山さん

森鴎外之像津和野・森鴎外記念館内 森鴎外と夏目漱石は明治を代表する2大文豪です。かつて漱石の肖像画が千円札に印刷されていたころは、漱石の小説の方が一般に読みやすく親しまれているからなのかと漠然と思っていました。ところが昨年あらたに紙幣が刷新され明治時代を代表する医学者・北里柴三郎がやはり千円札に採用された際には少なからず驚きました。森鴎外は本名森林太郎、明治時代の陸軍を代表するような軍医(陸軍軍医総監であり陸軍医務局長も兼任する文字通りトップ)、すなわち文学の夏目漱石と医学の北里柴三郎のふたりを合わせたような実績をもつ著名人です。それにもかかわらず、漱石と柴三郎がそれぞれ紙幣に採用されながら鴎外が漏れたのはなぜなのでしょうか。 明治時代には天然痘、コレラ、結核とともに脚気は多くの人の健康をむしばみ命をうばう病気として恐れられていました。いまでこそビタミンB1の欠乏によって末梢神経障害から足にむくみや痺れを生じさせ、さらには心不全をまねき症状が重くなるとついには死に至らしめる、ということは一般に知られるところですが、江戸時代から明治時代初期にかけて江戸を中心にした都市部で原因のわからないまま脚気が流行の兆しを見せはじめます。なぜ都市部でのみ流行したのか。そもそも米を食べるとは玄米を食べることを意味していました。ところが都市部ではより美味しくなるということで精米すなわち玄米の糠ぬかをとり除いて白米にして食するようになります、実はこの糠にビタミンB1が大量に含まれているのですから「糠をのぞいた米」とは「ビタミンB1を捨てた米」ということになってしまいます。明確な確証はないものの、田舎から江戸へ出た人は発症し、江戸から戻ってくると治る、そもそも田舎にはこの症状のみられる病人がほとんどいないという事実から、おもに漢方医らが食生活の違いに原因があるのではないかと推測し従来の食生活をまもるよう勧めたこともあって、やがて脚気の流行は下火になってゆきます。そんなとき思わぬところで脚気が爆発的に流行します。明治6年に徴兵令が施行されて編成された陸海軍においてのことでした。 吉村昭『白い航跡』 小説『白い航跡』は海軍医・高木兼寛を主人公にした物語です。兼寛は薩摩藩の鹿児島医学校で教鞭をとっていたところかつての師である蘭方医・石神の推挙により軍医として海軍入りします。ところが高木がそこで見たものは、艦船にのる海軍兵の多くが脚気にやられて歩くことすらおぼつかなく、もし敵船と抗戦することになったとしても到底戦ができる状況ではない、このままでは海軍は脚気のために潰えてしまうと恐怖し、高木は救済するための治療法、さらには予防法を必死で模索します。いくつかヒントになる事実がありました。遠洋の航海中は脚気患者が続出するものの外国の港にしばらく停泊しているあいだは罹患するものが目に見えて減る。高木自身が英国への留学中に見たかぎりでは、英国海軍に脚気患者は皆無だった。それらの事実から高木は、軍隊で支給される食事が白米中心であることが原因ではないか、麦飯あるいはパン食に替えたらどうだろうかと考えるようになります。 明治初期に創設されたころの軍隊の食事は、「ひとり1日6合の白米の支給」がひとつの売りでした。地方の豊かとは言いがたい村で育った若者にとっては、毎日白い米飯が6合も食べられるというのはそれだけでも魅力でした。しかも副菜はいくばくかの現金がわたされて各自その金で調達することになっていたため、(いまからすると隔世の感がありますが)若者たちはその金を残して貯め実家におくることを良しとしていました。すなわち白米はふんだんに食べるものの、副菜は極端にお粗末で結果として必要量のビタミンB1が摂取できるはずもありません。 高木兼寛は上司の許可をえて長期の航海に出る船員たちにパン食やビスケット、あるいは麦飯をまぜた食事を摂らせてみることにします。この生の海軍兵をつかった人体実験ともいえる調査の結果をまつ高木の不安と焦燥の姿を見ていると、結果はわかっていても思わず緊張しながら吉報が届くのを待ってしまいます。 メルカリで購入した『白い航跡』 『白い航跡』は上下巻ともAmazonの中古本で安いものは各1円+送料で売られています。メルカリであれば状態のよいものが上下巻・送料出品者負担で6~800円といったところです。よほど人気がないからそれほど安いのかというとそうではなく、中古本市場は人気があってたくさん販売されたものは読後にたくさん売りに出されるため値段が下がります。 森鴎外『舞姫』 『舞姫』は森林太郎自身のドイツ留学の体験をもとに書かれたもののようですが、私小説かというと、さてどうなのでしょう。 森林太郎は現在の島根県の津和野藩につかえる典医の長男として生まれます。森家には代々男子が生まれなかったようで、祖父も父も婿養子として森家を継いでいます。それゆえ久々の男子誕生に森家は沸き立ち、幼いころから神童の片りんを見せはじめるこの直系の跡取りにおおいに期待を寄せたということです。というのは表向きで、林太郎の曾祖父には3人の息子がいたものの、長男は早世、次男は西家へ養子入り(して西周にしあまねの父親になる)、そして三男が森家を継ぎます。ここから先はあとで紹介する山崎一穎かずひで『森鴎外 国家と作家の狭間で』によりますが、この三男・亮良あきよし?が典医をつとめていたとき、森家家伝の胃腸薬の需要が多すぎて生産が追いつかず原料をかえていわゆる偽装薬品を供給したようなのです。西周の記述するところでは「故アリ家断絶ス」ということで、どうやら森家は藩から蟄居を命じられ亮良は山口へ出奔してしまいます。その後曾祖父は娘に婿養子をとり(この人が林太郎の祖父)なんとか家系を存続させるのですが、藩からは減封されあきらかに森家は衰退してしまいます。 それゆえ森家一同の林太郎に託す再興の思いは並大抵ではなく、これがつねに重圧になっていたことは容易に想像できます。たとえば『舞姫』の主人公・太田豊太郎のつねに陰のある憂鬱そうな姿にそれは反映されています。林太郎は文字通り神童でした。東京医学校(現在の東京大学医学部)予科に年齢を2歳上に偽って入学し19歳で卒業、主席ではなく8番席次ではあるものの他の卒業生がみな5~7歳年長であることを考えると、恐るべき秀才といえます。しかし当の林太郎は主席で卒業できなかったことに内心忸怩たる思いがあったようで、というのも首席で卒業すると文部省派遣の官費留学生としてドイツへ留学できる、それを夢見ていたようです。運が良いというべきでしょう、進路の定まらない今でいうところのプー太郎のようなリン太郎に、東京医学校の同期生・小池正直から陸軍省へ入らないかと誘いがあります。林太郎としては役人にも軍人にもなる気はなかったようなのですが、周りからの熱心な勧めもあって卒業後半年ほどで入省します。そこからはやはり大秀才です、衛生制度に関する調査にかかわるかたわら衛生学をまなび、2年後にはドイツ陸軍の衛生制度を調べるためにドイツ留学を拝命することになります。 林太郎はこのドイツ留学中にドイツ人女性との恋におちることになるのですが、『舞姫』のなかでは主人公の豊太郎が貧しい踊り子を援けたことから恋仲になり、やがて踊り子との生活に安らぎをおぼえ(留学生の立場としては)自堕落な生活に埋没しついには官費の支給を打ち切られ、しだいに奈落に落ちてゆきます。現実の林太郎はおおいに成果をあげて留学生活を終え帰国しますが、そのあとを追うように恋仲になったドイツ人女性が日本へとやってきます。陸軍省としては将来有望な、森家としては一族再興の希望の星ともいえる森林太郎を、異国の女性が異国から追いかけてきたなど言語道断と思ったのでしょうか、ドイツ人女性は一ヶ月の滞在で(おそらく林太郎に会うこともなく)帰国します。 『舞姫』では奈落に落ちかける豊太郎に友人・相沢が手を差しのべ、その並外れた語学力を活かして一気に栄達の道が開かれることになります。ところが踊り子はそのとき妊娠しており、豊太郎は栄達の道をえらんで帰国するか踊り子との恋をつらぬいてドイツに留まるかの板挟みになります。『舞姫』は悲恋の物語ではありません。豊太郎はなんだかんだといいながら結局は栄達の道すなわち踊り子を捨てる決心をします。しかも正気を失ってしまい会話もままならない踊り子に対して、相沢の手を借りて無事出産できるようにとその費用と当面の生活費をおいて日本へと去ります。そして最後の一文はこうです「嗚呼、相沢謙吉がごとき良友は世にまた得難かるべし。されど我が脳裡に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり。」 津和野にのこる鴎外が10歳まですごした生家 霊亀山上の津和野城址から津和野の町を見わたす 坂内正『鴎外最大の悲劇』 その創設当初から日本陸軍と海軍との不仲は顕著でした。倒幕から明治維新へと日本を新しい時代に導いていった中心的存在といえば、薩摩、長州、土佐、肥前の4藩ですが、それぞれの藩がどれだけ多くの血を流したかにくわえ、財力とそれにともなう軍事力の差からまず陸軍は旧長州藩士と旧薩摩藩士が中心となって組織されます。ところが西郷隆盛をかつぎあげた薩摩藩士が袂たもとをわかち結果として西南の役での敗北、隆盛は自決し多くの人材が失われました。ここで陸軍を実質的に掌握するのは旧長州藩ということになります。一方の海軍ですが、旧長州藩は陸軍中心でその海軍力は微々たるものであったため海軍は旧薩摩藩の独壇場でした。とはいっても創設当初の陸軍と海軍の規模の差には隔絶の差があり、日清戦争当時の総軍人数約20万人、うち海軍2~3万人、日露戦争当時の総軍人数約100万人、うち海軍3~4万人、どうやら旧長州藩中心の陸軍ははなから旧薩摩藩中心の海軍を対等とは見ておらず、陸軍の支部支局どころか付け足し程度の認識だったのではないでしょうか。 そのような歪みのある関係の中で、海軍医の高木兼寛が軍部が支給する白米中心の食事にこそ脚気の原因があると声高に発表したのですから陸軍としては黙ってはおれません。高木のいうことは突き詰めていうと「白米中心の食事が悪い、白米中心の食事はやめるべきだ」ということになり、「ひとり1日6合の白米」を標榜してきた軍部を否定し、「ひとり1日6合の白米」にあこがれて入隊する若者たちにとっては梯子をはずされるも同然のことです。 さらにこの問題を複雑かつ深刻にしたのは、海軍がイギリス式であったのに対して、陸軍はドイツ式であったこと。海軍は医学もイギリス流を取り入れ、その特徴は実践(予防と治療)にありました。それだからこそ高木は脚気の症状の出るか出ないかだけで予防法を見つけえたのですが、陸軍はというと医学もドイツ流、基礎医学の研究を重視し、脚気についてもまずその原因を究明することが喫緊の課題とされていました。当時もっとも注目されていたのは細菌学で、脚気も伝染病であろうと推察され先ずは病原菌を見つけ出せが合言葉のようなものでした。当時の医学や衛生学はビタミンの存在もしらず栄養価が高いか低いかだけを物差しにするレベルであり、しかも陸軍からの一方的な軽視があれば高木の主張が認められるはずがありません。ここで森林太郎が陸軍を代表して海軍の高木を真っ向から批判し、さらに「ローストビーフ好きのイギリスかぶれ」と侮蔑したとされていますが、ふたりの経歴を年代とともに見比べるうちに疑問がわいてきます。高木は明治15年(1882)に海軍医務局副長に就いてから脚気問題に取り組みはじめ、翌年海軍医務局長就任をへて明治18年(1885)に海軍軍医総監(海軍軍医のトップ)に就くのと前後して白米食の脚気原因説を発表しています。一方の林太郎はというと、ドイツ留学から帰国したのが明治21年(1888)26歳のとき、これでいくと陸軍のペーペー森林太郎は、海軍のトップに向かって昂然とその研究成果を批判し、しかもローストビーフがなんちゃらと誹謗中傷したことになり、実際の場面を想像しようにも無理があります。やはりその背後には、やがて陸軍の軍医総監に就く石黒忠悳ただのりの影を見ざる得ません。評論『鴎外最大の悲劇』はドイツ文学者である坂内正氏によって書かれた、森鴎外を非難することに全精力をかたむけたかのような、力作というよりも力みすぎた作品です。たしかに資料をよくあつめ精読してはおられます。しかし文章全体があまりに粘着質で、批評ではなくあたまから批難、さらに論難から糾弾へとひとりで盛り上がり、言葉尻をとらえての揚げ足取り、憶測で皮肉り、皮肉ることで自分の中で憶測が確信にかわるのか、はては誹謗、中傷、雑言など個人的な恨みでもあるのかと読んでいて不快になってきます。 戦艦三笠と東郷平八郎の像... 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読みあるく銘々伝

学習院院長時代の乃木希典の胸像 京都の乃木神社は、明治天皇桃山御陵に対面するように、その麓に建てられています。境内にある胸像は、日露戦争終結ののち明治天皇の御意で学習院院長をつとめたその当時の姿を遺しています。乃木希典の性格として一般に知られているところは、「清廉潔白」「謹厳実直」となりますが、この像の表情にはどこか茶目っ気のある好々爺の印象が見られます。 乃木大将は愚将か 乃木大将が愚将ではなかったのかと評価を下げたのは、やはり司馬遼太郎氏の小説「坂の上の雲」が発表されひろく読まれたのが大きな要因と言えます。司馬氏といえば、広い意味での天才を描くのが好きなようで、坂本龍馬の活躍をえがいた「竜馬がゆく」、斎藤道三の成り上がる姿をえがいた「国盗り物語(前編)」などが有名ですが、「坂の上の雲」も主人公は陸軍と海軍でそれぞれ活躍する秋山兄弟であり各々タイプの違う天才として描かれています。脇を固めるほかの軍関係者も、満洲軍総司令官・大山巌や同総参謀長・児玉源太郎らはもちろん、日露戦争当時の世界最強の爆発力をもつ下瀬火薬を発明した下瀬雅允もひとつの天才として描かれています。それでは乃木希典はどうなのかというと、たしかに天才はおろか有能とさえ言っていませんが、はっきり愚将と評している、といえるのでしょうか。「無能」とはっきり断定しているのは乃木の下で参謀長をつとめる伊地知幸介に対して。その評しかたはほとんど罵倒であり軍人としての能力にとどまらず人格までも否定しています。そして乃木については、これほど無能な参謀長が下についていたことこそが乃木の不幸であった、と断じています。 司馬氏はさきに乃木希典を主人公にした「殉死」を発表しています。おそらくは「坂の上の雲」を書くための準備の段階で諸資料をしらべるうちに、乃木の存在が意識の中でおおきな比重を占めるようになってきたのではないでしょうか。仮説というよりも空想です、その時点での司馬氏の構想では「坂の上の雲」の主人公は乃木希典だったと考えてみます。それではなぜ主役の座から下ろしたのか... Read More | Share it now!

忠臣蔵

泉岳寺・浅野内匠頭の墓 泉岳寺・赤穂四十七士の墓 画像はともに【aruku-113】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-113/ 吉川英治氏の小説『新編 忠臣蔵』は上下2冊の長編ですが、この方の作品はとにかく長いものが多く、「宮本武蔵」が全8巻、「新・平家物語」に至っては全20巻に及びます。それでも思い切って読みはじめ無事に読了できたのは、読みやすいことが一番の理由ではないでしょうか。読みやすさは、まず全体の構成がすっきりしている、綿々細々とした心理描写がない、ひとつひとつの文章が比較的短い、会話が簡潔、そういったところにあると思います。さてこの『新編 忠臣蔵』ですが、読みはじめて少々戸惑います。文章が比較的短く、簡潔に表現されているのはいつものことなのですが、その文章にこの作品に限っての独特のリズムがあることに気づきます。この作品は人形浄瑠璃や歌舞伎の演目「仮名手本忠臣蔵」を真正面からとらえ、それを文字にかえ本にしたものと考えたら良いでしょう。全編に通じる独特のリズムはまさに浄瑠璃や歌舞伎のもつ、ビートの効いたそれです。この作品の功績をあげるなら、忠臣蔵を世間によりひろく知らしめたことに尽きます。なにしろ昭和43年(1968)に書かれた作品です。この当時には忠臣蔵は忠臣蔵であって、元になる赤穂討入事件の真相究明に関心を抱く人など皆無に近かったのではないでしょうか。むしろこの作品が忠臣蔵の定本となり、そのあまりにも「良い話」に満足できなかった人たちが、つぎつぎに自説を盛りこんだ「真」とか「裏」とか「異」とかいった作品を発表してきたのだと思います。吉川英治『新編 忠臣蔵』★★★☆☆ 堺屋太一氏の小説『峠の群像』は、上中下3冊で1300ページを超える大作ですが、浅野内匠頭による江戸城での刃傷沙汰が登場するのは、そのなかで900頁めあたりになります。そこまでは当時の江戸と京都、そして赤穂における将軍、大名、役人から貧乏武士、塩に関わる町人、浜人、運送人などの生きる姿を通して、その時代背景を描いて行きます。ところが読むにしたがい、赤穂事件の時代背景を描いているというよりも、彼らが生きた時代そのものをいかにも活き活きと見せてくれていることに気づきます。堺屋氏は元経済官僚ゆえに、その著作は時代小説であっても当時の経済面をしっかり押さえストーリーの展開に取り込むことで、作品全体の骨組みを築いています。この物語の中でも、実際にはそれが誤った手法による、いまでいえばバブルに過ぎないにしろ、その時点では未曽有の好景気に沸き立ち、人々が浮かれ舞い上がる様を描きます。時期を同じくして世間をつつみこむ元禄文化の隆盛とともに、これを時代のひとつの頂点、すなわち「峠」と見ているのでしょう。そしてその峠の時代は、吉良邸討入と46士の切腹で赤穂事件が終焉するのに合わせたように、下り坂へと向かってゆきます。『峠の群像』は峠の時代に生きた貴人も庶民もふくめての群像劇であって、忠臣蔵すなわち赤穂事件さえもその群像劇のなかの一部でしかありません。しかしそれだからこそ俯瞰も出来れば、自分自身が劇中に参加したかのように個々の赤穂浪士達の喜怒哀楽にまで接してゆくことができます。文句なく、名作です。堺屋太一『峠の群像』★★★★★ 赤穂城内にのこる大石邸 赤穂城内に建てられた大石神社 画像はともに【aruku-75】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-75/ 井上ひさし氏の小説『不忠臣蔵』は、吉良邸討入に参加した赤穂義士ではなく、なんらかの事情で参加しなかった、そのため世間から不義不忠の輩と蔑まれた人々に焦点を当てています。まずこの着眼点の妙からして、さすが井上ひさし!と拍手を送りたくなります。全19話、すなわち19人の「不義不忠の輩」が登場する短編を集めたものです。19人の中には、最初から死体となって登場する人物もいます。このあたりも常に趣向をこらした場面を読者の前に展開してくれる、さすが井上ひさし!と拍手×2を送りたくなります。文章は筆で遊んでいるかのように軽妙で、各20ページ程度の物語りはアッという間に読み終わります。しかもその短い話の中で、意外な事実がもたらされ、討入に加わらず不義不忠と蔑視された人々は、実はみずから自己犠牲となって陰で討入をしっかり支え、不参加ながら忠臣蔵に参加していたことがわかる構図になっています。読むごとに拍手×3、4、5と満足感は増してゆきます。ところが、後半すなわち8話あたりから聞き覚えのない人物が登場してきます。各々について調べたところ、19人のうち6人はネットでも「井上ひさし氏の小説に出てくる赤穂浪士」とあるだけで詳細はとんと分かりません。おそらくは廃藩時に200人だかいたとされる赤穂藩士の名簿には名が残っているのかもしれません。その名前からピックアップし、作者の想像力で人物像をつくり上げることは小説であれば何ら問題はありません。しかしこの作品がなぜ面白いかといえば、あのとき討入のための資金をもったまま姿を消した○○某とか、あのとき女によろめいて去って行った○○某とか、そういった人たちのその後の行動を追うと、じつはこんな隠れた事情があったんですよと作者のアイデアで見せてくれるからこそであり、そこに尽きます。ところがその焦点をあてた人物がなぜ討入に参加せずに去ったのか、その大元となるところからして作者の創作では、すべて単なる作り話で、それでは「不忠臣蔵」として楽しむことができません。読み終えたときには、拍手する気はすっかり失せていました。井上ひさし『不忠臣蔵』★★★☆☆ 森村誠一氏の小説『忠臣蔵』は上下2冊計1000余頁の長編です。大体において忠臣蔵関係の小説は長いものが多く慣れているはずなのですが、この作品はしまいに飽きてしまうほど長く感じました。群像劇のスタイルをとっていますが、とにかく登場人物がやたらに多い。著者が執筆にあたってよく調べているのはわかるのですが、あれもこれもとテンコ盛りに書いているので食傷気味になってきます。登場人物の絡み合いには、著者オリジナルのひねりもあり、さてどうなるのかと期待を抱かせられる場もありました。しかし登場人物の性格や行動を誇大にデフォルメするあまり、興が削がれてしまうこともしばしばでした。たとえば吉良上野介の絵に描いたように陰湿で悪辣な性格描写には白けてしまうし、大石内蔵助が討入前に遊里で豪遊する場面でのエログロ描写には、誰に読ませたくて書いているのかと呆れてしまいます。さらに文章そのものにも首をかしげる箇所がいくつかありました。たとえば、「砌(みぎり)」など古風な表現をつかったり、「蒐める」と当用漢字にはない当て字を使ってまでいかにも歴史小説風に文体を整えているかと思うと、「陥穽」にブラックホール、「無役」にレイオフと振り仮名代わりに但し書きを付けるなど、意図しているものが理解できません。もうひとつこれはぜひ言っておきたいことですが、「浅葱裏」(あさぎうら)という語があります。江戸時代に一時期ですが浅葱色(文字から推測できるように、緑がかった薄い藍色)の着物が流行したことがあります。その流行が終わってからも参勤交代で江戸へ上がってくる地方の侍が、裏地にその浅葱色の布をあわせた着物を着ている例がたびたびあったために、流行に敏でない、すなわち粋でない田舎侍と揶揄してつかわれたものです。その「浅葱裏」をこの小説のなかでは「浅黄裏」と書いています。たしかに浅黄裏でも間違いではないのですが、色としていうなら浅黄色はそのまま薄い黄色のことで、浅葱色とはまったく違います。歴史小説のなかで書くのであれば、知らない読者が浅黄色をイメージすることがないよう「浅葱裏」と書くべきです。森村誠一『忠臣蔵』★★☆☆☆ 下津井城址(岡山県倉敷市) 大石内蔵助の祖父は、岡山藩・池田氏の重臣で、下津井城の城代をつとめていました。赤穂藩取りつぶし後に、そのツテをたよってここまで流れてきた赤穂浪士もいたそうです。画像は【aruku-122】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-122/ 岳真也氏の研究書『吉良上野介を弁護する』は、タイトルからわかるように、吉良上野介を一方的に悪人扱いする世評に対して真っ向から物申しています。ところが吉良上野介が悪人であり、それがために浅野内匠頭が耐えかねて斬りかかったとする世評は、江戸時代に流行った浄瑠璃や歌舞伎の「忠臣蔵」に起因するもので、1980年代にはすでに吉良上野介を「一方的な悪人とはしない」作品は発表されています。それゆえこのタイトルには、定説を覆すといったインパクトはありません。また内容自体もそれほど斬新というものではありません。ところが読むうちに、筆者は吉良上野介を悪人ときめつける世評にたいしてどうやら腹を立てていることに気づかされます。さらに赤穂浪士にたいしては、義士と称賛されることに憤りさえ覚えている様子です。それらの怒りや憤りがこの本を書く上でのエネルギーになっているのではないでしょうか。たとえば吉良上野介を弁護するために引用する資料のなんとおびただしいこと、執念を通りこして怨念のようなものさえ感じてしまいます。だからといって偏狭な考えに凝り固まることなく、怒りも憤りもオブラートで包みながら、浅野内匠頭をチクリ、大石内蔵助をコツンと仕置きしてゆきます。著者としてはこの本を書き終えて、さぞかし胸のつかえが下りたのではないでしょうか。岳真也『吉良上野介を弁護する』★★★★☆山本博文氏の解説書『東大教授の「忠臣蔵」講義』は当たり前ですが、東大生ぐらいの学力がないと理解できないというものではありません。おそらく私が学んだ有名でもない地方の大学名を冠にしたのでは宣伝効果も見込めないでしょうから妥当なタイトルだとは思います。さて読んでみたところ、なによりも分かりやすい。「講義」という形式を取ったのが良かったのだと思います。生徒というよりも進行役のようなものがいて、これってどういう意図があるんですか?といった調子で質問し、それに対して先生が、こういう説もありますが、他の資料を見るとこういうふうにも考えられます、といった具合に会話調で説明してゆきます。ただこう言った形式の解説は、とくにネットのなかでは氾濫しており珍しくもないのですが、ネットの場合には往々にあまりにも軽い調子で進行するため、全体の印象が軽妙というより軽薄にさえ感じられてしまいます。この書はどうかというと、なんとか軽妙の域でとどまっており、さすが東大教授!と頷きながら読みすすめられます。ただタイトルでこの本を手に取った読者としては、東大の講義としてはいまひとつ物足りないと感じるかもしれません。そのときはタイトルをもう一度見直してみてください。「東大の講義」ではなく、「東大教授の講義」であって、東大の教授が出張講義にきているようなものでしょう。堅苦しい研究書の形をとれば、味気ない文章がだらだら続くだけのものになっていたかもしれません。その味気ない文章の随所に、それでなくても舌をかむような、吉良上野介(きらこうずけのすけ)とか、何と読むのか悩んでしまう、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)などの名が並べば、イラッときてしまうでしょう。つまらない読本の代表になりがちな歴史研究書を、形式をかえることで読んで楽しい歴史解説書に変えて見せてくれただけでも、この本が出版された価値はあると思います。山本博文『東大教授の「忠臣蔵」講義』★★★★☆ 高野山にある浅野内匠頭と四十七士の墓 浅野内匠頭と四十七士の墓は、地元赤穂と東京(江戸)だけでなく、高野山にもあります。墓自体は大きなものではありませんが、奥の院の最奥、弘法大師御廟の近くという特等の場所です。画像は【aruku-109】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-109/ ... Read More | Share it now!

長谷川等伯

2023.6.16記 京都市内・本法寺境内にある「星雲」と名付けられた長谷川等伯(信春)の像。これと同じ像は等伯の出身地である石川県・七尾市のJR駅前などもにあります。志をむねに京の都へむかう若き日の姿を描いているそうですから、七尾のものが本家ということになります。 長谷川等伯と狩野永徳 長谷川等伯といえば、かならず比較されるのが当時の画壇の主流・狩野派の棟梁だった狩野永徳です。どちらの方が画師として優れていたかといえば、比較評価できないと言わざるえません。ひとつには両人とも画師として前人未到の領域に達しており、その両人に優劣をつけるのは個人々々の好き嫌いでしかないということ。そしてもう一つの理由は、狩野永徳については現代に遺っている絵があまりにも少ないという事です。永徳が寡作だったというのではありません。織田信長や豊臣秀吉にひいきにされ、安土城、大坂城、聚楽第などに膨大な屏風絵や障壁画をえがいていたはずです。ところが権力者の城や御殿(すなわち大舞台)を中心に描いていたばかりに、激動する時代の波に呑まれ、その全部が消失(大半は戦火による焼失)してしまいます。では等伯はというと、若いころは仏画をえがいており、また壮年になってからも仏画師であった縁から僧侶の肖像画や、寺院の方丈(住職の居所)に襖絵をえがくなどの仕事が中心で、そのため焼失せずに遺されたものが多いという幸運に恵まれています。等伯の作品がそのような理由でたくさん遺ったという事実は、後世の絵画ファンにとっては僥倖と言えるかもしれませんが、等伯本人が知ったなら苦笑したことでしょう。当時の等伯にとって狩野派は頭上をおおう堅牢な屋根か、あるいは高くそびえる壁のようなもので、狩野派が画壇を支配しているがために自分には大きな仕事が回ってこない、自分も権力者の城や御殿のような大舞台で筆をふるってみたい。能登の七尾から京へのぼってきた等伯は、つねに狩野派を意識し、その棟梁である永徳にたいしてはいやが上にも対抗心を抱いたはずです。 ★長谷川等伯は壮年過ぎるまで「信春」の名でしたが、ここでは「等伯」で通しています。 智積院の大書院に描かれた楓図と桜図(レプリカ) 現在ある智積院は、もとは秀吉が幼くして亡くなった愛息鶴丸のため菩提寺として建てた祥雲禅寺です。千利休の助力により、その祥雲禅寺に等伯・久蔵父子は障壁画をえがきます。それが楓図(等伯作)と桜図(久蔵作)です。(当時は異なる部屋に描かれていました)豊臣家をたおした家康は、秀吉の名残りである祥雲禅寺を真言宗の智積院へ建て替えさせますが、そこにあったすべての絵を残して引き継がせます。画像は【aruku-116】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-116/ 仏画師として頭角をあらわす 等伯は、七尾一帯を守護職としておさめる畠山氏に従属する武家の次男として生まれます。そのころの畠山氏は没落名家そのもので、財力もなく勢いもなく、その畠山氏にぶら下がるレベルであれば、武家とはいっても刀をもって生きてゆけるのはせいぜい長男のみ。娘ならば嫁がせて片付けられるものの、次男となるとそういうわけにもいきません。そこへ長谷川となのる染物屋から養子にもらえないかと話がもちこまれます。等伯(信春)が幼少のころから画をえがくに優れた才をみせていてスカウトに近い形で養子入りしたとの説もありますが、詳しいことはわかりません。確かなことはその長谷川の家は染物屋であると同時に仏画をえがくことも業としていたこと、養父から可愛がられ染物屋としてではなく仏画師として家を継ぐよう勧められたこと、長谷川家は日蓮宗に帰依しており仏画ももっぱら日蓮宗の寺院に奉納していたこと、そして等伯自身も熱心な日蓮宗徒の養家でそだち、日蓮宗の寺院におさめる仏画をえがき続けるうちに、すくなからず日蓮宗に帰依していったであろうことは想像できます。 等伯は仏画師としてその才能を開花させ、しだいに能登一帯に名を知られるようになります。ところが嫁ももらい、長男(のちの長谷川久蔵)がうまれ、順風満帆とおもわれた矢先に養父母が相次いで亡くなります。等伯にとっては長谷川家に養子入りしたことが人生最初のターニングポイントであり、この養父母の死が二度目のそれになったはずです。等伯は七尾の地でそこそこ有名な仏画師でおわることに満足できなかったのでしょうか。そうではなく、自分のなかに渦巻く「画を描きたい」という激情を、このせまい能登ではとても燃焼しつくせないと思ったのではないでしょうか。まもなく等伯は、妻と久蔵をつれて京へと向かうことになります。 妙成寺 石川県羽咋市(はくいし)にある妙成寺は、日蓮上人の孫弟子にあたる日像が開いたと伝わる日蓮宗の寺院です。等伯の時代、七尾から京都へゆくには、まず七尾から徒歩で能登半島を横断して羽咋へ。羽咋からは船に乗って敦賀まで行き、そこから京都まで歩くというのが最短ルートだったようです。それゆえ等伯は間違いなくこの羽咋へは来ているはずで、妙成寺には信春時代にえがいた「涅槃図」が残されています。画像は【aruku-142】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-142/ 京にて雌伏雄飛する 等伯が七尾から京へと出てきたのは、両親が死去した直後と推測されるため33歳のころではないかと思われます。そこからのちの等伯の足取りははっきりしません。その後で明言できるのは、およそ20年後すなわち等伯50代前半に、豊臣秀吉が幼くして亡くなった愛息鶴丸の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺に、息子や弟子たちとともに後世に語り継がれる障壁画をえがいた事実です。その20年の間は何をしていたのか。雇われて扇に絵をえがいて糊口をしのいでいたとも、そうではなく自分で店をかまえて自作の扇を売っておおいに繁盛していたとも説がありますが、たしかなことは分かりません。一時期ですが、狩野派に弟子入りしていたとも言われています。これはけっこう信憑性のたかい話のようですが、具体的な時期や期間はまったくわかりません。しかし残した作品から推測できることがいくつかあります。○京に上ってきてまだ間もないころに、世話になっていた本法寺(この寺は日蓮宗の本山で、上洛後しばらく等伯親子はこの寺院の一隅で暮らしていたともいわれています)の住職日堯上人の肖像画をえがいています。その画は、人物観察の鋭さと人物の内面をえがきだす筆の確かさを示しています。○祥雲禅寺にえがく4年前に、千利休が寄進した大徳寺山門に天井画や柱絵を描いています。このことから上洛後いつの時点かで千利休と出会い、その知己を得るに至っていたことがわかります。○その翌年に(おそらくは千利休の仲介もあってか)豊臣家五奉行のひとり前田玄以に取り入り、天皇の御所の障壁画をえがくチャンスを得かけますが、狩野永徳の横やりで話がつぶれてしまいます。この事実で、狩野永徳がいかに長谷川等伯を意識し、その活躍と才能に危機感をもっていたかが分かります。 そして等伯にとっては思わぬことからチャンスが訪れます。はたしてそれを等伯が喜んだかどうかは分かりませんが、狩野永徳が急死するのです。棟梁である永徳の急死で混乱する狩野派に大仕事をうける力はありません。そもそも依頼する側からして永徳のいない狩野派は名前だけの存在でしょう。こうして祥雲禅寺の仕事は等伯に任せられます。 本法寺 この寺には長谷川等伯の御墓もありますが、最近建てたものなのか、まるで「ご近所さんの御墓」を見るようで、まったく偲ぶ気持ちに浸れませんでした。画像は【aruku-148】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-148/ 長谷川等伯... Read More | Share it now!

千利休

山本謙一氏の小説『利休にたずねよ』は直木賞受賞作であり、氏の代表作でもあります。この作品は、4年後に上梓される同氏の小説「信長死すべし」と比較されることが多々あるようです。「信長死すべし」は正親町天皇が信長を排除すべしと決断するところからはじまり、場面場面で主役が替わりながら信長が弑逆されその弑逆した光秀が謀殺されるまでを時系列で描いています。それに対して『利休にたずねよ』は時系列が逆になり、利休が死を賜るところからはじまり、やはり場面場面で主役が替わりながら順に時間をさかのぼり利休の隠された過去にたどり着く。その特徴的な手法の類似ゆえに比較したくなるのでしょうか。先に「信長死すべし」を読み、深く感銘をうけ、おおいに期待して後から『利休にたずねよ』を読んだのが失敗だったかもしれません。「信長死すべし」では場面ごとに主役が替わることで、50日間ほどの物語りが凝縮されそこに緊迫感がうまれ、まるで上質のサスペンスを読んでいるかのような読書の楽しみを得られます。ところが『利休にたずねよ』は、たしかに時系列を逆にするのは大胆な試みではあるし、場面ごとに主役が替わる手法はこちらが先に書かれているので二番煎じではないのですが、なにぶんにも「信長死すべし」にあるような、物語りが凝縮され緊迫感がうまれるという効果、効能が見られません。また利休に隠された過去があったという設定はよいとしても、その隠された過去と利休がめざした侘びの世界と、さらに利休の切腹とが頭の中でうまく結びつかないため、大満足という読後感は得られませんでした。とは言え筆力はさすがで、単独で評価するなら読んで十分に楽しめる作品です。山本謙一『利休にたずねよ』★★★★☆ 加藤廣氏の小説『利休の闇』ですが、氏は「信長の棺」で75歳にして小説家デビューして以降、精力的に作品を発表しておられましたが、これが最後の作品になります。「信長の棺」は本能寺の変で信長の死を決定づけたのは秀吉のある陰謀による、という当時は結構衝撃的なストーリーで話題になりましたが、「秀吉の枷」や「明智左馬之助の恋」、いわゆる本能寺三部作でも秀吉の隠された秘密(闇)が根底にすえられています。さて『利休の闇』ですが、ここにも秀吉の闇は引き継がれています。読み終えて最初の感想は、タイトルを「秀吉の闇と利休」にした方が適しているのではないか。作品の中では秀吉と利休が関係する茶会の記録(誰と誰が参加し、どのような道具をつかったかなど)をひとつひとつ詳細に記し、そこから茶の湯を通して浮かび上がる秀吉と利休の接近と離反を克明に追跡しています。これはたいへんな労作だとは思いますが、あまりにも記録の紹介が多いため、話の展開を裏打ちするために茶会の記録があるのではなく、茶会の記録に合わせて話を展開させているかのような、本末転倒の感が否めません。この作品は5年程前に読んだのですが、最近読みなおしました。5年前に読んだときの作品に対する記憶といえば、茶会の紹介がたくさんあったということだけで、それだけ作品のなかで大きな役をになっているのでしょうが、肝心の利休はなぜ切腹したのかの謎解きには、諸刃の剣だったかもしれません。加藤廣『利休の闇』★★★☆☆ 晴明神社... Read More | Share it now!

千利休

2022.11/18記 千利休の像 堺市の大仙公園に千利休の像があります。利休は当時としてはたいへんな長身で、180cmほどあったと伝わっているので、この像はずいぶん小ぶりということになります。画像は【aruku-20】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-20/ 秀吉の茶の湯と、利休の茶道 千利休の生涯をたどってゆくと必ずぶつかるのは、なぜ切腹したのかという疑問です。どうして秀吉から切腹を命じられたのかではなく、なぜ切腹を命じられる前に処し方を考え回避しなかったのか。利休の最後の数ヶ月をつぶさに見ると、いずれ切腹を命じられる日がくるのを泰然と待っていたとしか考えられません。それは自分が死ぬ以外にもはや道はないと悟っていたかのようです。利休が切腹を命じられたのは、秀吉の怒りを買ったためといわれています。その原因については諸説あります。1)茶道に対する考え方の違い... Read More | Share it now!

お市の方

2023.10.28記 お市の方の像は福井市中心街・北ノ庄城址地に立っています。この像の右には茶々、お初、お江の三姉妹像があり、その後ろには横向きに柴田勝家の座像があります。まるで主役はお市のようで、ここは柴田神社の一角でもありますが、「美」を祈願する象徴... Read More | Share it now!

荒木村重

黒部亨氏の小説『荒木村重 惜命記』は、タイトルからして謎掛けのようです。日本語に「惜命 せきめい? しゃくみょう?」という語はありません。ところが中国語になると「惜命 シーミォ」と発音してまさに「命を惜しむ」という意味の語があります。結論的なことをさきに述べることになりますが、この小説は唯一「荒木村重はなぜ死ぬことから逃げ続けたのか」に対する疑問に対して、じつに真摯に向き合い読者にその答えを示そうと努めた作品といえます。ほかの小説はというと、自作のストーリーをより興味深いものにするために「荒木村重はなぜ... Read More | Share it now!