大阪城にて大坂城の石垣を見て歩く
【大阪市 2026.8.20】
まず誤解や混乱をさけるために書いておきます。
いま私たちが目にするオオサカ城は、所在地が「大阪市中央区大阪城1番」であることからも大阪城と表記するのが正しいでしょう。
しかし豊臣秀吉が築城した城が破却され徳川家康・秀忠の意向により新たな城が築かれ、その後江戸時代の終焉までは大坂城と表記されていました。
明治になって大坂が大阪と変わったのは、坂が「土に反(かえ)る」と書くため死を意味するようで縁起が悪いと改めたとか。
しかしこの理由はなんだかうさん臭い。たしかに古語では「反る(かえる)」と読み、「もとに戻る」という意味もあります。
しかし坂という字が縁起が悪いというのであれば、香川県の坂出市や埼玉県の坂戸市に住む人たちはどうしたらよいのか、毎朝市内の地面に塩をまくのか。
ましてや乃木坂46にいたっては、坂は縁起が悪い、4は死そのもの、6は聖書によると7に一つ足りない不完全な数字、となれば立場がないだろう。
もっとも私は坂出市にも坂戸市にも縁がないし、乃木坂46のファンでもないのでこの問題は置いとくとして。
家内が大阪歴史博物館で開催されている「豊臣兄弟」の特別展を見に行くというので、付き合うことにしました。
私の主な目的は、大阪城において地中から発掘された秀吉時代の大坂城の石垣が昨年春に公開されたにもかかわらず見に行っていなかったため。
大阪歴史博物館は大阪城の南西角向かいに位置します。
大阪歴史博物館から大阪城を見わたす


ここは知る人ぞ知る撮影スポットです。
大阪歴史博物館は通常の入館料は大人600円ですが、65歳以上の大阪市在住者は無料です。
ところが「豊臣兄弟」展は特別展ということで別料金が2000円必要。「まけてんか」の交渉は不可。
ちなみに家内は迷わずチケットを購入し、わたしは迷わず無料コースに進みました。
大阪城の石垣


中央右寄りに六番櫓。

左からの土橋、中央あたりに千貫櫓、大手門、多門櫓。


石垣が屈折しているのは、正面上からだけでなく横からも攻城兵を狙いやすくしている。




左正面に見える穴を割りたい線に沿って鉄のノミで穿ち、矢とよばれるクサビを差し込んでハンマーで叩いて割る。
よく見ると右正面に割れ目ができています。

正面の門を額縁のようにして中央に見えるのが天守閣

高さ約5.5メートル、幅約11.7メートル、36畳分の広さ、重さ約108トン。
城内で一番大きく、日本でも一番大きな石垣の石。
定説では、大坂冬の陣の終結のため和議がおこなわれ、城の惣構えの堀(城郭部分だけでなく家臣の屋敷や城下町とよばれる全体を囲んだもっとも外側の堀)を埋めるよう家康から要求がありそれを豊臣側が飲んで妥結した、ところが狡猾な家康は城内の外堀も内堀も知らぬ顔で埋めてしまい、本丸だけが裸同然で残ったとされています。
最近になって新たな説が出てきました。
和議の条件はもともとすべての堀を埋めてしまうというもの。
惣構えの堀を埋める担当は、家康の要請で招集された(徳川に味方する)大名とその家中の者。彼らは自腹で遠征しているため滞在が長くなると出費がかさむため大急ぎで惣構えの堀を埋めてしまいます。
外堀、内堀を担当したのは豊臣方。彼らはもっぱら浪人や食いっぱぐれた郎党で、一旗揚げるために参陣しているゆえ和議にはそもそも反対していました。しかも城を退かないかぎり豊臣家から相応の賄いや報酬がもらえる、それゆえ堀を埋める作業はいっこうにはかどらない。
そこで早く帰りたい徳川に従った者たちが(頼まれもしないのに)外堀と内堀を埋めるのを手伝った。
まだこの説が真実と確定しているのではないゆえ信じる信じないは別にして、なんとも人間臭い、思わず失笑するたぐいの話ではあります。
天守閣

いまでは大坂の陣で豊臣家が滅亡し代わって天下人となった家康(と秀忠)が、豊臣時代の大坂城を破却しただけでなく完全に地中に埋め、その上に新たな大坂城を築いたということは公知の事実になっています。
ところが現在のこる大阪城址の地下に、もうひとつ別の大規模な石垣がみつかったのは1959年(昭和34年)のこと。
それが豊臣時代の城の石垣であることがわかり、はじめて今の大阪城址は豊臣時代のものではなく徳川時代のものだとわかりました。

この天守閣が再建されたのは1931年(昭和6年)。
すなわち当時の人たちは太閤・秀吉の城を再建するとの意気込みで金と力を出し合ったのでしょう。
たしかに当時の秀吉人気は抜群で、家康は狡猾な狸親父と悪評まみれ、もし残された城跡が徳川時代のものだとわかっていたなら、どこまで再建に力を注げたものか。
もっとも今となっては歴史は見直され、家康の評価は爆上がりしているので、当時太閤・秀吉に思いを寄せて資金を寄付した人々も後悔することもないはずです。

ひさしぶりに天守閣に上がったおかげで大きな発見がありました。
大坂夏の陣図屏風に当時の大坂城天守閣が描かれているのですが、気をつけてみると天守閣は黒壁に蔽われています。
豊臣時代の大坂城を復元したのであれば黒壁のはず – – – と思って調べたところ、江戸時代(徳川時代)の天守閣は当時主流の白だったようで、太閤・秀吉を慕いながらも徳川時代の白壁の方が華やかで良いと考えたのでしょうか。
よくいえば、考えが柔軟 – – –


これは真田幸村隊の戦闘の模様を描いたものですが、旗をよく見てください。有名な六文銭(六連銭)はどこにも見られず、全面赤一色。
そもそも真田幸村は創作上の人物であり、モデルとなったのは真田信繁。
真田の十勇士はさすがにまるまる信じてはいないものの、幸村・赤ぞろえ・六文銭と- – どうやら固定観念に縛られてしまっているようです。
このあたりはいずれ調べなおしてみます。
豊臣石垣館
大阪城天守閣の入場料はかつて600円だったのですが、豊臣石垣館の開館に合わせてセットで1200円に値上がりしました。
65歳以上の大阪市在住者はセット料金になった今も無料です。

野面積み、しかもずいぶん初歩的な粗い造り。

大阪城の石垣と石


大坂城普請に携わった大名は自分が運び込んだ石と分かるように家紋や文字を刻印していました。天守閣の北に使われなかったそれらの石をあつめた広場があります。



豊臣時代の石垣は野面積みのため崩れやすく高くは積み上げられません。いちばん高いものでも 6~7m、さらに高くするには階段状に積んでいたようです。
さて家康(あるいは秀忠)は、徳川の威信をしめすため階段状にせず一つの石垣としてその3倍も5倍も高い石垣を築くよう命じます。
請け負ったのは築城の名手・藤堂高虎。
本丸東面の石垣は堀の底の根石からみると、高さ32m。日本でもっとも高い石垣としていまに残っています。
参考画像
参考資料として他で撮影した画像をいくつか掲載しておきます。

大阪城の北200mドートセンター前。
三の丸の北石垣を地上に移築したものだそうです。

徳川の大坂城では石の多くを瀬戸内海の島々から運んだようですが、豊臣時代には生駒山からも石を切り出したようです。

(三重県・鳥羽城)

いまの大阪城の石垣とそっくり。

1983年に建てられた大阪城ホールの石垣です。
すみません、大阪人の好きな「しょうもないギャグ」です。
大阪城に隣接してあるというだけで、大坂城とはまったく関係ありません。
最後に話のネタをひとつ。
日本国民の誰もが有する戸籍は自宅や実家でなくても、個人所有の土地でなければどこにでも設定することができます。
ちなみに一番戸籍登録の多いのは皇居(東京都千代田区千代田1番)、2番が大阪城(大阪市中央区大阪城1番)、そして3番が甲子園球場(兵庫県西宮市甲子園町1番)。
3番目に甲子園球場が多いのは阪神タイガースファンの悪乗りではなく、元甲子園球児によるものではないでしょか。
【アクセス】大阪城の東西南北に大阪メトロ、JR、京阪電車の各駅がたくさんあり、徒歩5分~15分
【入場料】大阪歴史博物館:(常設展)600円、大坂城天守閣と豊臣石垣館セットで1200円。(文中でも書いているように65歳以上の大阪市在住者は無料)
【満足度】★★★★☆






