【長崎県・平戸市~長崎市 2026.7.11~12】いま手元に「隠れキリシタン」に関する本が2冊あります。宮崎賢太郎氏の『潜伏キリシタン』と、後藤真樹氏の『かくれキリシタン』。たとえばアマゾンで「隠れキリシタン」と入力して本を探すと、出てくるのは「潜伏キリシタン」あるいは「かくれキリシタン」「カクレキリシタン」をタイトル名に入れたものばかり。 私だけが?知らぬ間に、言葉の定義がかわってしまったようです。〇禁教令のもと、江戸時代を通してうわべは仏教徒をよそおってキリスト教信仰をまもり通した人々のことを「隠れキリシタン」。たしかに学校でそう習ったように記憶しています。ところがその後、①明治以降禁教が徐々に緩和されるとともにキリスト教信者であることを明らかにしあらたに建てられた教会に戻ってきた人々を、それまで隠れていた(潜伏していた)という意味で「潜伏キリシタン」と言い、②仏教信仰や神道信奉にかくれてキリスト教を信仰していたもののキリスト教に仏教や神道が混合され日常的な先祖信仰もくわわり、その特異な信仰を禁教が解かれたのちもキリスト教に戻ることなく独自に信仰しつづける人々のことを「カクレキリシタン、かくれキリシタン」と区別しているようです。 これらの定義を御存じの方にとってはいまの説明は冗長に思えるかもしれませんが、ご存じでない方にはこの定義を頭においていただかないと話を先にすすめられません。『潜伏キリシタン』のなかで宮崎氏はカクレキリシタンについて「隠れてもいなければ、キリスト教徒でもない」と書いておられます。たしかにそうなのですが、そこまではっきり言い切ってしまったのでは身も蓋もない。そう思って『かくれキリシタン』を読むとこの本は情緒的な写真が多く、論評はさけて見て聞いた事実を淡々と記しているためわずかに残るカクレキリシタンにたいして感傷をおぼえてしまいます。そう思って『潜伏キリシタン』のページをあらためてめくると、カクレキリシタンと呼ばれる人たちが自分たちは何も悪いことはしておらず逃げも隠れもしていないのだからそんな呼び方(カクレキリシタン)はやめてほしいと言われた体験がつづられ、実態に合った名称に変えるべきなのだろうが「カクレキリシタン」の呼び方が市民権をえた今となってはそれも難しいし混乱をまねく恐れもあると書かれています。 この2冊の本を読んだおかげで、隠れキリシタンゆかりの地を見て歩く旅の中身がずいぶん濃くなりました。 平戸、春日、生月島 平戸一帯には石で組んだ道と塀がよく見られます 仏教寺院の向こうにキリスト教会の尖塔がのぞく有名な風景 平戸大橋の近くに建つ田平天主堂レンガ造りの重厚な建物ですが、明治になっての創建であり隠れキリシタンとは無縁とのことで世界遺産への登録からは除外されたとか。 平戸島中央あたりにある紐差教会おなじく前身が明治時代、この教会自体は昭和の建築で隠れキリシタンとは直接つながりがない。 平戸島から生月島へわたる手前あたりに春日集落はあります いまでは棚田が観光名所になっていますが、かつては隠れキリシタンの里でした 生月島江戸時代には隠れキリシタンが多く住んでいた。 カトリック山田教会明治時代になって宣教師からカトリックに戻るよう勧められるものの独自の信仰をまもったカクレキリシタンの子孫がいまも島には残っている。 平戸周辺をまわったかぎりでは、「かつて隠れキリシタンがいた」「いまもカクレキリシタンがいる」と説明を見聞きするだけで遺構も実像も見ることはありませんでしたが、美しい風景を堪能することはできました。取材ではないので、まずは満足。 外海(そとめ)へ、大野集落 大野集落 大野教会明治26年、この地で信仰を守り生きていた隠れキリシタンのためにド・ロ神父が私財を投じて建てたもの。いまは老朽化のため入れない。 出津(しつ)集落 出津教会堂明治15年に、やはりド・ロ神父によって建てられたもの。 大野教会と同様に禁教が緩やかになってから潜伏キリシタンのために建てられた教会ということになります。 ではカクレキリシタンはというと、礼拝するための教会のような施設はもたず、自宅に祭壇等をととのえて独自に信仰を守っているようです。 たとえばオラショ。もとはラテン語やポルトガル語による祈りの言葉だったはずが、200年以上におよぶ禁教の期間は宣教師も神父もいないゆえ、キリスト教に対する理解もおぼつかない人々が口頭でいい伝えていたのですから当初のものとはずいぶん変わってしまったことでしょう。ネット検索では「呪文のように唱えられた」と解説しています。AIだけに遠慮ない表現ですが、言い得て妙です。 出津集落から山に向かう途中にある野道共同墓地(キリシタン墓地) 昔の墓は石塔がなく結晶片岩を積み上げただけのもの。遺体は頭を南に向け膝を曲げて寝かせていた。 禁教令が敷かれ国外追放か殉死の結果、外国人宣教師も神父もすべて姿を消します。そのあとただ一人で隠れキリシタンに布教をつづけたのがジワン神父の弟子であった日本人伝道師バスチャン(セバスチャンに由来、元の名は治兵衛)です。そのバスチャンが隠れ潜んでいた家屋が残っているので訪ねてみます。 車で行けるところまで山を上り、途中から細道を歩きます。一般の隠れキリシタンが暮らしていた家の跡でしょうか、墓地にもあった結晶片岩を積み上げた土台がありました。 家屋跡を通りぬけ、谷に下り、しばらく歩くと見えてきました。いまは木を伐りコンクリートで道を固めていますが、当時は獣道だけで発見されないように用心していたはずです。 案内板には「バスチャン屋敷跡」となっていますが、むしろ小屋に近い。当時の日本の住宅事情からすると特別に劣悪とか貧相なものではないのでしょうが、ここに至るまでの道のりを考えると住み心地はいかにも悪そう。 バスチャンの最後は捕縛され(おそらく拷問をうけて棄教を迫られた末に)殉死します。バスチャンが伝え残した希望の予言「7代ののちに海の向こう(すなわち南蛮)から神父が船に乗ってやってきて罪の告白を聞いてくれる」「それからは誰もが罪の告白をし、許しを得て、神の教えを聞くことができる」「だれに憚ることなく神をたたえる歌を唄うことができる」... Read More | Share it now!
豊臣秀吉 → 藤堂高虎 → 加藤清正 → たどり着いたのが玖島城
【長崎県・大村市 2026.7.10】 長崎県大村市にある玖島城を訪ねてみます。この玖島城の存在を知ることになるまでの過程が歴史をたどる旅そのものなので、前振りとして書いておきます。 秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)については、個人的には日本史に残る最悪級の暴挙愚行と考えていますが、それだけに関心度はたかく本も読めばネットでも調べました。慶長の役すなわち朝鮮出兵の後半戦では、朝鮮半島の西側を進軍する宇喜多秀家を大将とする軍勢はまたたく間に全羅道(いまの韓国南西部)を制圧し、南端の海岸沿いに拠点とする城を築くことにします。縄張を担当したのは築城名人としていまに名をのこす藤堂高虎、出来上がった城が順天城(順天倭城)、ネットで縄張りをみても良く考えられたものだとわかるし、画像をみてもわずか3か月で造り上げたとは信じがたい堅牢さがうかがえます。一口で言えば、たいへん魅力のある是非訪ねてみたい城址です。 この順天城には小西行長が城主となって入ります。他には平戸藩主の松浦鎮信、日野江藩主の有馬晴信、福江藩主の五島玄雅、大村藩主の大村喜前。小西行長が肥後国である以外ほかの4氏はみな肥前国に属します。もうひとつ注目すべきは松浦鎮信以外は全員がキリシタン大名であること。 さて今回の旅を企画するにさいして、キリシタンによる武装蜂起とされる島原の乱、秀吉の晩年から江戸時代を通じておこなわれるキリシタン弾圧について、やはり本も読めばネットでも調べました。本の紙面とPCの画面で探索する過程で、大村喜前よしあきが日本において最初のキリシタン大名であった大村純忠すみただの息子であり跡継ぎであること、さらに有馬晴信は従兄弟にあたりその晴信の姉が喜前の正室であることを知りました。要は大村・有馬一族はがっちりと血縁で縁戚関係をむすび、それゆえに親族そろってキリシタンだったということです。 ところが大村喜前も有馬晴信も江戸時代になるとあっさり棄教してしまいます。親族そろってキリシタンとはいえ、そもそもが南蛮貿易の利をえるための方便であり、江戸幕府からキリシタンであるがために睨まれるのであれば早々に棄教し領民にも棄教をすすめ、それでも従わないものには強制した(キリシタン弾圧)ということでしょう。(有馬晴信については他のブログで書いているので省きますが)大村喜前が棄教したきっかけは知己をえていた加藤清正が熱烈な日蓮宗(法華経)の信者であったことから、あっさり改宗したようです。「あっさり」と記述する文献はありませんが、加藤清正が肥後国の北の領主なら小西行長は肥後国の南の領主で犬猿の仲、そのキリシタンである小西行長とおなじ順天城に起居し、明・朝鮮の連合軍と生死をかけてともに戦った(熱心なキリシタンであればそのときキリスト教の神に祈ったことでしょう)にもかかわらず、加藤清正との知己を大切にするのはよいのですが清正の影響で改宗したことを考慮すると、あっさりと考えざるえません。 大村喜前は秀吉の死後(もちろん朝鮮から帰国後)、豊臣家の衰退と徳川家の隆盛に時代のおおきな変革を感じ国がふたたび乱れることを予見したのか、新たな城を築いてそれまでの三城城さんじょうじょうから移り住む決断をします。参考にしたのが三方を海に囲まれた要害堅固な順天城。さらに藤堂高虎とならび築城の名人とたたえられる加藤清正の助言をうけてつくられたのが玖島城です。 玖島城 前振りが長くなりました。それでは城を見て回ります。 板敷櫓と高石垣 石垣前の緑地部分は海につながる水堀だった 玖島城の見取図... Read More | Share it now!
原城にて、島原天草の乱について考える (2)
【長崎県・南島原市... Read More | Share it now!
島原城にて、島原の乱について考える (1)
【長崎県・南島原市~島原市... Read More | Share it now!
近江八幡の山を歩き、豊臣秀次の城と城下町を散策する
【滋賀県・近江八幡市 2026.6.29】今年放送されている大河ドラマ「豊臣兄弟」については私自身は観ていないのですが、毎週月曜日に家内が昨夜放送分のドラマの展開を聞かせてくれます。ひとつ感心したのは、登場人物のなかで「お市の方」「織田信長」「荒木村重」らが回を追って順次話題の中心になると、私のサイトのなかの該当するブログへのアクセス数が急上昇します。私個人のブログですらこれだけ影響があるのですから、大河ドラマの主人公にと観光地がご当地の有名人を推すのも頷けます。ところで私のブログですが、弟・秀長について個別に書いたものはありませんが、秀吉については本能寺の変~中国大返し~山崎の戦いあたりを主題にして書いています。ということは間もなくそのブログのアクセス数も跳ね上がるのではと期待しつつ、さらに先読みしてみました。豊臣秀次についても個別に書いたブログがあります。じつはこのブログ、まったく人気がなく3年ほど前に書いたもののず~っとアクセスに関しては閑散としています。「豊臣兄弟」の放映中に秀次にスポットライトがあたれば起死回生となるかといえば、NHKがお茶の間の娯楽として放映する大河ドラマですから先ず秀次を大きく取り扱うこと自体がないはずです。というのは豊臣秀次の死(切腹)は謀反どころか権力争いともいえない、晩年に耄碌した秀吉の狂った采配によるものです。もし多少なりとも史実にもとづいて描くなら秀吉をうんとどす黒い人物として描かねばなりません。NHKが大河ドラマの、しかも最終回が近づいてそれはしないでしょう。 百々神社~岩崎山 豊臣秀次の元の名は治兵衛、尾張のどこにでもいる貧しい百姓の長男。ところが母親が秀吉の姉であったことから、いつの間にか武士に取り立てられ、ここへあそこへと政略的に養子(人質)に入れられ、気づけば二十歳前で近江20万石の大名になっていました。その居城として築かれたのが近江八幡城です。実情は近江の治世のためと畿内への西の入口の防備の必要性から、秀吉がすべての差配をしたうえで君主として秀次を据えただけかもしれません。しかし秀次は武将としては名将ではなかったものの、為政者としては名君であったと言えるかもしれません。なにしろ近江に君主として居たのは5年ほど、しかも年齢的には二十歳前後のとき。それで今にのこる近江八幡の城下町の基礎をつくり上げたのですから凡庸なはずがありません。ましてやのちに「殺生関白」と悪評される兆候は探してもみつかりません。 現地にあった案内図より抜粋 近江八幡へは過去に来たことがありますが、城には案内図の下方にあたる日牟禮ひむれ八幡宮側の登山口から登りました。この登山道なら30分もあれば山上の城跡にたどり着きますが、なにしろ登山道がおもしろくない。 ということで、今日は近江八幡駅から案内図の上方にあるユースホステル前までバスで行き、そこから山を縦走して八幡山城へ、そこから前回登った道をくだって旧城下町へと歩くことにします。 百々神社石段横に登山口がある いきなり粗い山道が待ち受けていますが、 低山を距離をかけて登るので勾配はきびしくない こんな穏やかな山道もあります ひょっこり山林が切れると眺望がひらけます 岩崎山山頂は眺望なし 北之庄山、北之庄城 次のピーク北之庄山の山容が見えました 途中の展望地からは西の湖、安土城のある安土山、観音寺城のある繖山がみえる 北之庄山頂には北之庄城跡が遺っていますこれは大手門跡 大手門跡(桝形虎口)を内側から見る資料がないものの佐々木六角氏が観音寺城の支城として造ったものではないかと推測されています。 曲輪の周囲はすべて土塁で囲まれている 七つ池跡... Read More | Share it now!
大阪でみつけた日本民家集落博物館は存続のピンチか
【大阪府・豊中市 2026.6.21】神社の屋根にいまでもたまに使われている「茅葺き」のことをウェブで調べていたら、ひょっこり「日本民家集落博物館」なるものに行き当たりました。所在地を調べてみると、なんとびっくり大阪府豊中市で最寄り駅は(服部)緑地公園駅。ここならば私の自宅から大阪メトロ(地下鉄)を一回乗り換え、そのまま北大阪急行に連絡して乗り継ぎのタイミングにより40~50分、電車賃440円でたどり着けます。時間はふんだんにある老後生活の私にとっては所要時間の長短は、ぜんざいに白玉団子が4個入っているか5個入っているか程度の問題でしかないのですが、往復の電車賃が1000円以下で収まるのはなんとも有難い。ということでさっそく行ってみることにしました。※話の発端の茅葺かやぶきについて。茅とはススキやアシ(ヨシ)などイネ科植物の総称で、米わらや麦わらを使う場合は藁葺わらぶきと表現します。茅葺きの方が油分を多く含んでいるため耐久性が優れており、手入れがよければ50年保つこともできますが、藁葺きの場合は10年からせいぜい20年と短くなります。 河内布施の長屋門 入り口前にあった案内図より抜粋 1955年(昭和31年)に、どのような縁があったのかわかりませんが、関西電力が飛騨白川郷の民家一棟を豊中市に寄贈したのがはじまり。そこから服部緑地公園の整備にあわせて財団法人日本民家集落が設立され、大阪府内をはじめ全国から江戸時代に建てられ使われなくなった民家をあつめて遺産として残していこうということになったようです。 河内布施の長屋門... Read More | Share it now!
群馬県にのこる真田氏の城・名胡桃城、沼田城、岩櫃城を歩く
【群馬県・みなかみ町、沼田市、東吾妻町... Read More | Share it now!
鉢形城のどこが要害堅固なのやら
【埼玉県・寄居町 2026.5.12】群馬県との県境にちかい埼玉県の北西端、ですから戦国時代でいえば上野こうずけ国との国境にちかい武蔵国の北西端に、鉢形城はあります。築城は関東管領かんれいであった山内上杉氏の家臣・長尾景春といわれています。そののち後北条氏の北条氏邦が拡張改修し上野国への侵攻の拠点としますが、武田信玄の包囲にも上杉謙信の攻城にも屈することがなかったため、そのころから要害堅固な城として名を馳せます。落城したのは秀吉による小田原征伐のさい、前田利家と謙信の跡継ぎである上杉景勝ひきいる3万5千の大軍に包囲されついに降伏し落城します。 ところで上杉謙信の元の名は長尾景虎。長尾景春とは同族ですが、景虎が生誕した時には景春は没していたのでふたりが交わったことはありません。しかし歴史には不思議な成り行きがあります。景春が仕えていたころの山内上杉氏は全盛期でしたが、その後庶流の扇谷おうぎがやつ上杉氏との同族争いなどで衰退し、さらに急成長する後北条氏に追われる形で当時の当主である上杉憲政のりまさは越後へと逃れます。頼ったのは長尾景虎。ここで上杉憲政は関東管領の職位を景虎にゆずり、さらに名門・上杉の姓を名乗ることを認めるだけでなく編諱(へんき:地位が上のものが下のものに実名の一文字をあたえて主従関係を強固にする当時の習慣)して政の字をあたえます。こうして誕生したのが上杉景虎、あらため上杉政虎、出家して上杉謙信。 さて憲政ですが、越後で余生を送るはずが謙信が脳卒中(?)で急死。謙信は自らを毘沙門天の生まれ変わりと称するほどの熱心な仏教信者だったため生涯不犯ふぼん(性行為をしない)ゆえ実子がいません。そのため甥の景勝と後北条氏からの養子(北条氏康の七男)である景虎とのあいだで家督争いが起きます。このとき憲政はよりによって自分を越後に追った後北条氏からの養子に肩入れします。このお家騒動を「御館おたての乱」と後世呼びますが、謙信が憲政のために建てた館がそれで、景虎が当初この憲政の館に籠ったがゆえの命名です。結果は甥の景勝が勝利、憲政は自害したとも討ち取られたとも言われますが、このときに命を落とします。 さて謙信のあとを継ぐことになったその景勝が、秀吉の命とはいえ小田原征伐すなわち後北条討伐の先鋒のひとりとなって、いまは北条氏康の五男(すなわち御館の乱であらそった景虎の兄)である氏邦がまもる鉢形城を攻め落とすことになります。さらにたどれば鉢形城はもともと上杉謙信と同族であったはずの長尾景春の居城、そして景春は謙信をたよって越後に逃れた上杉憲政の数代前(大叔父?)の関東管領に仕えていた家臣。 歴史は読めば読むほど、知れば知るほど枝葉がのびるように興味がかぎりなくひろがってゆきます。鉢形城も遠く上杉謙信とのつながりを知ったからこそ訪ねてきた、と言えるかもしれません。 鉢形城 駐車場にあった案内図より抜粋 鉢形城は荒川に深沢川が合流する三角地形上につくられており、両河川の流れと切り立つ断崖が自然の要害となっていると情報を得てきました。 歴史館は後回しにしてその脇を通りぬけ、深沢川をわたって本曲輪をめざします。 外周に土塁はありますが、この辺りは防御は弱い 深沢川にむかいます。手前の横に走る谷は堀切、右前方が深沢川 のどかな遊歩道のような? これが深沢川・天然の要害?これなら私がオヤツと缶コーヒーをもってサンダル履きで渡れそう 本丸 本丸へ向かうには、左右に土塁、正面で土塁に突き当たるため左折が必要 虎口あり 本曲輪をかこむ土塁 土塁の内側(本曲輪内)南側から見る 本曲輪... Read More | Share it now!
埼玉県北西部の城をまわる・小倉城、菅谷館、杉山城
【埼玉県・ときがわ町、嵐山町 2026.5.12】今回北関東の主に山城をまわるため、大阪から新宿経由でまず埼玉県の川越までやってきました。その川越ですが、JRのチケットのみで行き着こうとしたため池袋、大宮を経由しての道程になりました。さて新宿駅を出てから池袋までは気にもしなかったのですが、荒川をわたり埼玉県に入っても川口市、さいたま市と進めど進めど山がありません。しかも市街地がえんえんと続きます。大宮駅で電車を乗り換えても川越までの区間は平地にひろがる市街地と市街地郊外ばかりで、ここにも山らしい山がありません。首都圏に住んでいる方にとっては意外でさえないのでしょうが、これほど山を見ない風景というのは日本でも稀有でしょう。私の心配は、山がないのになんで山城があるんや? 山城から山を取ったらただの城やろが、と大阪人得意のボヤキを言いながらその日は川越市内に泊まりました。 小倉城(おぐらじょう) 翌朝川越市内でレンタカーを借りて北西に走ったところ、なんとなんと1時間も走ると(距離にして30kmほど)、山がある、森林がある、市街地はない、ホントにここは首都圏かと疑うようなのどかな風景がひろがったきました。 駐車場にあった案内図より抜粋 武蔵小倉城は、後北条氏の重臣であった遠山某によって築城されたともいわれていますが、正確なところはわかっていないようです。北関東に特有の平石をつんだ石垣が遺っているそうで、それを見るために訪ねました。案内図中央やや左下の青い駐車場マークより右へ500mほど歩き、人物イラストの足元あたりから山に入ることにします。 登山口に向かいながら城山をみる 山道を登ります 郭1(主郭=本丸に相当)の手前にある虎口桝形虎口と説明されているものの、よくわかりませんでしたしかも発掘中であたり一面青いビニールシートで覆われていた 主郭への入り口である虎口 主郭跡 主郭から郭3に向かう途中にひょっこり石垣が 郭1と郭3をへだてる堀にかかる木橋現代になって架けられた橋ですが、老朽のため通行禁止 郭3の周囲に石垣がありました 発掘中で立ち入り禁止のため遠目からズームで撮影 郭2と郭4をへだてる大堀切 【概要】比企郡ときがわ町... Read More | Share it now!
川越夜戦に謎はない、勇将が数を頼りの敵を蹴散らした
【埼玉県・川越市... Read More | Share it now!