島原城にて、島原の乱について考える (1)

【長崎県・南島原市~島原市 2026.7.9~10】
キリシタン弾圧については一度きちんと調べたいと思っていました。
しかし私自身にキリスト教に対する興味も関心もなく結果として知識が足りないため、その信仰のどこに殉死するまで棄教しない強靭さ(?)があったのか理解できません。
遠藤周作氏の小説「沈黙」は、処女マリアがキリストを産むことなど生物学的にありえんと嗤っている私ですら深い感動を覚える名著です。しかしその感動は、解説にあるように「ともに苦しみ常に寄り添ってくれる神の愛」を私自身が理解したからではなく、神になぜ沈黙するのかと問い質す神父はまだしも、神が沈黙していることに疑問すら抱かすに死んでゆく信者の姿に「絶望的な感動」を抱いたというべきでしょう。

ところで島原をふくむ主に九州の各地でキリスト教信者が急増する時期がありますが、なぜ短期間にそれほど爆発的に増えたのかと調べてみると、城主が洗礼をうけてキリスト教徒になるとその知行地すべての民にキリスト教信者になるよう強制していたようです。
昨日まで仏壇に祀る先祖の爺ちゃん婆ちゃんに手を合わせていた父ちゃん母ちゃんが、今日からは処女マリアが馬小屋で産んだキリストにアーメンと口にしながら胸のまえで十字を切れと言われて、はいそうですかと追従できるものでしょうか。
しかも信仰とは追従ではなく、献身的に信じ仰ぎそこに自分の身も心もゆだねることです。
(キリスト教の本質は、人はキリストを通して神と接し、人がキリストを愛しキリストと一体になることで神はキリストとともに人を愛するということになるのでしょう)

江戸時代の初期(島原の乱の起こるころ)の日本の人口は1200万人程度、このころキリスト教徒は30万~40万に達したそうです。当時の人口そのものが少ないので今の日本の人口にあてはめると、その10倍ということになります。
献身的にキリストに身をゆだねるほどに、言い換えれば弾圧のさいに神が沈黙をつづけてもその愛につつまれていると感じながら殉死していける人がそのなかにどれほどいたのでしょうか。

有馬晴信、有馬直純

有馬晴信は肥前有馬氏13代当主として島原半島の日野江に城を構えます。
父・義貞はキリシタン大名ではないものの、日野江からも近い島原半島南端・口之津港が南蛮船の来航地になっていたことから南蛮貿易の恩恵をおおいに享受していました。また叔父(すなわち義貞の弟)の大村純忠が日本初のキリシタン大名(長崎港の開港もこの人によるもの)であったことから晴信も元服前後に洗礼をうけキリシタン大名となったようです。

日野江城の遺構はあまり残っておらず、
しかも発掘中で立ち入り禁止箇所もあります
前方にみえる海に突き出した岬部分が原城址
原城はもとは日野江城の支城だったものの、晴信が大胆に改修改築してのちに本城として移ります。

晴信は敬虔なキリスト教徒であったようです。
伝承では領民を強制的にキリシタンへと改宗させることはなかったようなのですが、訪れた宣教師には自由に布教活動をすることを認め、また仏教寺院などは積極的に破却したようです。
城主がキリシタン、南蛮貿易で藩はうるおい、南蛮の宣教師が闊歩し、仏教寺院や施設は破却される、それを見ながら領民はキリスト教なんぞ知らねえよと平常心で農作業や漁に精を出せたでしょうか。
完全強制ではないものの、自主的に改宗することを暗黙に強制されていたと見るべきでしょう。

領民のなかからキリシタンが増えるほど、その城主に対しては(南蛮との)貿易上の恩恵がありました。
同時に宣教師にとっても異国でキリスト教信者を増やせば増やすほどに母国から褒賞があたえられました。
それらはあくまで「数」が問題なのであって、「質」はというと – – –

城主そのものが利のために便宜上キリシタンに改宗したのか?と疑惑の境界線上の大名がいるくらいですから、この当時の城主が「質」まで求めていたとは考えられません。
また宣教師にしても、城主(領主)がキリシタンになれば領民もごっそりキリシタンに改宗すると宣教師本人が書き残しているのですから、「質」についてはあとの課題(?)だったのでしょう。

口之津港
もちろん往時の賑わいはありませんが、深い入り江が南蛮船が滞留するのにいかにも好都合であったことが伺えます

有馬晴信のあとをついだ14代目の直純は生まれながらのキリシタン大名でした。
しかし徳川家康による禁教令の発布にともないあっさり棄教しています。
それほど熱心なキリシタンではなかったのか、あるいは家康に近習していたことから保身のためにもためらうことなく棄教したのか、直接の理由はわからないのですが敬虔なキリシタンであった正室とも離縁したようです。

やがて禁教令はさらに厳しいものとなり、直純みずから宣教師を弾圧せねばならなくなります。
直純はみずからキリシタン弾圧に手を染めることに葛藤し、ついに家康に対してキリシタンの少ない土地への転封をみずから願いでます。

本来ならあり得ないことなのでしょうが、直純が家康の近習だったためこの申し出は受け入れられ、直純は日向へと転封されます。そしてそのあとに移封されてきたのが、松倉重政・勝家父子。
ここから島原の地獄がはじまります。

松倉重政、松倉勝家

JR島原駅から正面に天守閣が見える
正面が天守、その手前が巽三重櫓、右が丑寅三重櫓
手前から巽三重櫓、天守、前方の木立の陰に西三重櫓
天守と巽三重櫓

いま見ているのは松倉重政がそれまで有馬氏がつかっていた日野江城と原城を廃城にして、あらたに築いた島原城の本丸部分です。
かつての城郭は北から三の丸、二の丸、本丸とならぶ連郭式の縄張で、石垣をのこしてすべて焼失しましたが、昭和の時代になって天守ほか3基の三重櫓が復興建築されました。ほかにも本丸だけなのか城郭全体でなのか不明ですが、30余基の平櫓があったとのこと。
この複雑に屈曲する高石垣といい、巨大な水堀といい、そして天守をはじめ数々の櫓といい、戦の時代が終焉した江戸時代になぜそれほど堅固で豪壮な城をつくる必要があったのか。
しかも島原藩の経済規模をあらわす石高は4万石。じっさいの身上しんしょうに比して不相応に豪華すぎるように思えるのですが、それもそのはず、松倉重政は巨城をかまえて虚勢をはりたかったようで、じっさいには藩の石高4万石であるにもかかわらず江戸幕府には10万石と倍以上の申告をして、4万石ではなく10万石の大名にふさわしい城を築いたわけです。
(10万石を4万石と過少申告するのはあきらかに不正ですが、その逆の場合はなんと評するのでしょうか?)

江戸時代には石高10万石以上の大名を大大名と称していました。
ただ呼称が違うだけでなく大大名は幕府内でも重きをおかれ特権も与えられていたようです。
重きをおかれ特権をあたえられるのは重政にとっては願ったり叶ったりでしょうが、裏を返せば大名としての義務はその分重くなります。それゆえ通常の頭脳構造をもつ大名は過少申告することはあっても誇大申告なんぞするはずもないのですが、松倉重政は特殊なお頭おつむの構造をしていたようで、収める年貢や課せられる労務が倍以上にふえる不合理な負担はすべて領民に押し付ければよいと考えたようです。

考えてみるとゾッとします。
そもそも島原藩には4万石の収穫能力しかありません。
ところが城主は幕府に対して石高10万石と申告しています。かりに年貢の取り立てを五行五民としても領民は5万石分を納めさせられることになります。
4万石ー5万石=永遠に領民の取り分が残ることはないでしょう。

本丸西側にある大手門から入る
なぜか屈曲ではなく湾曲している虎口
不審に思って調べたところ、再建のさいに屈曲する桝形虎口を自動車が入りやすいよう穏やかなカーブにしたそう。
そして天守前は駐車場
どうせコンクリート製の再建天守だからとこだわっていないのでしょうが、駐車場なら周辺にいくらでも造れるだろうに。

松倉重政によるキリシタン弾圧はある時期までゆるやかなものでしたが、時の将軍・家光からやり方が手ぬるいと叱咤されたのを契機に、苛烈な弾圧者に豹変します。
さらに将軍のキリシタン嫌いにおもねるかのように、(現在のフィリピンの)ルソンが南蛮宣教師の中継地になっていることから、はるばるそのルソンを攻めそこにあるキリスト教施設を宣教師もろとも壊滅させることを提案します。
やはりこの男、異様なお頭の持ち主だったようです。

家光自身はあまり乗り気ではなかったようなのですが、取り巻きに熱心に説いて歓心を買ったのか、とりあえず準備を進めておくよう言質を得ます。
記録によると、重政はさっそく3000丁の鉄砲をそろえたとされています。どこからその資金を出したかといえば、これも領民から搾りにしぼり取ったようです。

島原城の公式サイトや城内展示の説明書を読むと、松倉重政はけっして悪人とは描かれていないのに気づきます。
島原城のことを「青い空によく映える白い天守閣」「さすが兵法の大家、築城の名人、松倉豊後守重政の作」と自画自賛(?)するあたりは笑ってやり過ごすにしても、松倉氏がいかなる政治をしたかについて「検地をして領内の経済状態をつかんだ」「池や堤防など土木工事で、農業生産力を向上させた」といかにも称えるかのような記述には憤りさえ覚えます。
さらに「有馬氏に続いて南蛮貿易で利益をあげ、豊かな財政であったようだ」の記述には呆れ果てました。南蛮貿易で利益を上げたのは有馬氏の功績、松倉氏はキリシタン弾圧を徹底しているのですからすでに島原(口之津)に南蛮船が来航しているはずがなく、もし豊かな財政というならそれは領民から搾りにしぼり取った藩財政のみが豊かだったということです。

松倉重政をあたかも称えるかのように書くことが「郷土愛」だとでも思っているのでしょうか。重政はもと大和の筒井順慶の家臣で、関ヶ原の役で東軍に味方した褒美に大和の五條に1万石の知行をもらい、さらに大阪夏の陣の功績で島原4万石に加増転封されています。
それゆえ大和の人、島原から見れば「よそ者」ゆえかばったところで郷土愛とは無関係です。

城内のキリシタン関連展示:マリア石造
クルス(ポルトガル語で十字架)の描かれた器
踏絵、踏箱
雲仙地獄の拷問図
説明版には「殉教図」とありますが、これは年貢取り立てのための「拷問図」と見るべきです。

松倉重政が没し、嫡男の勝家が城主を相続します。
この男こそ「血も涙もない」「冷酷非道の」極悪大名です。
年貢の取り立てだけでは満足せず、子供が生まれると頭銭ずせん、人が死んで墓を掘ると穴銭あなせん、家を建てれば戸口には戸口銭、窓には窓銭、囲炉裏には囲炉裏銭 – – – とにかく骨までしゃぶり尽くすような、過酷を通り越した不条理な税の取り立てを行います。
そして払えなければ凄惨な拷問、有名なところでは藁蓑わらみのを着せてそれに火をつけ燃え上がる炎に悶え苦しむさまを見せしめにする「蓑踊り」。

私の知るところでは、キリシタン弾圧としての拷問はほとんど見られません。その名を借りた年貢あるいは税の取り立てのための拷問がすべてではないでしょうか。
あるとき年貢も税も収められない地域にたいする見せしめとして、庄屋の臨月の若嫁が人質として連れ去られます。そして川に長時間沈ませる拷問のすえ、若嫁は川の中で死産し本人も衰弱死します。

この事件がきっかけとなって島原の領民が悲憤とともに立ち上がります。
これが島原の乱の前半戦で、島原領民は島原城に押しかけるのですが、終始優勢だったものの城を落として城方を降伏させるまでには至りませんでした。
さて、島原城にて島原の乱について考えてみたところ、この段階ではキリシタン弾圧にたいする反発や抵抗が主因となって一揆をおこしたとはとうてい考えられません。
つづきは原城にて島原の乱について考えてみます。

松倉勝家について島原の乱が平定された後のことを書いておきます。
苛烈な拷問による取り立てなどもふくめ乱がおこった責任をおもく見られ、松倉家は改易され所領はすべて没収、勝家は江戸に送られて切腹ではなく斬首刑に処せられます。
本来切腹とは武士の名誉を重んじての刑の処し方ですが、勝家の場合はその切腹も許されず江戸時代を通じて唯一斬首刑に処せられた大名と記録に残っているそうです。
胸糞の悪さが少しは晴れました?

【アクセス】JR島原駅から大手門入口まで徒歩10分
【入場料】天守閣700円
【満足度】★★★☆☆