶片岩を積み上げた土台がありました。 家屋跡を通りぬけ、谷に下り、しばらく歩くと見えてきました。いまは木を伐りコンクリートで道を固めていますが、当時は獣道だけで発見されないように用心していたはずです。 案内板には「バスチャン屋敷跡」となっていますが、むしろ小屋に近い。当時の日本の住宅事情からすると特別に劣悪とか貧相なものではないのでしょうが、ここに至るまでの道のりを考えると住み心地はいかにも悪そう。 バスチャンの最後は捕縛され(おそらく拷問をうけて棄教を迫られた末に)殉死します。バスチャンが伝え残した希望の予言「7代ののちに海の向こう(すなわち南蛮)から神父が船に乗ってやってきて罪の告白を聞いてくれる」「それからは誰もが罪の告白をし、許しを得て、神の教えを聞くことができる」「だれに憚ることなく神をたたえる歌を唄うことができる」... Read More | Share it now!
豊臣秀吉 → 藤堂高虎 → 加藤清正 → たどり着いたのが玖島城
【長崎県・大村市 2026.7.10】 長崎県大村市にある玖島城を訪ねてみます。 秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)については、個人的には日本史に残る最悪級の暴挙愚行と考えていますが、それはそれとして。慶長の役すなわち朝鮮出兵の後半戦では、朝鮮半島の西側を進軍する宇喜多秀家を大将とする軍勢はまたたく間に全羅道(いまの韓国南西部)を制圧し、南端の海岸沿いに拠点とする城を築くことにします。縄張を担当したのは築城名人としていまに名をのこす藤堂高虎、出来上がった城が順天城(順天倭城)、ネットで縄張りをみても良く考えられたものだとわかるし、画像をみてもわずか3か月で造り上げたとは信じがたい堅牢さがうかがえます。一口で言えば、たいへん魅力のある是非訪ねてみたい城址です。 この順天城には小西行長が城主となって入ります。他には平戸藩主の松浦鎮信、日野江藩主の有馬晴信、福江藩主の五島玄雅、大村藩主の大村喜前。小西行長が肥後国である以外ほかの4氏はみな肥前国に属します。もうひとつ注目すべきは松浦鎮信以外は全員がキリシタン大名であること。しかも大村喜前よしあきは日本において最初のキリシタン大名であった大村純忠すみただの息子であり跡継ぎ、さらに有馬晴信は従兄弟にあたりその晴信の姉が喜前の正室です。要は大村・有馬一族はがっちりと血縁で縁戚関係をむすび、それゆえに親族そろってキリシタンだったということです。 ところが大村喜前も有馬晴信も江戸時代になるとあっさり棄教してしまいます。親族そろってキリシタンとはいえ、そもそもが南蛮貿易の利をえるための方便であり、江戸幕府からキリシタンであるがために睨まれるのであれば早々に棄教し領民にも棄教をすすめ、それでも従わないものには強制した(キリシタン弾圧)ということでしょうか。(有馬晴信については他のブログで書いているので省きますが)大村喜前に関して言えば、知己をえていた加藤清正が熱烈な日蓮宗(法華経)の信者であったことから、その影響をうけたこともあったようです。 大村喜前は秀吉の死後(もちろん朝鮮から帰国後)、豊臣家の衰退と徳川家の隆盛に時代のおおきな変革を感じ国がふたたび乱れることを予見したのか、新たな城を築いてそれまでの三城城さんじょうじょうから移り住む決断をします。参考にしたのが三方を海に囲まれた要害堅固な順天城。さらに藤堂高虎とならび築城の名人とたたえられる加藤清正の助言をうけてつくられたのが玖島城です。 玖島城 板敷櫓と高石垣 石垣前の緑地部分は海につながる水堀だった 玖島城の見取図... Read More | Share it now!
原城にて、島原天草の乱について考えたこと
【長崎県・南島原市... Read More | Share it now!