街歩き・山歩き,城郭・史跡,大阪

【大阪府・藤井寺市~羽曳野市 2026.7.28】 日本で文字が使われ始めたのは古墳時代がはじまったのと同時期ですが、それは死者とともに埋葬する鉄器(たとえば刀)に大王おおきみの名前、大王につかえて納棺をした家来の名や身分、その時の年月日などを記したというもので歴史を時系列で読み解けるレベルのものではありません。そこで後代の人が目を向けたのが大陸。3世紀の中国は魏・蜀・呉による三国時代といわれ、その歴史を記録した「三国志」のなかで日本(倭国)のことを記述した部分(いわゆる魏志倭人伝)から日本に邪馬台国があり卑弥呼がいたといった事実を知ることができます。もっとも邪馬台国も卑弥呼も3世紀前半の弥生時代の話。古墳時代についてはどうなんだと言うと、大陸では三国時代のあと南北朝にわかれての混乱期に入るため海の向こうの倭国のことまで書き残す余裕がなかったのか、3世紀後半から5世紀初頭まで記録がありません。そのためいまの日本ではこの文献上の空白期間を「空白の150年」とか「空白の4世紀」と称してミステリー扱いしています。 ふたたび中国に倭国の記録が見られるようになるのは5世紀以後。有名なのが当時の南朝宗に使者をおくり朝貢ちょうこうした「倭の五王」についての記述。讃さん・珍ちん・済さい・興こう・武ぶと五王の名が並んでいますが、どうやら最初の讃が応神天皇か仁徳天皇(に相当する大王)と日本の研究者のあいだでは考えられています。(応神が仁徳の父です) 空白の150年から倭の五王にいたる時代の天皇(正確には大王おおきみ)とその関係者を葬る古墳(陵墓)群が、世界遺産として登録されている百舌鳥・古市古墳群です。今日はそのなかで藤井寺市と羽曳野市にひろがる古市古墳群を訪ねてみます。 藤井寺市の公式HPより抜粋中央左寄りの仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳)から北の津堂城山古墳へ、東にあるいて允恭天皇陵古墳(市野山古墳)、そこからずっと南東へと歩きます。 日本全国には16万基の古墳があります。そのなかで天皇・皇后・皇太后・太皇太后のものを陵(みささぎ)、ほかの皇族(皇太子など)のものを墓と区別し、合わせて陵墓とよび総数は899(あるいは897)。それでは残り大半のものはというと、ヤマトおよび地方の豪族のものということです。 そもそも「天皇」の呼び名は40代目の天武がはじめて称したとのことで、それまでは大王(おおきみ)、大王とは全国の豪族のなかでもっとも力があり、長であり頂であった人のことをさしていました。(それならば、アマテラスを祖として神武天皇を初代とする天皇の系譜はフィクションかといえば、さにあらず。むかしの人々が自分たちの先祖や国の起源についてこうであったのであろうと信じてきた神話です) 岡ミサンザイ古墳 前方部... Read More | Share it now!

神社・仏閣,城郭・史跡,長崎

【長崎県・平戸市~長崎市 2026.7.11~12】いま手元に「隠れキリシタン」に関する本が2冊あります。宮崎賢太郎氏の『潜伏キリシタン』と、後藤真樹氏の『かくれキリシタン』。たとえばアマゾンで「隠れキリシタン」と入力して本を探すと、出てくるのは「潜伏キリシタン」あるいは「かくれキリシタン」「カクレキリシタン」をタイトル名に入れたものばかり。 私だけが?知らぬ間に、言葉の定義がかわってしまったようです。〇禁教令のもと、江戸時代を通してうわべは仏教徒をよそおってキリスト教信仰をまもり通した人々のことを「隠れキリシタン」。たしかに学校でそう習ったように記憶しています。ところがその後、①明治以降禁教が徐々に緩和されるとともにキリスト教信者であることを明らかにしあらたに建てられた教会に戻ってきた人々を、それまで隠れていた(潜伏していた)という意味で「潜伏キリシタン」と言い、②仏教信仰や神道信奉にかくれてキリスト教を信仰していたもののキリスト教に仏教や神道が混合され日常的な先祖信仰もくわわり、その特異な信仰を禁教が解かれたのちもキリスト教に戻ることなく独自に信仰しつづける人々のことを「カクレキリシタン、かくれキリシタン」と区別しているようです。 これらの定義を御存じの方にとってはいまの説明は冗長に思えるかもしれませんが、ご存じでない方にはこの定義を頭においていただかないと話を先にすすめられません。『潜伏キリシタン』のなかで宮崎氏はカクレキリシタンについて「隠れてもいなければ、キリスト教徒でもない」と書いておられます。たしかにそうなのですが、そこまではっきり言い切ってしまったのでは身も蓋もない。そう思って『かくれキリシタン』を読むとこの本は情緒的な写真が多く、論評はさけて見て聞いた事実を淡々と記しているためわずかに残るカクレキリシタンにたいして感傷をおぼえてしまいます。そう思って『潜伏キリシタン』のページをあらためてめくると、カクレキリシタンと呼ばれる人たちが自分たちは何も悪いことはしておらず逃げも隠れもしていないのだからそんな呼び方(カクレキリシタン)はやめてほしいと言われた体験がつづられ、実態に合った名称に変えるべきなのだろうが「カクレキリシタン」の呼び方が市民権をえた今となってはそれも難しいし混乱をまねく恐れもあると書かれています。 この2冊の本を読んだおかげで、隠れキリシタンゆかりの地を見て歩く旅の中身がずいぶん濃くなりました。 平戸、春日、生月島 平戸一帯には石で組んだ道と塀がよく見られます 仏教寺院の向こうにキリスト教会の尖塔がのぞく有名な風景 平戸大橋の近くに建つ田平天主堂レンガ造りの重厚な建物ですが、明治になっての創建であり隠れキリシタンとは無縁とのことで世界遺産への登録からは除外されたとか。 平戸島中央あたりにある紐差教会おなじく前身が明治時代、この教会自体は昭和の建築で隠れキリシタンとは直接つながりがない。 平戸島から生月島へわたる手前あたりに春日集落はあります いまでは棚田が観光名所になっていますが、かつては隠れキリシタンの里でした 生月島江戸時代には隠れキリシタンが多く住んでいた。 カトリック山田教会明治時代になって宣教師からカトリックに戻るよう勧められるものの独自の信仰をまもったカクレキリシタンの子孫がいまも島には残っている。 平戸周辺をまわったかぎりでは、「かつて隠れキリシタンがいた」「いまもカクレキリシタンがいる」と説明を見聞きするだけで遺構も実像も見ることはありませんでしたが、美しい風景を堪能することはできました。取材ではないので、まずは満足。 外海(そとめ)へ、大野集落 大野集落 大野教会明治26年、この地で信仰を守り生きていた隠れキリシタンのためにド・ロ神父が私財を投じて建てたもの。いまは老朽化のため入れない。 出津(しつ)集落 出津教会堂明治15年に、やはりド・ロ神父によって建てられたもの。 大野教会と同様に禁教が緩やかになってから潜伏キリシタンのために建てられた教会ということになります。 ではカクレキリシタンはというと、礼拝するための教会のような施設はもたず、自宅に祭壇等をととのえて独自に信仰を守っているようです。 たとえばオラショ。もとはラテン語やポルトガル語による祈りの言葉だったはずが、200年以上におよぶ禁教の期間は宣教師も神父もいないゆえ、キリスト教に対する理解もおぼつかない人々が口頭でいい伝えていたのですから当初のものとはずいぶん変わってしまったことでしょう。ネット検索では「呪文のように唱えられた」と解説しています。AIだけに遠慮ない表現ですが、言い得て妙です。 出津集落から山に向かう途中にある野道共同墓地(キリシタン墓地) 昔の墓は石塔がなく結晶片岩を積み上げただけのもの。遺体は頭を南に向け膝を曲げて寝かせていた。 禁教令が敷かれ国外追放か殉死の結果、外国人宣教師も神父もすべて姿を消します。そのあとただ一人で隠れキリシタンに布教をつづけたのがジワン神父の弟子であった日本人伝道師バスチャン(セバスチャンに由来、元の名は治兵衛)です。そのバスチャンが隠れ潜んでいた家屋が残っているので訪ねてみます。 車で行けるところまで山を上り、途中から細道を歩きます。一般の隠れキリシタンが暮らしていた家の跡でしょうか、墓地にもあった結晶片岩を積み上げた土台がありました。 家屋跡を通りぬけ、谷に下り、しばらく歩くと見えてきました。いまは木を伐りコンクリートで道を固めていますが、当時は獣道だけで発見されないように用心していたはずです。 案内板には「バスチャン屋敷跡」となっていますが、むしろ小屋に近い。当時の日本の住宅事情からすると特別に劣悪とか貧相なものではないのでしょうが、ここに至るまでの道のりを考えると住み心地はいかにも悪そう。 バスチャンの最後は捕縛され(おそらく拷問をうけて棄教を迫られた末に)殉死します。バスチャンが伝え残した希望の予言「7代ののちに海の向こう(すなわち南蛮)から神父が船に乗ってやってきて罪の告白を聞いてくれる」「それからは誰もが罪の告白をし、許しを得て、神の教えを聞くことができる」「だれに憚ることなく神をたたえる歌を唄うことができる」... Read More | Share it now!

城郭・史跡,長崎

【長崎県・大村市 2026.7.10】 長崎県大村市にある玖島城を訪ねてみます。 秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)については、個人的には日本史に残る最悪級の暴挙愚行と考えていますが、それはそれとして。慶長の役すなわち朝鮮出兵の後半戦では、朝鮮半島の西側を進軍する宇喜多秀家を大将とする軍勢はまたたく間に全羅道(いまの韓国南西部)を制圧し、南端の海岸沿いに拠点とする城を築くことにします。縄張を担当したのは築城名人としていまに名をのこす藤堂高虎、出来上がった城が順天城(順天倭城)、ネットで縄張りをみても良く考えられたものだとわかるし、画像をみてもわずか3か月で造り上げたとは信じがたい堅牢さがうかがえます。一口で言えば、たいへん魅力のある是非訪ねてみたい城址です。 この順天城には小西行長が城主となって入ります。他には平戸藩主の松浦鎮信、日野江藩主の有馬晴信、福江藩主の五島玄雅、大村藩主の大村喜前。小西行長が肥後国である以外ほかの4氏はみな肥前国に属します。もうひとつ注目すべきは松浦鎮信以外は全員がキリシタン大名であること。しかも大村喜前よしあきは日本において最初のキリシタン大名であった大村純忠すみただの息子であり跡継ぎ、さらに有馬晴信は従兄弟にあたりその晴信の姉が喜前の正室です。要は大村・有馬一族はがっちりと血縁で縁戚関係をむすび、それゆえに親族そろってキリシタンだったということです。 ところが大村喜前も有馬晴信も江戸時代になるとあっさり棄教してしまいます。親族そろってキリシタンとはいえ、そもそもが南蛮貿易の利をえるための方便であり、江戸幕府からキリシタンであるがために睨まれるのであれば早々に棄教し領民にも棄教をすすめ、それでも従わないものには強制した(キリシタン弾圧)ということでしょうか。(有馬晴信については他のブログで書いているので省きますが)大村喜前に関して言えば、知己をえていた加藤清正が熱烈な日蓮宗(法華経)の信者であったことから、その影響をうけたこともあったようです。 大村喜前は秀吉の死後(もちろん朝鮮から帰国後)、豊臣家の衰退と徳川家の隆盛に時代のおおきな変革を感じ国がふたたび乱れることを予見したのか、新たな城を築いてそれまでの三城城さんじょうじょうから移り住む決断をします。参考にしたのが三方を海に囲まれた要害堅固な順天城。さらに藤堂高虎とならび築城の名人とたたえられる加藤清正の助言をうけてつくられたのが玖島城です。 玖島城 板敷櫓と高石垣 石垣前の緑地部分は海につながる水堀だった 玖島城の見取図... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,花、紅葉見ごろ,京都

【京都府・木津川市 2026.7.3】京都府の地図をよく見ると、南部については大阪府(西)と滋賀県(東)に挟まれながら南端はその狭間から押し出るように奈良県へと出っ張っています。これを奈良県の地図で見ると、京都府の出っ張りのために北端がいびつに窪んでいます。いまの京都府南端・木津川市あたりは、江戸時代末期には津藩や柳生藩が部分的に領有し、さらに幕府の天領もあれば朝廷の禁裏御料も存在し、くわえて寺領まで散在する利害が絡み合った土地でした。それゆえ廃藩置県においては、なんらかの力関係だか忖度だかがあって京都府に組み入れられたのでしょう。しかし大阪府民である私が第三者の目で見ると、木津川市あたりは奈良県としか思えません。 聖武天皇が一時期平城京を離れることを考え最初に遷った恭仁京くにきょうはいまの木津川市の北部にあたります。奈良仏教の俗化を嫌い、多くの南都の僧が修行の地として選んだのがいまの木津川市の南部にあたります。これらの歴史を鑑かんがみても、また地理的にもJRで京都駅から木津駅まで50分かかるのに対して、奈良駅からだとわずか7分。それゆえ個人的には木津川へ行くのは奈良にゆく感覚なのですが、あまり声高に主張するほどのことでもないので... Read More | Share it now!