群馬県にのこる真田氏の城・名胡桃城、沼田城、岩櫃城を歩く

【群馬県・みなかみ町、沼田市、東吾妻町 2026.5.15】
真田といえば、個人的には真田昌幸ファンですが、世間的に一番人気は真田幸村になるのでしょう。
なぜ人気があるかといえば、江戸時代の軍記物「難波戦記」での手に汗握る活躍が評判になってのこと。
ちなみに軍記物とは史実と伝聞に空想をくわえた、いまでいう小説です。ですから「真田幸村」はその筆者が名付け親、本名云々というより真田幸村のモデルになったのは真田信繁。

小説上のいかにも人気を博すように描かれた登場人物(幸村)が、親父の昌幸よりも人気があるのは仕方ねえと不平を言っているのではありません。
そもそも信繁が大阪冬の陣・夏の陣において獅子奮迅の活躍をしたのは事実で、徳川の大軍に果敢に挑み、一時は家康を追い詰めながらもついに力尽きるという展開がいかにも判官贔屓ほうがんびいきな日本人の心をつかんだのでしょう。

真田氏は信州の豪族・海野氏を祖としています。
幸隆(昌幸の父)の時代に武田信虎(晴信のちの信玄の父)の攻勢により海野氏は所領を追われ真田氏も流浪の身となりますが、武田家で内紛があって晴信が父を追いやり当主になると、幸隆は武田家に臣従する決断をします。
幸隆が外様でありながら頭角を現すのに時間は要しませんでした。なんといっても、無敗を誇っていた晴信がはじめて合戦で敗れ雪辱を晴らすつもりが二度まで敗れた、その因縁の相手である村上義清の難攻不落の砥石城を、(一見あっけなく)陥落させたのが真田幸隆です。
方法は力攻めでも籠城攻めでもなく、調略。
忍びをはなって諜報につとめこれぞという敵方の武将を懐柔し、徐々に相手の力を削いでついに瓦解させる、これが真田家のお家芸です。

名胡桃城

案内書でもらったパンフレットより抜粋
堀越しに三郭、二郭を遠望する
堀は少ないもののすべて大がかり

昌幸は幼少時に武田家に人質として預けられ、晴信(信玄)の近習としてそばに仕えます。
すなわち父・幸隆の血をひき信玄の薫陶を受けて育ったのですからすぐれた謀将にならないはずがありません。
ところで昌幸が人質として武田家に送られたのは、真田家のなかでは三男だったがゆえ。家督をつぐ可能性もないと判断されたからでしょう。
ところが天はときに気まぐれのような采配をします。信玄がなくなり武田家では勝頼が家督をつぎ無謀な侵攻を続けますが、長篠の合戦においては父・幸隆、長兄、次兄の3人が戦死。昌幸も従軍していましたが勝頼のそばについていたため死をまぬがれます。

その後上野こうずけと信濃越後をむすぶ要衝となる沼田城が後北条氏により占拠されたため、昌幸は勝頼から沼田城奪還の命をうけます。沼田城攻めの拠点とすべく沼田氏の一族であった名胡桃氏を調略し、その地に昌幸が築いたのが名胡桃城です。
※沼田城の奪還を要請したのは勝頼ではなく上杉景勝との説もあります。謙信亡きあとの家督争いである御館の乱おたてのらんの際、その騒擾に乗じて上杉氏が占有していた沼田城を後北条氏が乗っ取った事実、御館の乱での不利な状況を打開すべく景勝が武田家と同盟をむすんだ事実、それらを考え合わせると武田勝頼経由で上杉景勝の要請が昌幸にとどいたと考えるのは妥当です。

三郭から振り返る / 右にみえる平坦地が馬出
三郭から二郭へ
当時は橋はなく土橋でむすばれていた?
橋上から見渡す / 右が二郭
城郭内で最大規模をほこる二郭
二郭から橋をわたって本郭へ
この橋は当時あったもので橋脚跡をもとに再現した
本郭周辺の深い堀と切岸
本郭
本郭から見渡す

【概要】連郭式山城 / 遺構:土塁、堀、土橋、馬出、曲輪
【満足度】★★★★☆

沼田城

現地にあった案内図より抜粋
案内図では当時の城の様子がまったくわからないので、スマホで見つけた縄張図と照合しながら歩きました。
案内図の下方グラウンドになっているこのあたりが二の丸
二の丸から本丸へ / 虎口跡か?
堀跡
わずかにのこる石垣と石階段跡
近くまで行って石垣を見てみました
本丸へ、これは土塁跡なのか?
本丸
堀跡
木々で見えませんが、するどい崖になっているようです
古城?跡から見渡す

一時期は武田氏、上杉氏、後北条氏による奪い合いになったという沼田城。真田昌幸の調略によりいったんは武田氏の支配下になりますが、織田軍の攻勢により武田家が滅亡すると信長の家臣・滝川一益が治めることになります。

沼田城はひとつひとつの曲輪がバカでかいというだけで、見て回っただけでは要害堅固とはとても思えません。
案内書によると、当時は利根川と薄根川が城に接するように流れており、しかも城は川岸の崖上にあったそうです。
時代の流れとともに川の流れも変わり、鉄道と道路網が発達したいまでは交通の要衝と言われてもピンとこないし、さらに二の丸はグラウンドに本丸は公園に変貌してしまい、歴史を知らなければなぜこの城が「続日本百名城」に選定されたのか納得できないことでしょう。(歴史を知っていても納得できませんが)

【概要】平山城 / 遺構:土塁、堀、石垣、曲輪
【満足度】★★☆☆☆

岩櫃城

現地にあった岩櫃山登山案内図より抜粋
【現在位置】より尾根通りを進むことにします

昌幸の父・幸隆が武田氏の上野侵攻のながれで岩櫃城を落とします、もちろん城方の内応(裏切り)をさそう調略によります。
昌幸が家督をつぐと、さきに書いた沼田城を攻略するため、また当時真田氏が拠点としていた砥石城・真田本城(まとめて俗に真田の郷)の支城として大改修を行ないます。

山城跡らしくなってきました
どこまでが元の山の姿でどこから土塁かわかりません
手元に資料がないため、
どのように曲輪が配置されているのかわからぬまま、
歩いていると大がかりな堀切があり、
本丸に到着しました / 右に櫓台との案内板
沢通りへと下りてみます
この斜面を登って攻めるのは難儀でしょう
沢通り / 左の山上に本丸
下山してきたら、登山口は気のせいか城の虎口のよう

【概要】山城 / 遺構:土塁、堀、 曲輪、櫓台
【満足度】★★★★☆

真田昌幸は武田氏の滅亡後は、臣従する主君を織田 → 上杉 → 後北条 → 徳川 → ふたたび上杉 → 豊臣と目まぐるしく変えてゆき表裏比興(ひょうりひきょう:表と裏を使い分ける曲者)と後世に記憶されることになります。
武田、上杉、後北条という大大名にかこまれ、さらに時代の流れのなかで織田、豊臣、徳川が勃興して自領を絶えず脅かされる状況では、仕える主君を次々に替えてゆくことが謀将・昌幸としての生きのこる道だったのかもしれません。

昌幸ファンとして彼の名誉のために言っておきますと、長篠の戦いでやぶれてのち武田家に見切りをつけ譜代の大名らが次々に離反してゆくなかで、最後まで勝頼にしたがい支え続けたのが外様の昌幸です。
また昌幸のことを表裏比興と最初に皮肉ったのは秀吉とされていますが、その秀吉が没してのち関ヶ原の役にさいしては昌幸は信州上田城に3千の兵とともにこもり、中山道を西上する徳川秀忠の3万8千の軍勢をなだめすかすように攻めては引き、良いようにあしらって時間稼ぎをして関ヶ原の合戦に間に合わなくさせる芸のごとき謀術をみせます。

さらに関ヶ原の役に先立って自分と次男の信繁(幸村)は西軍(豊臣方)に付き、長男の信之を東軍(徳川方)に付かせます。
この決断は豊臣方、徳川方どちらが勝っても真田家が生き残れるように、人によっては狡猾な策ととらえる向きもありますが、昌幸はどうやら負けるとわかっていて豊臣方についたように思われます。
勝利するであろう徳川方のひとつの駒になるよりも、その徳川の大軍を自在に翻弄する戦をやりたかったのでしょう。

関ヶ原の役が徳川方の勝利で終わると、昌幸・信繁父子は所領没収のうえ死罪を申し渡されます。
しかし徳川家に臣従した信之と、その舅である本多忠勝(家康の重臣)の嘆願により高野山へ配流。この決定を昌幸自身がどう思ったのかはわかりませんが、おだやかな余生をおくり十余年後に65歳(?)で没。
その間に昌幸の薫陶をしっかり受けたであろう信繁(幸村)が、大阪冬の陣・夏の陣でふたたび徳川方と相まみえ家康をさんざん翻弄するのですから歴史はなんとも面白い。