街歩き・山歩き,三重

【三重県・名張市 2025.8.21】8月も下旬になったというのに相変わらず猛暑日がつづいており、山登りであれ寺社巡りであれ、この点天下を歩くと考えただけでうんざりしてしまいます。そこで思いついたのが、渓谷歩きというか滝めぐりというか。大阪市内から近鉄大阪線で東へすすみ奈良県を通り抜けるとすぐ、三重県の名張市にいたります。あらかじめ天気予報で確認したところ大阪市内と名張市のこの日の最高気温は同じ36度。午前10時に電車がついた赤目口駅の気温は33度。この条件下であれば、とうてい散策を楽しむ気にはなれません。 駅前でバスに乗り換え、山中へ走ること15分。終点の赤目滝入口バス停は赤目口駅と標高ではさほど変わりないので気温自体は下がっていないはずですが、まわりの圧倒的な緑の量の差でしょうか体感気温はかくじつに2、3度低いように感じます。 赤目四十八滝 ここが入口... Read More | Share it now!

街歩き・山歩き,神社・仏閣,奈良

【奈良県・生駒郡平群町 2025.8.16】大阪府(西側)と奈良県(東側)の境界をなすように北から南へと伸びているのが生駒山系。その生駒山系のほぼ南端にあるのが中腹に朝護孫子寺を擁する信貴山。生駒山系は大阪側では傾斜がきびしく、奈良側では緩やかという特徴がありますが、信貴山から北東への緩やかな山腹と、そこからひろがる平地部を合わせた一帯の土地を平群(へぐり)とよびます。 平群の地名については、古代に大和の中心であった飛鳥や桜井からみて奈良盆地(大和国の領域)とは対角の北西にあることから「辺の国:へのくに」とよばれ「へぐり」に変化したという説もあるようですが、それでは「平群」という特異な文字があてられた理由がわかりません。やはり当地の豪族が平群氏を名乗っていたゆえとするのが妥当でしょう。 さて平群の地ですが、googleマップで見ていると、神様はたくさんいるのに仏様がずいぶん少ないことに気づきます。意味不明な表現になりました。神が祀られるのが神社、仏が祀られるのが仏寺ですから、平群には神社はたくさんあるけれど、仏寺は少ないということです。もちろん理由はあります。さて今日も大阪、奈良ともに猛暑日予報のため、早朝に家を出て午前中に平群一帯を歩いてみることにします。 石床いわとこ神社、消渇しょうかち神社 石床神社(元の地)横10m、高さ6mの巨岩が御神体ここには拝殿も祠もない この巨岩は、陰石(女性器)と見なされている 古代において信仰とは自然の中の万物に神が降臨する、あるいは神が宿ると考え、その自然を崇拝することで神に感謝することでした。たとえば岩がその対象(ご神体)になる場合は磐座いわくら信仰とよばれ、そもそもは岩に向かって手を合わせるだけのものだったのでしょう。そののち鳥居がたてられるようになり、さらに岩の上や脇に祠がたてられ、なかには前面に拝殿が建てられるようになりますが、それは自然信仰が神道しんとうとして確立されて以後のことです。 現在の石床神社 300mほど離れた地に、現在の石床神社があります。拝殿と本殿がつくられてはいるものの、これがなんとも貧相で、なぜここに勧請(神の霊をうつす)したのか理解できません。 消渇神社 石床神社のすぐ上に消渇神社があります。江戸時代には女性の病気(おもに性病)を治すといわれ、遠方(の遊郭など)からも多くの参拝者があったようです。なぜ女性の性病なのかは、石床神社のご神体が陰石であることから容易に想像できます。 地蔵、西宮古墳 路傍の岩に彫られた地蔵 地蔵は地蔵菩薩ですから本来は仏様ということになりますが... Read More | Share it now!

神社・仏閣,滋賀

【滋賀県・犬上郡多賀町 2025.8.13】「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀のお子じゃもの」といわれる滋賀県にある多賀大社。なぜかといえば、伊勢神宮内宮にまつられる天照大御神アマテラスオオミカミは、この多賀大社にまつられる伊邪那岐大神イザナギノオオカミ、伊邪那美大神イザナミノオオカミの子であるゆえです。 言い方をかえると、イザナギとイザナミはアマテラスの祖神おやがみということになるのですが、祖神は祖神であって「親神」ではありません。古事記によると、男神であるイザナギは先に亡くなった妻である女神のイザナミに会うために黄泉よみの国へむかいます。そこでイザナギが見たのは、腐敗して蛆がわいたイザナミの醜い姿。イザナギは恐れおののいて黄泉の国から逃げかえり、その穢れけがれをおとすため水で身体を清めて禊みそぎをします。その禊をするなかで、左の眼を洗った時にあられたのがアマテラス、右の眼を洗った時にあられたのが月読命ツクヨミノミコト、鼻を洗った時にあらわれたのが素戔嗚尊スサノオノミコトということです。(このあたりの話は、山さんブログ『なぜ熊野三山では不吉なカラスが神使なのか』 https://yamasan-aruku.com/aruku-362/ に詳しく書いていますので、ここでは端折りました) 左の眼を洗ったらアマテラスが生まれたというのも奇異な話ですが、ここではそれはさておき、イザナギとイザナミは夫婦であるものの、この話を読むかぎり、アマテラスはイザナギから生まれたのであって、イザナミはその生誕にまったく関わっていないことがわかります。しかも具合が悪いことに(?)イザナギは男神です。男親から子が生まれるとはなんでやねん?と誰しもが思うはずです。このように神話の世界ではそれぞれの神々を「親」と「子」として見ると、不可解(あるいは不合理)な点が多々出てきます。しかし「アホくさ」で片づけてはいけません、なにしろ私たち日本人の先祖(とされている)ですから敬わねばなりません。そこで教養のある先達が「親おや」神ではありません、「祖はじめ」神です、と断りを入れた、のではないかと私は勝手に考えている次第です。 ※なお天理教では、「人間を創造し育てられた神」のことを「親神様」と呼ぶそうです。 鳥居から太閤橋 多賀大社前駅をでると目の前に大鳥居 多賀大社が人気をあつめたのは、ひとつにはこのあたりが交通の要衝であり、宿場町が形成されたこともあります。 現地にあった案内板より抜粋 また京の都と北陸あるいは東国をむすぶ地理的に重要な位置にあり、むかしから有力な武将が近辺に居城をかまえていました。そのため佐々木道誉(勝楽寺城)、浅井長政(小谷城)、織田信長(安土城)、羽柴秀吉(長浜城)、さらに井伊家(彦根城)の関係からか徳川家等々が多額の寄進をした記録があります。 太閤橋... Read More | Share it now!

城郭・史跡,佐賀

【佐賀県・唐津市 2025.7.11】秀吉は木下藤吉郎を名乗っていたころは、明るいキャラクターで好漢といって良いと思います。そこから出世して、羽柴秀吉を名乗るころからずいぶん狡猾な顔が見えはじめますが、それでも成り上がる姿とあわせて見れば英傑と評価できます。ところが天下統一をなしとげ、豊臣秀吉を名乗りはじめたときから理解しがたい行動が目立ちはじめます。欲と見栄に毒されたのだろうでは説明のできない、正常な判断力がうしなわれついに狂気にとりつかれたのか。狂気とするなら、その最たるものが朝鮮出兵かもしれません。 秀吉の外征(俗にいう唐入り:当時の中国は明の時代ですが、通称として唐とよんでいた)といえば朝鮮出兵ということになりますが、もともとは朝鮮を切りしたがえて続いて明に侵攻するというのではなく、秀吉の意識のなかではどうやら端から朝鮮が日本に対して反抗するはずがないと決めつけていたようです。そこで、明(中国大陸)を征圧するための軍をすすめる上で朝鮮半島を通るゆえ「征明嚮導せいみんきょうどう(明を征圧に向かうときにはその道案内をしろ)」と秀吉は一方的に命じます。朝鮮王国は公的にも明に対して臣従しています、明国の保護下にあるとも言えます。一方日本に対してはなんら主従関係はありません。秀吉の使者はことを荒立てないよう「仮途入明かとにゅうみん(明に入るときには道を貸してくれ)」と表現をかえて要請しますが、朝鮮王国の抱く不快感は警戒感へとかわってゆきます。 名護屋城 大手口前に入城口があります。入城料は無料ですが、遺跡保存のための協力金として一人100円を任意で払うとここにアップしたガイドマップをもらえます。 協力金は別にして、この地図のためだけでも100円は払うべきです。 大手口から東出丸へ 大手口を通り抜け、 登城坂をのぼる... Read More | Share it now!

城郭・史跡,佐賀

【佐賀県・三養基郡基山町みやきぐんきやまちょう 2025.7.10】基肄城きいじょうについては基山町のHPに簡潔に要約された説明がありましたので、抜粋して添付させていただきます。『基肄城跡は、今から1,360年前の天智4年(665年)に大野城跡(福岡県)とともに築かれた日本最古の本格的な山城で、構造上の特徴から「朝鮮式山城」と呼ばれています。 天智2年(663年)、唐・新羅の連合軍に滅ぼされた百済の再建を支援するため、韓半島に出兵した倭(当時の日本)は、白村江の戦いで大敗します。その後、大宰府を中心としたこの地一体の防衛する目的で、この基肄城が築城されました。 自然地形がうまく利用されており、基山(きざん:標高約405m)とその東峰(標高327m)にかけて谷を囲み、約4kmの土塁・石塁を巡らして城壁としています。尾根沿いには土を盛りあげた土塁を、谷部には石を積んだ石塁を築いて塞いでおり、城壁の途中には、4ヵ所(推定を含む)の城門が備えられています。』 それでは現地を歩きながら何点か補足してゆきます。 基肄城 南門跡付近にあった案内図より抜粋 同じく、よりリアルな案内図 南門から北へあがって東北門へ。丸尾礎石群、展望台を経由して基山山頂へ向かいます。 土塁線沿いに一周すると3時間くらいだそうです。普段なら歩くのですが、あまりにも暑いので短縮します。 「基肄城」の名の由来ですが、『肥前風土記』に記録されるところでは、むかし景行天皇がこの地で行宮あんぐうしたさいに霧が立ち込めていたため「彼の国は霧の国と謂うべし」と告げた、その霧に由来するとの説もあるようですが、そう聞かされてもあまりピンときません。よくわからない、ということで片づけさせてください。 南門跡 南門をかためる石垣最下部に複数の排水路がみられる 城内の雨水などを排出する水路と水門 東北門跡 南門から谷沿いを20分ほどあるいて東北門につきました。手前までは作業車が走れるぐらいの道で、楽に歩けます。 丸尾礎石群 ほぼ山登り、または山歩き 丸尾礎石群 丸尾南礎石群有事のさいにそなえた倉庫群と考えられている 丸尾西礎石群建物の大きさは大半が3✕5間(1間=1.8m)と予想 展望所 山中からひょっこり開けた場所へ 北帝方向をのぞむここを北帝門まで歩くつもりでしたが、あまりにも暑いので中止、眺めるにとどめました。 南の基山にむかって歩きます 前方の方形が基山山頂です。 大礎石群、基山 すこし下って大礎石群へ ここの建物は礎石の間隔から3✕10間と考えられる。ここだけが大きく、しかも全体を見わたす地にあたることから、特別な目的でつくられた建物であろうとのこと。作戦室とか集会所のようなところだったのではないでしょうか。 ところで基肄城跡全体では40の建物跡がみつかっています。 道をもどって基山山頂へ 基山山頂手前で振りかえる土塁を4つに割ってつくった堀切... Read More | Share it now!

神社・仏閣,福岡

【福岡県・太宰府市 2025.7.8】菅原道真というと今でこそ学問の神様として敬慕されていますが、そもそも太宰府天満宮は道真の怨霊を鎮めるために建てられた神社です。天満宮が創祀時から趣旨替えして道真を学問の神として祀るようになったのは、怨霊騒動もおさまったことだしいつまでも鎮魂でもあるまい(現実問題としてそれでは庶民にありがたがれることもなく参拝者が増えない)との判断にもとづいたものでしょう。それでは発端の怨霊騒動とはなんだったのだろうかと考えたとき、人々の(この場合は道真追い落としにかかわった天皇や公卿の)怨霊を恐れる意識があまりにも過敏なのではないか、言いかえると誰かが作為して道真の怨霊を誇張し、その怨霊を鎮めるための神社をつくらせ道真を神として祀らせたのではないかと疑心が沸き上がってきました。 菅原道真は平安時代前期に公卿ではあるもののそれほど高位ではない学者の家に生まれます。幼少期から漢詩を詠んでいたという逸話に象徴されるように並外れた文才にめぐまれ、かつ公卿のなかでは身分が高くなかったので周囲との権力争いにエネルギーを浪費することもなく勉学に精進したようで、文字どおりトントン拍子で出世してゆきます。さらに宇多うだ天皇から目をかけられたことでその出世のペースは加速します。宇多天皇が即位したときに朝廷を取り仕切っていたのは藤原基経(のちに道真追い落としの首謀者となる藤原時平の父)、この人物が曲者くせものだったわけではありませんが、この時点で5代にわたる天皇に仕えてきた実績から宇多天皇にとっては煙たい存在であったことは容易に想像されます。その基経が亡くなり順当に時平が表舞台に登場しますが、そのとき時平は21歳の若輩、宇多天皇が21歳の弱輩とかるく見たかどうかはわかりませんが、自分の思い通りの政まつりごとができると解放感は感じたことでしょう。ここから偏愛ともおもえるほどの道真の重用がはじまります。 たとえば寛平3年には、2月に蔵人頭くろうどとう、3月に式部少輔しきぶのしょう、4月に左中弁さちゅうべんを兼務とめまぐるしく役職を得て、ついに寛平5年には参議に叙せられます。参議とは「朝廷の政に参議する」という意味からきた役職で、大納言・中納言とあわせて「卿」に属し、それに対して公家の「公」は大臣を指しており、一口に公卿といっても公と卿ではまるで位階がちがいます。先に書いたように道真は公卿でも身分が低かったために権力争いには無縁でした。ところが公卿の「卿」に仲間入りしたことで、仲間だけでなく多数の敵に取り囲まれることになります。やがて道真は周囲からの誹謗中傷に悩まされ辞任を申し出たとの説もありますが、どちらにしても宇多天皇が手放すはずもありません。 太宰府天満宮へ 西鉄太宰府駅ホーム朱鳥居をイメージしている? こんなタイル張りの参道を歩き、柄は大宰府で出土した蓮華唐花模様 道すがら、梅のマンホールを見やりながら いくつ目だかの鳥居の前に着きます奥の門は延寿王院の山門... Read More | Share it now!

城郭・史跡,福岡

【福岡県 太宰府市 2025.7.8】大宰府というと、菅原道真と天満宮が当然のように思いだされるかもしれませんが、菅原道真が大宰府に左遷されたのは西暦でいうと901年、太宰府天満宮はその18年後に道真の墓のある場所に安楽寺天満宮として建立したのが始まりです。それにたいして大宰府は大和朝廷が九州を統括管理するためにつくった地方行政機関で、創始は7世紀後半ですから天神さんより2世紀以上も前ということになります。 道真の大宰府への左遷ですが、表向きは大宰権帥だざいのごんのそちという役職での赴任。元来大宰府での役職は大宰帥だざいのそちがトップではあるものの、この役職は形だけ(すなわち名誉職)であってナンバー2の大宰権帥が実務を取り仕切っていたという見解もあり、また大宰帥が実務をおこない大宰権帥は代役にすぎずたいていの場合は空席だったとの意見もあります。どちらにしても道真が与えられたのは完全な閑職、しかも役職に見合った報酬も与えられず日々の生活にも困窮したようです。 ところで12世紀に平家が急激に勢力をのばし一時的にせよ日本を支配下におきますが、その平家が急成長したのは平清盛が大宰府をみずからの管轄下に置いて貿易による富を独占したことが大きく関わっています。(このとき清盛がついた役職は大宰大弐だざいのだいに、大宰権帥よりひとつ下位になりますが時代が変わって役職のありかたにも変化があったのでしょうか)その清盛が宋との貿易の都合上、海沿いの博多を重視して都市機能すべてを移転したため、ここから大宰府は衰退の一途をたどることになります。 ※古代の行政機関としては「大宰府」と記し、現在の地名としては「太宰府」と記すのが通例のようです。そのため歴史上の遺構としては「大宰府」、太宰府市にある神社ということで「太宰府天満宮」としています。 水城みずき 大和朝廷が九州地方を統治するための政治拠点としてつくったのが筑紫大宰つくしのたいさい。そのころ朝鮮半島において百済が新羅と唐に蹂躙されていたため日本軍は救援に向かいますが、惨敗。百済は滅亡し、日本は朝鮮半島からの撤退を余儀なくされます。(これが白村江はくすきのえの戦い)この敗戦をうけ新羅と唐の進攻にそなえて周辺の防御機能を充実させ、さらに8世紀初頭に制定された大宝律令のもと、外交よりも天皇を中心にした中央集権国家設立のため内政に力をそそぐことになり、筑紫大宰をより拡充させ碁盤の目ように整った行政都市をつくり上げます。こうして筑紫大宰はおおきく生まれ変わって大宰府と呼ばれるようになります。また大宰府は九州の政治拠点というだけでなく、「西の都」と呼ばれます。 水城・東門跡付近水城とは堤(土塁)と濠をあわせた防御施設の総称です 中央の木立部分が本堤、右側が外堀跡、現在の車道が大宰府への道で、ここに東門があった 水城の内側堤の規模は基底部幅80m、高さ10m、長さ1.2km 水城の外側... Read More | Share it now!

神社・仏閣,和歌山

【和歌山県・新宮市~田辺市~那智勝浦町 2025.6.19】熊野三山に興味を持ちはじめたのは、日本サッカー協会のシンボルでもある八咫烏ヤタガラスが熊野三山の神使しんしであることを知ったのがきっかけです。よりにもよって、なぜ不吉とされるカラスが神の使いになったのか。熊野三山とは新宮市の熊野速玉大社、田辺市の熊野本宮大社、那智勝浦町の那智勝浦大社をあわせてそう呼びます。それぞれは20~30km離れており、むかし熊野詣といえば、伊勢神宮からだと伊勢路をあるき、高野山からだと小辺路こへちをすすみ、あるいは大坂(大阪)からなら紀伊路につづいていまの田辺から山中に入って中辺路なかへちをたどり、あるいは田辺から海岸沿いをつたう大辺路おおへち、また吉野からはもっぱら修験者が行脚する難路である大峯奥駈道おおみねおくがけみちがあり、彼らは熊野の地に着けばこれら三社(三山)を順にめぐりました。社と社をむすぶ道をふくめ、これらすべての道を総称して熊野古道と呼びます。また2004年(平成16年)には、伊勢神宮をのぞく上記のすべてをあわせて「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。※伊勢神宮だけが含まれなかったのには理由があり、伊勢神宮は古来より20年ごとに社殿をあたらしく建て替えて祭神に遷宮していただく神事があり、その「建て替え」という行事が「過去からのこる遺産を守り後世につたえる」という世界遺産の理念にそぐわないということのようです。 それぞれの祭神について触れておきましょう。熊野本宮大社の主祭神は元々は家都御子大神けつみみこのおおかみ、のちに素戔嗚尊スサノオノミコトと同一神とされ、さらに神仏習合の時代には阿弥陀如来を本地仏ほんじぶつとします。熊野本宮大社は地勢的にももっとも山中深くに鎮座し、本来は熊野座神社くまのにますじんじゃと呼ばれたことからも熊野三山のなかで中心的存在であることがわかります。熊野速玉大社の主祭神は熊野速玉大神くまのはやたまおおかみ、伊弉諾尊イザナギノミコトを同一神としています。そして本地仏は薬師如来。さいごに那智勝浦大社については、熊野夫須美大神くまのふすみのおおかみが主祭神であり、伊弉冉尊イザナミノミコトが同一神、本地仏は千手観音とされています。 もっとも知りたいのは本来の神様である、家都御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神の三神についてですが、ほとんど手掛かりがありません。本地仏については神仏習合という一時期の、すなわち時限的な教えからの産物にすぎません。しかも神仏習合の考え方は仏優位で、神は仏や菩薩の化身であるとする本地垂迹説ほんちすいじゃくせつにもとづいているので神についてアプローチするには足枷にすらなります。そうなると、ヒントは記紀(古事記と日本書紀)に記されたスサノオ、イザナギ、イザナミから探っていくしかありません。 神倉神社 天照大御神アマテラスオオミカミから5代後の子孫とされる磐余彦尊イワレヒコノミコト(のちの神武天皇)は東征にさいして高千穂から瀬戸内海を東進し、紀伊半島をまわっていったん熊野に上陸します。そのとき登ったとされるのがいまの新宮市の中心にある神倉山。そこから見わたす深山幽谷の景観に進むべき道もわからず躊躇するイワレヒコでしたが、高倉下タカクラジなるアマテラスの使者から神剣を授かり、そしてアマテラスが遣わしたカラスの導きで紀伊の山中をわけ進み大和の地にたどり着くことになります。これは古事記と日本書紀に同じような内容で記されていることですが、熊野信仰では熊野の三神すなわち家都御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神がはじめて降臨した地とされています。神倉神社はいまは熊野速玉大社の摂社とされていますが、その熊野速玉大社のHPをみると、記紀にある記述にはまったく触れていません。 この鳥居をくぐって、 538段の急峻な石段をあがると、 朱い玉垣にかこまれた拝所に着きます 天ノ磐盾あまのいわたてとよばれる崖上にあり、御神体のゴトビキ岩が鎮座しています イザナギとイザナミは国産み、神産みの神であり、また夫婦神でもあります。二柱の神は力を合わせてまず淡路島を生み出し、つづいて四国、九州などいずれ日本国となる島々を生み、さらに山の神や海の神など三十五柱の神々を産み出しますが、イザナミがさいごに火の神を産み出した時には、女陰を火の神の火焔で焼かれ亡くなってしまいます。(柱:神様の数え方。御神木にみられるように神は木に宿るとの信仰から「木の主」と書いて一柱ひとはしら、二柱ふたはしらとかぞえました)イザナギは最愛の妻イザナミを失った悲しみに耐えきれず、黄泉よみの国まで訪ねてゆきます。自分に会うためここまで訪ねてきてくれた夫の思いに心を動かされ、イザナミは黄泉の国をつかさどる神に地上の国へもどしてもらえないか相談すると告げます。さてイザナギですが、自分がもどるまで決してここを動かず待っているようイザナミから忠告されたにもかかわらず、その後の様子が気になりだすと居ても立っても居られなくなり、つい闇に光をかざして探したところ、イザナミは腐敗し全身に蛆うじがわいた醜い姿をしているではないですか。イザナギは恐怖にひきつり、イザナミは自分の醜い姿をみられたことを恥じ、イザナギは一目散に逃げ、それを見たイザナミは羞恥が恨怒へとかわりあとを追いかけます。 最後はイザナギは逃げ切るのですが、黄泉の国からの急峻な坂道に大きな岩をおいてふさぎ、岩越しにイザナミに離婚を言い渡します。(アマテラスの岩戸の話もそうですが、ここでも大きな岩(石)が話の中に登場することには注目すべきです)ところで余談ですが---離婚を宣告されたイザナミは怒りにまかせて「あなたが離婚するというなら私は地上のあなたの国の人間を、一日に千人殺すことにしましょう」と叫びます。するとイザナギは「おまえがそんなことをするなら私は一日に千五百人の人間を生ませることにしよう」と叫び返します。こうして地上の国では一日に千人が死ぬかわりに千五百人が生まれることになるのですが--記紀が書かれた時代の人たちは、よもや日本に人口減少の時代が訪れるとは夢想だにしなかったのでしょう。あくまで余談ですが。 熊野速玉大社 神橋をわたり参道へ 神門(左)、手水舎 神門撮影時には気づかなかったのですが、注連縄のあたりが奇妙です。おそらく一時的にレンズが曇ったのでしょうが、霊気?があったとすればそれはそれですごい。 左奥手前が拝殿、その奥から結宮、速玉宮、横長は上三殿、さらに八社殿。結宮には熊野夫須美大神(イザナミ)、速玉宮には熊野速玉大神(イザナギ)、上三殿左には家都御子大神(スサノオ)が祀られ、今ではどこへ参詣してもすべての神をお参りできる、なんとも便利なシステムになっているようです。 地上の国へもどったイザナギは、黄泉の国の穢けがれをおとすため身体を水で清めます。これが禊みそぎです。まず脱ぎ捨てた服から十二柱の神々があらわれ、川に身を入れて身体をあらったときにも洗い落とされた穢れからは災いの神々がうまれ、さらにこの災いを直そうと新たな神々があらわれ、といった具合に「穢れを落とすための禊」の過程でたくさんの神が生み出されます。そして最後に左の眼を洗った時にあらわれたのがアマテラスであり、右の眼を洗った時にあらわれたのが月読命ツクヨミノミコト、鼻を洗った時にあらわれたのがスサノオということです。 熊野本宮大社 熊野三山に関する知識を得るため資料を読んでいる分には、家都御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神とあわせてスサノオ、イザナギ、イザナミの名がしばしば登場します。ところが熊野三山(三社)独自のサイトをみると、熊野オリジナルの3神にくわえてさらにマイナーな神様や氏族の名が登場するばかりで記紀に登場する神々はすっかり影を潜めています。本地仏については、明治維新とともに神仏分離令が施行されたため、今ではせいぜい探せばその残滓が認められるぐらいのものです。 平安時代から室町時代にかけては、熊野に詣でることが大流行しました。信仰とか宗教において「大流行」という言葉を使うと身も蓋もないと言われそうですが、どうやら当時の権力者のなかに「熊野詣」を(今でいうところの商品化して)売りに売ろうと意図した人がいたのではないでしょうか。「家都御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神」これら熊野土着の信仰だけでは盛り上がりません。「スサノオ、イザナギ、イザナミ」ここで土着信仰に神道が加わります。「阿弥陀如来、薬師如来、千手観音」さらに神仏習合により仏教が合わさることで「熊野だけの信仰」が、「熊野信仰」として日本中に流布されます。さらに修験道がくわわり、修験者が修行のために熊野古道をあるくことで、(修験者にそのような企図があるなしは別にして)けっして楽ではない熊野詣がそのまま神や仏への帰依につながると口から口へ言い伝えられるようになります。 表鳥居... Read More | Share it now!

城郭・史跡,和歌山

【和歌山県・新宮市 2025.6.18】新宮城にはそもそもそれほど期待していたわけではなく、熊野三山を探索するさいの拠点として新宮へ赴くため、そのついでに訪ねてみようぐらいの感覚で捉えていました。大阪から奈良の橿原まで電車で行き、そこで車をレンタル、方々回りながら夕刻新宮着。夕食の店をさがして車を流したものの、地元の住民相手の割烹とかラーメン屋ぐらいしか見当たらず、遅くなる一方なので目についたモスバーガーへ。さてホテルにチェックインして今日一日を振りかえったところ、(けっしてモスバーガーを誹謗する気はありません)ほかに店が見つからず夕食にハンバーガーを食べざるえなかった街で感銘をうけるような城に出合えるというイメージがどうしてもわきません。そんな思いで就寝し翌朝一番に、ここでもこれから回る熊野三山の前座程度の感覚でたずねた新宮城だったのですが、これがじつに良かった! 新宮城 新宮市観光局のパンフレットより抜粋🅿に車をとめました。/... Read More | Share it now!

城郭・史跡,三重

【三重県・熊野市 2025.6.17】熊野市は三重県のなかでずっと南に位置します。赤木城はその熊野市でもぐっと内陸寄り、奈良県との県境ちかくに在ります。大阪市内に在住の私は奈良県の橿原(神宮)まで電車でゆき、そこで車をレンタル、一路赤木城へと向かいました。吉野から熊野へと移動するにしたがい、関西にこれほど山深い土地が存在したのかと正直なところ驚き呆れながらのドライブを2時間余、やっとのことで到着しました。この赤木城、最寄りの鉄道駅は20kmはなれたJR阿田和駅、正午すぎと夕方発でちかくの赤木(集落)までゆく乗り合いバスらしきものがありますが、かえりのバス便は正午過ぎのバスが赤木についてすぐに折り返し、一方の夕方発のバスは翌朝折り返しとなるため、往復使うには不便すぎます。考えられる方法としては正午過ぎのバスで赤木へ向かい、城を見学ののち覚悟をきめて14時すぎから徒歩4時間?でJR阿田和駅へ。それだけの覚悟が決まらないので、レンタカーに頼った次第で、いままでに訪ねた城のなかでもアクセスの大変さでは特筆ものです。 赤木城 駐車場から城郭のある平山をのぞむ 左上の鍛治屋敷跡の左横が駐車場(城郭内にあった案内図より) 赤木城は、羽柴秀長(のちの豊臣秀長、秀吉の弟)が紀伊征伐につづいて近辺でおこる一揆をおさえるため藤堂高虎に命じてつくらせた平山城です。解説によれば中世の縄張りと近世の石垣や虎口づくりが併用された城とされています。藤堂高虎といえば、関西では伊賀上野城、津城、伊予では今治城、宇和島城などをつくり築城の名人と言われていますが、それはのちの話。秀長も秀吉も亡くなり、徳川家康に臣従してからその才能をいかんなく発揮するようになります。赤木城が中世と近世との過渡期をしめすようなと表記されるのは、ひとえに高虎自身が築城技術の過渡期にあったがゆえでしょう。 東郭から主郭へ 主郭へと上ります... Read More | Share it now!