豊臣秀吉 → 藤堂高虎 → 加藤清正 → たどり着いたのが玖島城

【長崎県・大村市 2026.7.10】

長崎県大村市にある玖島城を訪ねてみます。
この玖島城の存在を知ることになるまでの過程が歴史をたどる旅そのものなので、前振りとして書いておきます。

秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)については、個人的には日本史に残る最悪級の暴挙愚行と考えていますが、それだけに関心度はたかく本も読めばネットでも調べました。
慶長の役すなわち朝鮮出兵の後半戦では、朝鮮半島の西側を進軍する宇喜多秀家を大将とする軍勢はまたたく間に全羅道(いまの韓国南西部)を制圧し、南端の海岸沿いに拠点とする城を築くことにします。縄張を担当したのは築城名人としていまに名をのこす藤堂高虎、出来上がった城が順天城(順天倭城)、ネットで縄張りをみても良く考えられたものだとわかるし、画像をみてもわずか3か月で造り上げたとは信じがたい堅牢さがうかがえます。
一口で言えば、たいへん魅力のある是非訪ねてみたい城址です。

この順天城には小西行長が城主となって入ります。他には平戸藩主の松浦鎮信、日野江藩主の有馬晴信、福江藩主の五島玄雅、大村藩主の大村喜前。小西行長が肥後国である以外ほかの4氏はみな肥前国に属します。
もうひとつ注目すべきは松浦鎮信以外は全員がキリシタン大名であること。

さて今回の旅を企画するにさいして、キリシタンによる武装蜂起とされる島原の乱、秀吉の晩年から江戸時代を通じておこなわれるキリシタン弾圧について、やはり本も読めばネットでも調べました。
本の紙面とPCの画面で探索する過程で、大村喜前よしあきが日本において最初のキリシタン大名であった大村純忠すみただの息子であり跡継ぎであること、さらに有馬晴信は従兄弟にあたりその晴信の姉が喜前の正室であることを知りました。
要は大村・有馬一族はがっちりと血縁で縁戚関係をむすび、それゆえに親族そろってキリシタンだったということです。

ところが大村喜前も有馬晴信も江戸時代になるとあっさり棄教してしまいます。
親族そろってキリシタンとはいえ、そもそもが南蛮貿易の利をえるための方便であり、江戸幕府からキリシタンであるがために睨まれるのであれば早々に棄教し領民にも棄教をすすめ、それでも従わないものには強制した(キリシタン弾圧)ということでしょう。
(有馬晴信については他のブログで書いているので省きますが)
大村喜前が棄教したきっかけは知己をえていた加藤清正が熱烈な日蓮宗(法華経)の信者であったことから、あっさり改宗したようです。「あっさり」と記述する文献はありませんが、加藤清正が肥後国の北の領主なら小西行長は肥後国の南の領主でで犬猿の仲、そのキリシタンである小西行長とおなじ順天城に起居し、明・朝鮮の連合軍と生死をかけてともに戦った(熱心なキリシタンであればそのときキリスト教の神に祈ったことでしょう)にもかかわらず、加藤清正との知己を大切にするのはよいのですが清正の影響で改宗したことを考慮すると、あっさりと考えざるえません。

大村喜前は秀吉の死後(もちろん朝鮮から帰国後)、豊臣家の衰退と徳川家の隆盛に時代のおおきな変革を感じ国がふたたび乱れることを予見したのか、新たな城を築いてそれまでの三城城さんじょうじょうから移り住む決断をします。
参考にしたのが三方を海に囲まれた要害堅固な順天城。さらに藤堂高虎とならび築城の名人とたたえられる加藤清正の助言をうけてつくられたのが玖島城です。

玖島城

前振りが長くなりました。それでは城を見て回ります。

板敷櫓と高石垣
石垣前の緑地部分は海につながる水堀だった
玖島城の見取図 / 大村市のHPより抜粋

現状を見たのではわかりにくいのですが、玖島城は海に突き出した半島の先端を水堀で独立させて島状にした海城です。
現在残っているのは本丸、二の丸部分で、本丸の北にあった三の丸一帯はあらたに埋め立てられてうかがい知ることができません。

まずは大手門から二の丸へと進みます。

大手門から二の丸

大手門正面には、本丸跡に鎮座する大村神社の鳥居
石垣で守られ屈曲する虎口
城の規模に比してずいぶん立派な大手門です
ここは二の丸の敷地、本丸へつながる台所口門を見る
本丸の石垣にそって左回りに歩きます
石垣上の白塀も、最初に見た板敷櫓も復元されたものです
ずっと石垣にそって左回りで歩いています。

搦手門から本丸、御船蔵へ

台所口門の反対側にある搦手門(本丸側から撮影)
ここから本丸に入りました
本丸に鎮座する大村神社
本丸内側から周囲をめぐる白塀をみる
大手門の脇にある穴門
緊急脱出用に使われたとか
最初にあるいた板敷櫓前の敷地は菖蒲園になっていました
板敷櫓から少々歩くと、もと三の丸と思われる海沿いに「御船蔵」があります。
ここに藩主の船を係留していていました。

玖島城は周囲を埋め立てられてしまい、海城のイメージを思い浮かべるのは困難でしたが、それだけに元になった順天城にたいする憧憬の念を抑えがたくなってきました。
近々順天城を訪ねる旅を企画しよう、と思ったのですが – – – そうでした、韓国にあるんでした。

【アクセス】レンタカーにてまわる
【満足度】★★★★☆