山内一豊が築いた高知城は、まあまあどころか大変良かった
【高知市 2026.10.2】
高知城の築城者であり初代城主は山内一豊です。
山内一豊というと、妻の内助の功ばかりがやたら有名です。
【内助の功 その壱】織田信長に臣従していたころ、信長が催した馬ぞろえのさいに嫁入り時の持参金として大切に残しておいた10両(およそ120万円?)をすべて渡して一豊に駿馬を購入させ、おかげでその馬とともに信長の目にとまり出世の足掛かりになった。
【内助の功 その弐】関ヶ原の役の直前、石田三成から西軍に味方するよう促す密書が届いたさいに、その密書を開封せぬまま徳川家康に手渡すことで(まったく二心はなく)終始一貫して家康に臣従するつもりであることを顕らかに示すよう助言した。
これらの逸話はすべて後世の創作か誇張です。
創作や誇張だから興味がないというのではなく、創作や誇張をくわえてでもせめて奥方の内助の功なりを後世にのこさなければ本人にはこれといった逸話もないということなのでしょう。
こういうひとのことを可もなく不可もなく、と表現します。可もなく不可もなくとは、言い方をかえると「まあまあ」。
庶民であればまあまあといえる人生なら十分なのですが、激動の生涯をおくった長宗我部元親が心血をそそいできずいた土佐、その24万石(20万石?)の土佐の大大名に、まあまあな山内一豊が成り上がりましたではあかんでしょう。
高知城・追手門


初代城主に感心はなくても、城郭はなかなか見ごたえあります。(一豊ファンならば大興奮でしょう)
たとえばこの石垣や堀だけでなく、追手門も築城当時のものは大火で焼失しましたが江戸時代に再築された遺構です。(重要文化財)

それがどうしたという話ではありますが、絵にはなる。

門そのものは立派なものの、石垣は江戸時代のものとは思えない粗い野面積み
杉の段から三の丸




自然石を工夫してうまく積むのが「野面積み」、これらは石の表面を鉄槌でたたいて平らにして積む「打込接ぎ」


二の丸から本丸へ



手前の塀になんだか違和感を感じませんか?


なんだかとってつけたような。
二穴ある突出部は石落とし。
そもそも江戸に徳川幕府がひらかれ(大坂の陣をのぞき)大規模な戦もなくなった時代に、なぜここまで防御に工夫をこらす必要があるのか疑問に感じていました。
ところがよくよく見ると、塀に設けられた狭間(銃眼)は城の防御にしてはやたらに間隔がひろくて結果として数が少ない。
石垣を登ってくる敵をさえぎるための忍び返しが付けられているのは一面のみ。しかも天守閣の最下段にありますが、天守の下をめざしてのぼっても見てのとおり建物内に入れるわけでもなし、常識のある敵兵なら塀をめざして登るはず。その塀には忍び返しはないし、銃口をのぞかせる狭間はやけに少ない。
なんだ、これは?
御殿と天守閣
御殿と天守閣ではボランティアガイドの方の説明をうけながら見学しました。
(言い方は悪いですが、ボランティアガイドさんにも当たり外れがあるものの)、説明をうけながら見学すると思わぬ知識や情報に出合うことがあります。ポイントはこちらから質問すること、黙って聞いていたのではマニュアル的なことしか聞かれませんが、こちらからあれこれ尋ねると、(よく勉強している方なら)はなし甲斐があるとおもうのか蘊蓄を傾けてくれます。




塀をささえるための支柱ですが、同時に支柱の上に板を敷きそのうえに兵士があがって敵兵を迎え撃った。



高覧の手すりには擬宝珠(ぎぼし)飾り
高知城を見てまわって違和感を覚えつづけたのは、戦のない江戸時代に築城しながらなぜこれほど防御にこだわったのかという疑問。
ところがよく見るとその防御はなんとも中途半端で、しかも天守閣には石落としや忍び返しを取り付けながら、最上階には高覧をもうけ手すりは擬宝珠でかざり天井は格式高く – – –
いったい山内一豊はいかなる城をつくりたかったのか。
恣意的につくったのかそれとも演出にこだわったのか?
関ヶ原の役がおこる発火点となった会津での上杉氏の謀反。
謀反とはいっても家康の計略にはめられた感があるのですが、ともかく家康は豊臣秀頼から上杉征伐のお墨付きをえて全国の諸将に動員をかけ(おそらく、嬉々として)会津へ向かいます。
すると留守になった畿内では、石田三成が家康の専横を良しとしないおもに西国の大名を招集して決起します。
権謀術数に長けた家康なら、がら空きの畿内で三成らが起つことも計算の上だったはずです。
家康にとって勝負どころはここからです。
そもそも家康が動員をかけ上杉討伐にひきつれている面々は家康の家臣でも寄子でもなく、ありていに言えば家康とおなじ秀吉から封土をあたえられ豊臣氏に臣従する大名衆の軍勢です。一方の三成の決起理由は「奸物・家康から豊臣家をまもる」。
家康としては「豊臣家をつぶす」のではなく「増上慢の三成を成敗する」ことに戦の大義名分を塗りかえる必要がありました。
家康にとって勿怪の幸いだったのは、(言いかえると三成にとって痛恨の失策は)家康にしたがって大坂を留守にしている大名らの妻子を人質にとり戦意を喪失させようと図ったことでした。
細川忠興の妻・ガラシャは人質になることを拒み、キリシタンゆえ自害できないため近習に胸を突かせてまで死をえらびました。
これで「増上慢の三成を成敗する」ことが堂々と大義名分になりました。
この先はあまりに有名な小山評定、福島正則が家康にしたがって三成を討つと吠え、山内一豊が西進のさいには我が掛川城と兵糧を自由にお使いくださいと申し出て、これで東軍の結束がかたまったとされています。
福島正則が断固として家康にしたがうとした言動には、早くから家康に味方していた黒田長政(黒田官兵衛の跡継ぎ)の働きかけがあったようです。
福島正則のその後。 関ヶ原では東軍の先陣をつとめ西軍の宇喜多秀家勢と激戦をくりひろげて東軍の勝利に貢献したことも評価され、清州24万石から安芸・備後49万石へ加増(約2倍)。
黒田長政のその後。関ヶ原では石田三成勢とたたかい、勇将・島左近を討ちとる殊勲をたてたことも評価され、豊前国中津18万石から筑前52万石へ加増(約3倍)。
山内一豊のその後。関ヶ原では目立った武功はあげていませんが、城を差し出すと言ったひとことで、なんと掛川5万9千石から土佐24万石へ4倍の加増を得ました。しかも「城を差し出す」アイデアはもともと親交のあった浜松城主の堀尾忠氏が一豊にもちかけたものだったとか。
現在の高知での評価は、長宗我部元親よりも山内一豊の方が断然上のようです。
高知城を案内してくれたボランティアガイドさんに(このガイドさんはたいへん良かった)、個人的に納得のいかないその評価基準について質問してみました。
「長宗我部元親は武力で土佐をつくったのに対して、山内一豊は治世で土佐を豊かにしてくれた」と、さすが地元の人の評価基準はちがうと目からウロコでした。
それでは、私の山内一豊に対するいまの評価はというと、「まあまあ、かな」
【アクセス】JR高知駅から徒歩20分
【入場料】天守・御殿:500円
【満足度】★★★★☆






