明智光秀の謎・光秀はそれほど立派な人なのか

2022.12.21記

明智光秀像

JR亀岡駅を出ると、前方に丹波亀山城のうっそうとした藪が見えてきます。その一番前面で明智光秀の像が迎えてくれます。
この像が建立されたのは令和元年(2019年)。翌年1月から大河ドラマで「麒麟がくる」が放映されることが決まっていたので、それに合わせて建立したのでしょう。
どうやら昔から土地の英雄として称えられていたのではなさそうです。

画像は【aruku-2】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-2/

悪漢から好漢へ一転した光秀像

最近では明智光秀は、智と義と徳の名将、天下安泰をねがった英雄、といったような好人物に描かれることが多いようです。
あるいは暴君信長に振り回され苦悩の末に家臣や領民のために決起した、あるいは奸計にはまり主君信長謀殺に利用された、なども光秀自身はけっして悪人ではなく、信長は殺されて当然だった、信長を亡き者にしたい黒幕がいたといった見解に立っています。
なぜこれほど明智光秀が好漢として描かれるかといえば、かつてあまりにダーティーなイメージで塗りこめられていたため、まるで罪滅ぼしのようにダーティーなイメージを払拭し、クリーンに塗り替えることに躍起になったのではないでしょうか。
そこには商業的な意味合いもあったはずです。

京都市京北の慈眼寺には、全身を墨で塗られた光秀像があります。逆臣ゆえに誰かの手で黒く塗られたとも、逆臣ゆえにこの像が破却されることを危惧した誰かが黒く塗って隠したとも伝えられていますが、一時期はこの真っ黒に塗られた像が世間の光秀に対するイメージを象徴していたのではないでしょうか。
そこに明智光秀はけっして悪人ではなかったという資料がつぎつぎに出てきます。
そのとき「真実はこうだった」と言うに際して、その発表が衝撃的であればあるほど、言い換えれば真逆であればあるほど巷間の注目をあつめます。

京都市京北・慈眼寺 /画像は【aruku-91】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-91/

慈眼寺では毎週土日月の3日間は予約もなしで「くろみつ大雄尊」と名付けられた墨塗りの明智光秀像を見ることができます。
ただし写真撮影は禁止でしたので、ご覧になれるサイトを紹介します。
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=7&tourism_id=2704

秀吉によって作られた悪人像

光秀が悪人として後世に伝えられたのは、羽柴(豊臣)秀吉が残させた数々の伝記によるところが大きいことは疑う余地がありません。
秀吉が備中高松城攻めの只中に光秀による信長暗殺を知り(本能寺の変)、いわゆる中国大返しで山崎の戦いに挑むあたりまでは、秀吉にも信長の敵討ちの気持ちはあったでしょう。しかし光秀が小栗栖で落ち武者狩りの手により殺され、完全に明智勢が壊滅したことを確認したあたりから、秀吉の意識は100%自らの天下取りで占められるようになったと考えられます。
いかにして天下を取るか、それは秀吉にとっては信長が敷いた天下取りへの道をいかに巧妙に継承するかということです。横取りではなく万人が認める信長の後継者として天下人になるためには、秀吉自身は義の人でなければいけません。そして自分が義の人、正しい人であるためには、相反する不義の人、悪い人が必要です。
秀吉にとっては、自分が駆け上がるためには光秀を徹頭徹尾悪役にする必要があったのです。

山崎の合戦場跡地、後方が天王山/ 画像は【aruku-5】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-5/
光秀はこの藪辺りで討たれた / 画像は【aruku-57】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-57/

光秀の出自

そもそも明智光秀は清和源氏の流れをくむ名門・土岐氏の土岐頼兼が明智と改名し、その後200年続く美濃国可児郡の明智城主の嫡系ということになっています。しかしおぼろげにでも推測できる家系図さえ残っていないこと、また当時の資料からは明智氏嫡流の人物の中に「光」の字を名にもつ人物がいないことなどから嫡流ではなく、その明智氏につかえていた身分のものではないかと考えられています。
それどころか、そもそも武家の出ではなく商人か職人の家の出ではないかとの意見さえあります。ただそのように推測する方々が、では明智光秀は出自を偽ったペテン師だと非難しているか言えばそうではなく、そのような出自であるにもかかわらず、文武両道に秀でていたのは本人の並々ならぬ努力のたまものだと称賛していることには着目すべきでしょう。

滋賀県・坂本

光秀がはじめて領主となっておさめた坂本は、神社や寺院だけでなく随所に古い石垣がのこる、たいへん魅力ある街です。

画像は【aruku-8】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-8/

比叡山焼き討ち

明智光秀は主君・信長の類を見ない残虐性に恐怖し、憤慨し、そして憎悪したというのが定説です。
信長の残虐性を示すうえで筆頭に挙げられるのが、比叡山焼き討ちでしょう。信長は、敵対する浅井・朝倉勢を比叡山が支援し、さらには信長に対して公然と敵対することに激怒し、比叡山の男女老若すべてを根切りにし(根絶やしになるよう全員を殺す)、仏堂仏塔残らず焼き払えと命じます。

まず信長が比叡山の焼き討ちを命じた理由ですが、そのころの比叡山は堕落のはてに仏界ではなく魔界のごとき状態でした。
僧侶の隠語で酒のことを般若湯といいますが、そんな隠語を使うまでもなく日常的に酒はのむ呑んでは騒ぐ。僧侶は殺生をしないために肉魚を食べないことになっていますが、僧兵は貸金の取り立てで借入人をなぶりものにしていたのですから、肉食を避ける根本理由がなくなっています。女郎買いのために山麓へ下りるのが面倒なので、逆に女郎を比叡山に上がらせ囲い者にしていた、等々数え上げたらキリがありません。
信長が比叡山を焼き尽くしすべてを灰にするよう命じたのは、神仏の世界から完全に逸脱してしまった比叡山にはもはや存在する価値がない、むしろいったん無に戻し、必要ならばまったく新しい信仰の対象をつくればよいと考えてのことだったのでしょう。

比叡山がそこまで堕落していたのですから、焼き討ちを命じられた光秀をふくむ家臣たちにも全面的に賛成はできないものの、致し方なしと判断していた向きはあります。このとき重臣・佐久間信盛は「世間の評判が悪くなるので」控えた方がよいと忠言し、明智光秀は「真摯に仏法にとりくむ高僧と、価値ある仏典だけ」でも残してはと嘆願したと伝えられています。

正伝寺より比叡山をのぞむ
比叡山・東塔

比叡山焼き討ちの功績により、明智光秀は信長より近江坂本5万石を拝領します。この5万石相当の土地には比叡山から接収した寺領(山門領)も含まれています。
ところで信長の譜代もふくめすべての家臣のなかで、土地を与えられたうえでその領地に自分の居城をつくることを認められたのは、このときの光秀が最初のことでした。それだけ比叡山焼き討ちに際して手加減をせず、信長を満足させるだけの仕事をしたということでしょう。そして光秀がもと比叡山の寺領もふくめて拝領し、そこに当時もっとも美しい城とまで伝えられた坂本城を築いたのは、光秀にとっても寺領は少なければ少ないほど寺の力は弱くなり統治しやすくなると、信長同様の合理的かつ革新的な発想があったのではないでしょうか。

信長の慢心

天正8年(1580年)8月。武田家は滅び上杉謙信も病没し、そして10年にわたる戦いをつづけてきた石山本願寺とも終戦の運びとなり、信長にとっては当面大きな敵と言えば毛利家ぐらい、しかもこの時期の力の差を考えれば毛利家ひとつなど赤子の手をひねるぐらいのものとあしらっていたのでしょう。このころから信長にはあきらかな慢心が見られるようになります。

信長は驚くべき処断を下しはじめます。まず重臣・佐久間信盛へ折檻状を記した上での高野山への追放。その折檻状の内容たるや、石山本願寺に対して攻め方が手ぬるいとか、工夫がないとか、多くの所領を与えているのに家来を集めず育てずそれがために戦場でロクな働きができないとか、吝嗇で使うべき時に金を使わないとか、ほとんど言いがかりの羅列です。それでも信長様の命令は絶対で弁解の余地もなく、信盛は嫡男・信栄とともに高野山へ追放されます。(その後さらに高野山からも追放され信盛は熊野の山奥で野垂れ死んだそうです)
さらに筆頭家老の林秀貞を追放。その追放理由は、なんと24年前に織田家の跡目争いのさいに秀貞が信長に敵対したことを挙げているのですが、もしそれが本当であるなら理由は何でもよかった、さっさと追放したかったということでしょう。秀貞は高齢だったこともあり追放の2か月後に消え入るように死んでいます。

信長はなぜ長年従ってきた重臣たちにこのような仕打ちを行なったのか。
ひとつには古くからの重臣が年老いたゆえに役に立たなくなった姿を見るのが我慢ならなかったのかもしれません。そして超合理主義の信長からすると、高齢ゆえにろくな仕事のできない老臣に、勤めた年月の長さだけを理由に高禄を与えることに言い知れぬ不合理を覚えたのではないでしょうか。
信長の慢心とは、このような重臣に対する処断そのものよりも、譜代の重臣ですら不要になったら切り捨てられる現実を他の家臣たちがどのように見るか、そこから自分の将来に危機感を抱くことはないか、そういった周囲に与える影響に気を配ることすらなかったことです。

光秀の恭順

光秀が築いた坂本城跡地 / 琵琶湖の湖面に天守があった

坂本城は山崎の戦いでの明智軍の惨敗、つづく光秀の横死をうけて、娘婿の秀満(左馬助)が立てこもり家族と共に自刃、火を放って灰塵に帰します。

画像は【aruku-10】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-10/

光秀が信長による佐久間信盛らの追放に衝撃を受けたことは想像に難くありません。
追放されたのは譜代の重臣たち、それに比して光秀はしょせん外様にすぎません。しかもこのころは信長の手の上で羽柴秀吉と明らかに競わされており、おまけに旗色はむしろ悪いといえる状況でした。

ルイスフロイスというこの当時日本に滞在し、信長ともしばしば接見していたポルトガル人の宣教師が『フロイスの日本史』の中で、光秀についてはずいぶん辛辣な評価をしています。
「その才知、深謀、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」
「裏切りや密会を好む」
「自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さをもっていた」
「(信長の)親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどで、彼の嗜好や希望にはいささかも逆らうことがないよう努め – – -」
光秀擁護派の人は、これをフロイスは好き嫌いが激しかったからと一蹴し、あるいは光秀がキリスト教に対して関心を示さなかったことに腹を立てていただけと片付けたがるようです。しかしまったく根も葉もない記述で光秀を貶めてフロイスにどのような利があるのかと考えてみれば、まるまる鵜呑みにはできないものの、いくらかはそんような様子があったのではないかと考える方がむしろフェアなのではないでしょうか。

天正9年(1581年)、佐久間信盛らが追放された翌年、光秀は「明智光秀家中軍法」なる定めを発します。それは18条にわたって、たとえば戦陣の備えの場であっても大声をだすな雑談するな、旗本の先手は足軽達の戦いが始まっても勝手に動かず下知を守れ、など戦での規則を事細かく述べたものですが、その最後に、なぜこのような定めを敢えて発したかをのべる一文があります。
そこには一部抜粋すると、「取るに足らない存在だった自分(光秀)が信長公に召し出され、しかも大軍を預けていただいたからには、いまこそ軍律を正し武勇を示さなければ国の穀つぶしであり、嘲られて苦労することになる。しかしここで群をぬいて粉骨砕身し忠節を励めば、すみやかに上聞に達する(信長公の耳に届く)であろう。その考えあってここに軍法を定めた」と書かれています。
フロイスの光秀評をかする程度でも信じて、この家中軍法が発せられたタイミングに着目すれば、意図したものがなんとなく浮きあがってきます。

福知山にある御霊神社

福知山には明智光秀の霊をなぐさめる御霊神社があります。
すなわちこの地では、明智光秀による謀反は冤罪だったと昔から考えらていたということです。

画像は【aruku-85】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-85/

明智光秀の本音

光秀は、安土城にて徳川家康を饗応する役をはたしている最中に、備中高松城を攻める羽柴秀吉への援軍として急きょ中国地方へ向かうよう信長から下知されます。
そもそもこの援軍としての出兵は光秀にとっておもしろいものではなかったはずです。なぜなら主役は秀吉であり、光秀が(自腹で)大軍をひきいて駆けつけたところで、所詮は秀吉が手柄をあげるのに力を貸すだけのことです。
しかもこのとき信長により派遣された使者から驚愕の命を聞かされます。
いま与えている近江坂本および丹波は召し上げ(没収)、かわりに出雲と石見を与えるというものです。
光秀にとっては、よくある転封で済ませられるものではありません。石高だけで考えれば同じか石見銀山があるぶん新領地のほうが多少は有利かも知れませんが、近江坂本と丹波は光秀が心血をそそいで統治した土地であるのに対して、出雲・石見は現時点では敵方毛利氏の領土であって、与えると言われても空手形に過ぎません。
しかも近江坂本と丹波が京に隣接しているのに対して、出雲・石見は文化をこよなく愛する光秀にとっては不毛の地と感じられたことでしょう。もちろん鋭敏な光秀のことですから、これを都落ちすなわち左遷ととられたことは間違いありません。

光秀が信長暗殺を考えたのはこの時点だったと見てよいでしょう。
それまでも信長から命じられる激務での疲労と、それ以上に信長によって左右される自分の将来に対する不安で、光秀は肉体的にも精神的にもそうとうにまいっていたはずです。
そこにこの非情な転封命令をうけ、心の中でなにかが破裂したのだと思います。

本能寺の変で信長を暗殺してから山崎の戦いに至るまでのあまりにお粗末な行動をみると、光秀には信長にかわって天下人になろうなどという野心はまったくなかったと見えます。
まして天下安泰のために暴君信長をこの世から消し去るべく立ち上がったとも考えられません。
光秀が智にも義にも徳にも優れた人であったことは疑う余地はありません。しかし領民や家臣のことを真摯に考えると同時に、自分の欲や見栄にもそれなりに敏感な人だったと思えてなりません。
それでこそ、明智光秀が魅力ある人として後世に輝きつづけるであろうと信じています。

亀山城址

明智光秀は丹後平定の拠点として現在の亀山市に亀山城を築きました。
現在は宗教法人の管理になっており、それだけに荘厳な雰囲気が保たれています。

画像は【aruku-2】より
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明智光秀

Posted by 山さん