京都で怨霊神社を訪ねて – 下御霊神社、上御霊神社、崇道神社を歩く
【京都市 2026.6.4】
今日は早良親王の怨霊を鎮魂するために創建された神社を歩いてみます。予定としては、京都三条京阪駅から下御霊神社、上御霊神社、そこから比叡山にむかって歩き洛北の崇道神社に参ります。道程はそこそこ長いので(10kmほど)途中気になるところがあれば寄り道もアリということで。
あらためて考えてみると早良親王といえば桓武帝の時代に怨霊となって数々の祟りをもたらしたという以外に歴史に名をのこすこれといった事績のない方。もし履歴書を書くとしたら「〇〇年生まれ、〇〇年没。備考:死後怨霊となって数々の災厄をもたらす」くらいか – – – 他に書くことがないので、「怨霊」「祟り」の部分がやたらにクローズアップされたのかと皮肉な見方ができなくもない。
そう考えてみると、早良親王について多少なりとも予備知識がないのでは三条駅を降りて下御霊神社に参ったあたりで、つまらないから上御霊神社はパスして抹茶パフェでも食べに行こうかと気が変わりかねません。
そこで早良親王について説明しますが、先にも書いたように御本人に目立った経歴がないので系譜と利害の絡まる人間関係から話を進めてゆくしかない。しかもその系譜と人間関係がやたらに複雑なうえに、全体を理解していなければ早良親王がなぜ濡れ衣を着せられ怨霊となって祟ったのかが腑に落ちないでしょうから、まず私なりに整理整頓してできるだけ簡単に書きます。
白山神社、下御霊神社

白山の僧侶が加賀からわざわざ自社の神輿(みこし)をかついで強訴に来たものの、訴えを聞き入れられず腹立ちまぎれにその神輿をここに放擲して帰ったそうで、神輿が雨ざらしとは畏れ多いと近所の住民が社をたてて祀ったのが由緒だそう。

早良親王など、すべて怨霊に関係する8神を祀る。
中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足、藤原家の祖)が共謀して蘇我氏を滅ぼし大化の改新がはじまります。飛鳥時代後半から奈良時代の政治は天皇家と藤原家との二頭体制によるものといって良いでしょう。
さらに藤原氏は男子は朝廷内での要職につき、女子は天皇に嫁がせて(当時の天皇は複数の妻を抱えていたので)皇后となるか皇后ではなくても妻として男子を産みその子が将来天皇位につくよう画策していました。
こうして天皇家と藤原家の関係が切っても切れない強固なものになる一方、天皇家では天智天皇の弟が乱を起こして天皇の息子である弘文天皇から皇位を奪い、天武天皇として即位すると天智派閥を牽制しながら天武派閥をかためてゆきます。
38代天智天皇、39代弘文天皇、ここまでが天智派。40代天武天皇から48代称徳天皇までが天武派です。
一方の藤原氏は鎌足の息子である不比等が41代持統天皇に重用され右大臣にまで昇り、さらに2人の娘を天皇に嫁がせるだけでなく要職に就いた4人の息子がそれぞれに長けており、父+4人兄弟で藤原氏最初の全盛期をむかえます。
ところが不比等が亡くなり、さらに全国的な痘瘡(天然痘)の大流行で4人兄弟全員が病没し、さすがの藤原氏もこれで衰退するかと思いきや、4人兄弟がそれぞれ残した子達がなかなかの逸物、曲者ぞろい。4兄弟の上から南家、北家、式家、京家にわかれて競いはじめます。
まず突出したのが南家の藤原仲麻呂。生涯独身で子供のいない46代孝謙天皇(女性天皇)が譲位の意向を示すと、一見藤原家とはつながりの薄い舎人親王を強引に即位させます。これが47代淳仁天皇。
なぜ仲麻呂が淳仁天皇を立てたかというと、この方いたって凡庸で傀儡にするにはもってこい。
ところが仲麻呂の放埓な専制に我慢のならない孝謙上皇は、淳仁天皇を廃位させ自分が重祚して称徳天皇として返り咲きます。
では称徳天皇がその名のとおり徳を称えられるほどの女帝だったかというと、僧・道鏡を寵愛して色話まで後世にのこしており、仏教の隆盛に努めながら政事にも腕をふるったとはいえ評価は分かれるところでしょう。
称徳天皇が亡くなる時点では天武派には適当な天皇候補がおらず、そこで天智系ではあるものの天武系の井上内親王を妻とし有力な男系天皇候補になりうる息子・他戸親王のいる白壁王が(つなぎの)天皇として即位します。これが49代光仁天皇です。
光仁天皇は(天武派の圧力があって?)即位後すぐに井上内親王を皇后とし他戸親王を皇太子に立てますが、ここから天智派の巻き返しがはじまります。
光仁天皇の姉(妹?)の死は皇后(井上内親王)の呪詛によるものだと密告があり、さらに光仁天皇をも呪詛していると疑いをかけられ、井上内親王は廃后され他戸親王は廃太子(のちに幽閉先で謎の死をとげ、いまは上御霊神社にふたりともに祀られています)
裏で暗躍したのは式家の藤原百川、とみられます。百川はさっそく光仁天皇と百済王の子孫といわれる側室(のちに夫人 / 正式な妻が夫人、夫人のなかで形式上の最上位が皇后、夫人以外は側室または妾)との子である山部親王を立太子させます。さらに百川は周到に藤原式家の乙牟漏を山部親王の夫人とし、都合よく翌年には男子が生まれます。
山部親王が50代桓武天皇、乙牟漏との間に生まれた男子が51代平城天皇ですから、これだけ見れば百川の目論見通りのようなのですが、波乱はつづきます。
(やっと)ここで早良親王が登場します。


早良親王は山部親王(桓武天皇)の同母弟ですが、当時は皇統が天武系で継承されていたうえに長男でもないことから皇位をつぐことはないと判断され、少年期に平城京の寺(東大寺?)にて出家していました。
ところが山部親王は桓武天皇として皇位につくとさっそく早良親王を還俗(げんぞく:出家したものが僧籍をはなれて一般人にもどる)させて皇太子に指名します。
早良親王が皇太子に指名された理由については諸説あります。(私が個人的に)もっとも近いと思うのは、僧籍に入っていたため妻子がおらずそのため「使い捨て」しやすいと考えられたからではないでしょうか。
誰が使い捨てしやすいと考えたかといえば、桓武天皇と藤原家の誰か。
桓武天皇は即位するとさっそく東大寺などの奈良仏教勢力が強大になりすぎた平城京を忌みし、長岡への遷都を勅命します。
その長岡京造営のための責任者(造長岡宮使)を担っていたのが藤原式家の種継ですが、京づくりの真っ最中に種継が暗殺されます。
なぜ種継は暗殺されたのかもわからぬまま、首謀者と思われる数人(数十人?)が捕縛されどの程度の取り調べがあったのかもわからないままに処刑されます。
さらに(これも真偽のほどはわからないまま)早良親王が関与しているとの自白があったと上申があり、有無を言わせず親王は囚われの身となります。
早良親王が幽閉されたのは現在の長岡京市北郊にある乙訓寺。親王は無実を主張して絶食をつづけ十数日後に淡路島へ配流される途中で息を引きとります。
京都御所、梨木神社


なぜかというと、鳥居の先の木立の向こうには低層ながら瀟洒なマンションがあるため迂回せねばなりません。


京都市街地にある寺社は維持費ねん出のため、土地を切り売りする、老人ホームや幼稚園を併設する、境内の一部を月極駐車場にするなどあの手この手。
それでなくても塀際まで民家が迫っていたりで、市街地での寺社巡りに風情を求めるのは無理があります。
上御霊神社

神社の楼門には仁王ではなく随神が左右に並びます


桓武天皇は早良親王が幽閉された段階でさっそく廃太子し、絶命すると遺体はそのまま淡路島へ運ばせ、藤原式家の乙牟漏との間に生まれた当時11歳の安殿親王を立太子します。
このころは乳幼児死亡率はきわめて高く、しかも安殿親王は病弱でもあったのでその年齢になるまで無事に育つか様子を見ていたのでしょうか。また元服する年齢も近づいており、そろそろ早良親王が邪魔になってきたのかもしれません。
桓武天皇みずからはそこまで悪計をめぐらさなかったとしても、さまざまな不安を吹き込み危機感をつのらせ憎悪を掻き立てるものが身近にいたとしたらどうでしょう。誰がといえば、藤原式家の誰か。


早良親王の死は本人が絶食したのではなく、食事を一切与えられなかったためだとの説もあります。
あるいは早良親王が天皇位につくと桓武天皇が忌み嫌う奈良仏教勢力を、わざわざ遷都した長岡京まで引きこみかねないと危惧したとの説もあります。もしそうであるなら早良親王がなんらかの問題行動を起こしていたのでしょうか。
早良親王の死のまえに、井上内親王と他戸親王にかけられた不可解な嫌疑と謎の死についてはすでに書きました。
じつは早良親王の死のあとにも、もうひとつ似たような事件がありました。
桓武天皇が崩御し安親親王が平城天皇として即位すると、もともと病弱で性格も内向的な平城天皇よりも、天皇の異母弟にあたる伊予親王に期待の目が注がれるようになります。正確には注がれるように仕向けられたというべきでしょう。だれが仕向けたのかといえば、藤原南家の誰か。
伊予親王の母・吉子は南家の実力者・藤原是公の娘ですから伊予親王を皇位につかせるため南家の誰かが裏で動いたのでしょうか。しかも伊予親王は亡き桓武天皇からもっとも愛されていた事実もあるので、平城天皇が危機感を持たないはずがありません。
唐突に伊予親王が天皇位を奪うための謀反を企てているとの報告がありました。
取り調べの結果、伊予親王と母・吉子は現在の奈良県明日香村にある川原寺に幽閉、身の潔白を主張しますが聞き入れられずそろって自害します。
さらに藤原南家のおもな実力者は流刑に処せられ、このため南家の勢力は大きく後退することになります。
こうして見てくると、どこまでが真実でどこから計略なのか、言い換えると実罪と冤罪の区別がつかないところもあるのですが、皇位継承をめぐり多数の「死」があったのは事実で、成仏できない霊も少なからずあったことでしょう。
なお上御霊神社には、早良親王のほか他戸親王と母・井上内親王、伊予親王と母・藤原吉子も祭神として祀られています。
崇道神社



最初の鳥居をくぐって緑濃い参道をあるき、




山田雄司氏の『怨霊とは何か』の冒頭に「怨霊とは死後に落ち着くところのない霊魂であり、それが憑依することにより個人的に祟ることから始まって、疫病・災害などの社会全体にまで被害を及ぼす存在と考えられていた」とあります。
人は死ぬことにより身体から魂が抜け出ると信じられてきました。ところが恨みや無念をかかえたまま死んだ人の魂は身体から抜け出しても行先も落ち着く先もなく、恨みの対象である相手あるいはその関係者に憑依して(乗り移って)祟ることから始まって – – – ということなのでしょう。
早良親王の死後にはいくつもの不幸な出来事がつづきます。
安殿親王の重い病気、桓武天皇の母の死、つづいて皇后であり安殿親王の母である乙牟漏の死。さらに疫病が流行し、長岡京が洪水に見舞われ – – – 。
これらの不幸を早良親王の怨霊によるものと畏れた桓武天皇は、まず大がかりな祈祷をおこない、廃太子した早良親王にたいして崇道天皇とあらため追尊(死後にあらたな称号を贈って称える)して、淡路島から遺体を回送していまの奈良市八島町にあらたな堂々たる御陵をつくって埋葬し、神として御霊神社に祀って怨霊を鎮めることにつとめます。
桓武天皇も(おそらく)平城天皇も、これだけ皇位に執着したすえにあの人この人に罪を着せ、多くの人を死なせさらに多くの人を不幸にしたのですから、怨霊にも祟られますよ。
後ろめたい気持ちがあるからこそ、高熱が出ても腫物ができても怨霊の祟り、身内が亡くなれば怨霊の祟り、疫病の流行も怨霊の祟り、日照りも長雨も地震も雷もすべて怨霊の祟りと恐れおののくことになるわけです。
この崇道神社は桓武天皇も平城天皇も亡くなったあとに建立されたものです。場所は平安京の北東すなわち鬼門の位置、ということは平安京の守り神として崇道天皇(早良親王)は祀られていることになります。
なんとなく、ホッとしました。
蓮華寺
崇道神社のすぐ横に蓮華寺はあります。
この寺はお薦めします。見どころといえば堂宇の一室から見る庭の風景それだけですが、京都市内でこれだけ静かな庭を他に誰もいない空間で独り占めして、まさに至福の時でした。


【アクセス】三条京阪駅~白山神社~下御霊神社~梨木神社~蘆山寺~上御霊神社~崇道神社~蓮華寺~叡山鉄道三宅八幡駅 / 18000歩
【拝観料】蓮華寺:500円
【満足度】★★★★☆(後半の崇道神社と蓮華寺のみの評価)






