千早赤坂の上赤坂城から間道をぬけて金剛山の千早城へ

【大阪府・千早赤阪村 2026.2.26】
「河内の悪党から智と勇で頭角をあらわし、巨大な幕府軍に寡兵で立ち向かい互角以上の戦いをつづけ、忠君愛国そのままに最後は負け戦に身を投じてゆく」
これだけ読めば、歴史ファンでなくても多くの人が楠木正成を思い浮かべることでしょう。

楠木正成にこのイメージ(あるいは評価というべきか?)が定着したのは、『太平記』の記述によります。
さらに現代でいえば、吉川英治の『私本太平記』によりそのイメージは確固たるものになります。(私は『私本太平記』の方しか読んでいません)。
1991年に放映された大河ドラマ『太平記』は、この『私本太平記』をもとにしています。
主演(足利尊氏役)は真田広之、正成役は武田鉄矢。この正成役のキャスティングについては逸話があり、当初は高倉健さんを考えていたところ、それではイメージ的にスマートなヒーローになってしまうということで、もっと泥臭いイメージの武田鉄矢さんに決まったとか。

良くも悪くも、楠木正成はスマートとはほど遠い奇手、奇策、奇計でもって幕府の大軍を翻弄します。
その舞台となったのが出生地である現在の千早赤阪村にのこる赤坂城 (上と下があり今回は上赤坂城)であり、金剛山の中腹に築いた千早城であり。
じつはその上赤坂城と千早城をむすぶ間道があります。この間道があったからこそ幕府の十万以上ともいわれる大軍に包囲されても互いの往き来が可能だったのでしょうが、正成ファンとしては一度はこの間道を歩いてみようと以前から考えていました。

千早赤阪

千早赤坂村役場

近鉄富田林駅からバスに乗り千早赤坂村役場前で下車しました。バス停から正面入口横にたつ楠木正成の騎馬像が見えます。
あとで確認したところ、この像は皇居の外苑にたつものと同形です。

楠木正成生誕地の碑

楠木正成は河内の土豪と言われており、幕府や荘園による主に土地支配に反発する悪党とされていますが、括弧つきで橘氏の後裔と記されています。
橘氏は天皇家からつながる名門四姓(源平藤橘)のひとつであり、河内の土豪というより幕府の重鎮とか、荘園支配に反発するのではなくみずから荘園を所有しているとか、そんなイメージが強いのですが、さてどうなのでしょう。

現地にあった案内板から抜粋

赤い太い線で記されているのが金剛山への赤坂古道町石道、今日あるくのは青い線で記されている桐山・二河原辺道です。
太い線で記された道より細い線で記された道の方が難路であるのは地図をみる上での常識ですから、それなりに覚悟してゆきましょう。

一般道から左の脇道に入ります
やがてこの場所につくと、右の坂道をのぼります

たとえば鎌倉幕府の倒幕に貢献した足利尊氏、新田義貞、赤松則村(円心)らは皆が源氏の流れをくむ名門の世子です。
後醍醐天皇の建武政権下で重用され三木一草さんぼくいっそうとよばれた結城親光は藤原北家、名和長年は村上源氏、千種忠顕は村上源氏の庶流である岩倉家をそれぞれ世祖としています。
当時は源平藤橘いずれかの流れを汲むものでなければ、幕府あるいは朝廷の要職につくにはできませんでした。そこで必要に迫られて橘氏の後裔を名乗ったのではないでしょうか。
もっとものちに秀吉が策謀をめぐらして藤原姓を得たのとはちがい、周りが(もしかすると後醍醐天皇みずから)裏で手を回したと考えるのが妥当でしょう。

※「三木一草」とは楠木正成のクスノ、結城親光のユウ、名和長年が伯耆守だったことからのホウ、そして千種忠顕のチクサ、から付けられた呼称で、もとの太平記が出典です。
やはり当時の人はずいぶんヒマを持てあましていたのでしょう。

上赤坂城

現地の案内板より抜粋 / 上の現在地から下へと歩きます
一の木戸を抜けてすぐ
四の木戸あたり
左の丘上が二の丸
茶碗原をぬけて本丸へ向かう
本丸跡

正成はこの城で敵軍を迎え撃つにさいして、あらかじめ2枚重ねの塀をつくり敵兵が登ってくると外側の塀を倒して防御とともに痛撃し、高所からは矢や石はもちろん熱湯も浴びせさらには糞尿まで撒いたそうです。
糞尿を撒いたところで致命傷は与えられませんが、撒かれた相手からすると闘争心がずいぶん萎えたことでしょう。

上赤坂城については以下のブログでもうすこし詳細に書いています。
「楠木正成をたずねて千早赤阪村を歩く」
https://yamasan-aruku.com/aruku-110/

まっすぐ上がると茶碗原から本丸へ
千早城へは左へといったん下ります

間道をあるく

草木がうっそうと茂る山道をすすむ
現在どれだけ歩く人がいるのか
静かというより寂しい雰囲気
坂の上が猫路城跡
天気予報では午後から晴れとのことでしたが、空はすっかり曇り霧がでてきました
標識は随所にあります
霧でよく見えませんが、この坂の上が坊領山
山頂に城跡があるはずですが登っていません
坊領山を通りすぎた辺りから坂がにわかに急峻になります。
ピーク地点がスマホの高度計でみたところ標高920m、この日到達した一番の高所でした
ピークを通り越してセトに到着 / 右へ下ります
セトからはきびしい下り / 今日一番の難路
黒栂谷道

セトからのきびしい下り道を降りきると、この黒栂谷道に出てきます。
金剛山に登るにはいくつもの登山道がありますが、わたしの一番好きな登山道であるカトラ谷ルートは千早登山口からこの黒栂谷道を上がって行きます。すなわちいまはその道を千早登山口に向かって逆進していることになります。

これより先は当時の間道がどこなのか分からないので一般の登山道をあるいて千早城へと向かいます。
さて千早赤坂の上赤坂城からの間道歩きですが、まず出発地点の千早赤阪村役場が標高120ⅿの地にあり、上赤坂城が標高342ⅿ、そこからアップダウンをくりかえしながら標高645ⅿの坊領山の下(600ⅿくらい)へ、そこから一気に920ⅿまで高度をあげて、つづいて一気に528ⅿの千早登山口までくだり、もう一度のぼって630ⅿの千早城へ。
これらを総計すると1,000ⅿかそれ以上の累積標高差を登ったぐらいにはなります。歩いた時間は4時間半でした。

対する金剛山登山ですが、528ⅿの千早登山口から山頂1125ⅿまで千早本道であれば1時間半で登れ、1時間と少々で下れます。要は (千早本道をつかう)金剛山登山よりも倍ほどの体力が要るということです。

千早城

三の丸から千早神社のある二の丸を見上げる

千早城はあまりにもつまらない城跡なので、霧でかすんでいるということもあって写真は1枚のみアップしておきます。

どうしてももっと見たいという方は以下のブログをご覧ください。
https://yamasan-aruku.com/aruku-74/

【アクセス】近鉄・富田林駅➡(南海バス)➡千早赤坂村役場前バス停~楠木正成生誕地の碑~上赤坂城~猫路城跡~(坊領山)~セト~千早城~金剛山登山口・千早本道口バス停➡(南海バス)➡河内長野駅 / 21000歩、4時間30分
【満足度】★★★★☆