原城にて、島原天草の乱について考える (2)
【長崎県・南島原市 2026.7.9】
島原城を舞台にした騒乱(島原の乱)については前回書きました。
今回はそれにつづく原城を舞台にした島原天草の乱について考えてみます。
島原の乱(あるいは島原の乱の前半戦)は、虐げられた百姓たち平民が一揆となって代官所などを襲撃したことから始まります。対する支配階級の武士(ここでは島原藩)は討伐に向かいはしますが、一揆勢の勢いに押されて島原城に引き上げます。
一揆勢は勢いのまま島原城に押し寄せるのですが、大砲はもちろん鉄砲など攻城に有効な武器はまともに所持しておらず、対する城方は積極的に城から打って出て全面的に戦うことをしなかったため、平民一揆側優勢であったものの勝敗は決していません。
島原の乱に呼応するように、その数日後に天草にて当地の一揆による騒乱が勃発します。
一揆勢は天草統治の要となる富岡城まで攻め寄せますが、討伐軍が急行しているとの報をうけ撤退、そののち海をわたって島原半島の南端近くに位置する原城へと移動します。
※「島原の乱に呼応するように」と書きましたが、あらかじめ日取りまでも打ち合わせがあったのかはわかりません。たしかなことはさきに原城をめざしたのは天草勢であったこと。それならば島原勢の一揆をきいて天草勢も奮い立ち、討伐軍の想定外に早い急行を知って海を隔てた(しかも島原勢の蜂起で沸き立つ)島原半島へ渡ったのかもしれません。
島原半島ではさっそく島原勢が合流します。最初から原城での籠城戦を考えていたのか、両者が合流してから決断したのかはわかりませんが、いそぎ廃城になっていた原城の修復をふくむ籠城準備に着手します。
籠城側の総数は3万7千人と伝えられていますが、それは戦闘員だけでなくその家族の女子供老人をふくめています。
この原城での籠城戦ですが、一見よく計画されているようにも見えます。
かつて天草をふくむ肥後南半分の領主であった小西行長の下にいた武士が指導者の立場にたって戦の采配をとり、おもに島原の代官所から蔵米を強奪して兵糧を貯め、島原・天草両一揆の戦果として武器を調達し、戦をするのも百姓平民だけでなく近隣の浪人(すなわち戦のプロ)をあつめ、さらに天草四郎という象徴をたてて結束を促します。
ところが調べれば調べるほど、どこかボタンを掛け違えているかのような違和感をおぼえます。
一揆側のひとつめの誤り

左上の大手門跡からまっすぐ本丸へ向かいます



厳密にいうと、このころ天草藩なるものは存在せず、唐津藩(佐賀県北部)が飛び地として天草郡を領有していました。
当時の城主・寺沢堅高はみずから現地に赴くことはなく、天草郡の統治の要となる富岡城に城代を置いていました。
天草郡は平地の少ない島の集まりで実質的な石高はせいぜい2万数千石程度。ところが城代が過大報告したのか、あるいは寺沢本人が飛び地で自分が直接かかわらないという気安さもあってのことか、幕府には4万2千石と申告されていました。島原と酷似した状況です。
違うのは年貢の取り立ての過酷さが島原ほどではなかったという点。ただしキリシタン弾圧は厳しかったようです – – – 表現を変えた方がわかりやすいようなので言い換えます。
島原では課せられた年貢と税のすべてを滞りなく納められる領民は皆無だったと思われます。そして城主の松倉勝家はキリシタン云々よりも年貢と税を取り立てることに執心していたので、キリシタンであろうがなかろうが苛烈な拷問を受けることになります。
天草ではまず年貢の取り立てがあり、さらにその者がキリシタンの場合は拷問がいっそう厳しくなったと考えられます。
島原の一揆は一にも二にも年貢と税の過重な負担とその取り立ての過酷さに反発するもので、天草の一揆は年貢の過重な負担にキリシタン弾圧が加わったことで暴発したものと考えるべきではないでしょうか。

これも造ったものか自然のままか不明



まったくの独断であることをお断りしたうえで、島原一揆と天草一揆のキリスト教信仰の強弱濃淡の違いを示してみます。
①一般的にみて敬虔な信仰者
②周囲の環境や周りからの勧めで信者になっている
③キリスト教に対して信仰心はないが成り行きで信者と一緒にいる
島原一揆については②が一番多く、①から③全体で構成されている。
天草一揆については①が一番多く、②が続き、③は少ない。
間違いなく言えることは、一揆に加わっている島原領民と天草領民では個々のキリスト教への傾斜の度合いがずいぶん違っていたであろうことです。その二つの領民が同じ城にこもり共に命を賭して戦うということ自体に無理があったのではないでしょうか。
これがひとつめの誤りです。
幕府側のひとつの誤り


攻城戦はおよそ3か月に及びますが、その前半戦は一揆軍の善戦が目立ちました。
もっとも守る一揆方が勇猛だとか巧妙だとかいうよりも、攻城する幕府方の不手際ゆえというべきでしょう。
なにしろ戦の前半の幕府軍の総兵力は3万程度、通常でも敵の城を落とすには籠城兵の3倍の兵力が必要といわれているのですからまったく足りていません。しかも幕府軍とはいっても日頃付き合いもない複数の藩からの寄せ集め、くわえて上使(この場合は総司令官)に任命されたのは深溝藩の城主である板倉重昌。
深溝藩といってもご存じないでしょう(私も知りません)、調べたところ今の愛知県の岡崎市の南、額田郡幸田町あたりにあった小藩で、その石高は1万5千石。1万石以上がかろうじて大名、それ以下は旗本と区別されていた時代に「ぎりぎり大名」が指揮を執ったところで、他藩の将がすなおに従うはずもありません。
さらに拙劣なのは、板倉重昌では埒が明かないと思ったのか江戸幕府は代わりの上使として早々に老中の松平信綱を送る手配をします。ここで焦ったのが板倉重昌、あらたな上使が到着する前に城を落とさねば面目ないと焦燥したのかみずから先頭に立って突撃し、鉄砲玉にあたって頓死してしまいます。(ほんらい陣の後方で指揮を執るべき総司令官が最前線に出て撃たれて死んだのですから戦死といわず頓死というべきでしょう)
一揆側のふたつめの誤り




幕府の代官所等から食料を奪ったとはいえ、後詰めの援軍が来るあてもない籠城戦をかぎられた食糧でつづけることになるのがわかっていながら、なぜ女子供老人をともに籠城させたのでしょうか。
ふと思い出したのは秀吉がおこなった鳥取城にたいする兵糧攻めでの緻密な計略。城を包囲するより先に近郊の食料を買い占めて敵方が兵糧を運び込む機会を失わせ、さらに近隣の百姓ら非戦闘員を脅して城に逃げ込ませ城内での食い扶持を増やす。鳥取城では馬やネズミはもちろんのこと死人の人肉を食べるまでに至りついに落城します。
この史実を読んだときには秀吉の(たぶん軍師である黒田官兵衛の献策でしょう)冷徹さにゾッとしたものですが、逆にここでは一揆勢の浅慮にやり切れなさを覚えました。
これが一揆勢のふたつめの誤りです。
一揆側のもうひとつの誤り


島原天草の乱(あるいは原城の戦い)と言えばまず出てくるのが天草四郎、本名は益田時貞、父が小西行長の旧臣であったことはほぼ間違いありませんが、庄屋の××某の養子になったとの説もあります。四郎本人が長崎まで出向いて勉学に励んでいたそうなので、経済的に恵まれていた環境をかんがえると事実かもしれません。
勉学のよくできる神童、さらに眉目秀麗な美少年であったようです。
ここまでは事実ですが、さらに言われる生まれながらにカリスマ性があったとか、救世主の再来とか、数々の奇蹟を起こしたとかになるとどうなのでしょうか。
たとえば奇蹟の具体例として記される、盲目の少女の目に触わると見えるようになった、海を歩いて渡った、などは聖書に登場する奇蹟譚そのまんま。ならば兵糧攻めに飢える人々の口なり腹なりをさわって栄養補給してやるとか、海を歩いて渡って牛だの鶏だのを連れて帰るとか、それができてこその奇蹟だろうと性格が悪いうえに罰当たりな私なんぞはつい考えてしまいます。
もっとも天草四郎を責めるのはお門違い。
四郎が原城で戦死したのは17歳の時ですが、受洗したのは10歳を過ぎてからではないかと思われます。いかに聡明であったとはいえ信仰歴数年で(天草・島原地方の)キリスト教信者の最高指導者になるのは無理があります。
無理があるからこそ奇蹟譚をならべて四郎を神格化する必要があったのでしょう。
益田時貞が必要だったのではなく、劣勢を承知で幕府軍と戦うためにはキリシタンの結束を固めるためのシンボルが必要だった、そのために天草四郎をつくり上げたと考えられます。
それでは天草四郎をシンボルとして立てたことは正しかったのでしょうか、といえば正しかったのでしょう、しかし無理がありました。
天草の乱においては間違いなく戦意高揚につながったでしょうが、原城の戦いは島原天草の乱であり、キリスト教に比較的深く帰依しキリシタン弾圧に抵抗する天草一揆だけでなく、年貢と税の過酷な取り立てに拷問死するぐらいなら戦って死のうと絶望のなかで立ち上がった島原一揆が合流したものです。
島原衆にとって、聡明で美少年ではあるものの数々の奇蹟を起こしたとの噂だけがある、しかも天草のキリシタンのシンボルであった四郎をどこまで慕い崇めることができたでしょうか。
これが一揆側のもうひとつの誤りです。
島原天草の乱の終焉

おもに天草勢がここに陣取り抗戦した
板倉重昌のあとをついで総司令官となった松平信綱は優秀であり狡猾でした。
九州各藩から12万をこえる兵力をあつめ、圧倒的な軍容で城を囲みながら力攻めはおこないません。
それどころか食料をもとめて海に出てきた敵城兵をとらえて腹を割き、兵糧が底を尽いていることを察すると兵糧攻めに徹します。

幕府軍は最終の総攻撃をまえに籠城する百姓たち平民にたいして、キリシタンではないものの成り行きで籠城している者、あるいは棄教する意思のある者は助命すると投降を呼びかけたとされています。
ある記録によれば、幕府側に内通していた1名をのぞき3万7千人全員が原城で落命(殉死)したと伝えています。
しかし別の記録によれば、幕府の呼びかけの前から脱出する者が後を絶たず総攻撃を受けるまでに1万人以上が投降していたと伝えています。
【アクセス】周辺の日野江城址、口之津港などとまとめて車で回りました。
【満足度】★★★★☆






