白旗城址をめざして白旗山をのぼる

【兵庫県・赤穂郡上郡町 2026.3.9】
白旗城は兵庫県西部の岡山県との県境に近い、公共交通機関で行けはするものの大変不便な地にあります。
大阪からゆく場合、時間を金で買う余裕のある方なら新幹線を使うのでしょうが、時間を差し出して金を節約する私でしたら大阪からJRの新快速で姫路まで行き、そこで普通電車に乗り換えて上郡駅へ。
上郡駅から6kmあるいて登山口へ。
あるいは上郡駅で智頭急行線にのりかえて2駅北の河野原円心駅へ、そこから2km歩いてもどり登山口へゆく手もあります。
どちらにしても片道3時間半ほどはかかります。

白幡城の歴史について話しておきます。
せめてその歴史でも知らないと、日本百名城にも続日本百名城にも選定されていない、しかもそんな不便なところにある城をわざわざ訪ねてゆく気にならないでしょう。
築城主は赤松則村(円心)といわれており、これは確かなようです。
築城時期は南北朝時代に後醍醐天皇の挙兵に応じるかたちで築城したというもの。
あるいは後醍醐天皇から離反した足利尊氏に従い、尊氏がいったんは敗れて九州へ落ちのびるさいに敵軍を押しとどめる盾になるよう築いたとの説があります。
どちらにしても赤松氏がこのあたり一帯の守護大名になるまえのことです。

足利尊氏が九州へと逃れたさいに、追撃しようとする新田義貞の軍勢を赤松軍がこの白旗城でくい止めた、それがために時間稼ぎのできた尊氏は態勢をととのえ直して東上し、一気呵成に新田軍を蹴散らし楠木正成を自刃に追い込み、のちに北朝とよばれる自軍を勝利に導いたとされています。
さて播州の城に詳しい方はこれを聞いて、あれ???と思われるはずです。
ここよりもう少し西いまの相生市に感状山城がありますが、ここにつたわる歴史がなんとこれと酷似しているどころか、まったく同じ。しかも盾になって新田軍をくい止めてくれた赤松則村の功績に感謝して足利尊氏が感状をおくったことから感状山と呼ばれるようになったという逸話まであり、どちらが本物かと問われると、コチラよりもアチラの方がなんだか分がいい。

そんなこんなの事情で白旗城には積極的に出向く気持ちになれずにいたのですが、このたび宇喜多直家(秀家の親父)について足跡をたどるため岡山県の備前市、赤磐市、岡山市などを回るべく計画を立てるなかで、姫路でレンタカーを借りれば「ついで」に回れると思いいたった次第なのです。
なお先に言ってしまうことになりますが、当の白旗城は歴史の真相は置いといても十分に楽しめる、まして「ついで」に訪れるどころか本命として訪ねても弩級のインパクトをうける城跡でした。

登城がそのまま登山

奥に見える山が白旗山、一番高い峰が櫛端丸跡

白旗山は標高440ⅿの低山ですが、上郡町の公式サイトではその登山について以下のように注意をしています。

・道が狭くなっている
・角のとがった石が散乱している
・落ち葉で道が隠れており、すべりやすくなっている
さまざまな危険がありますので、注意して登りましょう。

登城(登山)口にあった案内図
はじめの内こそ穏やかな道を歩きますが、
道はしだいに険しくなってきます
そのうえ荒れています
城の遺構と思われる石積みを発見
散乱する岩と石 / とんでもなく歩き難い
この斜面上から敵兵に向かって岩石を落としたとか。
これほど大規模な岩石落としははじめて見ました。
なんとか岩石落としを逃れてもこの絶壁が前をふさぐ。
攻城側は必然的に左へ迂回するしかない。すると待ち受ける城兵の弓矢の餌食になる。よくできているというよりも、リアルすぎて怖っ!
尾根に上がってきました / 堀切の跡
この道を歩いて二の丸、本丸へとたどり着けますが、櫛端丸跡によじ登り曲輪沿いに本丸を目指すことにします。

赤松則村は土地の豪族で「悪党」のような生き方をしていましたが、最初は後醍醐天皇の命に呼応するかたちで蜂起し京都の六波羅探題をさんざん悩ませる働きをしてみせます。ところが足利尊氏が武士の棟梁として後醍醐天皇から離反すると、みずからもあっさり天皇に背を向けてしまいます。

どうやら天皇による論功行賞への不満もあったようなのですが、赤松氏は村上源氏を始祖とする由緒ある武家であり、足利尊氏が清和源氏の流れをくむ武家としての名門であることに共感したところはあったはずです。
その点が、土豪であり悪党でありそれ以上の武家ではなかった楠木正成が天皇に忠節を誓いつづけたのとは根本的に違っています。

櫛端丸から二の丸

櫛端丸へはこの急坂をのぼる。
じつは登山靴を持参しておらず、スニーカーで登ったのでそれはそれは大変な登攀でした。
櫛端丸とおもわれる岩場(見張り台)
櫛端丸からの眺望
尾根に沿って曲輪がつづきます
あちらこちらに岩場があります
二の丸跡

足利尊氏が後醍醐天皇と袂をわかっていわゆる建武の乱に突入しますが、尊氏は鎌倉から京都までは破竹の勢いで進軍し入京後に後醍醐天皇を比叡山に追いやったまでは良かったものの、新田義貞、楠木正成、それに奥州から上洛した北畠顕家の軍勢の攻勢をうけ京都から追いやられます。
さらに摂津で雪辱戦を挑むものの、このときも惨敗します。

本丸

階段状に曲輪がつづく

足利尊氏が負けつづけた最大の理由は、相手方が後醍醐天皇の勅命を受けているということで官軍であるのに対して、天皇に反抗する尊氏側はおのずと朝敵に落ちるため士気がまったく上がらないということがあったようです。
摂津での大敗のあと赤松則村の献策でいったん畿内を離れることになるのですが、(このさいに赤松軍が盾となって敵の追撃を防いだわけです)ここで秘策が練られます。

本丸

「目には目を、歯には歯を」これは例えとしてちょっと違うでしょうか。
では「倍返し」と表現しましょう。
相手方が後醍醐天皇を担ぎあげた軍であるがゆえに官軍というのなら、こちらは北朝の天皇(光厳天皇)を立ててやはり官軍となり相手を朝敵として誅伐しようとの奇策です。

前後の状況からしてこの策を考えたのは赤松則村ではなかったかと考えるのですが、どうでしょうか。

本丸から三の丸を見下ろす
本丸からの眺望は木立に遮られていました

もし光厳天皇をかついでみずから官軍となる妙案を考えたのが赤松則村であったなら、このあと足利側の軍勢は見違えるように士気をたかめ相手を撃破するのですから、建武の乱において北朝方に勝利をもたらしたMVPは言わずと知れたこの人であり、このさい盾になったのが白旗城か感状山城かは小さな小さな疑問で、もうどうでもよろしい。

【アクセス】レンタカーで細野登山口へ / 細野登山口~ふもと絵馬掛所~細野・野桑分岐~櫛端丸跡~二の丸~本丸~往路をもどる / 2時間30分
【満足度】★★★★☆
登山靴で登ることをお薦めします。スニーカーでも登るには登れましたが、足先をずいぶん痛めました。